表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/79

第一話

新田音矢は夢の中でアフリカのジャングルにいた。

このジャングルに住むという野生児を、彼は捜索している。

原色の花や、奇妙な形の葉を茂らせる木々の中を歩いていくと、崖に突き当たった。

その上に生えている木に、野生児はいた。


腰ミノひとつを身にまとった翡翠だ。小さな手でツタをつかみ、細い足ではさむ。

『あぶない!』

音矢は止めようとしたが、まにあわなかった。


翡翠はツタにつかまり、大きく揺れる。その遠心力と自分の体重に、翡翠の手足はたえきれなかった。彼の手から、ツタがすっぽぬける。


『うわああああああああ』

叫びながら、翡翠は落ちていく。


『あーあー、いわんこっちゃない!』

音矢は助けるために落下地点にむけて走る。


『あああああ……発動!』

翡翠は落ちながら空間界面を展開した。華奢な体を緑色の光を放つ膜が包む。


『ああ、よかった』

音矢はほっとして胸をなでおろす。

空間界面なら、落下の衝撃を受け流してくれるだろう。


ドドドドドドドドド


突然、地面が振動し、轟音が近づいてきた。


ぱおおおおおおおおおん


凶暴で巨大な獣たちが、雄叫びをあげる。


『アフリカゾウの群れだ!』

音矢も身を守るために空間界面を展開する。


『わあああああああ』

落ちてきた緑の繭は、象たちに気に入られたようだ。

長い鼻で叩き、太い足で蹴り、楽しそうに遊んでいる。

そして、新たに発生した繭も。


『ああああああーあああ』

『うあーああーあああああああ』

空間界面の中で悲鳴を上げる二人を、象たちは転がしていく……


(あはは。なんて滑稽な夢だ)

音矢は目を覚ました。

身体が動かないので、枕元の気配を探る。

肉眼では見ていないが、観慣れた姿がそこにいた。


(オバケくん、ひさしぶりだね……いや、ちがうのかな?)

手足もない薄白いノッペラボウが枕元にうずくまっている。


(金縛りになったときだけ君の姿を頭の中で観ているけど、

 本当は毎日、見えない状態で僕の枕元にいるのかい? 

 なんだか、自由に体が動く時でも、

 たまに布団の中でうっすらと気配を感じるようになってきたんだ)


人と同じくらいの大きさを持つ塊からは返事がない。

それはいつものことなので、音矢は気にしない。


(ここは何人も死んでいる曰くつきの家だし……

 やっぱり、君はこの貸家に住み憑いているオバケなのかな)


(だとすると、僕が鬱勃とした情熱を発散しているときも、そばに……)

内心忸怩たるものがあったが、


(まあ、いいや。そんなもの、わざわざ見にくるほうが悪いんだ)

その恥ずかしさを打ち消すように、彼は開きなおる。


(だから、オバケくん、邪魔しないでくれよ。

 アレは健全な肉体をもつ若い男性なら当然の行為なんだからね)


(健全……)

音矢は先ほど見た夢を連想した。

腰ミノをまとった翡翠の姿を。それは華奢ではあるが、健康に日焼けした健やかな体だった。

(……本当に、あんなふうだったら……どんなによかったろう)


(オバケくん、翡翠さんの身体はね……)





――さあ、昔々の物語を始めましょう。

これは異なる世界の物語。


そして、消せない痕跡に苦しめられる物語――






現実の翡翠の身体は、音矢の夢とは異なっている。

正中線に走る複数の大きな傷、わき腹にも数本の縫い目。

それ以外にも火傷や針の痕が無数にあった。


孤島で暴走患者に襲われた際、血まみれになった服を着替えさせた。

そのときに音矢は翡翠の身体を見た。


(翡翠さんが嫌がるから事情は詳しく聞いていないけど)

(たぶん、大怪我か、大病を患って手術をしたんだよ)


翡翠の体についての話題を瀬野も避けるので、彼らの中では暗黙の禁忌となっていた。

始末の前後、車の中で着替える時も、瀬野と音矢はあえて翡翠の身体に目を向けないようにしていた。


(最初は翡翠さんの体のことを知らなかったから、いらない恥をかいたっけ)


音矢は孤島で神代細胞を投与されたのち、翡翠に身体検査を受けた。


(この傷を見せて、ちょっと驚かせてやろうと思ったんだよ)

(実際、銭湯なんかで知らない人が僕の傷を見ると、

 みんな明らかに動揺していたし)


音矢は自分の左胸を思い浮かべた。そこには彼が14歳の時、ナイフで刺された傷跡がある。ちょうど心臓の真上だ。


(たったの6針しか縫っていない、肋骨で刃先が止まった傷だからなあ。

 翡翠さんのとはくらべものにならない浅手だもの。ああ、恥ずかしい)

音矢はオバケくんの気配をさぐる。

枕元の薄白い塊は、なにも言わず、ただそこにいた。






翡翠は中廊下に横たわり、全身を伸ばしている。そうすると、板敷の床に体熱が吸収されて、気持ちいいらしい。

彼の服装は水兵帽に、水兵襟の黒い長袖シャツ、そしてズボンだ。

1930年〔光文5年〕のこの時代には子供服としてよく使われているデザインである。



「そろそろ、黒い長袖の服はやめて、もう少し涼しい服に衣替えしませんか? 

 本来なら6月にするものですよ」

音矢は茶の間のちゃぶ台で家計簿をつけながら、翡翠に話しかけた。音矢自身はすでに衣替えをしている。袴はしまって、今は単衣の着流しだ。


「嫌だ」

「ラジオの天気予報では、気温が28度までもあがるって言ってましたよ」


この時代は地球温暖化が進んでおらず、真夏でも最高気温が33度ぐらいだった。だから翡翠も長袖で耐えられるのだが、それでも暑そうに見えた。



「この身体は見苦しいので露出してはいけない。そう瀬野さんに言われている。

 だから、この服を着る」

翡翠は横たわったまま、音矢と反対の方向に顔を向けた。


「君もボクの身体が醜いと思っているから、

 着替える時も目をそらすと瀬野さんに言われた。

 君はボクにとって大切な友達で仲間だから、不快な思いをさせたくない」


音矢は廊下に走り出て、全力で否定した。

「それは間違いです! 僕はそんなことで……

 そうだ。僕は[一ツ木のおじさん]のお世話をしていたことを話しましたね」

「ああ」


「戦争のせいで、おじさんには翡翠さんよりも、もっと酷い傷跡がありましたよ。

 服で隠れない、顔面にも。でも、僕は……」

音矢は口ごもる。

以前、傷痍軍人として復員し後遺症がもとで亡くなった[一ツ木のおじさん]のことを、酔った勢いで否定したことを思い出したからだ。


(あんなことを言わなければよかった。[おじさんは人生に失敗した]なんて)

呼吸を整えてから、別の方向で音矢は翡翠を説得にかかる。


「とにかく、瀬野さんは勘違いをしているみたいです。

 僕は翡翠さんのことを醜いなんて思っていません」

「ありがとう。でも、ボクは、やはり傷や角を露出したくない。

 だから家の中でも帽子をかぶり続ける」


音矢は肩を落とし、ちゃぶ台に向かったが、手は動かない。家計簿をつけるよりも重要なことを、彼は思案する。


(なんとかしなければ)

(あの傷と角を翡翠さんはすごく苦にしている。

 治してあげたいけれど……)

(ああ、こんなときに体を修復できる水晶細胞が使えたらなあ。

 早く実用化できないものだろうか)


(礼文は何をしているんだろう。

 わざわざ水晶さんと研究資料を奪っておいて、

 狂暴な暴走患者を2人作って放り出しただけ……役に立たないな)


深呼吸して、彼は気を取り直す。

(嘆いていてもしかたない、僕にできることを積み上げよう)

(一つ二つの工夫は、せんから始めていたけれど、もっといろいろやらなくては。

 まずは、こっそりと礼文と通じているらしい瀬野さんを使って……)


(明日、彼女は来る。そのときに、アレを渡そう)





瀬野による生活費の監査が終わってから、音矢はちゃぶ台の上に、紙束を置いた。それには《神代細胞研究報告 第一》と表題が書かれ、右端を黒い紐で綴じてある。


「なに、これは?」

「翡翠さんに聞いたことと、これまでの経験をもとにまとめた研究報告です。

 つたないものですが、お納めください」


瀬野はパラパラと報告書をめくり、流し読みをする。音矢の字はいかにも帳簿記載用にふさわしい、角ばった読みやすい筆跡だ。報告の内容は瀬野も知るところとほぼ同じだった。そして、音矢に教えてもよいと翡翠に許可した範囲内だったので、彼女は安心した。


「もう少し格調高い立派な論文にしたかったんですけど、

 僕には日常で使う程度の文章しか書けませんでした。

 文章だけで説明できなかったところは挿絵で補っています。

 そうしたら、

 小学校でやる、夏休みの自由研究みたいになってしまいましたよ。あはは」

音矢の言葉を聞いて瀬野は微笑んだ。ちょうど彼女も同じことを考えていたからだ。





自室で机に向かい、礼文はこれからの方針を思索する。

彼は[真世界への道]を富鳥義知の手から奪い、自分の軍団として作り替え、最終的には均分主義革命をこの日本で起こそうとしていた。

そのためには、まず組織の拡大を図らなければならない。しかし、手紙で個別にやりとりをするだけでは、手間がかかりすぎる。


(いずれは師団を編成したいが、

 とりあえず一個小隊程度は信頼できる部下がほしい)


礼文は故国での活動を思い出す。

文芸雑誌の投稿欄を使って、興味を引きつけてから集会を開き、直接語りかけて均分主義者を増やした。


(私は、この姿で日本人たちに受け入れてもらえるだろうか?)


リューシャでは、日本人の母を持つレフは異分子であった。そして、日本でもリューシャ人に似た外見のせいで溶けこめずにいる。亡命直後に世話を受けた野間男爵家でも、この富鳥家でも奉公人たちから礼文は冷ややかな目で見られていた。


(私の替わりを務めるものに使命を託すか)


礼文は事務所を管理させている津先の人となりを考察する。彼はただ給料をもらうために働いているだけで均分主義などまったく関心を持っていない。

そのうえ、津先はときおり封筒や鉛筆をじっと見つめて、奇妙な表情を浮かべていることがある。

礼文は彼のことを薄気味の悪い男だと思っていた。


しかし、礼文が直接指導できるのは津先だけだ。


(しかたない。

 あいつをなんとか教育して均分主義者にし、

 事務所を最初の[狐穴]にしよう)


礼文は、リューシャで行われていた均分主義啓蒙活動の手法を適用することにした。

それはこんな方法だ。


まず熱意のある均分主義者が親狐となり、最初の[狐穴]を作る。具体的な活動としては、職場や地域、学校などに穏当な趣味の愛好会を結成する。


礼文の場合は蓄音機による音楽鑑賞で民衆を引きつけた。輸入品である蓄音機もレコードもリューシャでは珍しいものだったので、皆、興味を持ったのだ。


あまり多人数だと制御が効かなくなるので、だいたい10人から12人くらいの集まりを作る。愛好会を装うのは、リューシャ帝国でも均分主義は非合法活動だったので、偽装工作のためだ。


[親狐]はそこに集まる仲間に均分思想を啓蒙していく。

見どころのある仲間には秘密を打ち明けて[子狐]とする。

子狐になれるのは10人の内3~6人くらいだ。


それ以外は[アヒル]と呼び、真の同士としては扱わない。

精神的、肉体的、思想的に弱くて、適切な働きができそうもない無能はアヒルとして確保し、彼らを活動の資金源としたり、摘発を受けた際の身代わりにしたりする。


もちろん、アヒルたちにはそのようなことを教えない。自分たちは単なる趣味の集会に参加しているのだと信じ続ける。

組織の本質は、親狐と子狐だけの秘密だ。


子狐たちは親狐から教育を受け、新しい[狐穴]を作るために旅立っていく。状況によっては、子狐に留守番を任せ、親狐が旅立つ場合もある。


リューシャの国土は広大で、人口密度も少ないのでこのような方法がとられた。小さな組織を多数作ることによって、一部が摘発されても全体を壊滅させないための予防策にもなっている。


(そして、親狐たちを統括する頂点に立つのが熊……)

礼文はそこまで回想し、心の痛みを感じて打ち切った。

だが、さびしさと痛みをともなう面影が頭に浮かぶのを止められない。

それは丸顔で頬の赤い、典型的なリューシャ青年の顔だ。


(ワーニャ)


彼は、

リューシャ語で熊をあらわす[メドヴェーチ]というあだ名で呼ばれていた友。

礼文ことレフ・ダビードヴィチの乳母の実子。

同じ乳を飲んで育った幼馴染にして、忠実な従者。


(集会の語り手は……まず、ワーニャが勤めてくれた)

民衆と同じ出自である彼ならではの暖かい声と親しみのある姿が、圧政の苦しみで凍りついていた心をほぐし、絶望で築かれた心の壁にヒビを入れた。

その隙間があるからこそ、レフの演説が染み入ったのだ。


いきなり、レフが民衆の置かれている悲惨な状況を語っても、彼らはその現実に直面することを避けただろう。しかし、ワーニャによって心を開いた民衆は、現実からただ逃げるのではなく、戦いによって理想の社会を作るという希望に、レフの演説で導かれていった。


そして革命が成った日、リューシャ帝国を倒した均分戦隊は民衆たちに歓呼の声をもって迎えられた。戦隊の中には、レフとワーニャもいた。


しかし、ソユーズ連邦政府が革命の初心を忘れてしまった。反政府活動しか経験のない革命家だけでは巨大な国家を運営していくことができず、実務能力と資本力を持つ既得権益層と手を結んだのだ。


その結果、あくまでも革命の理想にこだわる分派を政府は弾圧し、処刑しようとした。そして、レフとワーニャたちは迫害される分派に属していた。

ワーニャは、彼の親友であるレフを亡命させるため、犠牲となったのだ。


痛みをともなう思い出から、礼文は逃げる。

([真世界への道]の組織図では熊でなく、獅子を頂点としよう。

 私の名前でもあるからちょうどよい)


レフとはリューシャ語で獅子を表す言葉である。






礼文はその案を、彼の雇い主である富鳥義知に話した。


もちろん、均分主義革命のことは伏せた。神代細胞を実験するための協力者を集めるため、そして義知の思想を尊重する人々を増やすためと、彼は言いくるめる。


場所は、富鳥邸の離れ屋、そのリビングルームだ。

ソファに寝そべった義知は、絹生地シャツの胸をはだけ、1930年〔光文5年〕という時代では高級品である扇風機の風にあたっている。

彼の貧弱な胸板の上には、銀の細い鎖に馬蹄型の飾りを通したペンダントが乗っていた。



「組織の拡大はオレも考えていた。このあいだ、指示を出しただろう」

そんな事実はないが、礼文は指摘しなかった。かわりに、狐穴の意味と、組織図の説明をする。義知に反発されたくなかったので、組織の頂点である獅子と自分の本名とのかかわりは伏せておいた。


父親ゆずりの、やや垂れた大きな目を天井に向けて、義知はしばし考えていたが、やがてうなずいた。

「獅子宮はオレの星座だからちょうどいいな。

 よし、獅子を[真世界への道]のシンボルにしろ。

 次の会報から、これで表紙を飾れ。会員に周知をはかろう」

テーブルに手をのばすと、そこに置かれたメモに、義知は♌というマークをさらさらと書いた。


「十二星座の獅子宮をあらわす記号だ。

 ……そして、四大元素では火、

 二区分では男性宮、

 居住の座は太陽。数は1、色は金。よし、このネタで小論文を書くか」


義知の占いや神秘学の知識量は、知識量[だけ]は、人に優れている。


礼文はうやうやしく、そのメモを受け取った。

ただし内心は別だ。


(よりによって、この男の星座と一致していたとは

 ……なんだか自分の名を汚されたようで腹が立つ。

 が……しかたない。今は従っておこう)


礼文は、横たわる彼の主人を見下ろして誓う。

(いつか、お前をひざまずかせてやる)






自室に戻り、礼文は机の上に一通の手紙を広げた。

その文面を読み返すと、あらためて嫌悪を感じる。



《我は先日、明治神宮に参拝いたしました。

 この大日本帝国を霊的に守護するための魔術師になるべく、

 祈願をしてまいりました。


 我は、唯日主義で我が祖国を救う先兵として、

 この身の全てを捧げる所存でございます。

 その手始めとして、国賊である総理大臣に天誅を加えます》




礼文は小冊子で活動内容を説明する際に、均分主義用語を取り混ぜて、会員の啓蒙を行っている。しかし、掲載されている文章のほとんどは、義知の書いたオカルトめいた小論文か、海外の出版物を抜粋して許可も取らずに翻訳した文章だ。


まだ[真世界への道]は単なる魔術愛好家たちの集まりにすぎない。だからこそ、勘違いした唯日主義者がまぎれこんでしまったのだ。


(こいつは、アヒルにさえできないクズだ。

 ちょうどよい。あの愚か者に相手をさせよう)

礼文は銀座での苦い経験を思い出す。


(均分主義と対極に位置する思想を持つ者同士、つぶし合え)




次回に続く



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ