第六話
音矢はラジオの音楽番組を聞きながら縁側に裁縫道具を広げた。季節柄、セミたちの声も響くが、音矢は気にしない。
軽快な西洋音楽を聞き流しつつ、彼は水兵襟の服を改良する。脇の下の目立たないところに縫い代に沿って細長い切りこみを入れ、そこを同系色の絽でツギ当てをする。こうすれば風通しがよくなり、熱がこもらないはずだ。
ちょうど駅前の商店街にある生地屋で夏物の端切れが安売りされていたので、買ってきた。
藪入りの日、母が着ていた着物の生地と脇に開いた身八つ口を見てそんな工夫を考え付いた。シミがついた襟の白線も付け替えて、今度は始末の時に着る作業着の番だ。
音矢がせっせと手を動かしているとき、翡翠が茶の間をぬけて縁側に腰を下ろした。なぜかもじもじとして落ち着かないようすだ。音矢は立ち上がり、茶の間にあるラジオのスイッチを切った。針やハサミを裁縫箱にしまいながら、翡翠のようすをうかがう。
やや間をおいてから、翡翠は口を開いた。
「音矢くん……」
「なんですか?」
「相談したいことがあるんだ」
音矢は翡翠の隣に腰かけ、翡翠がポツポツと話すことばに耳をかたむける。
「瀬野さんの指示には矛盾があり、非合理的に思える。
君の藪入りでもそうだ。
瀬野さんの指示にしたがって音矢くんは行動したのに、
彼女は不服そうだった……
そんな件で、以前から感じていたことがあるんだ」
緊張しているのか、翡翠は小さな手でズボンの膝をいじっている。
「たとえば、どんなことですか?」
音矢はセミに負けぬよう、大きな声で翡翠に話しかけた。
「瀬野さんは、[普通のことができるようになれ]とボクに言う。
でも、ボクが普通の人のように箸を使えるようになったら、
瀬野さんは怒った。
矛盾しているし、非合理的だ」
「ああ、翡翠さん迷子事件の前ですね」
「しかし、その後の食事でも、横濱でカレー南蛮を食べた時も、
箸を使うことを怒らない。
これも前の態度と矛盾している。わけがわからない」
翡翠の理解不足を、音矢はあえて指摘しなかった。
(あれは、瀬野さんがうまく箸使いを教えられなかったことの
八つ当たりなんだけど、
今説明すると、話の腰が折れてしまうからな。
翡翠さんの言葉をそのまま聞いておこう)
「この問題は、それだけではない。
空間界面の研究をボクは進めたいし、
瀬野さんには水晶細胞の実用化を求められている。
……そのためには音矢くんに
もっと情報を開示して協力を求めなければならないとボクは思う。
でも瀬野さんには、
よけいなことを音矢くんに話してはいけないとも言われている。
だからボクは困る」
翡翠はうつむいている顔をあげた。
「でも、ボクは瀬野さんが好きだから……
もっと強く賢くなって、一人前の男として彼女に認められたい」
音矢はその心を受け入れた。そして、ほほえましく思った。好きな人に認められるうれしさを、彼は知っている。翡翠がそれを求めるのは、当然のことと音矢は思った。
「しかし、矛盾を含む彼女の指示に従えば、
ボクのやりたいことができない。成長が阻害される。
だからといって従わなければ、瀬野さんに怒られるだろう」
矛盾している望み。努力を求める望みと、服従を強制する望み。それを同時に押しつけられる苦しみも、彼は知っている。
音矢が努力し、真面目に働いて送金し、戸主としての義務を果たすことを彼の母は望んでいる。しかし、それにかまけて家族の世話をないがしろにしていると、母は音矢を責めた。
藪入りの日、母が身支度する間に寺関係の用事を済ませようと、音矢は出かけようとした。しかし、母は自分が身支度する間に、壊れた棚を修理しろと主張した。それをふりきり、音矢は戸主としての仕事に出かけた。母はそれを不満とし、彼を叱った。
肩を落とす翡翠に、音矢は優しく問いかける。
「翡翠さん自身の気持ちはどちらなんです?
瀬野さんの指示に従った結果、研究が進まなくてもいいんですか?」
翡翠は大きく首を横に振った。
「嫌だ。ボクはもっと空間界面の可能性を引き出したい。
そして、水晶の分も含めた神代細胞を安全に使えるようにして、
暴走による被害を防ぎたい。
でも、ボク一人では今までの延長でしか研究が進められない。
より良い方向に進化するために、音矢くんの知識と発想と技術が欲しい」
「それなら遠慮することはないですよ」
翡翠がその膝に乗せている手をとり、音矢は両手のひらで包む。おずおずと顔を向けてきた翡翠に彼は微笑んだ。
「[やったもん勝ち]って言葉もありますしね。そして、[勝てば官軍]です」
音矢の言葉で、翡翠の目が揺れる。光を受けて瞳が一瞬、若草色に輝いた。
「これは瀬野さんと、翡翠さん、どちらの意思を通すかの戦いです。
怒られるのが恐いからって、
戦いから逃げてばかりでは願いをかなえられません。
瀬野さんが怒ったとしても、丸めこむ方策はあります。
僕が手助けしますよ。僕は翡翠さんの友達で、仲間なんだから」
「ありがとう、でも……」
翡翠はまだ迷っているようだ。
「どうしました?」
「ボクは君に嘘をつかず、きちんと説明したい。
しかし、瀬野さんの指示の一部に約束が含まれていた。
ボクは、特に指定された[あること]を音矢くんに言ったりしないと、
瀬野さんに約束したんだ。
君は、約束を破るのは良くないことだと言っていた。
そして、[あること]とはボク自身も話したくない嫌なことなんだ」
「はい。約束を守るというのは、信用を得るための基本ですからね。
そして、他人にはどうしても言いたくない隠し事をもっているのも、
普通の人間にはよくあることです」
音矢はうなずいてみせる。
「だから、翡翠さんはそれ以外のことを言えばいいんです。
その、[あること]に触れそうになったら、機密だといって黙ればいい。
これは瀬野さんもやっていることだから、かまわないでしょう」
彼の顔に、薄い笑みがうかぶ。
「……翡翠さんが話せないこと以外の証言を集めて、
僕がなんかしら推理したとしても、
それは翡翠さんの関知するところではない。
推理に基づいて僕がなにかしらやらかしたとしても、
翡翠さんには僕の行動を制限する義務はない。
僕の管理は瀬野さんの仕事です」
「よくわからない……」
翡翠は首をかしげた。
「あはは。屁理屈がすぎましたか。
まあ、言いたくないことを無理に言う必要はありません。
誰にだって、秘密を守る権利はあります……
ようするに、[あること]さえ言わなければ、
翡翠さんは瀬野さんとの約束を守れるし、
自分も嫌な思いをしなくてすむってことですよ」
「そうか。それなら安心だ」
明るく笑った翡翠を見て、音矢の心に勝利の実感がわいた。
(あはは。自己都合で一部秘匿するとはいえ、
翡翠さんが隠していた情報を話す気になったぞ。
僕に対する信頼が強まったんだ)
(これまで、ずっとつきそって親切にしまくったかいがあった)
(一人ぼっちの子供のそばに、
いつもいっしょにいて手助けをしてくれる人があらわれたら、
その人になつく。
当然の結果だよ。あはは)
([あること]とはなんなのか気になるけれど、それは後回し。
最初からなにもかも洗いざらい白状しろと責め立てたら、
翡翠さんは拒否するだろう。
欲張っては元も子もない)
(これで、ずっと欲しかった情報が手に入る。研究機関の実態がわかるぞ)
実篤は、天誅を実行するにふさわしい剣を欲していた。
一応、刃渡り14センチの狩猟用ナイフは母にもらった小遣いで手に入れている。しかし、これでは実用的過ぎて、天誅を与えるにふさわしい唯日精神の象徴とは思えなかった。
だが、立派な日本刀を刀剣商に買いにいくには資金が足りない。親や親戚からのお年玉などを子供のころから貯めてきた金は、唯日主義活動仲間との会食に使ったり、関連書籍を購入するなどして使い果たした。かといって、他人に頭を下げるような労働は実篤の性にあわない。
祖父は絵画だけではなく刀剣類も維新のどさくさで手に入れていた。しかし、それは旧南方家の蔵に保管されている。父にたのんでも、たぶん蔵のカギを開けてくれないだろう。
それでも剣が欲しいと思っていると、右の手のひらがむずがゆくなり、半透明の汁がにじみ出てくる。それは盛り上がり、棒のように伸び、固まっていく。最初は手のひらから垂直に伸びていたが、彼が握ろうとすると、根元から柔らかく曲がり、拳に収まった。
(これは……魔術師としての証!)
喜んだが、ただし、手のひらから生まれたそれには刃がついていない。棒きれでは志士としての格好がつかないと思い、実篤は見本を探した。
普段から懐に隠しもっている狩猟用ナイフの鞘を口でくわえて左手で抜き、その刃をじっと見つめる。
意識を集中すると形が整い、硬度も増し、右手から生えた棒は鋭い剣となった。実篤は満足して、ナイフを鞘におさめ、懐にしまった。
「これこそ天が我に授けし宝剣! そが切れ味を庭木で試みん」
半透明の剣を手にし、二階の中廊下に出ると母に会った。木綿の単衣物にタスキをかけ、手ぬぐいを頭に巻いている。掃除の途中のようだ。
あまりにも日常的な姿を見て、実篤は立ちすくむ。次にやらねばならないことを思い出したからだ。礼文から受け取った小冊子には、魔術師となるための試験についての記述があった。
これから彼の素質を見極めるために、天使と悪魔が来る。天使は、なにも知らないふりをして、実篤が[真世界への道]の教えを理解しているか試す。
実篤は天使に自分が一般の常識から解放されていることを証明する。具体的には、天使と悪魔の訪問前に家族を殺害し、その理由を説明するのだ。それは魔術儀式を行うための生贄も兼ねている。
実篤は、自分の家族を憎んでいると思っていた。しかし、なにも知らずに家事にいそしむ母を目の前にすると、その心は揺れる。家族から与えられたのは苦痛だけではなく、優しくされた経験もある。
「実篤さん、それはなに?」
母は、彼の宝剣に目を止めた。
「これは……」
どう説明するべきか。動揺した彼はとっさに動けない。
「ちょうどいいわ。箪笥の後ろにホコリがたまっているの。
掻き出すからその棒を貸して」
断る間もなく、母は無造作に剣を握る。焦った実篤は、反射的に剣をひっこめようとした。それがまずかった。引かれる動きで、切れ味のいい剣は母の指にくいこむ。
「……ああっ」
白い指が、ボロボロと落ちた。血が滴る手を見て、母は硬直し、次の瞬間、悲鳴を上げる。
母の恐怖が実篤に感染し、冷静さを奪った。
耳障りな音を発する元である口に、剣を突き刺す。
喉の奥を破り、途中で骨につっかえた。剣の先端から伝わる感触が、なんとも気味悪い。
母は痛みでもがく。その拍子に剣が抜けた。廊下に転がる母は、喉から流れる血液に溺れ、むせかえる。咳をするたびに、赤いしぶきが飛ぶ。
「どうした、母さん!」
父がフスマを開けて自室から出てきた。
「かっ……母さん!」
あわてた様子で、父が母に駆け寄る。
「大変だ!」
抱き起すが、母の咳はとまらない。血しぶきで、父の着物が真紅に染め上げられていく。
「ああ、実篤! 病院に電話だ! 家に引いておいてよかった!
早く電話で連絡を! 先生に来てもらってくれ!」
1930年〔光文5年〕には、まだ救急車はない。
「どうした! 早く!」
自分のやってしまったことを、実篤は後悔した。それでも、自分の犯行だと気づかず、彼に助けを求める父が疎ましかった。だから、剣を父に振り下ろした。
しかし、気が動転していて間合いが浅い。
切っ先が父の顔面をかすめ、左マブタが縦に裂けた。
反射的に手で顔を覆う父を、今度は腰を入れて切る。肩口から袈裟切りにできた。ゴツゴツと骨を断つ感触に、実篤は慣れてきた。
「これは……天誅だ!」
実篤は剣を水平に構え、倒れてもがいている両親の首に振り下ろした。
まず、すすり泣くような呼吸音をもらしている母の首。
そして「……どうしてこうなった……」とうめく父の首。
「どうして、だと!」
実篤は父の無理解に怒りを覚えた。
「愛してくれているのはわかる! 悪気がないこともわかる!
だが、我が草莽の民を導くときに、あのような記録が残っていては困るのだ!
成仏しろ!」
血の海に浸る、父と母の動きが弱くなっていく。
「我は学業においては人に負けぬものとなった!
しかし、南方家においては、我は永遠の道化師にすぎぬ!
人間としての尊厳を取り戻すためには天誅しかない!」
実篤が吠えていると、姉の部屋のドアが開いた。出された顔が、一瞬にして引っ込み、ドアも閉じる。内鍵を閉める音と、ガタゴトと家具を動かす音も聞こえる。どうやら姉は、立てこもりを決めたようだ。
最後に残った敵を殺すため、実篤は木製のドアを剣で突く。まるで豆腐を刺すように、穴が開いた。
次回に続く




