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第十話

翡翠はコップの水を縁側にあけて、中の制御石を取り出した。手のひらに乗せたそれを押してみる。丸められた制御石は指の形に歪んだ。それは3日間水につけられて柔らかくはなっている。


さらに、ちゃぶ台の上に置いて二人は観察する。だが、柱時計の長針が2から5へと進んでも、元々の水晶細胞のように動いたり変形したりすることはない。


「ひとたび完全に石化したら、

 水晶細胞が水分を再吸収しても活性化しないことが証明されたな。

 だが、それはなぜだろう?」


「切り干し大根を水でうるかしても、

 もとの生大根のように

 シャキシャキに戻らないのと同じではないでしょうか。

 僕の耳につけた制御石だって、

 風呂に入っても汗をかいても、逆戻りしませんし」


音矢は翡翠から制御石を受け取り、歪んだ部分を修正した。中央に開いた穴に紐を通して輪を作り、軒先の鉤に吊るす。この鉤は本来なら干し柿や干し餅などを作る目的でつけられたのだろう。音矢のやろうとしていることも似たようなものだ。


「でも、これで一段落つきました。

 新しい報告書に、この成果を添えて提出しましょう」

「君とボクとの共同研究だな」

翡翠がうれしそうに笑った。


「そうだ。これはこれまでの制御石とは違う機能がありますから、

 別の名前をつけたほうがいいかも」


「どんな名にしようか」

「あんまり凝った名前だと、いざ説明する時にこまりますから、

 そのまんまでいいんではないでしょうか」

「なるほど。そうすると……」





礼文は瀬野から渡された報告書を読む。


《保存されていた水晶細胞を加工して、

 神代細胞漏出時に回収できるような制御石を作りました。

 これまでの制御石は空間界面の性質を整えるものですが、

 これは神代細胞を引き付ける力を強化した物です。

 別の水晶細胞で試したところ、

 瓶のガラス越しでもこれに吸い寄せられるように動きました。


 機能からとって、これを[回収石]と名付けました。

 もし、あずけてある水晶細胞がこぼれた場合は、

 離れた場所に退避してから、

 この石に長い紐をつけて、こぼれた場所に放りこんでください。

 水晶細胞が石を中心に集まったら、紐を引いて回収し、

 そのまま生理的食塩水の入った瓶に詰めてください》



報告書に添えられた封筒を開くと、中から、紫色の石が出てきた。それは小さな飴玉くらいの大きさで、中央に開いた穴には輪になった麻紐が通してあった。ゴム手袋をはめて紐を持ち、記述を確かめるために、礼文は地下室にむかう。



そこに置いてある金庫には、水晶細胞を詰めた瓶が3本しまわれている。1つは先日瀬野から渡された小分けしてあるもの。残りの2つは、それ以前に採取されたものなので大きな塊がそれぞれの瓶に詰めてある。福子から回収されたものだ。


呉羽から採取した細胞は、福子に全部与えた。その結果2つの瓶に入るくらいの細胞が福子から獲れた。


これから使う予定の小分けしたほうは刺激したくない。大きな塊がはいっている瓶を1つ取り出し、礼文は倉庫の中央にある机に乗せた。


回収石をそっと瓶に近づけると、白い塊は食塩水の中でもぞりと動いた。見る間に細かく分かれ、それぞれが身をくねらせて小さな紫色の石に寄ってくる。瓶の内側に張り付く姿はまるでヒルかウジのように見えて、礼文は身震いをした。


(こんなものを、あの男は口に入れ、飲み込んだのか)

想像しただけで、礼文は吐き気をもよおす。


その音矢は、海辺にある横濱という町で育った。

彼の祖父は毎年春になると季節の味覚として[白魚の踊り食い]を楽しむ習慣があり、幼いころの音矢もそれのご相伴にあずかっていた。


しかし、リューシャの内陸で育った礼文は、まったくそのような食文化の知識を持たず、理解もできない。

白い、うねうね動くおぞましいものを、彼は早々に金庫に戻し、ダイヤルを回してカギをかける。




自室に戻った礼文は報告書の続きを読んだ。


《ただし、回収石のエーテルエネルギーが枯渇すると

 効果がなくなるかもしれません。

 それを防ぐためには普段から人体に触れさせて

 エネルギーの補充をする必要があるかもしれません。

 この場合の安全性は、以前の研究主任が確認しています。

 石化した神代細胞になら、直接触っても感染しないそうです》


報告書にはそう書かれているが、回収石に礼文は素手で触れる気はない。これからも、ゴム手袋をはめた手であつかうつもりだ。


回収石は人間の体から採取された、あのようなおぞましい動き方をする神代細胞を原料として作られているので、生理的に気持ち悪いためだ。


義知の話すオカルト話には、罪人の皮をはがして作られた本や、ミイラを加工した燭台などが登場する。そんな不気味な物品と、制御石や回収石は同類。そのように礼文は思った。


だから、自分がこれを身に着けてエーテルエネルギーの供給源になるつもりはない。たぶん、威勢のいいのは口先だけの、実践が苦手な義知も拒否するだろう。


「さて、誰を使うか」

万が一、水晶細胞の漏出事故が起きた時のことを考えると、身の回りに回収石を置いておきたい。だから、ここから遠くに住んでいる実験台や津先は使えない。


「そうだ。ムメがいる」

礼文は離れ屋を担当している女奉公人に、回収石を身に着けさせることにした。


(これは、きれいな宝石のように見える。若い女なら喜ぶだろう。

 お守りのペンダントだと言って渡すか。

 それなら肌に密着させなければならないことも、納得してくれるだろう)


(しかし、ただの紐で吊るすのでは安物のように見えてありがたみがない。

 貴金属の鎖があればいいのだが、

 私はアクセサリーなどという無駄なものは持たない主義だ)


(銀座に行くときに、ついでに買うか。とりあえず、坊ちゃんに話を通しておこう)




礼文の説明を聞き終わった義知は、ソファの上に身を起こした。

「なるほど。それなら買いに行くまでもない」

首から下げていたペンダントを外して、礼文に差し出す。


「幸運を呼ぶというので馬蹄のペンダントを買ったが、

 とくにいいことも起こらないし、デザインにも飽きた。

 俺が新しいものを買うから、この鎖を使え」

「ありがたく存じます」


差し出されたものを拒否することもできず、礼文はそれを素手で受け取った。


ペンダントには、義知の素肌にふれていたなごりの体温がある。表情に心が表れないように努力しつつ、再び地下の倉庫に行く。そこには孤島から運んできた機械と薬剤も保管してある。礼文は消毒用のアルコールをビーカーにそそぎ、ペンダントをひたした。自分も急いで便所にむかい、用は足さずに手だけ洗った。



少し気がまぎれたので、倉庫に戻り、ビーカー越しにペンダントヘッドを眺める。


(ふむ。あらためてみると都合のいい形だな)

馬蹄はやや膨らんだU字型だ。両端に丸い金具があり、そこに鎖を通すようになっている。


(この片方から鎖をいったん抜き、回収石の穴に通し、

 もとのように馬蹄の両端で吊るせば……)


手袋をはめ直し、消毒済みのペンダントを取り出した。それを鼻紙で拭いてから、礼文は自室に持ち帰り、細工にかかる。ちょうど馬蹄のU字型に石がはまった。やや隙間があるが別に問題はないだろう。





音矢は自室の布団に寝転がり、独り言をつぶやく。


「ああ、計略がうまくいった。

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ」


瀬野から、次の金曜日に3人で外出する計画の承認を、音矢はとりつけた。


行き先は上野。帝都国立博物館だ。


翡翠の希望を叶えるという形をとってはいるが、そもそも博物館の存在を彼に教えたのは音矢だ。[萬文芸]の観光特集記事を読んでから、ずっと音矢は上野に行くことを望んでいた。


先日、銀座に連れ出したときに翡翠がヘソを曲げて苦労をしたので、瀬野が許可するかどうかは賭けだった。


だから音矢は、より確実に瀬野の心を動かすため、彼女を観察していた。


理由はわからないが、最近の彼女はなにか鬱々としている。

ならば、彼女は気晴らしを求めているはずだ。


だから、翡翠が愛らしい顔で、[優しくて寛容な瀬野さん]に楽しい外出のおねだりをすれば許可すると、音矢は予測していたのだ。


さらにダメ押しとして、音矢は翡翠の体力不足を指摘した。


上野公園内は車の乗り入れ禁止だ。もし広大な公園で翡翠が疲れて動けなくなったら、誰かがおぶってやらなければならないと。


それを聞いた瀬野はうれしそうに、音矢に運搬を命じた。しかし、音矢がわざと拒否したので、彼女は意地をはって音矢に翡翠の運搬係を押しつけた。これで、翡翠を上野に連れて行くことも音矢が同行することも確定事項になる。


もともとは、自分が音矢を交えた3人での外出など望んでいなかったことに、瀬野は思いいたることはなかった。




帝都国立博物館は、関東大震災で本館や2号館、3号館の建物が破損した。しかし幸いにも陳列品の被害は軽微であったので1930年〔光文5年〕には表慶館のみではあるが公開されていた。


(遺跡から発掘された土器や石器、

 それに伝統的な工芸品や、歴史的な価値のある仏像、

 そして絵画などが展示されているそうだ。

 翡翠さんも小説を通じて日本史に興味を持ち始めたから、

 きっと楽しめるだろう)


布団の上で、[萬文芸]の特集記事を読み返しながら音矢は思った。


(ああ、僕も楽しみだ。

 なにしろ写真ではなく本物だから、

 鮮やかな絵画の色も、工芸品の細部までもこの目で見られる)


1930年〔光文5年〕の写真は白黒で、解像度も悪い。彩色された写真もあるが、実物そのままとは言えなかった。


(それに、上野にはすごくおいしい洋食屋がたくさんあるって評判だし。

 クリームソーダやミルクセーキを出してくれる喫茶店もそろっている。

 どれも、僕みたいな素人ではなく、

 きちんと修行した職人さんが作る料理を出してくれるお店だ)


(この情報は翡翠さんに、強調して伝えなければならない。お相伴のために)


(なんでも手づかみや匙で食べるような状態では、

 瀬野さんだって外食はさせられないけど、

 翡翠さんはちゃんと箸が使えるようになったし……

 お箸の使い方を教えておいて本当によかった)


洋食のナイフとフォークの使い方はまだ教えていない。音矢自身も慣れていないからだ。しかし、上流階級が利用する高級店ならいざ知らず、地方からの観光客も多数来る庶民的な店なら、頼めば箸を出してくれるだろう。


(動物園は檻があるから翡翠さんのお気にめさないみたいだけれど、

 上野には4年前にできた帝都美術館もあるし。演芸場もあるし。

 あの人が興味を持ちそうなところばかりだ。

 これは何回も通ってお相伴にあずかれそうだ。楽しみだなあ)



(それに、いつか上野には行かなければならないと思っていたんだよ。

 彰義隊のお弔いのために。

 これで僕は、旧幕府の元で御家人を務めていた

 新田家の末裔としての仕事も果たせる。

 一石二鳥の成果だ)


気が緩んだときのクセで、彼は口笛で[抜刀隊]のメロディを吹いている。


(やっぱり、僕の望みを叶えるために、

 喜びをもって自発的にやってくれるように他人を仕立てるのは、

 おもしろいな)


音矢は個人の性格を見極め、それに合わせた計略で人を動かす。効果的だが、その下準備には時間と手間がかかる。瀬野を操るのには4カ月近くかかった。


一方、津先を教育すると決めてから約1ケ月半で、礼文は彼を命令通り動く傀儡に仕立てた。







講演会は、最初にしては良くできた。


掲示板での告知が意外にも効果があり、一般人の参加もそこそこあったのだ。


いきなり[真世界への道]の教義だけではおどろおどろしいオカルト話になって、一般人からは敬遠されただろう。しかし津先は世界史の教員だったので、その知識をとりまぜて普通の人間でも魔術関係の話を面白く聞けるように講演した。


フランスの王妃であるカトリーヌ・ド・メディシスがノストラダムスに王の死を予言された話や、マリー・アントワネットの評判をおとしめるきっかけになった[首飾り事件]に錬金術師のカリオストロ伯爵がかかわっていた件などは特に受けた。



歴史との関係から興味を引かれたのか、津先の後に礼文が語った教義も、それほど嫌がられはしなかった。なかにはその場で入会する者もいた。


以前からの会員も目新しい視点からの解説を喜び、新規の参加者と交友を深めた。


講演会の段取りもそれほど悪くなかったし、問題点も次には解決できるだろう。


そして、新入会員の中で時間にゆとりがある人が次の集会準備を手伝うことを申し入れ、礼文は彼を幹事に任命した。

古参の会員がそれに不満を言うかと津先は心配したが、表だって文句を述べるものはいなかった。彼らは魔術師にあこがれてはいるが、集会の幹事という地道な仕事は嫌いなようだった。


(あいつに実際の仕事を押し付ければ、俺は楽ができるな)

津先が得た自信と成果、そして希望が罠になり彼を捉えた。






蒸し暑さがまだ残る8月の午後、事務所で津先は礼文と机を挟んで向かい合っている。

机の上には、新聞記事の切り抜きと、この事務所宛の封筒が並べられていた。


封筒の送り主は松木呉羽、北原福子、南方実篤だ。


津先が受け取り礼文に渡した封筒ではあるが、大量に送られてくるので、誰からのものかなど、いちいち記憶に止めてはいなかった。まして、その名前を事件と結びつけるなど、これまで津先はしてこなかった。


しかし今日、津先はこの封筒が事務所に送られてきた意味と、神代細胞に関わる一連の事象を礼文から教えられる。それは彼を絶望の淵に突き落とした。


「一家皆殺しの3件の事件、

 その被害者たちが殺害される直前、ここに手紙を出している。

 これで、君に関わりがないと言えるかね? 

 いまさら辞職しても手遅れだ。事務所と個人箱の名義人は津先敏文だからな。

 そして君は[真世界への道]の講師として大勢の前で教えをとき、

 新たな会員も確保した。その人たちが警察に証言してくれるだろう」



「なんだよ! あんた、俺を騙したのか! 

 騙してこんな事件に巻きこんだのか! 

 犯罪の片棒をかつがされるなんて、就職する時に俺は聞いていないぞ!」

思わずカッとなって、津先は立ち上がる。


そのまま怒りにまかせて礼文を襲おうとしたが

「この……ふぎゃあ!」

杖の鋭い突きが津先のみぞおちに食いこんだ。

そこにある神経叢を直撃されて、彼は膝をつき、丸くなる。


「暴力は良くないな。私に意見があるなら、きちんと口頭で伝えてくれ。

 それでも君が暴力をふるうとなれば、

 私も自衛のためにこのステッキで対抗させてもらう」


(丸腰の相手を痛めつけて、それはないだろう……卑怯者。殴ってやりたい)


心の中だけで彼は反論したが、打撃の影響で身体が固まってしまい、津先は息さえできない。その苦痛が津先の怒りを削り、代わりに恐怖を育てていく。


(でも、腹を思いきり突かれて、立ち上がれない。

 それに……俺は喧嘩が苦手だから……

 たとえ同じ杖を手にしてもこいつにはかなわないだろう。従うしかない)


まだ体を伸ばすことさえできない、うつむいた姿勢でいる津先の上から、礼文の声が降ってくる。


「君の講演に興味を引かれて会員になった人たちも、

 この事件の関係者になってしまったわけだ。

 いまさら真実を暴き立てたら、彼らは君を恨むだろうな」


津先は、講演会参加者たちの顔を思い出した。知的好奇心を満たし、同好の士と知り合えて喜んでいる顔。それが憎悪に変化し、自分のことを取り囲んで糾弾するところまでを、彼は想像した。


「それは嫌だろう? ならば黙って働け。

 彼らの心が平安であるために、この仕事を秘密裏に進行させるのだ」


津先は肩を落とし、うなずいた。


「よし。今日、次の実験台候補が来る。

 君は私と同席し説明のしかたを覚えろ。そして、水晶細胞の投与も君が行え。

 これは[真世界への道]を発展させるために必要な仕事。

 つまり上級会員として君が行わなければならない仕事だからだ」


「……俺は……世界史の教員で……医学は……専門外……」

なんとか拒否しようと、津先は息が苦しいのを我慢して、必死に言葉を絞り出す。


しかし、

「なに、ごく簡単なことだ。特殊な技術はいらない、誰にでもできるような

 ……普通の作業だよ。

 もっと高度なことを、なにげなくやってのける

 [普通]の男もこの仕事に関わっている。

 彼は君よりも学歴が低い。たかが小卒の男だ」

礼文は津先の反論をはねつける。その顔には複雑な笑みがうかんでいた。


「君は師範学校を卒業している。

 それなのに、小卒の男より自分は能力が低い、とでもいうつもりなのかね?」

「っ!……」

自尊心を傷つけられ、津先は激しく首を横に振る。


「違うというなら、それを証明してみたまえ。投与を行うと約束しろ」

「……はい……やります」

こうまで言われて、津先は、うなずくしかできなかった。

その結果、彼はさらに苦しい立場に追い込まれる。





津先の前に、大きな椅子がある。そこに、意識を失った実験台が身を預けていた。その人物に飲ませた紅茶に、薬を入れたのは津先だ。


ゴム手袋をはめた手で、礼文は実験台の耳たぶから通常の飾り石を取り、紫色の石に付け替えた。慣れた手つきで実験台の両手首にも麻酔注射を打つ。

「さあ、投与を始めよう」


礼文が印刷室から連れてきた少年は、津先にはあきらかに異常と見えた。人形のように整った顔は美しい。が、その目は光をあびて一瞬だが藤色に光る。そのうえ、同じ色の角が額から生えていた。実験台に与えられた飾り石は、この角を砕いたものだと、津先は説明された。しかし、その痕跡はない。神代細胞が傷ついた角を修復したそうだ。


姿だけではなく、精神状態も常ではないようだ。礼文の話では何度もひどい傷を負わされているはずなのに、水晶という少年はまったく抵抗する様子がない。苦痛をうけることがわかっているのに、礼文の命じるままに椅子の前に立ち、両手をそれぞれ肘掛けに乗せる。


礼文は実験台がだらりと垂らしている手を取り、水晶の手の上に重ねた。

そして津先のほうに振り向くと、笑みを浮かべて説明する。


「簡単だ。ただ釘を打ち、二人の手を貫けばいい。

 手の甲に2回打って、釘抜きで引き抜く。

 合計4回の簡単な作業だよ。そうだろう?」


渡された金槌と五寸釘を手に、津先は立ちすくんだ。


少し片足を引きずる足音と杖を突く音とが彼の横を通って背後に移動していく。なすすべもなく、彼はそれを聞いている。両手にはめたゴム手袋の中に、自分の冷や汗が溜まっていくのがわかる。


ヒュン


背後でステッキの風を切る音がした。今はただ振られているだけだ。しかし、もたもたしていれば、ステッキが自分の背を打つかもしれない。その恐怖が、他者を傷つける罪悪感に勝った。

津先はついに五寸釘の先端を実験台の手に当てる。


ヒュン


また、背後で風を切る音がする。催促されていると、津先は思った。


「えい!」

気合を入れて、津先は金づちで釘の頭を叩く。

怖いので当たる瞬間は目をつぶった。しかし、


ゴツ


音が鼓膜を振動させ、釘を支えている津先の左手が嫌な感触も伝えた。その意味を彼の脳が分析し、目が見ていもしない映像を勝手に制作してしまった。


釘の先端が皮膚を破り、骨の表面を滑った場面が、脳内のスクリーンに大写しされる。普段鍛えた妄想力が、津先を苛んでいた。


それから逃れようと彼は目を開いた。だが現実の光景も、妄想に劣らず恐ろしいものだった。


「おいおい。少しずつ打ちこんでいたら、麻酔が切れてしまうぞ。

 そうしたら、実験台はものすごく痛がるだろう」

からかうような調子で、礼文が背後から話しかけてくる。


それに反応して振り返ることはできない。傷口の周りにあふれてきた真っ赤な血から、津先は目が離せなくなっていた。


「水晶の神代細胞が体に入れば、傷はすぐに修復できる。

 しかし、実験台だけ傷つけたなら、普通に怪我をしたのと同じだ。

 早く手のひらを貫いて、

 水晶の手のひらまで釘を打ちこんであげたほうが、

 苦痛を少なくできるのだよ。

 優しさがあるなら、一息に打ってやったほうがいい」


津先はそれだけ言われても、もう一度金づちを振り上げることができない。ただ硬直している。


「返事は?」


ヒュン


冷たい声と風切音が津先の背中を押した。


「は、はいっ。やり……ます」

服従の意思を言葉にしたことで、己の行いが規定された。津先の体から硬直が解け、動き出す。


振り上げるのはゆっくりだったが、

「えい!」

振り下ろす勢いは早かった。


ゴキ


釘の先端が手の甲を刺し、骨を割る。


「ぎゃああああ!」

悲鳴をあげたのは実験台ではなく津先だ。


ゴキ ゴキ ゴキ ゴキ 


「……あうっ、あ……ああ……」

まるで自分が痛みを受けているようにうめきながら、津先は金づちを振るい続ける。



礼文は足を進めて津先の横に回り、彼の表情を観察した。血の気がひき、失神寸前と言った有様だ。


「そのくらいでいいだろう。さあ、引き抜いてやれ」

テーブルを礼文が指し示すと、関節が強張った、ぎくしゃくした動きで津先は道具を取りに行った。


彼を観察しながら、礼文は考える。


(人間の心には、同族に暴力を振るうことを抑制する仕組みがある。

 だから抑制を外すために、軍人は日々鍛練し、教育を受ける。

 そのような手順をふむことによって、

 軍人は敵の血を流すことに慣れ、そして殺せるようになる)


(しかし、心を鍛えていても

 夜には自らの残虐な行為が悪夢となって甦り、苦しむこともある。

 肉を使った料理が死体を連想させて、食欲を失うこともある。

 食べなければ身体が持たないと理解していても、

 胃が食物を拒否するのだ)


(私もワーニャも他の兵士も、初めて敵を殺したときは吐いた。

 この津先も、まだ殺すまでにいたらない、

 ただ傷つけているだけなのにもかかわらず、

 悲鳴をあげ、真っ青な顔をしている。吐くかもしれない)


床が汚れることを一瞬危惧したが、礼文は津先に掃除させればいいと思い、思考を続ける。


(しかし、音矢という男はとんでもない男だ)


瀬野の話によると、新田音矢は毎日笑顔で暮らし、睡眠も食事も充分とっているらしい。


(やはり、あいつの性格、人格は歪んでいる。

 こともあろうに、死体から取れた水晶細胞を食らったことで、

 あの回収石を作るきっかけをつかむとは。まさに悪魔の所業だ)


報告書を一読したとき、礼文は裏に隠されたおぞましい意味に気付かなかった。

それは音矢自身が、まったくこだわっていないことだからだ。


彼は動物性の食材というものを、加工された死体だと考えている。だから同じように死体から取れた神代細胞を口にすることに不快感を覚えないばかりか、ごく普通のこととして行い、音矢は平然と報告書を作成したのだ。


礼文は改めて読み直したときに、やっとその意味に気付き、戦慄した。

滑稽な状況だと笑った、水晶細胞が鼻に詰まった状況のおぞましさも、今になって理解できた。


あの、ヒルかウジのような動きで、胃から食道へ這い上がってくる感覚を、自分が体験しているような気分になる。


(しかし、悪魔の冒涜的な行為によって作られた物が、

 私の……いや、そんな狭い範囲だけではない。

 人類すべての役に立つ物であるとは。皮肉なことだな)


礼文のように、その正体を知る人々から忌み嫌われる神代細胞を、音矢は[回収石]という役立つ物に作り替えた。



――これは、

 嫌われ者(の神代細胞)が(回収石となって)更生する物語――




(今回の実験台から採取されるであろう神代細胞は、

 あの男が使いやすいように、また切り分けてくれるだろう。

 前回のものと合わせ、保管しておこう。

 そしていつか忠実な兵士がそろってから彼らに投与しよう)



手持ちの神代細胞ではなく、水晶から直接感染させるという、これまで通りの野蛮な投与法を強制するのは、津先の精神を支配するためでもある。


津先がいままで保持していた常識では禁じられていたことを無理やりやらせ、その結果破壊された精神を、礼文にとって都合のいい形に作り替える。



かつて均分主義活動家となるときに、レフとワーニャはそれまで信仰してきた神を穢し、愛する家族から訣別することを要求された。既成の社会常識を棄て、活動家として新しく生まれ変わるという決意を表明するためだ。

それが効果的だと実体験として知っているがゆえに、礼文は津先に残酷なことをさせる。そして神代細胞の実験台には家族を殺させる。



それは瀬野が失敗した[お試し]と原理は同じだ。

恐怖や嫌悪を乗り越えて[お試し]を成功させた者は称賛し、誇りを持たせる。その誇りを利用して次の段階、人格の根本までを改造する苦しい調教を受けることを自ら望むように、思考を誘導する。失敗した者は、周囲の期待を裏切ったという罪悪感を植えつけ、半人前としてあつかわれることを受け入れさせる。



人の行動を支配するために確立された方法論は、洋の東西を問わず似たようなものだった。


しかし、異なるところもある。

音矢は優しさで、瀬野の一族は誇りと罪悪感で他人を操ろうとする。

この二つに比べて、礼文の方法は単純だ。





――そして、これは――





礼文は暴力と恐怖で人格を破壊し、その心を礼文の提供した鋳型に入れて再構成する。いわば魂の殺人、そして復活の儀式だ。





――死霊術師が屍を操る物語――




破壊される工程で個人の持つ能力は低下するが、仕上がりが簡単で手早い。


そのうえ、これは破壊する儀式と形を整える鋳型を、あらかじめ設定してやれば、誰にでもできる方法だ。だから、音矢のような観察力をもたない平凡な人間たちでも、すぐに指導者役を務めることが可能だ。組織を一気に立ち上げるには、こちらのほうが有効だった。


自由な心を殺された津先は、いずれは己と同じ、[屍傀儡]のような仲間を増やしていく。それを率いるのは礼文。まさに礼文は物語に登場する[死霊術師]のような存在になろうとしていた。




津先は最後の釘を抜き、その場にへたりこんだ。

その目の高さに、彼が行った行為の結果がある。


実験台の手にあけられた穴から水晶の細胞があふれ、手の甲を覆っていく。半透明な細胞を通して、皮膚を汚した赤い血が見えた。それがじわじわと消えていく。血液を水晶細胞が吸収しているのだ。


治っていく傷口から目をそらし、津先は実験台の顔を見た。そこには幸せそうな表情が浮かんでいる。

やがて、目を覚ましたら、実験台は津先に礼を言うだろう。


『望みを叶える薬をありがとう』

と。


そして、事務所を出た実験台は、望みを叶えに行く。それはまた、猟奇的な事件が起きるということだ。津先は恐怖したが、どうすることもできずに、ただ眠る実験台を見つめていた。





次回へ続く





少しお休みをいただいて、

次回は 10月4日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。

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