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第十一話

伸びをしながら自室から出て、義知は一階のリビングに向かう。彼は論文の最終チェックにとりかかっていて、疲れたので小休止をとるところだ。


下書きは意図的に10日ほど寝かせておいた。時間を置いてから読み直すと、書いている最中に気づかなかった誤字や脱字、そして文章のアラが見えてくる。それを赤鉛筆で校正してから清書するのが、義知の習慣だった。


出来上がった論文は、当然のごとく文語体だ。そして、用いられている単語も、音矢の報告書とは異なる。


日本語を知る者なら、[制御石]という文字を読めば、[なにかを自分の意のままに動かすための石]という意味がすぐにわかる。

しかし、それでは陸軍大学校を卒業した士官を恐れいらせることができない。


彼らは、馬術、野外測量、現地戦術などを実技として習得している。軍事知識では兵器学、築城学、戦史、戦術、海戦術、兵用地学などを学ぶ。


だが、それだけではなく、普通学として数学、統計学、国際公法、国法学、各種語学なども教授される。これだけの教育を受けた彼らは、軍隊の中でも特に選りすぐられたエリートだと自負している。


高知能を誇る彼らにとって、一般人が初見で理解できるような文章など、まったくありがたみがないのだ。


だから、義知は[真世界への道]の小冊子に寄せる文よりも、より難しい文語体表現を使った。その上、論文内にはラテン語を多用している。


医学の大学院生である義知にとって、ラテン語は解剖学で使われるために必須の知識だ。しかし陸軍大学校で教わるのは英語やフランス語、ドイツ語、リューシャ語、漢族語なので軍人たちはラテン語を知らないはず。彼らの持たない知識をひけらかすことで、義知は優位に立とうとしている。


さらに、参考文献も大量に引用する。といっても、神代細胞についての論文は先代の主任が書いた草稿だけで、まだ学会に認められていないため、公式な文献として使えない。しかし、基本的な現象の論文ならある。


回収石の石化促進のため、音矢は水晶細胞に塩をかけてもみ、脱水した。つまり浸透圧の応用だ。そして浸透圧に関する多数の論文は帝都帝大図書館にいけば閲覧可能。他にもいろいろと引用し、文末の参考文献欄は充実した。これで論文に箔がつく。


音矢の報告書は、たとえるなら素朴なスポンジケーキ。


内容をそのままに、義知は豊富な知識を用いて文語体で表面を覆った。これは生クリームにあたる。

そしてイチゴやパイナップルなどで飾るように、様々な参考文献とラテン語を添えて見栄えのよい文章にした。


音矢と義知の合作でできた学術論文は、いわばデコレーションケーキのように仕上がった。ただのスポンジケーキなど見向きもしない贅沢者の軍人にも、これなら喜んでもらえるだろう。






健二は逮捕されるときにひどく抵抗したので、取り押さえられてから留置所に泊められていた。


だが、彼が行ったのは、少年たちにつきまとい、しつこく問い詰めた程度のこと。その際に逃げようとする子供の手をつかんで転ばせ、何人かが膝をすりむいた以上の被害はなかった。彼らの保護者も、面倒事を避けて傷害罪の被害届を出さなかったので、起訴されることなく説諭で釈放された。身元引受人は彼の父である松木宗太郎だ。


帰りの円タク内では操縦手に身内の事情を聞かれることをはばかって、松木氏は健二と並んで座っていたが、無言を通した。自宅の玄関で出迎えた妻と奉公人の前でも挨拶以外に口を利かなかった。

しかし、書斎に二人でこもってからは、打って変わって饒舌になる。


「お前はなんてことをしでかしたんだ! 素人探偵ごっこで、人様に迷惑をかけるな!」

自分は大きな肘掛椅子に座り、健二は洋机の横に立たせておいて、彼は開口一番どなりつけた。


「でも、あれは重要な手がかり……」


息子の言い訳に耳を貸さず、松木氏は大声で説教する。

「ああ、[大神公園で呉羽と話していた怪しい三人組が、

 上野にも出没していた]という情報か? 

 たしかに、呉羽の知り合いが目撃したという情報は重要かもしれない。

 しかし! 

 横から口を出してきた男が上野で見た三人組が、

 それと同一人物だという根拠はなんだ! 

 ただ服装と性別と年齢がほぼ一致するというだけではないか! 

 そんなあやふやな情報を鵜呑みにするな!」


実際には、大神公園と上野の三人組はどちらも音矢たちだったのだが、それを知っているのは彼ら自身だけだ。


「そして、あの日はまだ8月! 

 夏休みの子供を連れて大勢の人たちが上野公園に出かけていた。

 帝都だけではなく、鉄道を利用して近隣県や東北地方からも来る! 

 その中には水兵帽と水兵服の少年も多勢含まれている! 

 当節流行の服装だからな。

 そして付き添う大人が洋装の若い女性か書生服の男。

 こんな人たちがどれだけ多いか、考えなかったのか!」


それは健二も上野駅に降りた瞬間から実感していた。見渡す限りの群衆を見て、彼は途方に暮れた。


だが、健二は聞きこみを開始した。どうしても、呉羽と叔父夫婦を殺した犯人をつきとめたかったからだ。


雑踏の中で健二は、まず書生服の男を対象から外した。


[書生服]といっても、着物に立て襟のシャツを組み合わせたあの服装は、1930年〔光文5年〕という時代の若い男が普段着として使用するもの。



有力者の家に住みこみで働き学費を援助してもらうのが、本来の書生だ。しかし実家住まい、または仕送りを受けながら下宿に住んでいる学生も、勤労青年も、そのような姿で外出するのは普通にあることだった。

ちなみに、上野近くには帝都美術学校、帝都音楽学校、帝都帝国大学までもある。そして青年たちが好む花街もある。


一方、普通よりも裕福な家で育った健二は、日常的に洋装ですごしている。彼の友人も同じだ。健二にとって[書生服の男]は日常で目にしてはいるが、自分よりも下の階層なので特に気に留めることのない存在だった。



探偵活動を開始した健二が意識的に観察したところ、上野駅周辺には書生服の男が数えきれないほどいることを発見し、早々に彼らへの聞きこみを断念した。


洋装の若い女は、書生服の男に比べれば数が少なかった。

しかし、健二も男女別学で育った明治生まれの男。初対面の若い女性にいきなり話しかけるのは恥ずかしい。結局、彼は洋装の女性も直接の聞きこみ対象から外した。


だから水兵帽と水兵服の少年を探そうとした。

中年や初老の大人に同伴された少年は条件にあわないので、書生服か洋装女子と連れ立って歩いている水兵帽と水兵服の少年に、健二はかたっぱしから声をかけていた。


最初は丁寧に尋ねていたが、次々にはずれを引くうち、苛立ちのあまり言動が乱暴になり、彼は大騒動を引き起こしたのだ。


「せっかく上野に来て、

 さあ楽しもう、または楽しく遊んでいい気持ちで帰ろうとしたところで、

 変なことを聞かれ、知らないと答えてもしつこくすがって、

 引き倒してケガまでさせて! 

 お子さんたちが、どれだけ嫌な、怖い思いをしたか、お前にはわかるか!

 怯える子供に付き添う大人が、どれだけ心配したかわかるか!」


息をついでから、松木氏は吐き捨てるように言った。

「そして、全ては徒労だった。

 お前は無意味な騒動を起こし、警察にお世話になって、ワシに恥をかかせた!」


「無意味ではありません! 

 たしかに書生服と少年、洋装女子と少年というだけの組み合わせでは、

 妥協したせいで人違いを続けてしまいました。

 でも、最後に見つけたあの三人組は全ての条件に合う。

 ひょっとしたら、あの人たちにもっと詳しく聞けば、有益な情報が……」


「ばかもの! あの人たちも人違いで、そのうえ一番の被害者だ。

 心臓の悪いお子さんを脅し、

 あやうく発作を起こさせるところだったそうではないか。

 なにも知らない人を問い詰めて嫌な思いをさせて、

 それで供養になるとでも思っているのか!」


「……なにも知らない、と?」


「ああ、警察の人に聞いた。

 あの人たちは、大神公園など行ったことがないし、

 その近辺で起きた殺人事件のことなど全く知らないのに、

 いきなり問い詰められて、とても怖かったと言っていたそうだ。

 つまり、お前が探す三人組とは服装が同じなだけの、

 関係ない人たちなのだ!」


「……なにも知らない……全く知らない……関係ない……」


胸の奥から怒りが湧き上がってくるのを健二は感じた。しかし、幼いころからの教育で、父が説教しているときに彼は自分の感情をぶちまけることができない。だから、健二はうつむいたまま、心の中だけで山中姉弟と書生の飯野を罵った。


(何が知らないだ! 全く知らないだと? 

 あんな凄惨な殺人事件を、知らないわけがない! 

 今は他の事柄に世間の注目が集まっているが、

 殺人事件発生当時はちゃんと報道されていた! 

 同じ地域に住む帝都市民が被害にあっているのに関係ないとは、

 なんたる言い草だ!)


たしかに、山中姉弟は新聞やラジオであの事件に触れていた。しかし、猟奇趣味を持たない二人は、残酷な事件に興味を抱くことなく、むしろ恐怖によって松木家皆殺し事件の報道を避け、記憶することを拒否していたのだ。


そんな事情を健二は想像しようともしない。自分にとって大事なことと、他人が重要視することを彼は混同している。


「……お前というやつは、本当に!…………」

怒鳴るのに疲れたのか、松木氏は口を閉じた。大声に慣れた健二の耳は、書斎に広がる静寂に、むしろ違和感を覚える。


やがて、父の表情は変化した。

「確かに呉羽はかわいそうだ。宗吾や鈴子さんも無念だろう」

亡くなった弟や、その嫁の名を口にする声も、静かなものになっている。


「しかし、素人探偵にこれ以上できることなどない。

 お前は親戚として亡くなった三人の冥福を祈り、普通の平穏な生活に戻れ。

 犯人の捜索は警察に任せよう」

この言葉が、健二の心に残っていた最後の糸を切った。


しかし、それは表面に現れない。

健二が実際に行ったのは、黙ってうなずき、書斎から出て自室に戻る、それだけだった。


独りになった彼は四畳半の床に座り、吐き捨てるようにつぶやく。


「普通の生活? そんなもの、とっくに失われている……

 あんなひどい事件を起こすような犯人が野放しになっている状況が、

 平穏なんてありえない……

 親父は、忘れてしまったのか。あの無残な姿を……」



次回に続く



次回は 4月 25日(火曜) 19:30ごろに投稿予定です。

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