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第三話

「神代細胞の実験が始まってもう4カ月近くになる。

 しかし、君が担当している翡翠側ではなにも研究に進展がないな。

 ただ水晶側の実験台を後手に回って始末しただけだ。

 たいして役に立たない空間界面の改良などしている暇があったら、

 積極的に水晶細胞の基礎研究でもやってもらいたいものだ」

入谷弁護士は、机を指で叩く。これは彼のクセだ。


「これでは後援してくださる軍関係者、

 そして神代細胞の持ち主である須佐伯爵家にも顔向けができないよ」


このとき、機密を聞かれたくなかったので、入谷はあらかじめ助手の弁護士である戸越と、事務員である大葉には別の仕事を言いつけて人払いをしてある。なお、1930年〔光文5年〕にはセクシャルハラスメントという概念がまだないので、年頃の女性と男性の上司が同室して、扉を閉ざしていても批判はされない。


「君は管理者として、どう指導しているの?」

「……申し訳ありません」

瀬野はうつむいて答える。音矢に対する時とは違い、神妙な面持ちだ。


「私は謝れとは言ってないよ。管理体制の確認をしたいと言ってるの。

 そしてきちんと彼らを指導して結果を出せと求めているの」

机を入谷の指が激しくたたく。


だが、瀬野は

「それは、その、私は……」

しどろもどろな返答しかできない。


入谷は机をたたくのをやめ、額を押えてしばし考えてから、口を開いた。


「これでは君の責任を問わざるを得ない。

 ご実家に頼まれて預かったが、やはり君にはこの仕事は……」


「待ってください! 成果は上がっています!

 このとおり、私が命じて研究報告を書かせました!」

瀬野はあわてて、愛用している大きな革バッグから音矢の書いた研究報告書の1号と2号を出した。先日、二回に分けて預かったが、彼の手柄になるのが悔しくて、彼女はそのままバッグに入れっぱなしにしていた。


「そういうものがあるなら、早く出してくれよ……これだから……」

老眼鏡の位置を直し、入谷は報告書に目を通す。

窓から入る光が、毛が生えていない彼の前頭部を照らしている。


立ったまま、瀬野はその頭を見下ろしていた。

神妙な面持ちは変えないが、彼女は心の中で不満を漏らす。

(なんか、小さい声で言った気がする![これだから]、の次に

[女はダメだ]って言ったのかも! ひどい!)




1930年〔光文5年〕、女性の能力は男性よりも劣るという認識が、この時代では一般的だった。


瀬野はそのような風潮に反発して職業婦人になることを望んだが、理想どおりに活躍できるような仕事をあたえてもらえないと彼女は悩んでいた。上司からは、たいして高い評価も得られず、屈辱も感じていた。


報告書を最後まで読み終わり、入谷が顔を上げる。その顔には満足したような表情がうかんでいた。


「うん、とりあえずの成果として認めよう。

 新田君にはさらに詳しく報告をまとめ、

 翡翠くんの研究を手伝うように言ってくれ」

「はい」

瀬野はうなずいたが、素直に従うつもりはない。上に報告書を出したが余計なことをするなと叱責されたと、彼女は音矢に伝えるつもりでいる。


しかし、

「新田君に次の報告書を書かせるのが、君の仕事だからね。

 できないようなら責任を取ってもらう。

 もちろん翡翠君に研究をさせることも勧めてくれ」

入谷に釘をさされてしまった。


「はい」

これでは従うしかない。


「そして、彼らの慰労も頼むよ。

 新田君はもともと荒事とは縁のない呉服屋の店員だし、

 翡翠君は正式な教育を受けていない。

 あきらかに彼らの能力以上の仕事を私たちは押しつけている。

 しかし、どうしてもやってもらわなければならないんだ。わかるね?」

「はい」


瀬野の返事を聞きながら、入谷は卓上電話機に手を伸ばす。この時代の接続は、機械式ではなく人力による手作業だ。交換手に告げた番号は、富鳥邸の離れにひかれている電話機のものだった。


「もしもし、入谷です……

 ああムメさんか。礼文さんは御在宅かな? ……そうかい。ありがとう」


離れ屋敷つきの女奉公人にかける、その声は瀬野に向けられたものよりも優しく聞こえた。

いったん切ってから、入谷は電話を掛け直す。こんどは同じ銀座にある貸事務所の番号だ。






瀬野はその足で礼文のところに報告書を持っていかされた。


「音矢のせいで、研究が進んでしまう……」

事務所の応接室で、瀬野と礼文は向かい合わせに座っている。津先は代休をやったので今日は出勤しない。

「このままでは翡翠くんにも危険が……」


瀬野の恨みがましいつぶやきを、礼文は受け流した。

「そうかそうか。それは大変だな。

 さて、研究報告を渡してもらおう。入谷先生から連絡を受けている。

 こんな重要なものを渡してくれなくては困るよ」


ゴソゴソと、瀬野は鞄から報告書を取り出し、テーブルに置く。


「礼文さんだって、最初は嫌がっていたくせに」

すねたような口調で、瀬野は抗議した。


「うまくいけば、功績を立てられる。報酬ももらえる。

 がんばってみようという気にもなるではないか。

 もし、神代細胞が実用化されれば、

 それを持つ者は物理的なものだけではなく、

 社会においても強い力を得る。


 そして、社会的な力は、改革のための有効な武器となる。

 その研究に尽力するのはとても良いことだろう?」


礼文は椅子の背もたれに寄りかかって、報告書に目を通す。入谷弁護士は、第2号に書いてあることに注目してくれと言っていた。それが気になるので、礼文は1号はざっと目を通すだけだ。そうしながら、彼は善意から発言する。


「私は均分主義者だから、こういうことは言いたくないが、

 やはり、日本人というのは島国根性があるのか、視野が狭い。

 そして女性というものは保守的なようだな。


 君は女である前に新時代の人間なのだから、

 古い日本社会の常識など投げ捨てて、

 新しく生まれようとする価値観を学び、

 ついては地球規模の視野を手に入れ、完全均分な世界を目指すべきだよ」


礼文は、彼女のためを思い、精神の成長をうながすつもりで助言した。だが、それを自分に対する説教と受け取った瀬野は反発した。


「私が日本人とか女だとかは関係ないでしょう! 

 こんな危険なものを人体実験すること自体が間違っていると言ってるの! 

 しかも市街地で! 失敗したら大被害がでるのよ!」


「それを私に言われても困るな。

 私は雇い主の意向で働いているだけだ。実験場所の変更をする権限はない。

 文句があるなら、私の雇い主である富鳥元子爵とその息子、

 あるいは君の雇い主である入谷弁護士。

 そして神代細胞の正式な持ち主である、

 前研究主任の姉にして、水晶と翡翠兄弟の伯母の、

 須佐元伯爵夫人に言いたまえ。

 そもそも彼女が人体実験の強行を命じたそうではないか」


「……言えるわけないじゃない。言ったらクビよ。

 そんなことになったら、実家に迷惑がかかるもの……言えない……

 積極的なストライキはできないから、

 せめて小さなサボタージュをするしかないでしょう……」


共感してもらえるかと思い、瀬野は労働運動で行う抗議行動を口にした。が、礼文はそれを無視し、第2号の報告書を読みふけっている。やがて彼はうなずき、紙束を閉じた。


「しかし、音矢くんとやらは、役に立つ男だな。性格は最悪だが……君とは……」

礼文は苦笑する。瀬野は、彼の目に上司と同じ色を見た。


(やっぱり、こいつも私を見下している。

 なによ、政治活動に負けて、故国を追い出された亡命者のくせに)


瀬野と礼文。二人の会話は一見同格のようだ。それはお互いに敬意をもってのことではない。


瀬野は礼文の出自をもって彼を見下している。

礼文は日本人、そして女性全般を無意識のうちに差別的な眼で見ている。


二人とも相手を下と見ているからこそ、ある意味では平等な立場になっていた。





不愉快な気持ちで瀬野は帰社する。銀座の街を歩く人々は、みな自分よりも仕事が好調で、幸せに満たされているように、彼女には見えた。


ややうつむいて歩きながら、瀬野は孤島の実験時に、食事の支度に失敗して音矢以外の実験台から非難されたときのことを思い出した。


音矢は次から自分が食事を作ることを申し出て、瀬野を慰めた。それはこんな言葉だった。


『女性だからって、家事に縛られることはありません。

 人にはそれぞれ得意不得意があるのが普通です。

 瀬野さんは、家事なんかできなくても

 格闘術とか自動車の操縦技術などの特技があるんでしょう? 

 すごいじゃないですか。そんなこと普通の女性にはできませんよ』


失敗で落ち込んだときにかけられた、優しい言葉。

自分の個性を受け止めてくれた、励ましの言葉。


それを慰めにしようとして、瀬野は気がついた。


(そもそも、音矢が無謀な実験を成功に導いたから、

 どんどん危険な事態になっているんじゃない!

 この混乱を拡大させている張本人に、なんで感謝しなくてはいけないの!)


瀬野がそこまで考えたとき、心の奥深いところから薄黒い不安が浮かび上がりそうになった。彼女は無意識にそれを押しつぶす。


(なぜ、私がこんなひどい目にあわなければならないの……)


そして、彼女は被害者意識に逃れた。加害者として自分が犯した罪と向き合うより、哀れな被害者の立場に甘んじるほうが、瀬野にとって楽だった。


(私は……私しかできないような立派な仕事をして、

 みんなに尊敬してもらいたい。

 私は平凡で没個性な女なんかじゃないと証明して、

 私自身のことを認めてもらいたい、

 ただ、それだけを願っているのに、なんでこんなことに……)


不満を心の中でつぶやきながら、瀬野はつまらない仕事が待っている事務所に向かった。


彼女に与えられた表向きの仕事。

[真世界への道]関係と、一族の厄介者の始末以外の仕事だ。

それは、大葉の指導の下で書類整理を手伝い、事務所の雑用を片づけること。

まったく平凡な、一般女性でもできるようなことだ。瀬野は、そんな普通の仕事には意欲がわかなかった。






今日の彼女は、ちゃぶ台をはさんで向かい合い、音矢の報告を聞いている。


「……そう。物置にあった古新聞がなくなったから、

 古紙屋さんと交渉して、分けてもらうことにしたの……」


「はい。始末の時には車に敷くし、普段の生活でも使いますからね。

 ここに配達してもらえないので、

 商店街の新聞屋で直接買う[公平新聞]だけでは足りなくなってしまいました。

 そういうわけで、[石北新聞]や[真相新聞]も

 古紙として回収されたものを目方あたりの値段で買うことにしたんです。

 これだと、正式に新聞として買うよりずっと安くなります」


音矢はうれしそうに話した。

「これは、翡翠さんの教育にも役に立ちますよ。

 一社だけでは情報に偏りができますからね。

 政府の対応に意見する記事でも、

 比較的中立な立場で書く[公平新聞]。

 唯日主義ご用達の[石北新聞]。

 均分主義者に同情的な[真相新聞]と、

 いろいろな方向からの発言を読むことで、思想が磨かれます」


「あんた、政治関連の記事まで読んでるの?」


彼女も、弁護士事務所に配達される新聞には出社した日の昼休みに目を通すが、真面目に読むのは世間に起きた大きな事件をあつかう三面記事と、芸能情報、そしてさまざまな商品の広告だ。


「せっかく買ったんですから、紙面を全部読まないと損ですよ。

 それに、新聞記事の比較と検証は、探偵術の基本ですからね。あはは」

明るく笑うその顔には、悩みなどなさそうに見えた。


「……ふう……」

それがうらやましくて、瀬野はため息を漏らす。


「今日はなんだか、お疲れのようですね」

音矢は身軽く立ち上がった。


「それでは恒例の食事会といきましょう。

 炊き立ての御飯を食べて、元気をだしてくださいな」

口笛をふきながら、彼は台所に向かう。


それを見送ってから、瀬野は翡翠に目を向ける。彼は少し日焼けして、健康な頬の色をしていた。


(少し前までは、もっとひ弱な姿だったのに)

心の中で比べて、瀬野はさびしくなる。


孤島にいたときは、翡翠は彼女しか知らなかった。だから、彼女は安心して彼をかわいがった。

他に比較する対象がいなければ、彼女が家事を苦手としていることも批判できない。

そして、情報源が彼女だけだから、瀬野は思いつくままに嘘を並べて、彼女にとって都合のいい世界観を翡翠に信じさせることができた。


しかし、状況が変わり、翡翠は孤島から出て音矢の世話を受けている。

音矢は瀬野よりも家事がうまく、その上、彼女が隠している真実を暴こうとしている。

瀬野は翡翠が音矢を尊敬し、自分のことを見限るのではと、不安を抱いていた。


その彼は、寝そべっていた体を起こし、瀬野の隣に座る。肘と肘が触れ合うくらいの距離から、翡翠は彼女に話しかけた。


「瀬野さん、お願いがある」

「なあに……」


(どうせ、もっと自由にさせろとか、文句をいうんでしょう)

そう思ったので、彼女は気のない返事をした。


ところが、翡翠の言葉は瀬野が予想していないものだった。


「音矢くんとボクの意見が対立しているんだ」

「ええ?」


瀬野に向けられた翡翠の目が、一瞬だけ若草色に輝く。彼女はこの特別な瞳が好きだった。その目で見つめながら、翡翠は瀬野に語る。


「その件で音矢くんを説得したいのだが、ボクにはできないので……

 できれば、瀬野さんがボクの味方についてほしい。瀬野さん、たのむ」


思いがけない言葉は、彼女の心に明かりをともした。


(私は翡翠くんに、頼られている)

瀬野はウキウキして、翡翠に問いかける。

「いったい、何でもめているの?」

「実は……」




次回に続く



次回は 6月 28日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。

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