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第三話

しばらく静かにしていると思ったら、またプールで富鳥親子が騒ぎだした。


自室で読書をしていた礼文は、騒音に顔をしかめる。耳障りだが、窓を閉め切れば室内が蒸し風呂のようになる。北にあるリューシャ国育ちの礼文は暑さに弱かった。


水に入れば涼しいだろうと、彼は思う。

しかし、富鳥親子と仲良くプールで遊ぶなど真っ平御免だ。


礼文は階段を下り、離れに備えられている小さな炊事場にむかった。そこには、この当時では高価な冷蔵庫があった。礼文は氷の塊を取り出し、アイスピックで適当な大きさに砕く。それをグラスに入れて自室に運び、中断していた読書に戻った。


ウチワで自分をあおぎながら、氷を口に含み、彼は考えを巡らせる。


(今回の実験台は、初心に戻って戦闘能力の低そうな者にしてやった。

 回収石ももっと作らせなければならないし、

 小分けにした水晶細胞も必要だからな)


(前回はあの男が憎かったので強い男をつい選んでしまったが、

 状況が変わった。

 処分に失敗されては困る。しばらくは弱者を実験台にしよう)


(前回と同じく、両手に2回釘を打ったから、

 たぶん暴走を始めるのも同じくらいの時間が経過してからだろう。

 南方くんの場合は約54時間後だった。そうすると……)


礼文は時計を見る。


(明日の午後くらいには暴走するだろう。

 音矢くんとやら。がんばって私のために働いてくれよ)





西洋建築の博物館が見えてくるころ、音矢は翡翠に話しかける。


「博物館には平安時代の絵巻物もあるそうですよ。

 ほら、[萬文芸]の怪奇小説に出てきた時代です。

 だから、陰陽師や武士の姿も見られるでしょう」


「屍傀儡の絵もあるだろうか」


「あれは小説の作者が創作した怪物ですからね……

 でも妖怪の浮世絵なら展示してあるかもしれません」


話しながら、翡翠の様子を音矢は観察する。うつむきがちだった翡翠の姿勢も、平常通りになっていた。


(少し元気になったかな。よかった)


「博物館に行くから、ボクは昨晩、国史の教科書を読んで予習をしたぞ。

 ……足利尊氏が逆賊で悪い人、

 楠正成、新田義貞は忠臣で良い人……

 それで正しいのだろう?」


「はい。僕も小学校で、そう習いました」


この時代の公教育は、天皇中心の国体を護持しようとする皇国史観に基づくものだ。だから当然、朝廷に反抗する者は悪で、従う者は善と決めつけている。尋常小学校で使われるのは国定教科書であり、それは皇国史観と共に、政府の富国強兵政策が正当であると記述されている。


世の中は、教科書通り単純に割り切れるものではないというのが音矢の主義だ。しかし、それを特高警察官や唯日主義者がいるかもしれない公共の場で口にし、騒ぎを起こすのも面倒だとも思っているので、彼は自分の見解を語らなかった。


「そうか! すると、音矢くんは忠臣の子孫なのだな」


「いえ、祖父の話では、新田といっても別系統らしいです」


「そうそう。苗字が同じだけでは子孫と認定できないの。

 特に戦国時代の人は、

 位が上がるたびに名前を変えてるから、苗字と血筋はあまり関係ないわ。

 松平竹千代が元服して松平元康、そして徳川家康になったり、

 日吉丸が木下藤吉郎になって、さらに羽柴秀吉になって、

 最終的には豊臣秀吉になるみたいにね」


これは瀬野も知っている知識なので、ここぞとばかりに披露する。今話題となっていることとは少しズレているが、彼女は気にしない。


「ややこしいな。ヒスイとカワセミの比ではない」

「まったくですね。あはは」


「しかし、歴史上の人物の一人について興味を持つと、

 どんどん気にかかる人物が増えていくな。

 最初に教科書を渡されたときは、ただ読み流しただけだった。

 だが、新田という人が歴史の中にいたと思い出して、

 そこを中心に読み直してみたら、まったく印象が違った。

 そしてもっと詳しく知りたくなった」


「それが、歴史を学ぶ面白さなんですよ。

 世界史まで手を広げると、もっと面白くなります」


楽しそうに話す翡翠と音矢を、瀬野は不思議そうに見つめる。


(なんで、誰からも強制されていないのに、

 わざわざ自分からすすんで勉強しようとするのかしら? 

 歴史なんてただ暗記するだけでしょう? 

 私が女学校にかよっていたころ、

 歴史は数学の次に嫌いな授業だったのに)


瀬野には音矢と翡翠の行動が理解できなかった。


[勉強しないと親や教師に怒られるから、

 与えられた知識を我慢して丸暗記する]のではなく、


[自分の知識欲を満たすために、

 興味をひかれた情報を積極的に集めていく]という二人の学習姿勢は、

 彼女の価値観とはまったく異なっていた。




夏の日差しから逃れて国立博物館の中に入ると、やや涼しく感じた。入口から短い階段を昇って三人は中央のホールに向かう。その右と左に展示室は配置されている。歩きながら瀬野は、今の自分が置かれている状況をふと不思議に思う。


(……そういえば、なぜ、私は博物館に行くことになったんだろう? 

 昔の人が残した古い遺物なんて私は好きでないのに……)


(銀座で翡翠くんが、たしなみのない行動をしたり、

 ヘソを曲げて往来で坐りこんだりして、私まで恥ずかしい思いをしたから、

 外出なんてさせたくなかったのに)


(……どうして、私は翡翠くんばかりか音矢まで連れ出して、上野にいるの? 

 おかしいわ。ああ、頭痛が……)


音矢の計略によって、自分の行動が操られていることに、瀬野は気づいていない。


もしも、それに気づいたとしたら、彼女は即座に否定しただろう。


小卒で臨時雇いの年下男に、女学校を出て正式に雇用された自分がいいように操られているなどという現実などをみとめたら、瀬野の自尊心はひどく傷ついてしまう。それを無意識に感じ取ってか、彼女は深く考えることをさけた。



その結果、心の中にうっすらとわいた違和感を、彼女は頭痛として受け取った。

眉をひそめて瀬野は額を押える。


「どうしました?」

「暑さに負けたのかしら……」


目をあげると、入り口の奥に〈御手洗い〉の標識が見えた。


「ちょっと失礼するわ。あなたたちは、ゆっくり鑑賞していていいわよ」

「それでは、先にこちらに入りましょう」


音矢と翡翠は連れだって片方の展示室に進む。





瀬野は備えつけの鏡の前で額と首筋の汗をぬぐい、濡らしたハンカチで冷やす。さっぱりしたところで化粧をなおしてから、音矢たちが入っていった展示室に向かう。平日とはいえ、夏休みを迎えた博物館はそこそこの賑わいだ。


見物客たちの中から瀬野は、自分の目の高さで見つけやすそうな音矢を探した。だが、どこにいるのかわからなかった。そこで目線を低くし、翡翠を探したら、すぐに見つかった。仏像の前だ。


翡翠に意識が向かった状態でよく見ると、音矢もそばにいることに気づく。


(体はあいつのほうが大きいのに、

 翡翠くんより目立たないなんて、不思議ね)


「おまたせ……あら?」


ちょうど瀬野が彼らの前に着いたとき、二人の隣にいた初老の男が頭を抱えてうずくまった。音矢もしゃがみ、彼を介抱しようとしているようだ。


「どうしたの?」

「なんだかわかりませんが、

 僕と話している途中、いきなり気分が悪くなったようです」


彼女の問いに答えてから、音矢は男に手をさしのべる。


「大丈夫ですか?」


その手を振り払い、男は立ち上がった。


「もういい! ワシにかまうな!」


ふらふらした足取りで、初老の男は去っていく。


「私が目を離したわずかな時間で、あんた、なにをやらかしたのよ」


あきれたような声で彼女は音矢をとがめる。


「いやあ、こんなことが……」


彼も立ち上がり、先ほど起きた一件の説明を始めた。




次回に続く

次回は 10月25日(火曜) 19:30ごろに投稿予定です。

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