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第五話

動きやすいように音矢は着流しの裾をまくって帯に挟みこんだ。これは[尻をはしょる]と言われる姿だ。

そうしてから音矢はクヌギの木を見上げた。ほぼ真上からの夏日に目を細めて、枝ぶりを観察する。


「あれがいいかな」


高いところで二股に分かれた枝を、彼は見つけた。


「よっと」

音矢は身軽にクヌギの木をよじ登っていく。


目的の枝に手が届くところまで来た。彼はその枝を片手でつかみ両足で幹をはさんで体を支えた。あいている手で、耳の後ろに貼りつけておいた飯粒の塊を枝の分かれたところになする。次に単衣の袂からセミを取り出し、飯粒に押しつけて枝に固定する。そのセミは中途半端に脱皮した状態で死んでいた。





普段は朝の7時くらいに起床する翡翠だが、その日はなぜか夜明けごろに目が覚めてしまった。


朝食までの時間を持て余した翡翠は、[萬文芸]の随筆で覚えた散歩ということをやってみたくなった。

しかし迷子になるのはもうこりごりだったので、家が見える範囲で、雑木林の中を歩き回る。


やがて、翡翠はセミの幼虫が手の届くところの枝にとまっているところを発見した。その殻は割れて、わずかな隙間からやや色の白い新しい背中が見えている。


興味を引かれた彼は、それを無造作につかんだ。家に戻るとセミをちゃぶ台の上において、脚や触角をつついたり、腹側を見るためにひっくり返したりと、いじくりまわした。


やがて、音矢が起きてきたので、翡翠は得意げにそれを見せた。


音矢はなぜか悲しそうな顔をする。

「……羽化の最中に刺激を与えると、よくない結果になるんですよ」


彼の言葉通り、セミは殻から抜け出ることができず、昼前には死んでしまった。暗い土の中で長年過ごし、やっと外に出られたのに、大空にはばたくこともできず、命をおとしたのだ。


自分がやってしまったことの罪を自覚し、翡翠の目から涙がこぼれた。


せめて空に近いところに葬ってくれと、彼は音矢に頼んで、木の高いところにある枝に死んだセミを置いてもらった。


木から降りてきた音矢は、しょんぼりしている翡翠を慰める。

「まあ、こうすれば、カラスが来てくわえていくでしょう。

 そうすれば、死後とはいえセミは飛べますね」


音矢の言葉で、少し気が楽になった。しかし、翡翠の心にはその体験が深く刻みつけられた。






昼食の片付けを終えてから、音矢は神代細胞についての聞き取りを翡翠に頼んだ。自分が知りたいという理由もあるが、翡翠の気持ちをセミのことからそらしてやりたいという意図もある。



ちゃぶ台に手帳を広げ、音矢は鉛筆を構えた。

「エーテルエネルギーの反応を感知する仕組みって、

 どうなっているんですか? 

 離れたところの暴走患者の位置を探るって、

 普通の科学ではかなり難しいと思うんですが」


1930年〔光文5年〕には、電波の反射を利用して航空機や船舶の探知を行うレーダー装置は、まだ実用化されていなかった。


「どんな仕組みかはわからない。

 なんだか遠くの方でチカチカ光るように感じるが、

 それは目ではなく脳で感じられる……その感覚をどう表現するか…………」

翡翠はしきりに首をひねるが、次の言葉が出てこない。


しょっぱなから行き詰っては困るので、音矢は質問の方向を変えた。


「水晶さんにも、神代細胞はあるんでしょう? それもかなり大量に」


エーテルエネルギーは脳を通じて神代細胞に供給される。その量は、感情が高ぶったり、精神を集中して思考したりすることで増える。そして、同じ精神状態でも神代細胞の量が多ければエーテルエネルギーの量は増える。だから、神代細胞が暴走寸前まで増殖すれば翡翠は距離があってもエネルギーの反応を感知できる。

そこまでの知識は、暴走患者を始末する際に音矢にも与えられていた。


「直接、その反応を追って探すわけにはいかないのですか?」


翡翠は横に首を振って答える。

「それが、全然感知できない。

 どうも、彼の神代細胞……というより、

 精神活動の水準が低下しているようなんだ」


「なんででしょうかね。翡翠さんは元気なのに。

 もともと活動意欲が低い人だったんですか?」


「いや、彼はボクと違って人としてあつかわれ、

 研究員に混じって活動していた。

 暴走の結果死亡した実験台から神代細胞を回収するのも、彼の仕事だった」


「回収……そうだ」

音矢は別の疑問も思い出す。


「暴走した患者から、どうやって研究者さんたちは身を守っていたんですか? 

 錯乱して暴れたり、神代細胞が飛び散ったりしても、

 あんな小さな島では逃げ場がないのに」


「最初のころは深い竪穴に実験台を入れて、上から双眼鏡で観察していたそうだ。

 暴走の結果実験台が死亡したら、

 新しい人体を求めて神代細胞は上に這い上がってくる。

 それをゴム手袋をはめた手で捕獲して瓶に詰めたようだ。

 しかし水晶が成長してからは、彼の手によって安全に回収できるようになった。

 それで、地震が起きたころの実験台は竪穴ではなく、

 観察しやすいように檻へ入れられていた。

 至近距離からの写真撮影も行われていたが、

 その資料も礼文に持ち去られている」


「まあ、僕は暴走までの経過をこの目で見たから、写真の必要は……あれ?」


音矢は研究所近くの風景を頭の中に描く。

「そんな大きな竪穴は、孤島になかったんですが?」


「たしか…………」

翡翠は、しばし考えてから答えた。

「そうだ。

 研究日記によると使わなくなった穴はゴミ捨て場にされたようだ。

 ゴミで満たされて浅くなってきた穴は地震のときに崩れて、

 そのまま埋まってしまったらしい。

 安全に実験する方法は、君たちをつれてくる前に瀬野さんにも聞かれた。

 今言ったことを伝えると、彼女は自分も使おうとして竪穴を探した。

 しかし、草むらに埋もれて位置がわからなくなっていた」


「ということは、

 瀬野さんが孤島を訪れたのは関東大震災から

 だいぶ経ってからのことですか……」

相槌を打ってから、音矢は今日聞くべきことを思い出した。


「すいません、話がそれてしまいました」

音矢が質問をやり直すと、翡翠もそれに沿った答えを語る。



「エーテルエネルギーの反応も、

 ボクや投与された実験台の位置を、

 離れた場所から水晶が感知したことで証明できたと

 研究日誌には書かれていた。

 しかし孤島での漏出事故の後、水晶は普通ではなくなっていた。

 様子を見に来た瀬野さんが話しかけても、

 オウム返しの反応しかしなくなっていたんだ」


「事故のとき、

 研究員さんが殺し合いをしたり、自殺したりしたと言ってましたよね。

 それを見たせいでしょうかね……もうすこし詳しく状況を教えてください」


「関東大震災の影響で一部の瓶が破損したことによる漏出事故が起きたとき、

 ボクは錯乱した研究員に襲われたので空間界面を使って身を守った。

 そのまま解除しなかったので酸素不足で気絶して休眠し、

 しばらくして目が覚めたときには研究員たちは全滅していた。

 ボクは歩き回って調べたが、水晶以外の生存者はいなかった。

 発見したとき、彼は部屋のなかでボーっとしていた。

 それからずっと同じ状態でいる」


「たぶん、襲われた衝撃で、心がひどく傷ついてしまったんでしょうね。

 激戦を生き延びた兵隊さんにも、

 似たような症状がでることがあるそうですよ。

 全部そうなるわけではなくて、

 翡翠さんみたいに症状が出ない人もいるけれど、

 それは人それぞれの個性が影響しているようです」


納得した音矢は、次の疑問を口にする。

「翡翠さんは、

 どのくらいの範囲でエーテルエネルギーの反応を捕らえられるんですか?

 限度はわかりますか?」


「どこまでかは実験しないとわからない。

 現在わかっている範囲は……どのくらいだろう? 

 日記には、水晶を船に乗せて調べたと書いてあったから、

 孤島全体より広い範囲で関知できるようだが……

 そこに書かれていた数値をボクは覚えていない」


音矢は、翡翠が孤島にいたころは算術を習得していなかったことを思いだし、かわりに計算してやることにした。


「僕が歩いて測った結果だと……」 

手帳をめくって、孤島にいたときに作成した地図を見る。

「研究所のある島は半径が約1,5キロでした」


次に、音矢は帝都の地図を出す。それにはこれまで始末した実験台のいた家を、黒いバツ印で記入してある。


「呉羽ちゃんの家と貸家の距離は7キロ。

 福子さんの家は8キロ。実篤さんの家は9キロ……

 なんか、じわじわと距離が離れてますね、

 それも、この貸家を中心とした円の範囲で」


その事実が示す意味に気がつき、音矢は興味を覚えた。しかし、それを翡翠に言っても理解できないだろう。

(これは、瀬野さんにぶつけるべき話題だな)


他にもいくつか疑問に感じていたことを音矢は質問し、翡翠の答えを手帳に書き取る。


そのうちに音矢は視野の端になにかの動きをとらえた。彼は下に目をむける。動いていたのは翡翠の手だった。どうも、無意識に畳のケバをむしっているようだ。

(そろそろ翡翠さんの集中力が切れそうだ。今日の質問はこれで最後にしよう)


「それから、[萬文芸]で読んだ知識をふと思い出したんですけれど、

 マイなんとかの実験で、

 エーテルの存在は現代では否定されているらしいですが」


19世紀初頭の物理学において、空間は光を伝える媒質であるエーテルに満たされていると考えられていた。

その存在を確かめるために1887年、アルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーは干渉計を使った実験を行った。しかし、彼らの実験結果はエーテルの存在を否定するものであった。


「そもそも、神代細胞の使うエーテルエネルギーって

 どんなものなんですか?」

「わからない」

「ああ、それも覚えていないんですか。

 やっぱり礼文を捕まえて、資料を返してもらわないと……」


「いや、研究日誌に、

 神代細胞の使うエネルギーは何か、わからないと書いてあったんだ」

「ええ?」


とまどう音矢に、翡翠は説明する。


「明らかに、

 普通の細胞がブドウ糖から得るエネルギーとはケタ外れの量を

 神代細胞は使っている。

 しかし、その発生源がわからなかったらしい。

 それで、とりあえずエーテルエネルギーと名付けたそうだ」

 

「あれは仮称だったんですか!

 でも、なんでそんな、存在を否定されたものを由来として

 名前をつけたんですか」


「さあ……意味までは書いていなかったな」


「それも、神代細胞にかかわる謎の一つですかね」




音矢は手帳を読み直し、これまでの総括を行う。

「つまり……お父さんたちが行っていた研究は、

 土台も土台、基礎研究をするための技術を作る研究だったわけですね」


「そういうことになるな」

翡翠はうなずいた。


「その成果は……」

音矢はまとめを箇条書きにする。


過去の研究で得られた成果は

・神代細胞の、おおまかな特性を把握。

・実験台に神代細胞を投与してから暴走にいたるまでの経過観察記録。

・神代細胞と人体由来の細胞を見分けるための染色法発明。

・翡翠と水晶から細胞を、簡単かつ安全に分離するための機械開発。

・水晶によるエーテルエネルギー反応感知の発見。


研究の副産物として開発されたのは

・暴走した実験台を始末するためのリベットペン。

・エーテルエネルギー反応を調べるさいに必要な、

 互いに距離を置いての会話手段としての、乾電池式小型電波送受信機。

・機密書類を焼却するための薬品。


「これだけか……」

音矢は手帳を閉じた。

「ようするに、根本的なことはなにもわかっていないということですね?

 エーテルエネルギーの発生源も、神代細胞の由来も制御の方法も。

 そして、実際に役立つ成果は反応の感知と、

 空間界面のちょっとした応用だけ」


音矢は以前に読んだ[萬文芸]の特集記事を思い出す。それは電気工学の歴史をわかりやすく年表にまとめたものだった。


「神代細胞の研究を電気技術の発展に例えると、

 今みたいに

 電球や電信や電熱器、モーター、ラジオなどの

 便利な道具を作れるところまでには達していない。

 基礎理論となる原子モデルの概念も無ければ、

 それを裏付ける証拠となる電子や陽子なども発見されていない」


1930年〔光文5年〕の時点では、まだ中性子は理論的に予想されているだけで、その存在を実験で証明されていなかった。


「せいぜい

 平賀源内がエレキテルを見世物にしていた時代くらいの

 段階だということですか……


 ……こんな初歩しかわかっていないのに、

 こぼれた細胞を回収するにも翡翠さんの手作業に頼るしかないのに、

 人類に危険を及ぼすような実験を

 多数の市民がいる帝都でやらかしてくれてるんですか。礼文は……」


音矢は肩を落とした。





次回に続く




次回は 7月 12日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。

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