第四話
富鳥義知は、富鳥家で使われる高級車とは別に、彼個人でT型フォードを所有している。これは円タクにも使われる大量生産の大衆車だ。
父親にねだれば、もっといい自動車を買ってもらうこともできた。しかし、彼は江戸川乱歩の愛読者でもあった。
乱歩は1929年に【蟲】という中編小説を発表した。その主人公は、自家用車のT型フォードをタクシーのように偽装して美人女優を誘拐する。
義知はこれを自分でもやってみたくて、T型フォードを手に入れた。
結果としては[手に入れた]だけだったが。
自動車操縦免許の筆記試験は難なく合格した。だが、義知は実技が苦手だった。父にたのんで試験官に手心を加えてもらう程度では追いつかない。
義知は実技を自宅の広大な庭で練習中、幾度となく自分の自動車操縦による生命の危険を痛烈に感じたので、免許の取得をあきらめた。
衝突で折れた庭木はすでに植え替えてあるので、現在の庭は整っている。
一方、傷だらけになった自動車は修理に出されてから、礼文に貸し与えられることになった。
礼文は普通に試験を受けて、普通に免許を取得したので操縦技術に問題はない。古傷のある左足も、それを激しく曲げ伸ばしをするわけではない、足先でクラッチペダルの操作をする程度の動作なら難なく行えた。
礼文はその後部座席に水晶を乗せた。彼は手を引かれれば立つし、座れと言われれば座る。とくに抵抗はしない。
普段、水晶が着ているのは和服の寝巻だ。これは身の回りの世話をしやすくするためのことだが、彼を[秘密の首領]とあがめる信者の前につれていくのにはふさわしくない。
だから今日は水晶に洋装させている。英国のパブリックスクールにかよう学生のような服で、ブレザージャケットにネクタイ、それに中折れ帽という姿だ。これは義知が15歳くらいのころの私服をお下がりとしてもらったものだ。
今日は実篤に神代細胞を投与する日だ。だから、事務所員の津先には休みを取らせた。
まだ、彼には[真世界への道]の本質も、神代細胞の件も教えていない。物好きな金持ちの道楽事業だと思って働いている。今の時点では津先は均分主義に興味をもたない一般人に過ぎない。そんな彼を教育するのは手間がかかりそうだと、礼文は予想している。
だから、とりあえず今回の実験を済ませておく。それでしばらくは軍部からの要請をかわせるだろう。次の実験をせかされるまでの間に、津先を忠実な部下に仕立て上げなければならない。そう考える礼文の意識は、未来にむけられていた。
ただし、今日は音矢たちが横濱に出かける日でもあるが、礼文はそのことを知らない。先日、瀬野は銀座に翡翠を連れ出したときに礼文と遭遇して不快な思いをした。だから、彼女は予定を礼文に伝えないことにした。
もし、今日の実験で急速に暴走が起きたら、対応に遅れが出るのだが、関係者たちはその危険に気づいていない。現在、礼文側と瀬野側の連携はまったく取れていない状況に陥っていたが、当事者たちは危機意識をもっていなかった。
音矢の操縦で、車は快調に横濱を目指している。
翡翠は今日の予定をもう一度確認する。手順に疑問を感じたからだ。
「11時に音矢くんは実家に入り、
12時から蕎麦屋で昼飯を食べるために、ご家族を連れ出す。
ボクたちは別席で君の家族を観察する。
別々に会計をしてから、いったん車にもどって打ち合わせののち、
音矢くんと現地解散し、ボクと瀬野さんは帰宅……」
翡翠は小首をかしげた。
「ここまではわかるが、
予定の2時間後の2時に店で待ち合わせというのはどういうことだ?
なぜ12時に出発するとあらかじめ電報で伝えてあるのに、
その通りにできない?
普通の人は、12時ごろに昼食をとるものだろう。
待っている間に腹が減ってしまう」
音矢は深いため息をついてから、後部座席の翡翠に返事をした。
「できないから、できないんですよ。昔からそうでした。
母が外出するまでには、
化粧とか着替えとかいろいろ支度に手間がかかるんです」
再度、彼はため息をつく。
「そして、支度は出かける直前から始めなければならないそうですね。
出かけるその時の天候とか、気分に合わせて着物を選び、
着物に合わせて帯を選び、帯に合わせて帯締めを選んで、
その帯締めと着物の相性が悪ければ、振出しに戻ってまた選び直し。
服装が決まってから念入りに化粧をして、着付けをして、
その塗り具合や帯の結び具合にもいろいろこだわって」
「……聞いているだけで疲れた」
翡翠は背もたれに寄りかかる。
「あはは、実際はもっといろんな手順があるんですよ。
半襟や襦袢や足袋も組み合わせに入りますから」
「どうも、それは非合理的な行動のように思える。
予定された出発時刻から逆算して準備を開始する。
それに必要なものはあらかじめそろえておく。そのほうが効率がいい。
効率よく、合理的に行動するほうがいいとボクは思う」
音矢は正面を見たまま、大きくうなずいた。
「そう、それ! 翡翠さんにわかってもらえてよかった。
母は、いくら言っても理解してくれないんですよ。
もうあきらめました。
通告した予定時刻を超過するものと考えて、計画を立てるしか、
方法がないんですよ」
「なぜ、君の母親は非合理と説明されても、そのような行動をするんだ」
「女性特有の行動ですね。呉服屋の若奥様もそうでしたし……
とにかく外出の支度というのは、
予定時間の超過など、まったく考慮の余地がないくらい、
大変で重要なことらしいですよ。
そのせいで、計画通りの行動がとれずに不満足な結果になるのも、
当然我慢すべき犠牲なんだそうです。
女性に十分な装いをさせずに、予定を強行なんかしたら
大悪人あつかいされます」
この発言には音矢の偏見が入っているが、20世紀初頭においては、このような認識は珍しくない。
「しかし、女性である瀬野さんはいつも遅刻しない。
今日だって予定時刻通りに迎えに来たぞ。」
「ああ、翡翠さんは、
女性といえば瀬野さんしか知らないからわからないんでしょうけど……
すごいんですよ。瀬野さんは」
翡翠の隣で窓の外を見ていた彼女は、名を呼ばれて音矢のほうに目を向けた。
「瀬野さんは美人だし、賢いし、強いし、車の操縦もうまいし、
いろいろ長所がありますが、
そのなかでも、[時間を守る]という、めったにない長所をもっているんです!
これをもっているご婦人方はほとんどいません!
研究機関の運営は別ですが、
連絡係としては、こういうたくさんの長所をもっている人が来てくれた。
そのおかげで、僕は希少なすばらしい価値をもつ瀬野さんと
一緒に仕事ができる。
これはすごく運のいいことです。まったく僕は幸せですよ」
音矢の言葉を受けて、瀬野は答える。
「……まあ、職業婦人として雇われて、事務所に通勤する毎日を送れば、
どうしても時間に正確になるものよ。
さっき聞いたけど、
音矢くんのお母さんは尋常小学校を卒業後、
実家の洋裁店でミシン縫いを習いながら、
結婚するまで家事手伝いをしていたんでしょう?
だったらしかたないわ。若奥様だって似たようなものでしょう」
「まあ、そうですけどね」
「でもさ……なに、いきなり私のことをさ……そんなに……恥ずかしいじゃない」
顔をそむけた瀬野の耳が赤みを帯びる。
「恥ずかしいって……え……と……」
音矢は自分が何を言ってしまったか、理解した。
「あああ、すいません! つい本音が!」
そして、動揺のあまり、さらに墓穴を掘った。
「え?」
「あ! い、今のなしっていうか、でも嘘じゃなくて、
あああどうしよう、あああ」
彼のハンドル操作に乱れが生じた。瀬野はたまらず叫ぶ
「止めて止めて! ぶつかっちゃう!」
音矢は必死で操縦し、路肩に停車させた。
「すいません……少し休憩させてください」
音矢はハンドルに体をもたせかけ、深呼吸している。
「いいわよ。私も休みたい……」
瀬野はハンカチで、ほてった頬を押えた。
偏った教育を受けた翡翠は、最近になってやっと時計の読み方を覚えたばかりだ。
そんな翡翠に、[時間を守る]ということの重要性を音矢は言い聞かせようと思った。しかし、いつも予定した時間通りに行動できない母への不満が、心の隅にあったので、趣旨がわき道にそれた。
だから、その発言が瀬野への賛辞になるということは意識の外にあった。そのため直球で彼女の長所を述べてしまった。
1930年〔光文5年〕現在、男性が身近な女性をここまで褒めるという状況はほとんどない。もし行ったとしたらそれは露骨な求愛行動だ。それを音矢は無意識に口にしてしまった。
まさに、出会いがしらに事故を起こしたようなものであり、音矢と瀬野、二人の心が受けた衝撃もそれに匹敵する。
彼は18歳、彼女は20歳。
二人ともまだ若く、みずみずしい感性をもっていた。
ジャムと薬物がまぜられた紅茶を飲んで、実篤の意識は朦朧となってきた。確認のため、礼文はまず制御石を耳に取りつける。耳たぶを針で刺したが、実篤は痛そうなそぶりを見せない。
それを見定めた礼文は、水晶を彼の前に連れてきた。
「水晶さま……我に力を……与えてください」
人形のように整った顔を見つめ、実篤はつぶやく。
「与えるよ」
「ありがと……う……ござい……ま……」
そこで彼は眠りに落ちた。
礼文は二本の注射器を取り出し、実篤に打つ。これで、実篤の両手首から先は麻酔薬の作用で痛みが強く抑制された。
礼文は実篤の座っている椅子に、水晶を近づける。そして、右と左の肘掛けにその手を乗せた。
さらに水晶の手のひらの上に、麻酔の効いた実篤の手のひらを乗せる。
礼文はゴム手袋をはめ、金づちと五寸釘を持った。
重なった実篤と水晶の手のひらを釘で打ち通す。
釘を引き抜くときは実篤の手のひらが水晶細胞の防護壁となるので、飛び散ることはない。
これまでの実験体、呉羽と福子に使った方法と同じだ。
水晶の傷から漏れた神代細胞は上に伸び、即座に実篤の傷を修復し、内部に浸透していく。
呉羽に打ち込んだのは、片手に1本ずつの釘。それだけだったので、増殖に時間がかかった。
福子には同じだけの傷を与え、さらに呉羽から採取した神代細胞を丸ごと与えた。その結果、量が多すぎたのか、すぐ暴走してしまった。
実篤には、釘の傷を2本から4本に増やすことにした。
一回ごとに投与する神代細胞の量を変えて適正な量を探る。実用化する実験と言っても、他にどのような方法をとればいいか、礼文には見当がつかない。だから、このような大ざっぱなことしか、彼にはできなかった。
翡翠が音矢に訊ねる。
「どうしたんだ? 意味不明なことを口走っていたぞ」
「あはは、どうも……ご心配をかけまして……」
音矢はあいまいに返事した。
「きっと、長距離運転したから疲れたんでしょう。
ねえ、音矢くん。そうよね!」
瀬野は必死でごまかそうとする。
音矢はそれを受けた。
「まあ、それもありますかね……
でも、休憩したら、だいぶ落ち着きました。そろそろ行けますよ」
「そうか、よかった」
音矢が気を取り直して、車はまた目的地を目指す。
静かになった車内で、無言の探り合いが行われる。
瀬野も音矢も、お互いの気持ちについて語ることを望まなかった。
しかし、二人の間に生まれた感情を、翡翠は感じ取れない。
会話がとぎれて退屈した彼は、ふと疑問に思ったことを口にする。
「君は、孤島に来る前には横濱の呉服屋で
奉公というものをしていたと言っていたな。
呉服屋とはどんな店で、奉公とはどんな生活なんだ?」
「ああ、それはですね」
音矢はもっけの幸いと翡翠に答える。瀬野も安堵して会話に加わる。
それで車中の話題は、また[音矢の過去]に戻った。
「呉服屋とは着物や帯などの衣料品を売る店です。
すぐに着られるようにあらかじめ縫い上げてある着物も売りますが、
まだハサミをいれていない布……反物の状態でお客さんに見せて、
注文をもらってから職人さんに仕立ててもらうほうが
僕の勤めていた店では多かったですね」
彼の勤めていた[一ツ木屋]は中規模程度の呉服店だった。従業員はほとんどが男性だが、主人一家が住まう奥向きの小間使いや、食事の支度などをつとめる女性たちも奉公していた。
「奉公に入っても最初はお客さんの相手をさせてもらえません。
掃除や薪割り水汲みドブ浚い、
そういう雑役を命じられて、せっせと働く毎日ですね。
真面目に働いて、そこそこ使えると認めてもらえれば、
簡単なお使いやお届け物の運搬が仕事に加わります。
店がひけたら、先輩の手代や番頭さんに読み書きソロバンを習って、
すこし自由時間をもらって、大部屋で雑魚寝。
13歳から15歳まではそんな生活でした。
僕の場合は16歳くらいから
事務作業などの手伝いもやらせてもらえるようになりましたよ。
車の免許も国策とやらで取らせてもらったので、
旦那様のご家族がお出かけになるときはその送迎と、
出先での走り使いみたいなこともしていました」
「音矢くんの言っていた[一ツ木のおじさん]と関わりがあるお店だっけ?」
「はい。おじさんはそこの次男坊だったんですよ。
お葬式が終わってから、おじさんのお兄さんに呼ばれて、
『尋常小学校を卒業したら、うちの店で働かないか』とお誘いがありまして、
ありがたくお受けいたしたわけです」
「あら、コネで入れたの? それなら楽ができたでしょうねえ。
上に甘く見てもらえるから、仕事をサボったりできたんじゃないの?」
普段の調子を取り戻した瀬野は、女学校時代の友人から言われ続けている言葉を、音矢にぶつけた。自分と同じように腹を立てるかと思ったが、彼女の予想は外れた。
「あはは、逆ですよ。旦那様とのコネを鼻にかけて怠けたりしたら、
小僧仲間をすべて敵にまわすことになります」
やはり平常心を取り戻した音矢は、笑って受け流し、
「そんな事態をさけるために、
人の嫌がる便所掃除とか、疲れる薪割り水汲みは進んでやっていたし、
自分に余裕があるときは、率先して人の仕事を手伝っていました。
人に好いてもらいたかったら、当然のことです」
正論で返した。
「そうか。就職して働くとは、たいへんなのだな」
翡翠が感心したようにうなずく。
「また、きれいごとを言って……
あんたが人を計略にはめるのが好きなことはわかっているんだから。
第一号の暴走患者を倒すときも、親切にしてみせて、罠に導いたんでしょう。
真面目に働いたって言うのも、悪だくみの下準備じゃないの?」
彼女の発言は本気ではない。音矢をいらだたせようと誹謗してみたのだが、彼の反応は瀬野の予想と異なっていた。
「あはは、僕が計略好きなのは
呉羽ちゃんの始末の帰りにうっかり話してしまいましたからね。
わかってしまいますか」
明るい声で、音矢は答える。
「そう、僕は嘘をつかず、正しいことをしたうえで、
人を陥れるのが大好きなんですよ。
小僧仲間の仕事を手伝っていたのは、その布石です」
自分の常識を覆されて、瀬野は軽い頭痛を感じる。
「なによ……それ」
「実例をあげますと……
年上の小僧がいかにも健康そうな顔をして僕に言うわけです。
『番頭さんに庭掃除を言いつけられたが、
おれは腹が痛いから代わりにやってくれ』と。
僕は自分に与えられた休憩時間を使って、頼まれた仕事を一生懸命やる。
小僧仲間で助け合うのも、病気の人をいたわるのも、いいことですから。
その間に、僕に嘘をついて仕事を押しつけた先輩が、
できた暇でのんびりと奥様の小間使いさんに話しかけたりしているところを、
番頭さんに見つかったから、さあ大変。
『庭掃除をしているはずのお前が、何でここにいるんだ!』てんで、
拳骨の嵐と説教の落雷ですよ。……人を陥れるってのは、こうやるんです」
「ひどい話ねえ。あんたがきっぱりと断っていたら、
その先輩は普通に仕事をして終わったのに」
瀬野にとっては、勤勉な音矢よりも、仕事をサボろうとした先輩のほうに共感が持てた。
「僕が即座に断ったら、先輩は殴ってでもいうことを聞かせようとしますよ。
それならさっさと済ませた方が早い。僕は自分の利益を最優先しただけです。
そして、先輩を陥れて、
番頭さんに大目玉をくらうところを近くで聞いて、すごく面白い気持ちになれた。
これも利益ですね」
「よく知恵がまわること」
「それでも、限界はありますよ。
僕が陥れることができるのは、
僕に嘘をついて利益を得ようとする人たちだけなんです」
後ろ暗いところを突かれて、瀬野のハンカチを握る手に力が入った。
「でなければ、自分の欲しいものを明示しない人。
本当は水が欲しいのに、
意地をはって素直に頼めないから
欲しくないふりをしてすましているような奴がいたら、
僕は親切のふりをして水を隠してしまうでしょうね」
これも、覚えがある。瀬野が本当に望んでいるのは、神代細胞実験を中止して、翡翠を孤島に帰すこと。しかし、諸事情によって、それを彼女は口にできないでいた。
当然、音矢は瀬野が建前で命令するとおりに、神代細胞実験に協力し、それを推進している。
「あと、僕が危険を知らせているのに、それを無視するような人。
火薬庫のそばで火遊びをしたら危ないって言ってあげても、
耳をかさずにイタズラを続けるような奴は助けようがない」
瀬野の動悸が、音矢にほめられたときとは違った理由で激しくなる。音矢が神代細胞の危険を申し立てても、瀬野は聞き入れなかった。自分の権限では中止ができないと、瀬野はあきらめていたからだ。
「逆にいうと、
本当に必要なことを、
嘘をつかずにきちんと説明して、助言も素直に受け入れる人がきたら、
僕はまっとうに対応して、
相手と僕の双方で得になるように話をまとめざるを得ない。
面白味はない取引ですね。あはは」
あせる瀬野の横で、翡翠は大きくうなずいた。
「さて、僕は自分の手の内をさらしました。それを踏まえてお聞きします。
瀬野さん、翡翠さん。あなたたちは僕に嘘をつきますか?」
「そ、そんなことはしないわ! 私が、あんたを騙すわけないじゃない!」
瀬野は全力で否定する。
一方、翡翠は微笑んで答えた。
「ようするに、
君に本当のことを伝えず、君の助言を受け入れないと、
ひどい目にあうわけだな。理解した。
それは絶対に避けたいから、ボクは君に嘘をつかない」
「やあ、それはよかった。これで僕は安心して働けますよ。あはは」
「そして、正しく要求をすれば、
ボクは音矢くんに助けてもらえるということもわかった。
それならば、ボクは自分の必要とすることをよく考えて、
音矢くんに相談しながら行動することにしよう。
ボクが君を動かすために提示しなければならない条件を自分で考えなくても、
音矢くんは、みずから君の利益を見つけてくれるのだから、
これはボクにとって、とても有利な取引だ」
「そうそう。僕にとって面白いことは他でみつけますから、
お互いに得になる方向でいきましょうよ」
機嫌のよい二人とは対照的に、瀬野の心は波立っていた。
(とっさに答えてしまったけれど……
そうよ。あいつのやり口は、上に不正をゆるさない人がいることが前提。
私と礼文の上司は、不正があろうと気にしない。
……むしろこっちに不正をおしつけてくるようなやつなんだもの。
だから、音矢のやり口は、この状況では通用しない)
(だいたい、あいつが自慢げに言ったことって、客観的にみれば……)
(結局、先輩の暴力を恐れて言うなりになっていたら、
番頭さんがたまたま不正をみつけて怒ったってだけじゃない)
引き締められていた、瀬野の口元が緩む。
(しょせんは堅気の平和な商家でしか働いたことのない、
甘ちゃんの弱虫が、負け惜しみで偉そうなことをいってるだけよ)
(大丈夫。私は陥れられたりしない……)
横濱に近づくにつれ、車窓の景色も変わってきた。
「おおっ! 海だ!」
孤島の中心にある研究所からは、外輪山にさえぎられているので海を見ることはできない。そしてトンネルを抜けて船着き場に翡翠が出ることは瀬野に禁じられていた。孤島から本土に渡るときは、夜闇の中、羅針盤と灯台の光を頼りの航行だった。
そういうわけで、彼にとって昼間の海は興味深いものなのだろう。翡翠は窓から見える景色に夢中になった。瀬野は黙りこんでしまったので、音矢は運転しながら考えを巡らせる。
(また、僕の得意技を出したんだけど、瀬野さんは気づいたかな。
[事実のなかで、都合のいいところだけを提示して、
僕に有利な方向に誤解させる]方法……)
チェリーピッキングと呼ばれる詭弁法だ。
(偶然、通りかかった番頭さんに助けてもらった、弱虫の負け惜しみと、
瀬野さんは思ってくれたかな)
ルームミラーで、彼は背後の様子をうかがう。
瀬野は口元に笑みを浮かべていた。それを見て音矢は安心する。
(瀬野さんが僕のことを警戒して、ますます[機密]を連発されると困るから、
わざと負け惜しみに見えるような話し方をして、あなどらせたんだよ。
人を陥れる趣味がある部下なんて僕だって使いたくない。
でも、僕の趣味はバレてしまったからごまかすしかない)
(あのとき僕は、前々から同じ被害にあっていた小僧仲間と、
先輩にちょっかい出されて困っていた
小間使いさんたちの協力をとりつけてから
先輩のことを陥れたんだ)
(でなければ、偶然、ちょうどいいタイミングで、
番頭さんが先輩のサボり現場を目撃するわけないじゃないか)
(そうなるように、仲間が番頭さんを、
小間使いさんたちが先輩を誘導してくれたんだ)
(みんな、どうしているかなあ。
倒産して、旦那様が夜逃げしてから、
一ツ木屋の奉公人たちはバラバラになってしまった)
失ったものを、音矢は懐かしく思い出す。
(せっかく観察を続けて、それぞれの個性を把握して、
僕の手駒にできたのに……)
(今、僕の周りにいるのは翡翠さんと瀬野さんだけ。
動かせるのは、この二人だけ……大切にしなければ)
次回に続く




