第五話
実篤が目を覚ます前に、水晶を隠す必要がある。神代細胞を投与された直後は、ほろ酔いのような状態になる。しかし、そんな状態でも、言葉を交わせば水晶の異常性は見抜かれてしまう。初めての実験、呉羽のときにそのことがわかった。
幸いなことに、彼女は14歳の少女で、しかも素直な性格だった。水晶の受け答えがおかしいことも、神秘的な魅力として受け止めてくれた。しかし、実篤がそのように反応してくれるとはかぎらない。
だから、礼文は印刷室に水晶を押し込める。
いつものように、彼は抵抗しなかった。
壁に向かう形で直立し、礼文が連れ出しにくるまで、水晶は同じ姿勢を保っていた。
10時を少し過ぎたころ、一行は横濱に到着した。市役所の近くに車を止め、一行は音矢の用意したオニギリを食べて、軽く空腹をみたす。
幸いなことに、空は薄曇りで、気温はそれほど高くない。そよ風もあり、市内を歩くにはちょうどいい天候だった。
〔昭和〕ではなく元号が〔光文〕となったこの世界の横濱市役所には、市の様々な記録が展示されている資料室があった。音矢は瀬野と翡翠をそこに案内した。壁に展示された写真の前に、彼は二人を誘導する。
それは震災復興を記念して撮影された、建て直された市役所の前に職員たちが集合している写真だ。音矢は持参した虫眼鏡で、その中の一人を拡大して見せた。
平凡な顔をした中年男が真面目な表情で写っている。
「これが、音矢くんの父か」
「うふふ。同じ眉毛をしてる。やっぱり親子ね。他の部分もそっくり」
「父の顔はここにしか残っていないんですよ。
母が古い写真を全部捨てちまいましたから」
「なぜだ? 遺影というものを飾る習慣があるのではないか?」
「ちょっとした事情があるんですよ。それについては、後で説明します。
実状を見ないとわかってもらえませんでしょうし」
「いつもの[種明かし]か。楽しみだな」
「あはは、そんなに面白いことではないですけどね。
それでは、待ち合わせの時間まで別行動をいたしましょう。
この近くには山下公園というきれいな場所が
今年の3月にできたばかりですよ。
ちょいと足を運べば唐人町にも行けます。
要所要所に印をつけておきましたから、どうぞ」
音矢は懐から地図を取り出し、瀬野に渡した。
「ありがとう。翡翠くん、そこに行ってみる?」
「行こう。楽しそうだ」
夢心地で帰宅した実篤は、アルバムのことを考える。
[萬文芸]の読者交流欄に手紙を出すきっかけになった出来事だ。あまりにも辛いので、内容は書かずにただ悩みがあるとだけ投稿した。あいまいだったせいか、返事が届いたのは、[真世界への道]からだけだった。直接の手紙で、彼は詳しい内容を書き綴った。
なにか機会を見つけると、姉は彼が犯した過去の失態をあげつらう。そのたびに、実篤は苦痛を味わう。
だから、姉は敵だ。
敵が利用している過去の証拠を無くすため、あの日、居間の棚にしまってあるアルバムを実篤は取り出した。
その中には、彼が幼いころの、丸裸で畳の上に転がっている写真がある。
ご丁寧に、開いた両足の先をそれぞれ手でつかみ、持ちあげているので、肛門からなにから丸見えだ。他にも風呂敷をかぶって奇妙なポーズを決めていたり、姉の服を着せられてすっかり女の子のようになった姿が残されている。
彼はそれを剥そうとしたが、糊でしっかり台紙に貼り付けてあるのでうまくいかなかった。簡単に剥したり再度貼り直したりできるアルバムは、1930年にまだ開発されていない。
悪戦苦闘しているところを、母に見つかった。母は思い出を消してはならないと泣いた。彼に恥ずかしさと苦痛を与える写真も、彼女にとっては美しい思い出の象徴なのだと、実篤は理解した。
だから、母も敵だ。
そもそも、こんな写真を撮ったのは父だ。
普通の家庭なら、なにかめでたいことがあった時に専門の技師に依頼して、かしこまった記念写真を撮影してもらうのが精いっぱいの贅沢。
20世紀初頭はそんな時代だった。デジタルカメラが一般化し、家庭で気軽に写真を楽しめるようになった21世紀とは事情が違う。
しかも、この時代のカメラは銀塩フィルムを使っている。デジタルカメラのように、撮影した画像をその場で見ることはできない。現像前のフィルムを通常の光があるところで取り出したら、感光して画像が消えてしまう。
撮影したフィルムを専門の店に持参して安くもない金を払い、ネガフィルムとして現像処理をしてもらわなければ写真に印画することはできない。
だが、父は金に飽かせてカメラを購入し、現像代を惜しむことなく実篤の恥ずかしい姿を撮りまくった。
だから父も敵だ。
友達に話しても、笑われるだけで同情してもらえない。
友も敵だ。
本人にとっては実に深刻な、実篤の悩みに理解を示してくれたのは、[真世界への道]だけだった。返事には優しい慰めの言葉が書かれていた。
しかし、その慰めを書いた礼文は、彼の手紙を読んだとき、机を叩いて大爆笑していた。その事実を実篤は知らない。
公園のベンチで海とカモメと船を翡翠が満足するまで見物してから、二人は唐人町に立ち寄った。そこで瀬野は翡翠にお土産を買ってあげた。
その後、珍しい建物や見慣れない商品を見物していると、予定より10分ほど遅れて、音矢から小型電波送受信機で合図が送られた。蕎麦屋に到着したとの知らせだ。
懐に入れたままボタンを押して一回長く鳴らすだけと、あらかじめ取り決めておいたので家族に発信器の存在は気づかれない。
さっそく瀬野と翡翠は指定された店に出かけた。翡翠には、店に入る前に飴玉を与えた。余計なことを言わせないためだ。口の中に物を入れているときはしゃべらないと、音矢が訓練させたので、それを利用している。
音矢とその家族は店の中央あたりの席にいた。それほど大きな蕎麦屋ではないので、案内はいない。瀬野は翡翠を連れて音矢と通路をはさんだ隣の席に座る。
席に着くと同時に店の奥に声をかけ、彼女は普通のザルソバを2枚注文した。店員とのやりとりで観察を妨げられたくないからだ。
翡翠が露骨な態度で隣を見ようとしたので、瀬野は注意した。
「よその人をジロジロ見てはいけません。まっすぐ前を見て」
翡翠は怪訝そうな顔をしたが、口元を押えてうなずき、顔を正面に向けて固定する。
彼女自身は視界の隅で音矢一家の観察を始める。
すでに、彼らの頼んだものは出来上がり、それぞれが食べながら話している。音矢はすでにソバを食べ終わり、丼に残った汁をときどきすすっている。
音矢と向かい合っているのが、彼の母と弟だろう。彼らの前には、かき揚げを添えたザルソバがある。それはほとんど手がついていない。
母は夏らしく絽の単衣に麻襦袢を合わせ博多の帯を締めている。
絽は糸をよじって細かい隙間ができるように織る夏用の生地だ。その隙間から風が通る薄手の布なので涼しく着こなせる。
弟はシャツにズボンの洋装だ。
新田家の第一子である音矢は、母が19歳の時に生まれた。明治終わりごろの常識では、普通のことだ。だから母親は今年で37歳になる。この時代の感覚では盛りをすぎた中年女性に分類されるが、彼女はまだ美しさを保っていた。
そして、音矢の弟も母に似て顔立ちが整っている。目だたない顔立ちである音矢がもっている唯一の特徴は、濃くて真っ直ぐな眉毛だ。が、弟は細い弓型の眉。それは彼の母と同じ形をしていた。
音矢の着ている絣は安物だが、こまめに手入れがなされているので清潔感はある。しかし、それよりも高級な和装をまとっている彼の母からはすさんだ雰囲気がただよっている。洋装を着た彼の弟も同じだ。
別に、埃や汗シミが衣服についているわけではない。それでも、瀬野は二人から不快感を受け取った。
「あはは。大丈夫だよ。心配しないで。あはは」
音矢はいつものように笑っている。
「でもね、心配なんだよ。
もし、お前が良からぬことをして稼いだお金だったらさ。
それを仕送りしてもらった、あたしたちだって同罪になるじゃあないか」
瀬野は心臓が飛び出しそうになった。彼女が音矢にやらせていることは、[良からぬ]どころの話ではない。
犯罪そのものだ。
「あはは。僕のやってることは、
[人様のお役に立つことであって悪いことではない]
そう保証ずみだと、
何回も言っているのに、わかってくれないかなあ。
あはは。ずっと、その話題ばかりで飽きちゃった」
しかも、音矢は家族から仕事の詳しい内容を話すようにくりかえし求められているようだ。
「それは、兄さんがきちんと説明してくれないからだろう。
納得いく説明をしないから、何度も追求せざるを得ないんだ。
なんだよ、僕らが一生懸命に問い詰めているのに、
それをさしおいて、兄さんったら店員と話しこんだりして、態度が悪いよ」
「あはは。ごめんな。ちょっと知りたいことがあったんだよ」
さいわい、音矢はのらりくらりかわしているようだが、うっかり口を滑らせでもしたら、大変なことになる。瀬野は背筋が冷えていくのを感じた。
「まったく、屁理屈ばかり並べて、肝心なことは答えない。
親がこうしてくれと頼んだら、
即座にハイと返事して言われたとおりにするのが子供の務めだろうに。
親不孝者」
「あはは。ごめん。でもこっちにもいろいろ都合があるんだよ。
できることはするけど、できないものはできないんだ。
僕だって人間だからね。あはは」
「兄さんは、努力って言葉を知らないのか。
やりもしないうちから断るなんて、怠け者の言い訳だよ。
兄さんはゴミクズに成り下がったのかい」
「あはは。手厳しい指摘だなあ。こいつはまいった。あはは」
「まったくお前って子は、
昔から、あたしのいうことに楯突いてばかりで、好き勝手ばかりして、
生意気にもほどがあるってもんだ。
あたしが言えといったことは言わないし、
やれといったことはしないし。
似合いもしない耳飾りなんて外せと言っても外さないし」
そう言うと、音矢の母は一息ついてから
「あんたなんか、生まなければよかった。大嫌いだよ。この役立たず」
母親から子供に向ける、最大級の罵言を吐いた。
音矢に向けられた言葉だが、瀬野の心は痛む。
彼女はそっと横目で観察した。
母は、手厳しいことを言ってやったと得意顔だ。弟もそれに同調するような表情を浮かべている。
それに対して音矢は
「あはは」
いつもの笑い声で答えた。
「僕としては、
がんばって母さんと光矢のために働いているつもりなんだけどな。
まだ足りないとおっしゃりますか。
まあ、家族の期待に添えますよう、
この新田音矢は全力をもって
前向きに取り組んでまいりたいと考えておりますので、
ご安心くださいな。あはは」
母と弟は、その反応に激怒する。
「真剣に話しているのに、その言いぐさはなんだ!
まるで、政治家の答弁みたいなごまかしを言うな!
僕は、兄さんのそんなところが嫌いだ!」
「まったく薄っ気味悪い子だよ!
なんぼうイジメても泣くでもなく、そういうふうにヘラヘラ笑って!
かわいげがないったらありゃあしない!」
「あはは、イジメている自覚はあるんだ。あはは」
「揚げ足をとるんじゃないよ!」
さらに母親が怒ったが、音矢は平静な声で相手をする。
「それより、もっと大事な話をしよう。光矢は来年度で中等学校を卒業するよね」
この時代の中等学校は5年で卒業だ。成績のいいものは4年から高等学校の受験をすることができる。ただし、現在の新田家の経済状況では、これより上の進学は不可能だった。
尋常小学校から高等小学校、そして師範学校という道筋なら学費は最小限に抑えられただろう。しかし、師範学校は寮生活が前提なので、虚弱な光矢では耐えられない。かと言って、音矢のような住みこみの奉公はさらに無理だ。だから母は中等学校に光矢を行かせた。
「進路をどうするか決めたのかい。
父さんのように役所に勤めるのか、それとも民間の会社を狙うのか」
音矢の言葉を聞いて、彼の母と弟の顔色が変わった。
一瞬の沈黙ののち、前にもまして彼らは怒る。
「またそうやって、話を逸らす。あんたって子は、いつもそう。
昔からそうなんだから、まったく嫌な子だよ」
「……そうか。兄さんは、仕事場になじめてないんだろう。
他の人とうまくやれないものだから、そこの話をしたくないんだ。
だから、僕の成績を話題にしてごまかそうとしてるんだな。卑怯者」
「あはは、大丈夫。うまくやってるよ」
音矢は笑って、お冷を飲む。
「あの噂を知らない人たちのところだからね」
この発言で、母と弟は凍りついた。
「恥をかかずにすむし、気まずい思いもしなくて、
とっても楽に勤めているからね。
心配ないよ。あはは」
「おまえ……」
母がなにか反論しようとしたようだが、はっきりした言葉にならず、口ごもっている。
「まったく、あの噂ときたら、困ったもんだよ。
なにかにつけて、僕にまとわりつく。
母さんも、光矢もそうだろう?」
「あれは……誤解よ」
「うんうん。わかってるさ。
母さんがそんなことをするはずないし、光矢だって正当だ。
僕は近所の人にいくら言われたって、認めない。
家族の名誉の問題だからね。こればかりは笑って済ませられないよ」
「……」「……」
「ほら、ソバがのびちゃう。かき揚げも冷めるし、食べて食べて。あはは」
すっかり意気消沈したようすで、母と弟はモソモソと箸を動かす。
(噂って、なにかしら)
疑問を感じた瀬野のところに、ザルソバが届いた。
翡翠に勧めて、自分でも食べる。
「瀬野さん、なぜ」
翡翠が口をきいたので、瀬野は驚いた。
飴玉がもう溶けてしまい、勧められたザルソバはまだ手をつけていない。だから、彼の口は空で、発言をさまたげない。
「ボクが献立表を見る前に、注文してしまったんだ。
このカレー南蛮とはなんだ。気になる。食べてみたい」
「あとで教えてあげるから、とりあえずそれを食べて」
「あとでは嫌だ。今知りたい。カレー南蛮とはなんだ? 食べて確かめたい」
翡翠の目が、音矢に向けられる。このままでは、他人という設定を壊して話しかけかねない。瀬野は焦った。
「わかったわ。注文するから、これをなめていて」
彼女はバッグから飴を出して、翡翠の口に押しこむ。
「すいません。カレー南蛮一杯追加してください」
「へーい」
瀬野の注文に、店員がノンキに返事をする。
なんとか危機は脱した。瀬野は音矢の様子をうかがう。
お冷を口に運ぶ、すまし顔を見たら腹が立ってきた。
音矢たちが先に食べ終わり、会計して店を出る。支払いは音矢だった。
カレー南蛮をすする翡翠はそれに集中しているので、席を立つ音矢に話しかけはしなかった。ただし、胸元に汁がはねている。黒い服を着せておいてよかったと、瀬野は安堵した。水兵襟の白線にシミがついたが、これは音矢がなんとかするだろう。
会計を済ませ、瀬野たちは車のところに戻る。後部座席に乗り込み、しばらく待っていると、音矢がやってきた。何か買い物でもしたのか、手には紙袋を持っている。
「お待たせしてすみません」
軽く頭を下げて、音矢は操縦席に乗り込んだ。
瀬野は彼を問いただす。
「あんた、口を割りはしなかったでしょうね」
「あはは。大丈夫です。心得てますよ」
瀬野は危惧していたことを音矢に言う。
「藪入りの日、普通は実家に一晩泊まるものだけど……
これ以上の接触は情報管理上、危険……」
「ちゃんと、これで勤め先に帰るって言ってきましたよ。
向こうも泊めるつもりはないみたいでしたから、問題はありません」
安堵した瀬野は、つい愚痴をこぼす。
「なんなの、あんたの家族は。しつこいったら、ありゃあしない」
「あはは。申し訳ありません。
でも、なんとかごまかしましたから、安心してください」
音矢は母にしたように笑って受け流した。
「それならいいけれど……ああ、今日は疲れたわ……」
「あはは。翡翠さんも疲れてるでしょうし、そろそろ貸家に戻りましょう。
帰りも僕が操縦しますよ」
音矢は車を発進させた。道はすいているので、車は快調に帰路をたどる。
翡翠は小首を傾げて何事か考えていたが、突然大声で叫んだ。
「しまった!」
「どうしたの?」
瀬野が声をかける。
「今日の目的である、音矢くんの家族観察を忘れていた!
途中から全然観察できていない!」
「はあ?」
「……余計な口をきくなと言われていたので、
ボクはしゃべらないでいることに気をとられていた。
そして、席についてからも、正面を向けと言われたので、
それも意識しなければならなかった。
最初は会話を聞いていたが、
音矢くんたちを視界から外したので、やがて注意がそれ、
公園や唐人町でのことなどを思い出してしまった。
献立表を読んだら、見たことのない品が書いてあったので
そちらにも気を取られた。
カレー南蛮はうまかったので、また食べたい」
最後に本音が出たようだ。
「あはは。そりゃあうっかりしましたね。あはは。本末転倒ってやつですか」
「一応、最初は耳だけで情報を集めようとしていたのだが、
あの二人の言葉はとても嫌な気分になるので聞きたくなくなった。
それで注意がそれたんだ」
瀬野は不穏な気配を感じて、翡翠の様子をうかがう。彼の顔には、彼女が見たことのない感情が現われている。それは憎悪だ。
「……そうだ。記憶にある言葉の意味をよく考えてみたら、
彼らは音矢くんにひどいことを言っていた。だから気分が悪くなったんだ。
今さらながら、腹が立ってきたぞ。
音矢くんのことをイジメるから、ボクはあの二人が嫌いだ。
悪い奴らだから、やっつけてやりたい」
不快感と攻撃衝動をあらわにする翡翠を見て、瀬野はとまどった。あわててたしなめる。
「翡翠くん。そんなことを言ってはダメ」
「なぜだ?」
瀬野は翡翠に憎しみという感情を持たせたくなかった。だから否定する。
「そんな言葉、あなたらしくないわ。だから、ダメなの。
いつもと違いすぎるわよ。おかしいわ」
「いつもと違う……そうだ。観察に失敗した理由がもう一つある」
翡翠の表情は、悲しみに変わった。
「理由ってどんなの?」
安堵した瀬野は翡翠をうながす。彼が悲しむことに、瀬野は慣れているからだ。
「姿を見ずに耳だけで聞いていると、音矢くんではないような気がして……
声はいつもの音矢くんだから、音矢くんだとわかるんだが……
違う言葉を使っていた。それが違う人のにおもわれて……
……なんだか……とにかく……むしゃくしゃした」
「……『僕の言葉が翡翠さんに対するものと違うのはあたりまえだろう。
家族を相手にしているんだから』……こんな感じですか?」
表現がおぼつかない翡翠の言葉を、音矢は補足してやる。
「そう、それが気になった」
「あはは。母親と弟に、丁寧語で話す人はいませんよ。
普通はもっと砕けた調子で話します。
年下の呉羽ちゃんと話したときもそうだったでしょう。
あの時は別に平気だったのに、どうしたんですか」
「あの時はまだ、言葉の使い方がよくわかっていなかったんだ。
でも今日は………………」
しばし沈黙してから、翡翠は口を開く。
「とにかく、ボクは嫌だ。
音矢くんではないような気持がして、嫌だった。
いつでも、いつもと同じ音矢くんでないと、嫌だ。
ボクの友達で仲間の音矢くんでいてくれないと嫌だ。
他の音矢くんなんて嫌だ」
翡翠は首を横に振り、ダダをこねる。
「大丈夫。言葉づかいなんて、相手によって変わる、上っ面だけのものですよ。
僕の本質はいつも同じ。あの日の契約を僕は守ります」
「それならいいが……」
翡翠は顔を伏せる。
「とにかく、ボクは今日の目的を果たせなかった……」
「あははは。でも大丈夫ですよ。瀬野さんが観察していますから」
「え?」
自分に話をふられて、瀬野はとまどった。
「瀬野さんは、僕が家族に接触して、
神代細胞関係の情報を漏らす危険を覚悟したうえで、
それでも翡翠さんのために、あえて今日のことを計画したのでしょう?」
「ま、まあね」
実は、情報漏洩の可能性を彼女は失念していたが、そんなことは正直に言えない。
「僕が嫌がるから面白がって無理に藪入りを口実に里帰りさせて、
野次馬気分で見物にきたわけではないですよね?」
「そ、そうよ。あたりまえじゃない」
図星だが、瀬野は否定した。
「僕の家族の人となりをきちんと観察し、
翡翠さんの教育に役立てるために
わざわざ帝都から出張してきてくださった。そうでしょう?」
「……ええ」
建前上はそうなっている。だから瀬野は同意するしかなかった。
「しかし、今の翡翠さんには、
自分の存在を隠してこっそり観察するなんて高度な技、
要求するほうが無理ってものです。
それでも、やってみないと能力の向上はできない。
翡翠さんの未来のために、瀬野さんは困難な課題を与えて、
失敗したときは自分の観察した結果を教えて補助する。
そういう親切心からの計画ですよね?」
「……まあ、そんなところかしら」
音矢の出した助け舟に、瀬野はすがる。
「だから、家に着くまでの間に、
瀬野さんから僕の家族について語ってもらいましょう。
翡翠さんのために」
「……あんたは平気なの? 気が進まないけど」
「ああ、家族について遠慮ない非難や批判をなさっても、僕は怒りませんよ。
客観的な意見は望むところです。
痛いところを突かれても、それは我慢しなければなりません」
「また、正論を……いいわ。覚悟しなさい」
(それなら、お望みどおり痛いところを突いてやるわよ)
自分が立案した計画が成果をあげるどころか、一歩間違えば情報漏洩までおこす危険があったことに、瀬野はおびえていた。しかも、今日の遠出は瀬野の独断で行った。それがなおさら後悔の種になる。そして、今日の計画の危険を回避できたのは、音矢の功績だ。自分の無能さを見せつけられるようで、瀬野はよけいに腹が立つ。
「あんたたちの話を聞いていて、気になったところがあるんだけれど、
噂ってなに?
その一言でお母さんも弟さんも一瞬でしょんぼりするような代物って、
どんな噂なの」
からかいも混ぜて、瀬野は音矢に訊ねた。
しかし、
「あはは。母が浮気して弟を生んだって、ご町内の評判なんですよ。
僕と父は似ているけれど、弟は似ていないことから、
誰かが思いついたんでしょう。
僕が小学生のころからある噂なんで、父も長いこと苦しんだと思います。
クモ膜下出血で早死にした原因にもなっているかもしれません」
返ってきた答えは、瀬野の予想以上に強烈だった。
「だから、父の遺影どころか家族の記念写真まで母は捨てちまったんですよ。
光矢が父に似ていないことがわかってしまうから。
そして、父の面影があるということが、
僕を母が嫌う理由の一つになっています。
僕を小卒ですぐに奉公させたのも、
この顔を家から遠ざけたいという意図があったんでしょう。
その時父は存命でしたが、
光矢だけなら、
父に似ていないことが目立たないと思ったのかもしれません」
音矢は別に怒るでも悲しむでもなく、淡々と語る。
「ただ、その結果として、
母が僕よりも弟をかわいがることとか、
僕が進学しないのに、その一方で弟は中学に上がったこととか、
そういうことで噂の真実味が補強されてしまいまして。
どうでもいい亭主の子より、惚れた男の血を引く子が大事なんだろう。
だから祖父が新田家の跡取りである僕に進学資金を残したけど、
それを横取りして光矢に使ってしまったんだろうなんて、
推測されてしまったんですね。
最近では、生活費だけならば節約すれば父の恩給と母の内職で賄えるのに、
母は僕に仕送りさせて着物を新調するなどの
贅沢しているとかの噂も流れているそうです。
お寺に来ていた近所のおばさんが教えてくれました。
それから、光矢がまともに登校せず、
詩人になりたいとか太平楽を並べていることも。
……僕は光矢のゼンソク治療費や参考書代の支払いにあててほしくて、
仕送りをしていたのに」
音矢はため息をついてみせた。
「ほかにも……実家の建物は小さくて
おまけに震災後に急いで建てた安普請のせいで
今では傾きかけたアバラ家のうえ、
後ろは丘を削って家を建てる土地を作ったなごりの
法面がじわじわ崩れてきているという怖い土地だから、買い手もつかないし
売ろうとすれば足元をみられて安値を提示される。
建て替えるなら余計な資金が必要という負債なんですけれど、
傍から見れば財産に見えるらしくて……
それを不義の子に乗っ取らせようとしているなんて噂もあります。
だからご近所からはつきあってもらえないんですよ。
身持ちの悪い女と、その罪の子といわれて、
二人ともつまはじきになってます。
不貞の事実を母自身は否定しているんですが、
ご近所さんには信じてもらえていません。
それで町内の人たちとうまくいかなくて、
二人だけで閉じこもるような生活をしているわけです」
瀬野は、母と弟のすさんだ雰囲気を思い出した。ずっと心無い噂に傷つけられてきた恨みと隣人への憎しみが、あの二人に染みついていたのかもしれない。
「なんで、そういうことを先に言わないのよ」
「恥ずかしいから、言いたくなかったんですよ。
帰ったら、ああいう扱いをうけることも予想できたから、
里帰りではなく、一日の休暇にしてほしかったんです」
「法事をしても、だれもこないっていったのも……」
瀬野は音矢の反応を改めて思い返す。やっとその意味がわかった。
「あ、あのね。私は……その……」
弁解しようとしたが、彼女には言葉がうかばなかった。
絶句する彼女に替わって、翡翠が発言する。
「礼文にだまされて神代細胞を投与された第1号の呉羽も、
第2号の福子も音矢くんと同じように家族からイジメられていた。
やはり、本で得た知識と実際は違うようだ。あれが普通の家族なのか」
納得しかける翡翠を、瀬野が止める
「普通じゃないから! 音矢も、その家族も普通じゃないから!
今日見たことも聞いたことも、音矢の家族のことは忘れなさい!」
「今日の経験は全て否定されるようなことだったのか?
それなら、ボクたちは何のために来たんだ……」
「……ほんとに、何しにきたんだかわからない。
ああ、音矢くんの家族については、もう話したくない。
ろくなもんじゃないわよ。あの人たち」
落ちこむ二人を、音矢はなぐさめる。
「まあ、お二人とも横濱観光はできたみたいですし、
僕は母が身支度をしている間に、
お寺に行ってお墓詣りや住職さんにご挨拶とか、
そのほかの用事もすませることができましたから、
ただの無駄足ではないですよ。あはは」
「そうか、それならよかった」
翡翠はそれで納得したが、瀬野はそう単純ではない。
「観光……それだけのために……危険な橋を……」
塩垂れる瀬野をルームミラーで確認し、音矢は心の中で笑う。
(計略は大成功だ。あはは)
さらに成果を確認するために、音矢は翡翠に質問する。
「山下公園に行ったんですか?」
「ああ! たくさんの船が見えた。
孤島にくる船よりも大きくて……形もそれぞれ違っていた!
ベンチのそばにはきれいな花壇があって、それから……」
翡翠は次々に楽しい体験を語る。
1930年〔光文5年〕の時点では、山下公園に[赤い靴はいてた女の子の像]も、[インド水塔]もない。[氷川丸]は現役で北太平洋航路を運航中だ。のちに観光の目玉となるものはまだ無い、作りたての公園だが、翡翠には興味深く感じられたようだ。
孤島で育った翡翠は本土の生活に興味を持っている。だから外出したがるが、姿や言動が目立ちすぎる。それを隠すために出先で緊張を強いられるから、往復は公共交通機関ではなく、くつろげる自家用車で移動するのが望ましい。
だが、音矢の財力では自動車の調達は不可能だ。
それで、瀬野を利用し、音矢は横濱観光を翡翠に楽しませた。
ついでに実家関係の用事もすませた。近所から排撃されているのは母と弟で、音矢自身は同情的に見られている。だから、寺も近所の人も彼に協力してくれた。
いくら神代細胞の暴走を防ぐためとはいえ、音矢のやっていることはれっきとした犯罪だ。スネに傷持つ彼は、当局の注意をひかないために、できるだけ普通の市民としてふるまう必要がある。
当然、戸主としての務めを義務として果たさなければならない。もし、藪入りができなければ寺関係のことは郵便を使って済ませなければならないかと彼は危惧していた。だから、音矢にとって瀬野が発案した今回のことは好都合だった。
(瀬野さんは、僕が嫌だっていうから、むりやり藪入りを取らせた。
僕が恥ずかしがるから、瀬野さんは家族を見物に来た。
そして、翡翠さんを一人でおいて留守番なんてさせられないから、
横濱まで一緒に連れてきた。僕の計略通りに……
あはは。まるで[まんじゅう怖い]だ)
[まんじゅう怖い]とは、落語の演目だ。
いつも強がってばかりいる男が、まんじゅうを怖れて寝込んでしまう。
それを見た友人たちが、大量のまんじゅうを枕元に置いてさらに怖がらせようとする。
しかし、それは男の計略だった。
男はすべてのまんじゅうを食べつくし、ずうずうしくもお茶まで要求する。そのような内容だ。
これは有名な演目で、音矢も幼いころから親しんできた。瀬野も当然この落語を知っているだろう。
しかし、彼女には音矢の計略を見抜けなかった。
(それは……僕が家族のことを恥ずかしく思い、
里帰りしたくないと嫌がったのは、
演技ではない。真実の感情だから)
音矢は、左胸の傷を思い出す。この怪我の原因となった事件で、彼は人の心をつかむコツを学んだ。
(嘘や演技では限界がある。
心の底からわきあがった本気の感情だからこそ、他人を動かせるんだ)
(実際、普段の僕が見せない弱みを掴んだと思って、瀬野さんは僕を攻撃した。
そして爽快感を味わったんだろう)
(楽しんだからには、料金をきっちり支払ってもらう。それが取引ってものさ)
音矢は瀬野に好意を抱いている。だが、それは彼女に反撃することをためらう理由にはならない。幼いころから母といがみ合ってきた経験が、彼をこうさせた。
むしろ、瀬野への好意をうっかり口にしたときのような素直な反応こそ、彼にとって普通ではない。そのあと過去を語ることで本来の精神を取り戻した音矢は、今、大いに気分を良くしていた。
(これからも、瀬野さんをいじって遊ぼう。
その反応を観察し、操縦法を見出し、僕の手駒に仕立てよう)
(さて、そのためには……)
音矢は次の計略を考える。
次回に続く




