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第十二話

富鳥元子爵は、母屋の座敷で遅い朝食をとった。


彼の長男夫婦と孫娘はすでに別室で食べ終えているので、広い部屋には富鳥義光氏、ただ一人だ。食後のお茶を楽しみながら、彼は新聞を広げる。


三面記事に、大量同時殺人の記事が載っていた。


「へえ、あの建物の月賦を滞納していた夫人は、こんな人だったのかあ」


男爵との夫婦生活が悪化し、あやめは資金の援助を引き出しづらくなった。しかし、見栄から劇団員にはそう言えず、生活レベルも落とせなかった。建設会社に支払う金にも困っていた。だから、美しくなって新たな援助者を見つけるため、彼女は[真世界への道]にすがり[望みのかなう薬]を手に入れた。


「でも、悪いことは書いていないや。かわりに彼女の慈善行為が載っている」


記事の解説で、小劇場であやめと夫が座長と知り合い、彼の演劇に関する情熱に引かれ、劇団を援助することになったいきさつが同情的な文章で書かれていた。


「ふむふむ。そうだね、

 住むところや、活動する場所がなくて困っている若い人を

 面倒見てあげるのはいいことだよね」

義光氏は、一人でうなずく。


「あ、そうだ。いいこと思いついた。この人の意思を継ごう。

 そうして実験台候補も確保しよう。住むところは研究施設でいいや。

 うふふう。パパって頭がいいねって、義知ちゃん、ほめてくれるかなあ」


彼は子供のような笑顔を浮かべる。

あの日、どれだけの惨劇が演じられたか、彼は想像しようともしない。






「今のうちだ! 逃げろ!」


という座長の声で、おびえていた奈々子は正気に返り、夢中で庭の外を目指した。誰かが捕まったが、奈々子には振り返る余裕などない。


「逃げないで!」


あやめマダムの声が背後から聞こえた、次の瞬間、奈々子はなにかに足をとられ転倒する。彼女の前を走っていた劇団員たちも、次々に倒れる。


起き上がろうとした背を、鞭のようなもので打たれた。痛みと恐怖で、奈々子は起き上がれない。他の背からも、鋭い音が響く。


「ぐわあ!」

座長の悲鳴が聞こえた。


目を上げると奈々子を追い越したマダムが彼の首をねじっているところが見えた。強制的に後ろをむかされ、苦しそうなその顔が恐くて、奈々子は顔を伏せ、目を手で覆う。


ゴキ


しかし、それでも嫌な音が聞こえる。


「たっ、助けて! なんでもしますから!」

照明兼効果音係が命乞いをしている。


「いまさら言われても、信じられないわ」


バキ


また、骨が砕ける音が響く。


「え、えへ、へ、えへ……」


舞台ではよくアドリブを飛ばす道化役兼小道具係も、こんな事態では愛想笑いさえできないようだ。


ボキ


「ただ、やられっぱなしでいられるかよ!」

この前の芝居と、同じセリフが聞こえた。

期待をこめて、奈々子は顔を上げる。


大道具係が、腰にさした愛用のハンマーを構え、マダムに挑むところが見えた。

劇団員が少ないので、彼は前の舞台で敵役も演じていた。あのセリフを言いながら、座長が演じる主人公に斬りかかるところが見せ場だった。


「くらえ!」


芝居を再現するかのように、大道具係はマダムにハンマーを叩きつける。

しかし、途中で動きが止まった。


首の周りに現れた細いくぼみが深さを増していく。ハンマーを手放して首をかきむしるが、やがて白目をむいて倒れた。奈々子の足首に巻きついたものと同じものが首を絞めたのだろう。


倒れた彼の向こうには、アザミの後輩でチラシ制作も担当していた新人女優が横たわっていた。最初に捕まったのは彼女らしい。すでに首が折れている。


次々と、劇団の仲間たちが殺された。その恐怖は、走馬灯のような記憶の流れを奈々子にもたらした。


(ああ、どうしてこうなってしまったの?)


(マダムが、みんなを集めてというから、

 言われたとおりに呼びに行ったのに……)


(その時までは、普通に過ごしていたのに、なんでこんなことに)


奈々子の脳裏に、自室に置いた商品が浮かぶ。


(新聞の広告に載っていた、豊胸薬。そしてホクロを取る美顔水。

 高かったけれどアルバイトをしてお金を稼いで、

 2つとも通信販売で、やっと手に入れたのに)


(3か月くらいで効果がでてくるはずなのに。そうすれば私だって……)


(届いて間もないのに、なんで、こんな……)


呆然としている奈々子の前に、あやめマダムが立った。


彼女に背を向けているマダムの衿から、何かが出ているようだ。しかし、それは透明なのでよく見えない。


「背中から生えたこれ……役に立ちそうね」

独り言を、マダムはつぶやく。

「でも、もっと数が欲しい」


その言葉を発した次の瞬間、光が揺らいだ。透明な紐が何本もマダムから伸びていく。それが、やや傾いてきた太陽の光を屈折させたのだ。


紐が伸びるのと同時に、マダムの体が細くなっていく。


和服の帯が緩み、輪になったまま下に落ちたことで彼女はそれに気づいたようだ。腹や尻をうれしそうにパタパタと手で叩いて確認している。


「すてき! ぜい肉が消え……ちがう、脂肪がこの紐に変化している!」


逃げるなら、今。奈々子は立ち上がる。

音をたてないように、そっと足を動かし、マダムから遠ざかろうとした。しかし、その努力は報われない。


「あら、あなたも逃げるの?」

そう言って、マダムは振り返る。


用事を頼まれたときと違い、マダムは化粧をしていなかった、しかし、厚い化粧を落としたその顔からは、細かいシミも、目じりのシワも消えている。


「手伝ってくれるなら、生かしてあげようと思ったんだけど

 ……しょうがないわね。

 いいわ、作戦を変更して、

 みんなあの小説の[屍傀儡]みたいになってもらうことにしよう」


奈々子の首に、見えない紐が巻きついた。彼女を締めながら、マダムは崩れた結髪をほどく。吹きはじめた夕風にそれがなびく様子は、黒く艶やかな絹布のようだ。


「このうっとうしい髪は切ろう。

 あのころの姿に戻るの。

 体が細くなったから、奈々子ちゃんが作った素敵なドレスも着られる。

 ああ、魔術で醜い肉体から解放されて、私は美しくなるのよ!」




――これは、芋虫(のように太った体)が蝶(のように軽やか)になる物語――




――そして――


「いひひ。そうだ。警察なんて無能ぞろい。

 でなければ軍の圧力に負ける弱虫だ」


津先は事務所で、今日の朝刊を読む。バスの中で聞いた会話で、彼は大量殺人事件が発生したことを聞いた。そして事務所に出勤する途中寄り道をして、銀座駅近くの売店で各誌の新聞を買い求めた。どれにも大量殺人の記事は載っているが、神代細胞の件は書かれていない。


「そうだ。礼文さんは言っていた。

 [真世界への道]は華族や軍の援助を受けているって。

 だから、俺が自首しても、[なかったこと]にされたんだ!」


これは、津先の勘違いだ。


もし、3件の殺人事件が[真世界への道]に関わっていることが津先の供述に含まれていれば、警察も一応動いたかもしれない。


しかし、津先は供述する時、無意識に[チェリー・ピッキング]を行っていた。

それは音矢が得意とする、事実の中から特に選んだ事柄だけを述べて、相手が誤解するように仕向ける詭弁術だ。


しかし、使い方が違う。

音矢は目的をもって意識的に提示する情報を制御しているが、津先は逮捕される恐怖から殺人事件にかかわる証言を無意識に避けただけだった。


だから、津先の認識では[自分は実験台の手に五寸釘を打ちこんだ傷害犯]だが、それは巡査たちに伝わっていない。交番では神代細胞の件だけを話したので、妄想と勘違いされている。


リベットペンを使った3件の殺人事件にかかわっていることも、彼の供述には含まれていないから、捜査どころか任意同行による事情聴取さえ行われない。


本署の相談係も、津先を相手にしなかった。

事件の本質も伝えず、礼文に見せられた証拠写真も持参していないので無視されただけなのだ。


だが、津先は

「つまり、この団体には法を超越した力があるんだ!

 それなら警察なんかこわくない!」

自分に都合が良いように勘違いをした。


警察に逮捕され処罰されるという恐怖に、津先は押しつぶされそうになっていた。しかし、[真世界への道]が警察を上回る力をもっているなら、自分は安全だ。


[真世界への道]の思想ではなく、権力を信じることで彼は心の平安を得た。


「法を越えた力がある団体に所属していれば、罪に問われることもない。

 やり放題だ。世の中の決まりごとなんて知るもんか!」


自分は窮屈な常識から解放されたと、津先は歓喜する。

「そう、[やったもん勝ち]……そして[勝てば官軍]だ」



――これは

  弱虫が強者の威を借りて悪に走る物語――



このような経緯をたどり、津先は音矢に似た思想を持つにいたった。

しかし、両者には大きな差がある。


自己の利益を追求することは強欲で、それは悪徳とされる。人間は我欲を捨てて、所属する組織のために滅私奉公することが人として正しい道、というのがこの当時の社会常識だ。


そのような規範に従って行動するように、津先は幼いころから周りの大人に教えられてきた。そして、特に疑問に思うことなくそれに従ってきた。


だから、これから彼が始める悪事を実行するために必要な能力を、津先は持っていない。

それが音矢と彼との違いだ。


音矢は母親に嫌われて育った。

祖父母の死後に家庭での居所を失った音矢は、 [一ツ木のおじさん]に救われた。しかし保護者である一ツ木のおじさんが戦傷の後遺症に苦しみ、不遇のうちに亡くなったことから、自分の恩人を戦争に駆り出した社会と、そこにはびこる既成の道徳を敵とした。社会を憎むあまり、いつか大きな犯罪を起こしてやろうと音矢は努力し、研鑽を積んできた。その結果、彼の所属する階層で手に入れられる限りの技能を取得した。


さらに、技能を獲得する過程で、観察した情報を利用して他人を操る術と、上位者の指示を受けることなく現場の状況に応じて行動し自己の利益を獲得する技までもを身につけた。


しかし、津先は普通の家庭でまっとうに育ち、子供のころは親や教師の、就職してからは上司の言うなりの、受け身で生きてきた。


規範から離れて能動的に行動する経験を持たず、観察力や現場の判断力に欠ける彼には、悪事を成功させる能力が無い。



そのことに津先は思い至ることはなかった。素人がむやみに行う悪事によって、被害者だけではなく、自分自身がどれだけ苦しむか、まだ彼は知らない。



次回に続く




少しお休みをいただいて、

次回は 2月 7日(火曜) 19:30ごろに投稿予定です。

みなさま、よいお年を。

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