第一話
新田音矢は霧の中に立っていた。
(ここはどこだろう)
(なんで、僕はここにいるんだろう)
あたりを見回すが、白い霧にさえぎられてなにも見えない。
背後から足音が聞こえた。それは下駄が立てる音ではない。
(軍靴?)
音矢は振り向いた。
霧の中に人影がうっすらと見える。それは音矢に向かって歩いてくる。
近づくにつれ、人影の細部が見えてきた。
軍人のようだ。
(でも変だな。見たことのない軍服だ)
まず、軍帽。正面に五芒星がついているのは、音矢の知る帝国陸軍の帽子と同じだ。しかし、近づいてくる軍人がかぶっているのは、世界大戦当時の写真で見た、てっぺんが丸く張り出した形ではない。
柔らかい生地でできた円筒形に近いもので、目庇も短いものだ。おまけに日よけにでもするのか、帽子の後ろには布がたれている。
服は茶褐色で、音矢の知るものと同じだが、形が違う。
階級を表す肩章は軍服にきちんと縫い付けられているはずなのに、近づいてくる人影の肩章は簡略化されたような横長で、どうやら着脱式らしい。
1930年〔光文5年〕現在の陸軍で採用されている立襟ではなく開襟だ。それに肩章のような形のものがついている。
(襟章とでもいうのかな)
赤地に黄色の横線が1本。星は2つ。つまり階級は軍曹
兵科部区分は襟章ではなく胸章であらわしているようだが、その色に心当たりがない。
(僕の知らない兵科でも新設されたのか?)
ようするに、今の軍服をもっと実用的に改良したようなもの。音矢はそう考えた。
やがて、軍人は音矢の前で足を止めた。
霧があっても、この距離なら顔立ちまでよく見える。
そげた頬。固く引きしめられた口。そして鋭い眼光。
音矢の見たことのない表情。
いくつもの死線を乗り越え、命を懸けて戦い続けてきた戦士の貌だ。
音矢の生きてきた時代、大正デモクラシーの恩恵をうけて暮らしている人々の、穏やかな顔とは違う。
相手も音矢の容貌を見ていた。やがて軍人の口が開く。
『貴様は何もわかっていない』
音矢にはその発言の意味が理解できなかった。
『は、はあ。すみません。どうも。あはは』
なので、あいまいに返事をする。
その言葉を聞いた軍人の口元がゆがんだ。
彼は音矢を見つめながら何かを考えているようだ。
開いていた軍人の手が、握りしめられていく。そうとう力が入っているらしく、細かく震える。
『あの……どなたでしょうか』
沈黙に耐えきれず、音矢はおずおずと話しかけた。
『俺は、15年後の貴様だ』
軍人は冷たい口調で答える。
『え、え? なにいってるんですか? あはは』
『とぼけても無駄だ。貴様は昨晩、言ってはならぬことを口にした。
そして、俺に大恥をかかせた。その罪、万死に値する』
『し、死に値するって?』
歴戦の兵士から発せられる殺意を、音矢は感じた。
『でも、もし、僕が過去のあなただったら、
僕を殺したら、あなた消えてしまいますでしょ?
あはは、やめたほうがいいですよ。あはは』
とりあえず笑ってごまかしてみたが、軍人には通用しなかった。
『わかっている。……だから、
貴様を、死んだほうがましだと悲鳴をあげるほどに、痛めつける!』
軍人が吹きつけてくる殺気。それはまるで真剣を突きつけられているようだ。
(だめだ、まともに戦ったらとてもかなわない。
そのうえ、僕がいつもやっている、おべっかもごまかしも効果がなさそうだ。
ならば……)
音矢は軍人に背を向けて逃げようとした。敵に背を見せる危険より、全力疾走で逃げ去る利点を彼は選んだのだ。
だが、読まれていた。軍人は方向転換中の音矢に襲いかかり、彼の頭を左手でかかえた。そして石のように固い拳が、音矢の頭に振り下ろされる。
「痛い! 痛い! 痛い!」
音矢は目をさました。そこは布団の中だ。
「……ああ、夢か。でもおかしい。頭がものすごく痛い……
ほんと、死んだほうがまし、というくらい痛い……
そうか、逆だ。この痛みがあるから、あんな変な夢を
……僕は昨晩なにをしたんだっけ……」
(そうだ。瀬野さんが親睦を深めるために食事会をしようってさそってくれて、
そのとき酒も飲んだんだ。これは二日酔いの痛みか)
そういえば、胸やけもして、喉も乾いている。
音矢はのろのろと起き上がり、台所にむかった。
ヤカンに汲みおいてある湯冷ましを飲んだら、すこし気分がましになった。尿意も覚えたので便所にいって用をたす。この時代の一般的な住宅と同じく、便所は座敷の横の縁側、つまり庭に面した板張りの通路を進んだところにある。
便所の脇には手洗い用のタンクがつるされている。そのバルブをひねり、流れ出す水で手を清めていると、5月の夜風が音矢の体を冷やす。月の高さからいって、いまは丑三つ時、午前2時くらいだろう。
すこし酔いの残る頭で、音矢は夢で見た自分の未来の姿を思い浮かべた。
(15年後は……1945年、光文でいうと20年。
そのころ僕は33歳になってる。徴兵検査があるのは20歳。
普通は検査の後2、3年くらいしてから赤紙がきて、
そこから始めて、満期除隊する時は上等兵までいけばいいほうなのに……
階級が軍曹か。夢の中の僕はずいぶん出世してるな)
(でも、よろこんでいいんだろうか?)
(軍隊で異例の昇進をするということは、つまり)
・音矢が大手柄をたてる。
もしくは……
・音矢の上にいるはずの先任兵たちが、戦死するなどして、
ほとんどいなくなっている。
そういうことだ。
(そんなこと、満州国境付近で小競り合いしているような、
今の国際状況ではありえない)
(国と国とが総力をあげて戦う、本格的な戦争。
そんな戦争でもおこらない限りありえない)
(それこそ……第二次世界大戦とよばれるような大規模な戦争……
戦死者が山積みになるような戦争が、もし本当に始まったりしたら……)
「うあ、やだやだ。夢は逆夢。そんなことないない」
音矢は布団にもぐりこんで目をつぶる。
(夜明けまではまだ時間がある。もっといい夢をみよう)
(でも、もう一つ気になることがある)
(僕が昨晩やらかしたらしい、失言と大恥ってなんのことだろう?)
――さあ、昔々の物語を始めましょう。
これは異なる世界の物語。
そして、魔女の香で悪魔が目覚める物語――
時刻は午後6時をすこしすぎたころ。
音矢は茶の間として使われている座敷で、用意した料理をちゃぶ台に並べている。
乗用車のエンジン音が近づいてくるのを彼は聞いた。
ここは最寄りの駅から2.5キロほど離れた雑木林の中にある一軒家。めったに客が訪れることはない。
だから、乗用車の乗り手はすぐに見当がついた。
(瀬野さんだ)
彼女は音矢を雇っている[研究機関]との連絡係だ。
音矢は短髪を覆っていた手ぬぐいをとり、袴の後ろに挟む。
エンジン音は彼ともう一人が住むこの貸家の前でとまった。つづいてクラクションが鳴る。
音矢は玄関に置いてある下駄をつっかけて瀬野を迎えた。空はもう夕暮れの赤から、夜の紺色にそまりつつある。
T型乗用車から降りてきたのは洋装の若い女だ。
「いらっしゃい。瀬野さん。準備はできてますよ」
「ありがとう。お酒は私が買ってきたから、茶の間に運んでくれる?」
「はい、ただいま」
そういって、音矢は乗用車の後部扉を開けた。そこの座席には、緩衝材として古新聞でくるまれた瓶が4本寝かされていた。彼は瓶を玄関まで運び、中身を確認する。
「……」
とまどいながら、音矢は瀬野に質問した。
「あの、他にもお客さん、いらっしゃるんですか?」
「こないわよ。大人2人と子供1人分だけ買ってきたんだけど」
「清酒が一升瓶3本、赤玉ポートワイン1本がですか」
「少し足りなかったかしら?」
「えっ」
「えっ」
二人はしばし顔を見合わせた。
「……なんか、僕と瀬野さんでは、それぞれの常識が違うみたいですね」
「そうね……そこらへんも今日は良く話し合いましょう」
瀬野はちゃぶ台に並べられた料理を見て驚いた。
「これ、音矢くんが全部作ったの? 仕出しじゃなくて?」
ソラマメの塩ゆで、鶏肉とサヤインゲンの味噌煮、
新ゴボウの胡麻和え、カツオの叩き。
それぞれが皿に盛られてちゃぶ台を占領している。
「あはは、そんな大したものではないですよ。全部ゆでたり煮たり切ったりと、
ごく普通の簡便な料理ばかりです」
座布団を瀬野に勧めて、音矢は笑った。
「あと、台所には握り飯がありますので、
食事会の最後らへんにお出ししますから」
取り皿に箸をそえて、瀬野の前に音矢は置く。
その姿を瀬野はじっと観察する。
(やっぱり、お人よしの働き者にしか見えない)
(でも)
(こいつは昨日、少女を殺した)
(それだけではない。すでに孤島の実験施設で、音矢は3人殺している)
(合計4人も殺して……)
(それを音矢は普通のことだと言った。
人が人を殺すのはよくある普通の行為だと言いきった)
(今と同じ、明るい笑顔で)
瀬野が食事会を開くことにした理由。それは音矢の内面を知るため。酒を飲ませて、瀬野は彼の本音を探ろうとしていた。
次回に続く




