第四話
順路にそって展示物を二人は観覧していく。その中の一つ、釈迦如来坐像の前で、音矢は足を止めた。
「ああ、仏さまか、なむなむ」
合掌して、彼は軽く頭を下げる。その様子を翡翠は見ていた。
「そうか、音矢くん、
仏には手を合わせて、なむなむするのだったな。
修身の副読本に載っていた。ボクもそうしよう」
並んで拝む二人に、初老の男が近寄ってきた。
彼は小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、音矢たちになれなれしく話しかける。
「ふん。君たちはまったく物知らずだな。
いいか? ここにあるという時点で、寺で祀られている仏像とは違うのだよ。
博物館に飾られている仏像からは[魂抜き]がされている。
仏の形はしているが、仏としての魂が入っていないから、
拝んでも御利益などないぞ」
翡翠は、いったいなにが起きているのか理解できずに、ただ男を見返すだけだ。
一方、音矢はゆっくりと男の正面に回り、反論した。
「いえ、お寺の本尊にだって、魂なんてないでしょう。
そんなのは前時代の迷信、口から出まかせの嘘っぱちにすぎません。
今は20世紀です。現代人なのだから、科学的に考えましょうよ」
「ああ?……」
とまどったように、男は絶句する。音矢の反応は、彼の予測していたものと違っていたようだ。
やがて、自分の言葉を否定されたと理解したらしく、男は怒りの声をあげた。
「では、君はなぜ拝むのだ!」
「お釈迦様を尊敬しているからですよ。
お釈迦様が考え出した教えで、
どれだけのお金が教団に集まったか想像してください。莫大なものですよ!
あの奈良にある大仏を建造するだけでも、ものすごい大金が必要です。
お寺だって、
代表的なところで平等院に金閣銀閣、
それ以外の寺社を含めた建設費の総額でいくらかかったか……
しかも、教団に集まったのはお金だけではありません。
一向一揆のように人々の命までもささげさせる。
そんな、ものすごい教えです。
お釈迦様の思想に影響されて、お金や労働や命をささげる人の発生は
過去だけでなく、現在そして未来まで続くでしょう。
口先一つのでっちあげ教義だけでここまでできるなんて、
漢として尊敬せざるを得ません。
僕もいつか、そのくらい大きな事業を成し遂げてみたいものですよ」
「なんだ、そのネジれた思考は……
御仏の威徳を敬い、死後の救済と現世の御利益を求めるのではなく、
釈迦牟尼を詐欺師の親玉のごとく形容し、そのうえで尊敬する?
理解しがたい……うう、頭が……痛む……」
音矢は瀬野に説明を終えた。
「そういうわけです。なんででしょうね?
お釈迦様を敬うのは普通にあることだし、
大仏建立もその他の寺院の存在も一向一揆も、
歴史上の出来事として認められているのに。
尋常小学校で習う、普通の知識を並べただけで頭が痛くなるなんて
不思議だな。あはは」
彼は明るく笑う。それを見た瀬野はまた思考が混乱し、頭に違和感を覚えた。
音矢は陳列されている釈迦如来像を拝んだが、とくに他意は無い。
彼の祖母は彼が7歳の時に亡くなった。
生前の彼女は、月に一度自宅近くにある小さな地蔵堂に行って掃除をし、お参りをすることを習慣としていた。そのとき幼い音矢も同行し、掃除の手伝いをしていた。
そしてお参りを済ませた帰り道、地蔵堂のそばにある和菓子店によって、店先の縁台で祖母と音矢は並んで座り、豆大福を食べるのが恒例となっていた。それは、音矢にとって懐かしい心温まる記憶だった。
だから、仏像を見ると拝むのがいわば条件反射となっていたのだ。
[萬文芸]などで雑多な知識を得てはいるが、しょせんはまだ18歳の若造である。森羅万象に通じるとまでの境地に、音矢は達していなかった。
仏教の成り立ちは大まかに知ってはいる。しかし、釈迦如来と地蔵菩薩の差異も、彼はよくわかっていない。[魂抜き]に関することも、初耳だった。
その知識不足をあざけられ、気恥しい思いをしたので、音矢はとっさに屁理屈をこねて反撃してしまった。
彼一人だった場合なら、そのまま笑ってやりすごしただろう。新しい知識を与えてもらって感謝したかもしれない。しかし、翡翠の目を意識したことで、恥に敏感になった。音矢は他人に影響を与えるが、自分も翡翠に刺激されて変化している。
奈々子たちの出迎えに、あやめマダムは満足した様子だ。
しかし、座長とアザミはマダムの視線がそれた隙をみて、手をつないだり、意味ありげな目くばせをしてうれしそうにしている。それが奈々子には不満でならない。
二人とも舞台人なのだから、せめて援助者が来た時くらい、清い仲である演技をしてみせてほしい。
マダムの機嫌をそこねたら、この劇団はやっていけないのに、なぜ自分から密通をほのめかしてみせるのか。奈々子には理解できなかった。
そろそろ不快になるほど暑くなってきた銀座の事務所で、津先は机に向かい、頭を抱えている。いまさらながら、昨日の自分がやってしまったことが恐ろしくてならない。
五寸釘で、重ねられた実験台と水晶の手のひらを津先は打ち抜いた。それも両手ともだ。
いずれ、実験台の中で神代細胞が増殖し暴走するだろう。その処理に失敗すれば、化け物が帝都を襲い、仲間を増やし、日本全土を荒し、世界中に広まる。神代細胞が暴走した末期に、どのような症状を見せるか。津先がそのおぞましい姿を見せられたのは、実験台が事務所を去ってからのことだった。
実験台が去った後、礼文は印刷室からアルバムなどの参考資料を持ち出してきた。
その印刷室には水晶がいるはずだ。しかし津先が耳を澄ましても、ドアの向こうからはまったく人のいる気配を感じられない。
応接用テーブルの上に広げられた資料を読みつつ、礼文は神代細胞について津先に説明をする。古代遺跡で発見されたこと、それが人体に与える影響、そして暴走した場合、どのように対処するかというところまで説明が進む。
「リベットペン? そんな武器が本当にあったんですか?
名前と機能は[萬文芸]の猟奇小説で知りましたが……」
この、特殊な弾丸を相手の体内に打ちこみ小規模な爆発を起こす武器は、一般に出回っていない。世間では、闇の組織が暗殺に使うと噂されている程度の認知度だ。
「それにしても……礼文さん。神代細胞が暴走したときの処置……
もう少し、なんとかならないんでしょうか。
どこかに閉じ込めて回復を待つとか……」
「それができないから、苦労しているのだよ。
もし、閉じこめておけばどうなるかは、こちらの資料にある」
礼文はアルバムを開いた。そこに貼ってあるのは、裸の男を撮影した大判の写真だ。
どうやら、檻の中に入れられているらしい。鉄格子とおぼしき影が床と男に縞模様を作っている。
男の輪郭がおかしいことに津先は気づいた。妙にあいまいでぼやけている。ピントがボケた写真を津先は何度か見たことがあるが、それとは異なっていた。
隣のページに貼られた、男の顔をアップでとらえた写真は、さらに奇妙なものだった。
「目が、飛び出している?」
その理由に礼文はついて語る。
「増殖した神代細胞は全身から吹き出して、ついには表面を覆う。
それと同時に脳内でも増え、
最初のうちは涙のように目から流れるが、
末期になると勢いで眼球を押し出してしまう。
その様子を撮影した写真がこれだ」
礼文はページをめくった。津先は最初の写真を見て、思わず叫んだ。
「ナメクジ!」
顔の皮膚はあきらかに人のものではなく、あの軟体動物の粘膜のようになり、目は長い柄の先でうつろに宙を見つめていた。
「さらに増えると体腔内でも増殖し、腹部は風船のように膨れ上がる。
ほら、このように」
「うわああ……」
指さされた写真に、津先は言葉も出ない。
「鉄格子に体がめりこんでいるだろう?
それは、感染させる相手をもとめて移動しようとするも、
檻に阻まれているところだそうだ。
もし、自由な状態にすれば強化された脚力で走り、
他の人間を捕まえて自分と同じにしようとする。
完全に神代細胞が脳を支配し、繁殖しようとしているのだ」
「つまり、逃がしたら、次々に感染者が増えていく……」
「逃がさなくても、
増殖が進むと最終的には爆発し、四方八方に細胞を飛び散らせる。
その範囲も細胞の量も、
初期の段階でリベットペンを使い
頭部だけ破壊するのとはくらべものにならない。
神代細胞自体の運動能力も、初期に処理したものより向上するそうだ。
飛び散った細胞はヒルのように這いずる群体になり、
それぞれが新しい寄生先を探して移動していく。
実験台本体を檻に入れておいても、
扉や窓の細い隙間をすり抜けて脱出し、余所に逃げて、
家屋の隙間から侵入し、別の人間に捕りついて繁殖する。
そうなると始末に悪いから、
ここまで神代細胞が増える前に、処分するのだ」
怯えた様子の津先に、礼文は冷たい微笑みを向ける。
「なに、君がやる必要がない。処分の実行は下請けにまわす」
「その下請けが失敗したら、どうなるんですか?」
「いままで彼はみごとに使命をなしとげてきている。
その実績を信用しようではないか」
「これまで成功したとしても……次に失敗しないという保証は」
礼文は表情を消す。テーブルに手をあてて立ち上がると、無言でステッキを振った。
ヒュン
風を切る音を聞いた瞬間、津先は続く言葉を飲みこんだ。
音矢が三度も始末に成功しているので、礼文は自分に都合のいい楽観的な予測を立てている。そして、暴力による強制で津先にも犯罪の片棒をかつがせ、さらに五寸釘による傷害も行わせたので、もう反抗することも警察に通報することもできなくなっていると、安心していた。
だから、津先が帰宅する途中、なにをしでかすかなどまったく配慮せずに、彼を事務所から解放した。
確かに、津先は自分から警察に行くことはしなかった。しかし、警察のほうが津先に目をつけることまで、礼文は考えていなかった。
津先は昨日の夕方、説明を終えた礼文から帰宅の許可を得た。魂の抜けたような足取りで、銀座の事務所から、乗合バスの停留所に向かう。その途中、警察官の巡回に遭遇した。
権威と権力の象徴である制服を目にした瞬間、衝撃で半ば麻痺していた彼は我に返った。津先は、自分がやってしまったこと、巻きこまれた事件に、いまさらながら戦慄を覚える。近づいてくる警官が、自分を逮捕しようとしているように、被害妄想の傾向がある津先は感じた。
(俺はなんてことを……捕まったら刑務所だ。
看守にいびられて、臭くて不味い飯を食らうんだ……
ああ、どうしよう。怖い……逃げよう!)
いきなり背を向けて走り出す挙動不審な津先を、若い警官は見逃さない。
「おいコラ! 警察官を見て逃げるとは、後ろ暗いところがあるんだろう!
ちょっと来い!」
1930年〔光文5年〕の警官には、市民に対し居丈高な対応をするものもいた。ましてや、まだ経験の少ないこの巡査は市民になめられまいと、必要以上に威嚇的だった。
教場を卒業したての、厳しい訓練で鍛えられた足は、たやすく運動不足気味の元世界史教員に追いつく。
「わあ、捕まった。わあ、助けて! わあわわあああ!」
「お前は何をしたんだ?」
問いかけてみたが、その相手は言葉にならない喚き声をあげてじたばた暴れるだけだ。そのうえ、振り回した手が巡査の頬にあたった。
「痛て! あやしいヤツめ。とりあえず公務執行妨害だ。
交番に来い」
ひきたてられてきた津先は、椅子に座らされると、ベソをかきながら口を開く。
「ひっく、ううっ……実は……」
礼文に心を殺されたばかりの津先は、冷静な判断力を失っている。
そのうえ、[真世界への道]に入りたての津先は警察の代表する、国家権力に対抗するだけの信念を、まだ持っていない。
それで津先は動揺のあまり、自分がかかわった事件のことを自白してしまった。
次回に続く
次回は 11月 1日(火曜) 19:30ごろに投稿予定です。




