第二話
報告書を読み終えた瀬野は、耳元に羽音を感じた。手を振って追い払おうとする。
「嫌! 蚊が出てきたわね」
音矢は逃げようとする小さな虫を目で追い、素早く距離を詰めて両手ではさむように叩く。つぶれた蚊をつまみ、縁側から庭に捨てて、腰に挟んだ手ぬぐいで汚れをふき取る。
「きゃあ、また来た!」
瀬野の悲鳴を聞き、音矢は庭に面している障子を閉めた。
「翡翠さん、踏むとか蹴るとかすると危ないですから、
空間界面を出してください」
「わかった」
ちゃぶ台のそばで寝転んでいた翡翠は、打撃や衝撃を吸収する空間界面を発生させる。
音矢は茶の間に侵入した蚊を追い回しながら疑問を発した。
「急に蚊が発生……いや、違う。
瀬野さんだけを狙っているみたいだ。
僕らだけのときは来ないのに、
どうして瀬野さんだけ蚊に食われるんでしょうか?」
緑の膜の中から、彼は音矢の問いに答えた。
「父の研究によると、神代細胞を持つ者は虫に嫌われるそうだ。
蚊だけではなく、ノミやシラミ、そしてダニも
神代細胞を投与された実験台を襲わず、
研究者だけにたかったと書いてあった」
「なんででしょうね?」
音矢は2匹目の蚊をしとめた。
「ボクらの血液には神代細胞が擬態している血球が混じっている。
それを嫌うのかもしれないと書いてあったが、仮説の段階にとどまっていた。
これも今後の研究課題だな」
3匹目もつぶして、音矢は茶の間を見渡す。
「ああいう虫は、血を食べて生きているわけですから……
ひょっとして、神代細胞が擬態した血は、まずいのかもしれませんね。
血を吸わない虫であるハエやチョウチョやハチは
この貸家の周りにたくさん生息していて、別に逃げ出す様子はないですし、
虫すべてには嫌われていないのかも」
とりあえず、茶の間にいた蚊は退治したと判断して、音矢は物置に向かった。
蚊取り線香と、大きく口を広げた形をした陶器製の豚を取り出す。夏に備えて手入れしておいた、蚊やり豚だ。この中で蚊取り線香を燃やし、寄ってくる蚊を退治する。音矢は自分たち用に準備はしておいたが、これまで襲われることがなかったので茶の間に出していなかった。
台所からもってきたマッチで音矢は蚊取り線香に火をつけた。蚊やり豚は特有の香りをもつ煙を畳の上で口から吐きだす。
空間界面を解除した翡翠は、首に濡らした手ぬぐいを交換した。涼しく過ごせるようにとの、音矢の工夫だ。
袖も肘までまくり上げた。翡翠の針痕は主に肘の内側に集中しているので、腕まくり程度なら露出しない。
翡翠に長袖を着ろといった本人である瀬野は、それを見ても特に気にする様子はなかった。彼女は愛用の大きなバッグに、音矢の報告書をしまう。
「それは提出用につくったものです。
僕たち用の控えは翡翠さんが書いて、保管しておきますから」
音矢は文房具屋で買った学習用帳面も出した。これは小中学生が、学校で使うような形式のものだ。
身体を起こした翡翠は、その表紙を指さす。
「瀬野さん、訊ねたいことがあるのだが」
「なあに?」
「音矢くんには名前の上に、苗字とか姓とかいうものがある。
しかし、ボクは自分の姓を知らない。教えてくれ」
これが、翡翠が彼の実験台を[音矢くん]と呼ぶことになった理由だ。
音矢は孤島で、翡翠が自分の姓を知らないことを聞いた。それを気のどくに思ったので、対等になるよう、音矢は姓の[新田]ではなく名前で呼んでもらうことにしたのだ。
「帳面の表紙には姓名を書く欄がある。ボクも両方記入したい」
「それは……その……なんというか……」
「言葉を濁すということは……つまり!姓がないんですか!」
瀬野に圧力をかけるため、音矢はわざと大げさに反応して見せた。
「やはり、翡翠さんはあの、尊い御一族に連なる……
ははあっ……今までのご無礼のほどは
ひらに、ひらにご容赦をおん願い奉りまする」
芝居がかった様子で、音矢は翡翠に土下座する。
姓がない一族と言えば、この時代では現人神に連なる家系だ。一般人が気軽に口をきくことなどできない。
「ち……違う違う。そこまですごい血筋ではなくて」
現人神を持ち出されて、瀬野は冷静さを失いつつある。
「ではどのくらいの? 宮家とは言わなくても華族様とか?
公爵様の落とし種殿だとしても、
僕なんかでは御側仕えできる身分ではないのですが」
音矢がたたみかけると、
「そこまででもないけど、そこそ……」
核心部分を口走りそうになったが、ぎりぎりのところで瀬野は踏みとどまった。
「ああっ! もう!機密だから教えられないの!」
例のごとく、ヒステリックに叫ぶ。
「だが、ボクは知りた」
「しつこいわよ! 機密なの! き、み、つ!」
ここまでが限度と見定めた音矢は、準備しておいたヤカンを引き寄せる。
「翡翠さん、麦茶です」
「わかった。撤退だな」
その言葉で、音矢は背筋に冷や汗を感じた。
横目で彼は瀬野の様子をうかがう。
「……私にもちょうだい。疲れた……」
彼女はハンカチで額の汗を押えながら、コップを差し出した。
(よかった。気づかれていないらしい)
安堵して、音矢はヤカンからコップに麦茶を注いだ。
(翡翠さんには後で注意しておかなければいけないな。
瀬野さんがヒステリイを起こしたら、戦術的撤退を行う。
そのきっかけを教える合言葉として、[麦茶です]と決めておいたのはいいけれど
……内幕を口に出してはダメだよ)
次に翡翠と自分のコップに麦茶を注ぐ。
(つまり、公爵さまほどでもないけれど、
翡翠さんはそこそこの血筋ってことかな?)
帳面の表紙を見た翡翠の願いに便乗して、音矢は情報を収集することを計画していた。
(研究機関には上流階級とのかかわりもあるみたいだな。
そして、あの隠しようをみると、
上流階級の中でも、姓を聞けばすぐに身元がわかるくらい有名な一族か)
音矢は麦茶で喉を潤しながら、瀬野の言葉を分析する。
麦茶を飲み干しても、まだ、瀬野は動揺しているようだ。
彼女の気持ちを和ませるために、音矢は翡翠の書いた帳面を見せた。
「ほら、こんなにうまくなりましたよ。
僕が聞き書きしてまとめた報告書を手本にして、
書き写す練習を翡翠さんは毎日していたんです。
順を追って読んでいくと、その努力の跡がしのばれるでしょう」
「そうね……初めの頁は罫線からはみ出しまくる、
歪みきった、すごい字だけど……だんだん読みやすくなってきているわ。
でも、音矢くんの字を見本にしても、翡翠くんの字はもとがもとだから……
ミミズの盆踊りみたい」
瀬野はクスクスと笑った。やっと気を取り直したようだ。
やや西に傾きかけた日差しのなか、南方実篤は庭に出て、木刀を素振りする。
思想を実践するには、肉体的鍛錬は欠かせない。彼はそう信じていた。だから平日は朝晩200回程度振る。実戦でのさまざまな局面に対応するため、正眼の構えだけではなく、八双からの攻撃や左右の片手打ちも取り混ぜた練習をするのが、彼の入門した流派のやり方だ。土日には剣道の道場で指導も受けているし、素振り以外にも、腕立て伏せ、背筋、腹筋、走りこみなどの基礎運動も彼は行っている。
1930年〔光文5年〕の日本では、均分主義者と対抗するかたちで唯日主義者も勢力を伸ばしていた。
彼らは大日本帝国の現状を憂いている。
そして、日本社会における不具合の原因は帝の輔弼として政治を行う国会議員と、多数派の与党議員たちが作る内閣にあると信じている。彼らを抹殺すれば、現人神であられる帝が古のごとく自ら政務をなさり、全ての問題が解決されると思い込んでいる。
実篤も、その一員だ。
彼は平凡な一般市民として安穏に生涯をおくることを望んでいない。唯日主義者として政治的な大事件を起こし、自分の名前を歴史に刻むことを夢見ていた。そして、夢を叶えるために、日々努力を重ねていた。
南方実篤は1909年〔明治42年〕生まれ。音矢の3歳上だ。
裕福な家庭に育った彼は、帝都帝国大学に在籍している。
この時代、大学まで進学できるのは同世代の1%ほど。その中でも帝都帝国大学に入学できるのはさらに選りすぐられた存在だ。正都帝国大学と共に、そこに入学したものは、いずれ大日本帝国を背負って立つ精鋭としての自覚を世間からも促される。
が、実篤は自覚する方向を間違えてしまった。優れた自分には、愚かな民衆を教化する義務があると、思いこんでいる。
その結果として唯日主義に辿りついてしまった。あまりにも過激すぎる思想なため、特高警察の取締り対象になってしまっては本末転倒だが、実篤は世間のほうが間違っていると確信している。
「盆踊り……そういえば、藪入りの季節ね」
瀬野は壁にはってある暦を見た。
「藪入りとはなんだ?」
「それはね……」
瀬野は翡翠に説明する。
薮入りとは、商家などに住みこんで働いている奉公人が、休みをとって実家へと帰ることのできる日だ。1月と7月の16日がその日に当たっていた。
「そうか。なら音矢くんも帰るのか」
音矢は即座に首を横に振った。
「それは結構ですよ。送金さえしておけば、
母も弟も、自分たちで楽しく暮らしているでしょうし。
僕は一日休みをいただければ、一人で羽をのばしに」
「なぜだ? 瀬野さんの話では、みんな楽しみにしている行事なのに、
なぜ、君は帰りたがらないんだ?」
翡翠は、音矢の言葉をさえぎって疑問をのべた。
「あははは、それは個人の好みというやつです。
ただ、それだけのことです。あははは」
彼の笑顔は変わらない。しかし、瀬野には、音矢が焦っているように思えた。さらに彼女は追及する。
「……音矢くん、お墓詣りは行かないの? お父さんの三回忌もあるでしょう?」
「あ、そ、それはまあ……お寺にも頼んであるので……
母がやってくれるでしょうし……」
音矢は目を伏せ、言葉を濁した。そんな音矢に、瀬野も疑問を持った。
「あんたは、戸主でしょうが」
大日本帝国民法においては[家]が重要な単位と規定されていた。一つの戸籍に登録されている[家]の構成員の中で筆頭となるのが[戸主]だ。[戸主]は[家]の最高責任者であり、家族に対する扶養義務がある。未成年であっても直系の男子が優先的に地位を受け継ぐので、音矢は父の死後[戸主]となった。
「祭祀の責任者がなに言ってるのよ」
瀬野が叱ると、めったにないことだが、音矢が口答えした。
「震災で、近い親戚は全部亡くなりましたから呼ぶ人もいませんし、
いいんですよ」
新田家はもともと江戸幕府に仕える下級の御家人だった。その次男坊である音矢の祖父は明治維新ののち、国鉄[JRの前身]の技手になって横濱勤務となった。そのようなわけで、新田の本家は帝都の下町にあったのだが、関東大震災の被害を受けて全滅した。
「近所の人がくるでしょう」
「うちは、近所づきあいをしてないので、かまわないんですよ!
ああっ、もう! 僕にだって個人的事情があるんですから、
ほっといてください!」
瀬野はこの件に大いに興味を持った。彼が泥酔したときは、自己の正当性について大演説を行った。が、普段の音矢は、瀬野に何を言われても、たいがいは穏やかに笑って受け流す。そんな彼が、実家の件については当惑と怒りをあらわにしているからだ。
援軍をもとめ、瀬野は翡翠に話しかける。
「うふふ……翡翠くん、音矢くんの家族にあってみたくない?」
「なにを言ってるんですか!」
翡翠より早く、音矢が反応した。
「翡翠くんに社会勉強をさせるいい機会だから、
あんたの藪入りにつきあってあげると、言ってるのよ」
音矢をいなしてから、瀬野は翡翠に微笑みかける。
「[百聞は一見にしかず]と教科書にも書いてあったでしょう?」
「そうだな……」
彼はあいまいにうなずいた。
「しかし、音矢くんは嫌がっているように見えるのだが」
「この社会には[嫌よ嫌よも、好きのうち]っていうこともあるの。
音矢くんの態度は見せかけよ」
「僕は」
音矢にみなまで言わせず、瀬野は攻撃した。
「[翡翠さんに、世間の常識を教えてあげたい]
音矢くんは孤島の研究所で、そう言っていたわよね?」
「たしかにそうですけれど、
うちはその普通とは言えなくて父も早々と亡くなっていますし……」
あわてているのか、音矢の口調がふだんより速くなった。
「あら、そのぐらいなら普通の範囲よ。
日清日流の戦争とか、スビイリ出兵とか、
父親を亡くしてしまう家庭なんてこれまでにもたくさんあったわ。
私はそんな家庭を差別しないわよ」
「父は仕事中にクモ膜下出血で倒れて……」
「それなら戦死と変わらないでしょう」
「僕の家族は見て面白いような人物ではありません。
むしろ……ああっ、どう言ったらいいかなあ。ああ、もう……
とにかく見に来ないでください、恥ずかしいですから!」
音矢の頬が赤くなっているが、それは暑さのためだけではない。瀬野はそう確信した。
「うふふ。男の子は普通、
母親と一緒にいるところを見られたがらないものみたいだけれど、
照れなくてもいいのよ。
だいたい、自分を生んで育ててくれた人を恥ずかしがるなんておかしいわ。
ほんとは尊敬してるし、同じ血をひく兄弟を大切に思ってるんでしょう?」
「ううー……」
音矢はイヌがうなるような声を出して、ちゃぶ台に顔をつけた。
瀬野は彼が困るところを初めて見た。普段は冷静で時に毒舌を吐く音矢が、実家のことを持ち出されて、うろたえながら終始弁解をする。そのいいわけを自分が叩き潰していく。彼女はとても楽しい気分になった。
「里帰りすると嘘をついて、あんたが別のところに行かないように、
私も随行するわ。
翡翠くんに普通の家庭を教えるためなんだからね。否やは言わせないわよ。」
「そんなあ……」
音矢が弱弱しく抗議するが、瀬野は聞き入れない。
「とにかく決まり! 16日は3人で音矢くんの実家にいくわよ!」
「うわあ……どうしてこんなことに……」
頭を抱えていた音矢が、ふと顔を上げた。その表情には希望の色がうかんでいる。
「でも、翡翠さんのことは機密ですよね?
そのへんのことは家族にどう説明をすればいいんですか?」
「いい方法があるわ」
「え」
一瞬で希望が曇った音矢に、瀬野は微笑んで答えた。
「[翡翠くんが実家の人を観察できるけど、
実家の人には翡翠くんが音矢くんとかかわっていることを知らせない]
ようにするのよ」
「そんな、無茶な……できるわけが」
「もし、私の言う方法でうまくいくと納得したら、やってくれるわね?」
「えーと……とりあえず、どんな方法か聞かせてください」
「納得したらやると、約束したら教えてあげる」
「また、御無体な……普通は教えてから、同意を求めるものでしょうが。
まあ、これもいつもと同じです。しかたありませんから約束しましょう」
「うふふ、作戦というのはね……」
次回に続く




