第五話
津先は、一番自分が衝撃を受けたところをまず語ろうとした。それで、最初は神代細胞という危険なものが存在すること、暴走したらどんな状態になるか告白した。
神代細胞についての説明が終わり、津先はおそるおそる警察官の顔色をうかがう。
「……わかった。わかったから、もう帰っていい。むしろ帰れ。あっち行け」
若い巡査の表情は異常者を見るものだった。屈辱を感じた津先は声を荒らげる。
「こんな危険なものがあるんだ! 警察なんだから、なんとか対処してくれよ!
俺たちの払った税金で給料もらってるんだろう!」
「はいはい。危険だな。危険だからなんとかするからとにかく帰れ」
抑揚をつけない棒読みで[なんとかする]と言われても信用できない。
「なにを! 俺のことを疑うのか!」
正直に話したことを戯言と思われた。津先はそのことが腹立たしい。
「官憲無能! ただちに行動せよ!」
「おいコラ! バカなことをいって公務を妨害するな!
帰れ! 馬鹿者! 切り捨てるぞ!」
腰に下げたサーベルの柄に、警官は手をかける。1930年〔光文5年〕の警察官は拳銃を装備していない。
「まあまあ、落ち着いてください」
交番の中にいた、中年の巡査が二人に割って入った。
警察の上層部は、居丈高な対応はよろしくないと、今年の8月から研修制度を始めている。それ以前からも、無用な摩擦を避けるため、自発的に丁寧な対応を心がけていた警察官も存在した。
彼は後輩の肩に手を置いてなだめる。
「そんなに頭ごなしに決めつけたら、この人も反発するさ」
「ですが!」
「いいから、ここは俺に任せておけ」
彼は交代して机に向かい、新しい用紙を広げた。
「その件について書類を作りますので、詳しく話していただけますか?」
あまりにも衝撃的な事実を知った津先は、どうしても誰かに話したくてしかたがなかった。そんな気持ちでいたところに、優しく丁寧に告白をうながされたので、津先は懸命に神代細胞について説明する。
しばらくして、津先の供述を書きとった警官は、内容を要約して口にする。
「……はあ、はあ。なるほど。
遺跡から発掘された謎の細胞が人類に取りついて
狂暴化させたあげくに大繁殖ですか。
これは大変ですねえ」
「信じてくれよ! 本当なんだよ!」
「本官は判断をくだす立場ではないんですよ。
法の定める手順によって、上の命令を受けなければ動けないんです。
これも宮仕えの辛いところですね……
しかし本官の権限でも、できるかぎりのことならばいたしますよ。
このとおり、あなたが交番に出向いて、
本官に対し次のような供述を行ったという書類を作りました。
内容に間違いがないか確認してから、ここに署名と捺印を……
ああ、ハンコを持参していないなら、拇印でもいいですよ。
……はい、これはちゃんと署に提出しますから、安心してくださいね」
中年巡査に丁寧な言葉で誠実に対応され、毒気がぬかれた津先は素直に帰宅した。
津先は昨日の出来事を思い出して、悶々とする。
住所と氏名と勤務先まで書いて書類を作ったのに、今日になっても警察官は来ない。
(おかしい。なにが起きている? もう昼だ。交番に行って聞いてみよう。
どうせ礼文は来ない日だから、サボってやれ)
ちょうど勤務当番にあたっていたのか、昨日と同じ警官がその交番に詰めていた。
「ま、また、あの客が……」
立哨していた若い警察官が、たじろいだように一歩下がる。
机に向かっていた年かさの警察官が、交代するように出てきた。
「どうしましたか?」
日常的な挨拶を受けて、津先は逆上した。彼の苦悩をこの警察官はまったく理解していないと感じたからだ。
「昨日出頭したのに、なぜ俺を逮捕に来ない!警察はなにをしてるんだ!」
怒鳴り声を、中年の警察官は涼しい顔で受け流す。
「上に提出した書類の検討状況の確認は、
交番ではなくて、本署で行ってください。
その住所はですね……
はい、この紙に書きましたよ。
簡略な地図もそえましたから、行きかたはおわかりですね?
そこの相談窓口に行って、担当の者に問い合わせてください」
淡々と、丁寧で段取りのいい対応をされて、また津先の怒りは冷めてしまう。軽く頭を下げて地図を受け取り、ぶつぶつ言いながら教えられた方角に津先は歩いていった。
その後ろ姿を見送ってから、若い警察官は口を開いた。
「……あんなのを回して、本署の人が迷惑するんでは?」
中年の警官は、市民に対するときとは違う、身内への態度で答える。
「かまわないさ。相談窓口の担当者に、俺は恨みがあるからな。
変な供述に付き合わされて困ればいいんだ」
「私怨ですか!」
「ふん。俺は悪いことをしていないぞ。
帝都市民の訴えを聞くのも警察の仕事なんだ。
現場の勝手な判断で告発を握りつぶすのは、職務の本来ではない。
『個別の情報では意味不明でも、
多くの証言を集めて分析したら
大きな事件が隠れていることがわかった』
なんてこともあり得るだろう」
「それ……[萬文芸]で連載してる【帝都探偵団】の……」
「ああ、小説にでてくるセリフの受け売りだ。それがどうした?」
「いえ、別に」
縦社会である警察では、先輩の言うことに逆らうわけにはいかなかった。それでも明らかな法令違反なら、正義のために反抗すべきだろう。だが、この場合は、建前としての筋が通っている。だから彼は沈黙した。
「だから、
俺たち現場の巡査は
手に入れた情報を迅速かつ正確に上へ報告するのが義務だ。
あっちがなんか文句言ってきたら、そう言いかえせ」
「了解」
若い巡査は敬礼で答えた。
年かさの巡査は机に向かい、業務日報作成に取り掛かる。津先敏文なる男が再度訪れたことも書き加えなければならない。
一方、立哨にもどった若い巡査は、ふと疑問を感じた。
(『なぜ俺を逮捕に来ない』と叫んでいたけれど)
(ヘンテコ細胞が人間を襲うってだけの話で、
それこそ[なぜ]あいつを逮捕する必要が?)
「すいません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
彼の思考は、来訪者の声で中断された。
「ここいらへんに山田洋品というお店はありますでしょうか?」
「ああ、それなら……」
道案内という、ごく普通の業務にとりくむうちに、彼は疑問のことを忘れてしまった。
次の舞台は、ビゼーのオペラ【カルメン】を座長が翻案した脚本だ。
それに合わせて作った衣装を奈々子は衣装室でマダムにみせる。胴体の形をした洋裁用の台、[トルソ]に掛けられているのは、フラメンコのドレスに似た長い裾が大きく広がるデザインだ。
台本が修正半ばで、まだ衣装を着けた段階の稽古、ゲネプロと呼ばれる段階にまで至っていない。それで、今日はこれを使わずに普段着で稽古をした。
この衣装を着た女性が、くるりと回ってみたところを奈々子は思い描く。
そのとき薄い桃色をした衣はふわりと、まるで蝶の羽のようにひるがえるだろう。
そして足を上げれば柔らかい生地はその曲線をはっきりと見せる。
乳は見えないように衣装の前襟は首元まで詰めた。
が、その代わりに背中側は大きく開け、風紀を乱していないと警察に言い訳しながらも肉体美を強調できるようになっている。1930年〔光文5年〕という時代では、政治を批判したり、性にかかわることを表現したりすることがないように、警察は観客席に[臨検席]を設け、警察官を配備して劇の内容を検閲していた。
『このごろ警察の取締りが厳しいが、客を集めるためにはお色気も必要だ』そんな座長の意見もとりいれたが、奈々子はとにかく女性の魅力を最大限引き出す美しい衣装が作りたかった。たとえ、それを着るのが自分ではないとしてもだ。
マダムはトルソに掛けられた衣装をじっと見つめている。奈々子は彼女の横顔をそっと観察した。
厚い化粧で隠しているが、やはり、細かいシミはそこかしこにあるようだ。彼女の若いころに流行ったというフラッパースタイルというのは、細い体で着こなすことが前提なのに、現在のマダムはふっくらとしている。だから、着られなくなった服を処分する気になったのだろう。
マダムはとてもドレスを気に入ったようで、褒めてもらった。我ながら会心の出来だと奈々子も思う。
その後、今度の舞台について二人で話したが、やがてマダムは黙り込んでしまった。
奈々子が別の話題を出そうとしたとき、マダムはポツリとつぶやく。
「わかっているのよ。あの二人ができていること」
「ええっ! あやめマダム……あの……その……」
突然の発言に、奈々子はとまどい、気の利いた返事ができない。それにかまわず、マダムは独り言のように続ける。
「私の援助で劇団を支えているからこそ、あの人は私に反抗したいの。
……金のために頭を下げても、心は自由だって証明したいのね。
そしてアザミちゃんも……
座長と寝て、私の面子を踏みつけにすることで、
この劇団で一番美しく、一番偉いのはアザミちゃんだとみんなに認めさせ、
自分の力を確認したいの」
「……ひどい」
「なぜわかるかというと……私も昔、そういうことをしていたからよ。
そして、男爵夫人の座を手に入れた。
今も主人のお金で生活しながら、自尊心を守るために劇団を援助して、
その結果が……これ。
因果応報というものかしらね……
できることなら、人生をやり直したいわ……」
マダムは頬に手をあてた。
長く伸ばした髪をきれいに結い上げ、豊かな体型に合わせて仕立てた上質な和服を着てはいる。実際に年齢相応の貫禄のある美しさはあるのだが、その姿には盛りをすぎた女性の寂しさが表れているように、奈々子には思われた。
「国立博物館だけ見るはずだったのに、
帝都美術館までハシゴをしたせいで、予定がずれてしまったわね」
日陰を選びながら、三人は上野公園の出口に向かっている。時刻はすでに午後三時を過ぎていた。
「あはは、翡翠さんは、興味を持つと夢中になりますから。
お腹もすいてきましたし、さて、どこでご飯を食べましょうか」
「今日は、近くにある洋食屋さんに行きましょう。
値段も手ごろで、どの料理もおいしいんですって。地図も持ってきたわ」
瀬野は愛用の大きな鞄を軽くたたく。
「へえ、それは楽しみです。ところでその情報はどこから?
やはり[研究機関]の同僚さ」
「ま、まあね。それより、さっきのことなんだけど……」
背後関係のことを口にしたくない。そう思って瀬野は音矢の質問をさえぎり、代わりに、先ほどの出来事のことを持ち出した。
「あのおじいさんも、お気の毒ね。
たまたま話しかけてきただけの、
とくに悪いことをしていない人に被害をあたえたらダメでしょうよ。
迷惑だわ」
「あはは。僕は、持論を展開しただけなんですけれどねえ」
音矢の笑顔を見て瀬野は眉をひそめる。
「ほんと、あんたが前の職場の呉服屋で
[頭痛発生機]と呼ばれていた理由が、よくわかる
……あのおじさんだけじゃないわ。私まで頭が痛くなったし……」
瀬野は額を押えた。そうすると、音矢の表情が暗くなったように、彼女は感じる。
「なんで、みなさんは僕の言説で妙な反応を示すんでしょう。
僕より過激なことを言う人だっていそうなものですが」
「そういう人は、いかにも論客らしい姿をしているから、
こっちだって[ああ、この人は常識を超えた発言をしそうだな]って
覚悟をしておけるわ。でも、あんたの見た目はまるっきり普通で……」
瀬野は、彼を探そうとしたが人ごみに紛れてしまい見つからなかったことも話した。
「あはは。故郷でも僕は知り合いに気づいてもらえず、
見過ごされたこともよくあります。なんででしょうね?」
「それこそあんたは[普通の見本]だから、ぜんぜん目立たないのよ。
言動は逆だけれど」
瀬野は少し考えてから笑う。
「うふふ、そうだ。あんたなら、
その屁理屈さえ封じれば、普通の人間として
他人に迷惑もかけることなく生きていけるんじゃない?
市場で野菜を売る音矢くん。
駅前で円タクの客待ちをしてる音矢くん。
工場で機械を動かしている音矢くん。
どれも容易に想像できるわよ。そしてまったく違和感がないわね」
彼女の言葉を聞いた音矢の表情が、はっきりとわかる形で不快を示す。その反応は彼女をうれしがらせた。
「どこにいても違和感がないんでしたら、
もうちっと見場のいい状況を想像してくださいよお。
こう、国会とか、大企業とか、大審院とか……」
大審院とは、この時代における最高裁判所のことだ。
「とにかく、偉い人が集まるところを舞台にする感じでおねがいします」
声にも不満が表れていたので、瀬野はさらに音矢を攻撃して気晴らしをすることにした。
「そうねえ…………国会の衆議院本会議場で」
「で?」
すこし期待をさせておいて、瀬野は落とす。
「守衛として、与党議員と野党議員が
また乱闘しないように警備をしている音矢くんとか」
[言論の府]であるはずの国会だが、1930年〔光文5年〕の5月には論争が高じて暴力沙汰になるという騒ぎが起きている。
「そうきましたか!」
嘆く音矢を、彼女は追撃した。
「財閥系の大企業で、
届いた郵便物を仕分けして各部署に配り歩く音矢くんとか。
大審院で、廊下の掃除をしている音矢くんとか」
「どうして全部下働きなんですか!」
「うふふ。だって似合うんだもの」
「どうせ想像なんだから、
僕が新進気鋭の衆議院議員になって鋭い質問をするところとか、
大企業の正社員としてバリバリ働くところとか、
権力に屈しない敏腕弁護士とかになったところをですねえ……」
言葉を濁し、音矢はうなだれる。
「だめだ。自分でも姿を思い描けないよ……」
「そういうこと。
目立たず地味にコツコツ働く、
ごく普通の労働者が、あんたにとってもっともふさわしい地位よ。
高望みなんかしたらダメ。
世間の平和のために、世界の片隅で静かに暮らしていなさい」
「とほほ……」
普段生意気な彼が落ちこむ様子を見て、瀬野は大いに満足した。
そこで二人の会話が途切れた。かわりに瀬野は翡翠に関心をむけたようだ。音矢は黙って歩きながら、自分の境遇に思いを巡らせる。
(瀬野さんは外出に乗り気ではない。
博物館でも美術館でもつまらなそうにしていた……
あまり退屈させると、もう連れてきてくれないかもしれない。
だから、瀬野さんの気晴らしのために、
僕の悩みをつつかせてあげた)
(その結果、大いに喜んでくれたから、まあ、それはいいとして)
(大衆のなかに埋もれて目立たない姿か……
他人からの攻撃を防ぐためには都合がいいんだよな)
(実際、僕はもう6人も殺しているのに、
こうしてお天道様の下を堂々と歩けるのは、
いかにも[普通]な、この見かけのおかげだもの。
普通すぎて、瀬野さんまでが僕が殺人犯であることを忘れて
普通の労働者扱いするくらい、目立たない外見なんだ……)
(けれど、すみっこにひっそり隠れているのは、なんだかつまらないや。
せっかくこの世に生まれてきたからには、
世界の中心で、おもいきり目立ってみたいなあ。
それも[殺人]みたいに
全世界で昔から発生しているありふれた事件なんかではなく
僕が考案した独自の犯罪によって世間をさわがせてみたいものだ)
音矢は子供のころから持ち続けてきた夢を思い出した。その次に、胸の内で温めている計画へと意識が向く。
(僕に資本と人脈と貫禄があれば、すごいお金儲けができるのになあ。
僕を親玉にして、子分を何人か作って、その子分に孫分を作らせる。
子分は孫分に何かを高く売りつけて儲ける。
僕はその何割かを上納金として受け取る。
孫分は、ひ孫分を作ってそこからも上納金をもらって……
ひ孫、ひいひい孫をどんどん増やしていけば、すごく僕は儲かる)
1926年ごろから、音矢はこのような計画を立てていた。
いつの日か犯罪組織を結成し、その経営をするために、呉服屋に勤めていたころの音矢は時間をみつけては帳簿づけを勉強し、国家の優遇政策を利用して自動車の操縦免許をとった。
[同じ釜の飯を食う]ことで組織構成員の結束を高めるため、奉公人用の調理場も積極的に手助けし、飯炊きや料理の技能も磨いた。
彼はカモに近づくため、親切も心がけている。
そして近づいてからさらに相手の心に踏みこむために、雑談の糸口として読書で様々な知識を蓄え、落語や絵画などの趣味もたしなむ。新聞報道を読むことで時事問題の学習もしている。
第三者からは親切な働き者、知識欲と向上心が豊かな良き勤労青年、と見えていただろう。
だが、音矢の努力は将来の犯罪計画のためだった。
この計画をもとに、1932年〔光文7年〕から始まる経済犯罪が、どれだけ日本を騒がせるかは、まだ誰も知らない。今の時点では、計画の立案者である音矢さえ、実行可能か危ぶんでいる状態だった。
(あーあ。でも、僕が『こんなふうにすれば儲かるよ』って誘っても
……誰もついてきてくれない。
僕みたいなヒヨッコが、儲かるよって話しても全然説得力がない。
最初の子分さえも作れなければ、成立しない方法だもの。
その手下を作るために呉服屋の小僧仲間を観察して、
あるていど操れるようになったのに……倒産してバラバラになってしまった。
僕にはまだ、みんなを束ねるだけの権威も貫禄もなかったからだ。
やっぱり無理な夢かな……)
(いや、まてよ。宗教を利用するというのはどうだろう。
既存の仏教とか神道とかは、
もうガッチリ固まっているから僕の付け入る隙はない。
でも、新しくできたばかりのものなら……)
音矢の空想はそこで途切れた。
「あ、翡翠さんどうしました!」
次回に続く。
次回は 11月 8日(火曜) 19:30ごろに投稿予定です。




