第八話
水晶細胞の実験で酷い目にあった音矢は、翡翠細胞の方を調べてみることにした。
「この細胞が改良した制御石の原料だ」
翡翠は先日作って保存しておいた瓶を手に取り、作り方を説明する。
「折れた角の一部を君に与えると、
空間界面の制御が可能になることは、孤島でわかった。
しかし、角を折るのはとても痛い。
だから、あらかじめ分離してあった細胞で作ることを思いついた。
そして、君の提案通りに、空間界面をつなげて紐状になるよう調整した」
両手のひらで細胞入りのビーカーをはさんで、翡翠は見本を見せる。容器に入れるのは、皮膚からの吸収を防ぐためなので、生理的食塩水は使わない。
「こうやって目を閉じてから、
空間界面をどのように使いたいのか、
どういう形にするかを頭の中で思い浮かべる。
疲れたら休む。
それを繰り返していると、水分が抜けて肉眼でも緑色に見える制御石になる。
完成するまでには約2週間くらいかかる。
日付の概念は音矢くんが教えてくれたから、わかるようになった」
「なるほどねえ」
音矢は瓶に手を伸ばした。
「僕にもできるか試してみましょう。ちょっと貸してください」
翡翠細胞を二つに切り分け、それぞれをビーカーに入れる。
「同時に始めましょう。せえの、はい」
音矢は掛け声とともに目を閉じ、空間界面が展開するところを思い浮かべる。
セミの声を聴きながら、精神を細胞に集中させてみたが、しばらくして、飽きてきた。
「ふう、どうなったかな?」
目を開け、ビーカー越しに観察してみた。
「あ、翡翠さんのは、薄く緑になってきてますね。
目を近づけなくてもわかる。
僕のは……ぜんぜん変わっていない。慣れていないせいかなあ?」
翡翠も両方を見比べて、彼の意見を述べる。
「脳に混じっている神代細胞量の差が、影響しているように思える。
それは、ボクと音矢くんの空間界面発動条件に差があるのと同じことだろう」
音矢の空間界面は、発生直後の強度が不足しているので、固体に触れると壊れてしまう。そのため、音矢はその場で跳ねて、宙に浮いた状態で展開する。
翡翠の空間界面は最初から充分な強度があるので、床に触れた状態でも、彼の体を持ち上げるようにして形成される。
「音矢くんや他の実験台のように、
成人してから投与された者は脳の表面に神代細胞が付着しているだけだ。
だが、ボクや水晶の脳は人体由来と神代細胞が変化したものとが
モザイク状になっているから神代細胞量が多い」
「それは、どうやってわかったんですか?」
「かなり複雑な工程だったな。ええと…………
まず、二酸化炭素からドライアイスを…………
エルワシー・ヘンダーソン式の機械で作成する……」
翡翠は宙に視線を向けて、丸暗記したらしい文章を口にする。
「……神代細胞を麻痺させる目的で……
脳組織切片をドライアイスで冷却し、
……氷点下の………………固定液を浸透させて脱水し、
パラフィン包埋をおこなってから……
さらに薄片処理をしてSS染色法の後、
顕微鏡観察する……神代細胞と人体由来細胞は染色の反応形が異なり……」
その言葉には、不穏なものが混じっていた。音矢は翡翠に問いただす。
「ちょっと待ってください。
つまり、顕微鏡で見るために、脳を切り出したのですか?」
「ああ、そうだ。父が被験者を生体解剖した。ボクも、ほら」
水兵帽をずらして、翡翠は指で髪の毛をかき分ける。
「ここやここに穴をあけた跡があるだろう」
その無残な傷痕を見て、音矢はたじろいだ。
「うあっ! そんなことをして、命に別状が……あったら死んでますね」
「何度も採取して、そのたびに神代細胞の割合が増えていると
研究日誌に書いてあった。
切り取られた部分や、空間界面で休眠するときに酸素不足で傷ついた脳を、
神代細胞が補綴したんだ。
だからボクに脳損傷による機能障害はないそうだ。
不幸中の幸いというやつかな」
帽子をかぶり直し、翡翠は過去を語る。
「聞けば聞くほど、ひどい話だな……」
ぞっとした音矢は、自分の頭をまさぐる。
「そして、お聞きしたいんですけれど、
僕の脳の表面を観察するために……頭に穴をあけたんですか?」
毎日の洗髪でも、特に頭皮に異常を感じてはいなかったが、音矢は確認せずにいられなかった。
「いや、震災前に父が実験した結果から類推した。
ボクにも瀬野さんにも、脳外科手術の経験がない。
だから、失敗すると困るので君の頭はいじらなかった」
「ああ、それなら……よかったです」
安心した音矢は、新たな疑問を感じた。
「翡翠細胞は体の修復はできないんですよね。
なのに、脳の補綴はできるんですか?」
「そのようだ。ボクの神代細胞は分裂増殖して
脳や神経細胞、赤血球や、白血球に擬態し、
補綴できるが、それ以外には変化できない。
他の部分にも神代細胞はモザイク状に混じってはいるが、
皮膚や筋肉細胞に分化したせいか、
元の神代細胞に戻って傷を治すような働きを失っている。
逆に、水晶細胞は人体組織の損傷を速やかに修復するが、
空間界面は発生できない」
「なぜですか?」
「わからない。日記の記述からすると、
父もそれを疑問に思っていたようだが、答えを出す前に死んだ」
「これからの課題がまた増えましたね」
音矢は翡翠の部屋を見回して、質問する。
「ドライアイスを作る機械はここにありますか?」
「いや、ない。大型の機械や顕微鏡は、
研究資料とともに、礼文がほとんど持ち去った。
残されたのは神代細胞採取機と、電熱器や上皿天秤などの小物だけだ」
答えは、音矢を失望させた。
「そうですか。ドライアイスがあったら、アイスクリームが作れるのに……」
「本当か! 作れないのは残念だな。
銀座で食べたクリームソーダはうまかった。
炭酸はむせるが、浮いているアイスクリームはまた食べたい」
氷屋は駅前商店街にあり、レンガ状に固めて紙箱に詰めたブリックアイスクリームも売っている。しかし、真夏の暑さでは、アイスを買っても貸家までの2,5キロの道のりを経れば溶けてしまう。かと言って翡翠を駅前まで歩かせるのは体力的にまだ無理だ。音矢にとっても、翡翠をおぶって往復で合計5キロ歩くのはきつい。
音矢は瀬野の状態を思い浮かべた。彼女はだいぶ弱ってきている。
(そろそろ、頃合いかな。こんど定期監察に来たとき、仕掛けよう)
彼は瀬野を利用する計略を実行することにした。
「ところで、この木箱の中身はなんですか?
あっちのには神代細胞の瓶を入れてあると、こないだ見せてもらいましたけど」
音矢が箱の一つに近づこうとすると、翡翠はあわてた。
「それを開けてはダメだ!」
「なんでですか?」
翡翠は少し考えてから、口を開いた。
「それには[あること]に関する物が入っているんだ……」
「ああ、瀬野さんと、それについては話さないと約束したという、
アレですか。なら、開けないでおきましょう」
音矢がそう答えると、翡翠は安心したのか、軽く息を吐いた。しかし、音矢はだいたい中身を予想できている。それは毎回瀬野が車で持ってきて、音矢が書斎の入り口まで運んでいる箱だからだ。そして、古いほうの箱を車に入れる作業も彼は行っている。箱の大きさ、重さ、そしてゆすった時にたてる音から、彼は中身を推理した。
(計略が成功したら、
機会を見計らって[あること]の件も瀬野さんにぶつけてみるかな)
音矢はそのときに彼女があわてる様子を想像して、ほくそ笑んだ。
次回に続く
次回は 8月 2日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。




