第七話
25日の夕食後、富鳥家の離れでは室内コンサートが開かれていた。といっても、義光氏のみのソロだ。一階のダイニングルームに義知と礼文は召集された。二人はソファにかしこまって座り、火の入っていない暖炉の前で行われる義光氏のフルート演奏をありがたく拝聴している。
ムメはこの場にいない。デカンターに注がれた赤ワインと各自のグラス、食べやすく切ったチーズやサラミなどをテーブルに並べたあと、退出を命じられた。義光氏は、平民が芸術を理解できると考えていないために、彼女を聴衆と認めないからだ。礼文はムメを羨んだ。
奏でられている曲はドビュッシーの【牧神の午後への前奏曲】だ。
義光氏は小太りの体をゆらゆらと揺らしながら、気持ちよさそうに銀のフルートを吹いている。彼の演奏は下手ではない。趣味の範囲で練習している音楽家としてはかなり高レベルに達しているだろう。しかし、ピアノ伴奏のないフルートだけの調べは、なんだか物足りないように礼文は感じた。
やがて曲が終わった。義光はフルートの拭き口を軽く拭うと、ソファーに腰を下ろす。
「パパ、すごくいい演奏だったよ」
「うふふう。ありがとう」
得意げな義光のグラスに、礼文はうやうやしくワインを注いだ。義知にも追加で注ぐ。
礼文自身はワインに口をつけていない。平民のムメと異なり、貴族出身の礼文はコンサートに同席することを許されている。テーブルには彼用のグラスも準備されている。だが、それは飾りのようなものだ。義光氏は礼文が使用人としての分を越えてなれなれしくすることを好まない。
音楽について息子と少し雑談してから、義光氏は礼文に目を向けた。
「いつになったら次の実験をするの?
陸軍さんが催促してるって、あの弁護士さんから連絡があったよ」
「はい。こちらの準備は整っております。
しかし、望みを表した絵の提出期限を過ぎても、
まだ送られてこない次第で……」
「それなら、ちゃんと催促しなよ。会員の指導はキミの仕事でしょ」
「はい。申し訳ありません。絵ができてもできなくても、
明日には事務所に出頭するよう命じてありますので、
必ず投与を行います」
「もし、できてなければその場で絵をかかせるとかしなよね。
新しい工夫を実行しなければ、よりよい結果が得られないからさあ」
「はい。承りました」
頭を下げる礼文の腹の中は怒りで煮えくりかっていた。
(もとはといえば、
下請けの報告書に影響されたお前の息子が、
実験台に絵をかかせるなどと変なことを命じるからだ。
今まで通りの手順なら、とっくに実験を済ませている)
しかし、思ったことをそのまま口にすることはできない。あくまで低姿勢で、礼文は弁解を続ける。
9月26日、朝食のときから、翡翠の機嫌は良かった。しかし、片づけの後に茶の間ですごすことをせず、彼は書斎に引きこもっている。
音矢は不思議に思ったが、とりあえずそっとしておくことにした。
昼食のキツネうどんも一気にすすりこみ、早々に翡翠は書斎に戻った。彼が片づけを手伝うのは朝食のみと決めてあるので、音矢は文句を言わない。一人で効率的に仕事をすませると、茶の間でラジオを聞きながら新聞を読んで彼は食休みを取る。
時計が午後1時を知らせたので、音矢は障子の桟などにたまったホコリをカラ拭きしようと立ち上がる。その耳にドアを開ける音と、続いて軽い足音が聞こえた。
足音が近づき、翡翠が襖を開ける。彼は嬉しそうに笑いながら音矢の背中を押して、庭の方に誘導した。
「音矢くん! ちょっと外に出てほしいんだ」
翡翠は障子を閉めたので、音矢は縁側に隔離された。
「いいことを思いついたんだ。
ボクが『もーいいよー』と言ったら、茶の間に入ってくれ」
「はいはい。いったいなんでしょうねえ? いいこととは」
音矢も笑みをうかべ、翡翠の合図を待つ。
「もーいいよー!」
音矢は障子を開いた。
空間界面につつまれた翡翠が、正面に座っている。
その緑色の膜は、普段と違っていた。
「ん?」
不審に思った音矢は足を止めて、それを指差した。
「翡翠さん、これは……」
問いかける途中で、翡翠は仰向けにひっくり返った。
「わあああああ! わあああああ!」
空間界面に包まれたまま、翡翠は手足をバタバタさせて大声でわめく。その勢いでか、緑の膜は通常通りの形態に戻った。
「え? え? どうしました?」
「わあああ! 失敗した! わあああああ!」
とまどう音矢には目もくれず、翡翠はひとしきりわめくと、膝をかかえて体を丸めた。
これは彼が機嫌を悪くしたときの仕草だ。いつもはこの程度だが今回はさらに上の段階にまでいく。
緑の膜にくるまれた翡翠は目を閉じている。しばらくすると、苦しそうにひそめられた眉から力が抜け、首も傾いた。彼は酸素不足で気絶し、そのまま休眠状態に入ったのだ。
「……ひさびさに、盛大なヘソ曲げを……」
孤島で音矢が翡翠と出会ったばかりのころは、ちょくちょくこのような状態になっていた。だが、共に暮らすうちに音矢が翡翠の取り扱いに慣れてきたので、本土に引っ越してきてからは、ただ膝を抱えて丸くなるだけにとどまっていた。
この状態を初めて見た時は、音矢も窒息死を恐れ、なんとか解除しようと苦労した。だが、機嫌のいいときに翡翠から説明を受け、しばらくほっておけば特に体に支障もなく翡翠は繭から出てくるとわかった。
だから、今の音矢は心配していない。
それどころか、彼は休眠状態にある翡翠をこの機会に観察しようと目論んだ。
空間界面内の翡翠はぐったりとした様子で、意識はないようだ。顔色は緑の膜越しなので判別がつかないし、丸まった体勢なので呼吸の状態もわからない。
(こんど、鼻の先にチリ紙でもつけてから休眠してもらおう。
……脈拍も調べたいけれど……
それを膜の外から測定する方法はあるんだろうか……)
翡翠をこれ以上調べることができないと判断した音矢は、次に空間界面自体の観察をする。それは孤島にいたときにも行ったが、もう一度確認することで新たな発見があるかもしれない。
緑の膜を押すと、風船のようにへこむ。撫でてみた手触りも、ゴムのようだ。といっても、空間界面に質量をともなう実体はなく、磁力の反発に似た作用だと前主任は結論付けているそうだ。
音矢は空間界面に顔をよせる。やはり本物のゴムとは違って匂いはない。噛みつこうとするが歯は表面を滑るだけだ。なめても特に味はない。付着した唾液は、細かい水滴となって空間界面の表面を滑り落ちていく。畳につく前に、手ぬぐいで音矢はそれを拭きとった。ここまでは孤島での検査と同じだ。
(さて、どうしてみよう?)
音矢は片手だけでなく、繭状になった空間界面を両手で強く押してみる。前に転げたので、音矢はつんのめりそうになった。慌てて背中と膝に力を入れて体を支える。
(あれ? これって……)
これは新しい発見だ。音矢は夢中になっていろいろ試した。
水上文雄を、礼文は事務室で迎える。津先が異動させられたので、実験台に神代細胞を投与するのは、また礼文の仕事になった。
イチゴジャム入りの紅茶を飲んでから、文雄は悪びれた様子もなく、[真世界への道]事務所の所在地を記した封筒の束と共に、望みをあらわした絵を鞄から取り出した。
「どうです? いいアイデアでしょう。
いやあ、これを思いつくまで、とても苦労しましたよ」
礼文は黙ってその絵を見つめる。顔には出さないが、内心では腹を立てていた。
(お前がなかなか絵を提出しないから、私はあのバカ親父に叱責されたのだぞ)
しかし、ここでそれをぶちまけて反感を買い、実験台に逃げられては元も子もない。
「ああ、これがうまくいけば、きっと立派な魔術師になれるだろう。
自信を持って、試験を受けてくれ」
礼文は励ましの言葉を口にした。しかし、本音は違う。
(お前など、下請けに始末されてしまえばいいのだ)
実験の成功などまったく期待せず、礼文は小冊子を文雄に渡す。礼文は小冊子を読む実験台を眺めながら、不安を感じていた。
まだ義知が注文した絵は仕上がっていないから、紅茶に混ぜた睡眠薬が効いたころに水晶をつれてきても、その姿に文雄はとまどわないだろう。しかし、水晶とは違う顔の[秘密の首領]肖像画が完成してからは、なんらかの方策が必要となる。彼は文雄が手順を学ぶ間、今後の計画について自分の考えもまとめていく。
夕食の支度をするころに、やっと翡翠は休眠状態を解除した。
繭の緑色が薄くなり、やがて消えた。空間界面の反発力でわずかに浮いていた体が畳の上に落ちる。
咳き込むように呼吸をして、翡翠はゆっくりと目を開けた。その音を聞きつけ、音矢は七輪に焚きつけと消し炭と黒炭を空気が通るよう順番に入れていく作業を止めた。
茶の間で膝を抱える翡翠のそばに腰をおろし、音矢は翡翠に詳しい事情を問う。
「……なるほど。空間界面に新しくつけた機能を僕で試そうとして、
うまくいかなかったと」
「もういい……」
膝に顎を乗せるようにして、翡翠は口を閉じる。
「よくありませんよ。
失敗したからってくじけていたら、なにも発明できません。
エジソンさんは電球を作り上げるために、一万回くらい失敗したそうです。
それでもあきらめずに努力を続けて、見事に完成させたんですよ」
音矢は天井から下がる照明器具を指さした。
「…………ああ、その話を読んだことがある。だが……」
その動作にはつられず、翡翠は目を伏せたままだ。音矢は指さすのをやめ、翡翠の肩に手を置く。
「そもそも、翡翠さんは何をどうしたかったんですか?」
「……それは……」
翡翠はボソボソと、説明を始めた。
次回に続く
次回は 10月 10日(火曜) 20:30ごろに投稿予定です。




