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第七話

礼文は少し離れたところから新田音矢を観察している。


三越にステッキを買いに来た彼は、翡翠一行を見つけ、面白半分に後をつけた。


この日に合わせて出かけたのは、翡翠を歌舞伎座に連れて行くので自分たちに近づかないでほしいと、瀬野に言われていたからだ。


彼自身は翡翠に発見されても構わないと思っている。むしろ、別々に行動するよりも、共同して研究した方が神代細胞の実用化が進むと考えている。


しかし、礼文には彼の主人が言い出した計画を変更する権限は与えられていない。だから、不慮の事故でもあればいいと期待して出かけた。翡翠に発見されればよし、それが叶わなくとも瀬野の困惑する様を見て楽しめる。


幸いにも、瀬野がどういうわけか予定を変更して、まだ歌舞伎座で上演中の時間に、光文通りを越えて三越百貨店まで来てくれたのは好都合だった。これで、遭遇した責任は彼女に押しつけられる。


さらに幸運を礼文は得た。

来るはずではなかった音矢という青年が、一行に加わっている。


礼文は不可能を可能にし続けている音矢という男に興味を抱いていた。

そして、音矢には礼文の特徴を瀬野が伝えていないことも知っていた。


絵が得意で探偵趣味のある彼に礼文の特徴を教えたら、似顔絵を描いて自分自身で探し出すかもしれない。礼文に接触されたら、瀬野のついている嘘が全て暴かれてしまう。それを彼女は恐れている。

だから、余裕をもって礼文は彼らを観察していた。




(何も持たずに生まれてきた無産階級であることを受け入れ、

 それを恨むわけでもなく、

 自らの努力で世界に立ち向かうための武器を手に入れようとする青年。

 なかなか見どころがある)


(しかし、現状を受け入れるのではなく、

 より良い社会に変えようとする、あと一歩が足りない。

 きっと、この青年も[真世界への道]に集まった者たちのように、

 均分主義思想に近づくことを国家によって妨害されていたのだろう。

 それで無知のままにとどまっているのだ)


(真の均分主義を彼に教えてやりたいものだな。

 そうすれば、かならず彼は理解し、革命の闘士となるに違いない)

礼文は、音矢が勇敢なる均分団の一員となった姿を想像する。


(ワーニャも困っている人を見ると、ほっておけない性質だった……)

そして音矢のことを、今はもういない親友の思い出と重ね合わせた。





「ね、ねえ。そろそろ帰らない?」

瀬野は礼文の存在に気づいて、この場から一行を離れさせようとしているようだ。


「なぜだ。まだ食事がすんでいない」

「お寿司でも買って帰り……」

「嫌だ。寿司なら駅前商店街でも売っている。

 せっかく遠くまで来たのだから、食堂という所にも行きたい。

 それにボクは今、この時点で、腹がへってきている。

 店内を歩いてまわったからだろう」


「瀬野さん、ここでまたヘソを曲げられてしまったら、

 もう打つ手はありませんよ。

 お寿司はお土産ってことで、食堂に行きましょうよ」

「ヘソを曲げたら、あんたが車まで運んで……」

「ああっ、僕もお腹がすいてきました。2.5キロ走ったせいです。

 これではとても力がでません」

「腹がへった。腹がへった。腹がへった。腹がへった」

「……わかったわよ! そのかわり、ご飯を食べたらすぐに帰るからね!」

「お土産も、お忘れなく」

騒がしい一行の後を、礼文は落ち着き払ってついていく。





食堂の席に一行は案内された。昼食の時間は終わりかけているので、勘定場に行く客と入れ替わる形になった。音矢はさっそく翡翠に献立表を見せてやる。翡翠はそれの説明を受けると、じっくりと眺める。


「これを全部食べてみたい」

「そんなことをしたら、おなか壊しますよ」

苦笑して、音矢は翡翠をたしなめる。


「そうだな。カレーパンを3人分食べたせいで、

 ボクは苦しい思いをした……

 ああ、あの[萬文芸]の記事にあった相撲取りのような胃袋があればな。

 30人前の食事を食べてなお、おかわりを要求するとは」

「そんなに食べたら、食費がかさみますよ」

「しかたない、どれか一つにしぼるか……どれがいいだろうな」

向かい合わせに座り、うれしそうに献立表を覗き込んでいる二人を見て、瀬野はため息をついた。その脇を堂々と通り、礼文は給仕に誘導されて隣のテーブルにつく。





見ないようにしている彼女に一応目くばせをしてから、礼文は音矢と背中合わせに座った。

(今日はついているな)

腹は減っていないので、とりあえずコーヒーを彼は注文する。





「だから……」

瀬野たちからみて、礼文とは反対側のテーブルでは、4人の客同士が声高になにか話していた。

礼文は運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクをいれてかき混ぜる。


「社会を変えるのは、若者に課された義務なんだってば!」

「でも……」

「とにかく、我々の支部に来てくれよ。

 ここでは突っこんだ話ができないし」

「もともとは、軽く食事をするだけって……」

「ここまで来たんだし、ものはついでというだろう? 

 あと、すこしだけでいい。我々の話を聞いてほしいんだ。

 外部に持ち出せない種類の資料を見れば、

 もっと理解を深めてもらえるだろうし」

「……わかったよ」

ガタガタと椅子を動かし、彼らは席を立った。


他の2人に取り囲まれるように、気の弱そうな男が出口に向かう。1人はすぐに勘定場に行かず、他の席をまわりだした。鞄から紙束を出し、その中の一枚を彼は礼文に差し出す。

「どうぞ。我々の思想です」

そう言って、配り終わった彼は足早に退出した。


礼文は受け取った紙に目を走らす。

均分主義について書かれた宣伝ビラだった。やはり謄写版で刷られているので、礼文は親しみをもった。

(ほう、この国にも[真世界への道]以外の活動家はいるのか)

礼文は後輩を頼もしく思いつつ、コーヒーを口にする。




5年前に来日してから男爵邸と富鳥邸に住みこんで、他の奉公人からは差別され、敬遠されている礼文は、世間の人が本音で語る現状にうとい。新聞や雑誌などの当局が検閲済みの情報と、[真世界への道]の信者が手紙で送ってくる不満、それに義知のオカルト談義しか彼は知ることができなかった。




「なんだ、これは」

翡翠は戸惑ったような声をあげる。彼らのテーブルにもビラは配られたようだ。


「ああ、戯言しか書いていない紙クズですね」

背後からの声を聴いて、礼文はむせそうになった。


「まったく、紙とインクの無駄遣いもいいところですよ。

 これを配るところをみると、

 さっき食堂を出て行ったやつらは均分主義にかぶれたヤカラが、

 紙クズ作りの仲間を増やそうとして

 隠れ家に連れ込もうとしているってところでしょう」


礼文は自分の耳が信じられなかった。

彼と背中合わせに座っている男は、ひどい言葉で均分主義者をおとしめている。

あのお人好しそうな表情と、その言葉の落差に彼は衝撃を受けた。




「あはは。連れてかれた人はヘタを打つと朝敵の仲間入りですよ。

 日本の国体を転覆しようとする主義にかかわって、

 幸せになれるはずがないのに。破滅にむかって突き進んで、

 これはお気の毒様ですね。あはは」


「助けてあげないのか?」

翡翠の疑問に男は答える。

「腕をつかまれて引きずられていくわけではなし、

 自分の足で歩いてついていくんでは、助けようがないですよ。

 均分主義者と行動を共にする。

 そういうふうに、あの人が自分の道を自分で決めたんです。

 個人の意思は尊重されなければいけません。

 たとえ、それが地獄への道だったとしても、

 他人が口出しすることではないですね。あはは」


「冷たいのね。3対1では抵抗しようにもできないわよ」


「それは不利な戦いだな。

 もし、そんな状態になったとしたら、音矢くんはどうする?」


「どうしても嫌なら、悲鳴をあげてもいいですし、

 かなわなくとも相手をぶん殴ればいい。

 それも怖いなら、店員にしがみついて離れなければ営業妨害になる。

 そうすれば警察が来るから、隠れ家に連れこまれるまえに脱出できる。

 もしも連れこまれたりしたら、

 そこでクズ仲間の非合法な仕事の手伝いを強要されて、

 抜き差しならない事態になるでしょう。そんな不幸は避けられます。

 まだ手がきれいなうちに警察に保護してもらって、

 取り調べのときに均分主義の協力者にされそうになったと言えば、

 敵方の3人は国家権力の手先である警察がやっつけてくれます。

 僕らは税金を払っているんだから、

 国家の力が使えるときには、使わないと損ですよ」

「なるほど」


「それって、恥ずかしくない? 

 いちいち警察沙汰にするなんて外聞も悪いし……

 それに、あの人たちは初対面ではなくて、顔見知りの学生同士みたいだったわ。

 友達や、仲間を……いえ、たとえ行きずりの人でも、

 警察なんかに売るなんて卑怯よ。もうちょっと穏当な方法で断るとか」


「向こうが数の力で押してくるんだから、穏当な方法では排除できないでしょう。

 だいたい、ちょっと話をするだけとだまして、

 非合法活動に引きずりこもうとするヤツなんて、

 友達でも仲間でもありません。敵です。

 敵と戦うのに手段なんて選んでいられないですよ……

 まあ、後知恵ですけど。実際に体験しないとわからないこともありますね」

「……あ…………」


瀬野が不自然に沈黙した。その雰囲気に感応したのか、音矢は明るい声で話題を切り替える。

「翡翠さん、注文は決まりましたか」

「ボクはこのチャーシューメンというものが食べたい」

「そ、そうね。さっさと頼みましょう」

瀬野は給仕を呼んだ。





注文している間、翡翠はおとなしくしていた。給仕と瀬野のやりとりに興味をひかれたようだ。しかし、それが終わると先ほどの話題を持ち出した。


「均分主義者は、なぜ警察にやっつけられるんだ? 

 均分主義とは、

 すべての人類の権利も財産も均分にしようとする主義だと

 この紙に書いてある。

 社会的な不平等をなくし、

 みんなで生産物を均分に配給して仲良く暮らそうとも書いてある。

 別に悪いことではないと思うが」


「ちょ、ちょっと、翡翠くん。その話題はもうやめにしましょう」

「なぜだ? これは食卓で話してはいけない汚い話題なのか?」

「そういうわけではないけど……とにか」

翡翠を止めようとする瀬野の言葉に、音矢が割って入った。

「あはは、むしろ、きれいすぎる主義なんですよ。均分主義っていうのは」


「あんた、話題を蒸し返さないで」

「ここで翡翠さんの疑問に答えなかったら、

 どんどん質問する声が大きくなって、他のお客に迷惑かけますよ。

 それこそ歌舞伎座の二の舞になってしまいます。

 この場を丸く収めるには、きちんと答えないといけません」

「……わかったわよ」

瀬野はしぶしぶと認めた。




「みんな均分、みんな平等というのは良いことではないのか?」


「それは誰でもが同じ量、同じ献立の御膳をいただくってことですからね。

 相撲取りも、僕も、翡翠さんも。

 [普通の見本]である僕を基準にして量を決めると、

 相撲取りには足りないし、翡翠さんには多すぎる。

 三人のうち二人が不都合になるようなやりかたがうまくいくはずがない。

 均分な配給が成り立つのは、

 受け取る方も均分であるという前提が必要です。

 規格はずれの人までも自分にあった生活ができるような社会じゃないと、

 誰もが幸せに暮らせませんよ。

 みんな、どこか基準と違うところ、

 自分なりの個性があるのが普通なんですから」


「なるほど。

 基準から外れているものが幸せになれない社会は

 ボクには合わないな。

 均分も平等も正しい概念かもしれないが、一律に適用されたら困る」


「きれいすぎるっていう意味、わかってもらえましたか?

 ようするに、均分主義というのは、

 頭の中で作りあげた理想論にすぎません。

 実際に適用するとしたら、そうとう社会情勢にあわせた修正が必要ですね。

 現実とは、夢の中の花畑みたいな清らかなものではなくて、

 もっと泥臭く、殺風景なものです」





礼文はテーブルの下で拳を握りしめた。

音矢の発言は、まさに彼を故国から追放した敵派閥の思想と同じだったからだ。

革命の理想を追い求めるレフ・ダビードヴィチたち対、現実にあわせた適用を行おうとする派閥、その闘争に敗れた苦い記憶がよみがえる。



「それに、今日の食事だって……

 僕はカレーライス。

 翡翠さんはチャーシューメン。

 瀬野さんはクリームソーダ。

 みんな違うものを注文して、翡翠さんは3種類の食べ物を味見できる。

 全部同じで料理が一種類しかなかったら、つまらないでしょう」

「そうだな。楽しみだ。

 しかし、均分主義者が警察にやっつけられる理由がわからないぞ」


「警察は法律を守らない奴を取り締まるのが仕事ですから。

 そして法律を作るのは貴族院の華族と衆議院の議員。

 議員になるには選挙運動の資金が必要だから、

 ほとんどが金持ちです。

 支持者からの寄付で資金を集めた議員もいるけれど、少数派にすぎません。

 社会的な特権を持つ華族と、富を貯めこんでいる金持ちが作る法律が、

 自分が損することになる、平等と均分を認めるわけがないでしょう。

 そういうわけで、均分主義は取り締りの対象になっています」


「特権と富を守るために、警察は働いているのか」

「そういうことですね。

 で、ついでに僕たちみたいな一般市民も守ってくれるというわけです。

 僕らは労働者にして納税者。

 つまり国家の財産ですから

 政府に刃向う均分主義者になられては困るんでしょう」




礼文は心の中で叫んでいた。

(この男は、均分主義を理解している! 

 それなのに真っ向から否定している! 

 あまつさえ、自分自身を国家の財産、いわば単なる物体とみなしている。

 人としての権利、人間性の尊厳を、みずから放棄しているとは!

 なんと、卑屈でおぞましい思考だ!)


冒涜的な言葉を吐くその本体を叩きのめしてやりたいと礼文は思った。


しかし、音矢が硬貨を拾う時に見せたあの素早い働きと、関節に抵抗されない、しなやかな動作、そして18歳の青年がもっているであろう若い筋肉と、2.5キロ走が可能な心肺も礼文の頭に浮かぶ。

そして、36歳である自分自身と、その肉体的な衰えも。


礼文は士官学校時代、様々な技能を習得した。サーベルでは校内で一、二を争うほどの腕前を誇っていた。射撃の成績もよかった。しかし、今、彼の手元には剣も銃もない。


レスリングはそれほど得意ではなかったが、それでも中程度のランクを得ていた。

だが、現在の膝はタックルをかけるために彼が低い姿勢をとることを許さない。そして実戦の場から離れて5年の空白が、礼文から自信を奪っていた。

一方、礼文の背後にいる青年は、現役の殺人者だ。その認識が礼文の行動を制限する。





「また、身もフタもないことを……

 ほんと、あんたの話を聞いていると、

 この世に救いも希望もないような気がしてくるわ。

 もう少し、世界を明るく見られないの?」

瀬野が呆れたような声を出した。


「瀬野さんは僕の意見に反対ですか。

 それなら、暇な時に論戦しましょうよ。

 自分の意見に反対する人の話を聞いて、

 こっちの話も聞いてもらうのはいいことです。

 自分とは違う視点の意見を知り、自分の意見をより良い形に修正できるから、

 一石二鳥の儲けが出ますよ」

「論戦するなんて時間の無駄よ。お断りするわ。

 あんたは屁理屈ばっかりこねるし……

 穏やかそうな顔して、性格が曲がってるんだから」

(その通り)

背後で聞いている礼文も心の中で同意した。





「でも、論戦の重要性を説くような昔の言葉があったような……

 うろ覚えですけど……

 なんとかテールとかいう人の

 《君の意見と僕の意見は違うけど、

 君がそれを主張するのを僕は邪魔しないよ。

 むしろ、主張するのを妨害してくるやつから君を守るよ》とかいう

 名言があったような気がします。

 [萬文芸]で読んだんですけど、正確には覚えてません」


「あんたの知識はしょせん雑学程度ってことなの」

音矢の意見を瀬野は鼻で笑って、前の話題に戻した。




「音矢くんは青年なのに意外と保守的ねえ。政府のいうなりになって平気なんて」

「あはは。瀬野さん、めったなことは言わないほうがいいですよ。

 確かに、現在の政府に批判的になるのは、世間の風潮です。

 でも、特高警察ってのはあなどれませんよ」


1911年〔明治44年〕、警視庁に特別高等課が設置された。それに所属する警察官たちは俗に特高と呼ばれている。

彼らは均分主義や唯日主義などの、国体を棄損する方向性を持つ政治運動を取り締まることを職務としていた。




「政府のイヌなんて、馬鹿にする人もいるけれど……

 特高の刑事さんたちは

 とても頭がよくて、職務熱心で、日々創意工夫し、

 国体を危うくする非合法活動家を狩りだそうとしています」


礼文は音矢の言葉に興味をひかれた。リューシャ帝国時代でも、均分主義の取締りにあたっていたのは警察だったからだ。



「あの均分主義者が囮という可能性もある。

 そう、わざと均分主義が食卓の話題になるように仕向けて、

 おもわずもらす本音を聞き取ろうと、

 特高の刑事さんが客や給仕の中に紛れているかもしれない。

 …………冗談ですよ。あはは。

 でも、反政府思想を公共の場で話すのは危険です。

 5年前に治安維持法が制定されて、

 ますます特高警察が動きやすくなってますから」




礼文はそっとうなずいた。

(今、騒ぎを起こすのはまずい。

 私が新しく育てようとする組織のためにならない)


事務員上がりの音矢は格闘技の鍛錬を受けたことがなく、真正面から瀬野と戦えば負ける。そのように礼文は彼女から聞いた。


音矢の習得している技は、この国の少年が遊びで覚える程度のもの。相撲の内掛け外掛け上手投げ下手投げ。その程度であることも知っている。


そして、これまで音矢が殺したうちの2人は、礼文が意識的に選んだ弱者だ。

戦いの心得があるものが肉体を強化する神代細胞を手中にしたら、礼文の制御など効かない。だから、礼文は広い家に住む候補者の中から、戦いと縁のない生活をしてきた女性2人を選んだ。


孤島での実験でも、音矢が殺した3人は素人ばかりだったと聞いている。

それを倒しただけなのだから音矢は本当の意味の強者ではない。

そのうえ、彼は礼文の存在に気づいていない。今、不意をついてレスリングの技で締め落とせば、必ず勝てる。彼の自尊心は、そう確信している。

だが、礼文は音矢と戦う気分にどうしてもなれなかった。


そこに、特高警察云々という言葉が入ってきたので礼文はそれにすがる。


(私はあえて、愚か者を成敗する機会を先に延ばす。

 未来のために、一時の怒りを制御する。私は理性的な指導者なのだ)

音矢の言葉は、彼が行動しないことに大義名分を与えた。


だからこそ、礼文は、なぜ自分が小生意気な若造に罰をあたえることができないのか、その真相に思いいたることができなかった。



日本人である音矢の体臭はもともと薄い。そして食堂内の空気には先客が注文したさまざまな料理の香が入り混じっている。だから、食物の香に覆われて、音矢の臭いを礼文の表層意識は認識していない。それでも、音矢が2.5キロ走ってかいた汗の臭いは、ごくわずかだが礼文の鼻に届いていた。


識域下で関知した健康な若い雄の存在が、礼文の行動を抑制している。老いを意識し始めた、古傷を持つ雄にとって、それは本能的な恐怖だ。

自分を打ち負かす可能性を秘めた者への畏怖が、彼の身体を縛っていたのだ。





「そういうわけですから、

 公共の場では《こんなふうに》政府が喜ぶようなことを言ってあげましょうよ。

 その報告を受ければ、

 上の人が安心して取り締まりの手を緩めるかもしれません」


多人数いるであろう、特高に所属する警察官の一人が自分たちの会話を聞いている可能性を、音矢は想像できた。


しかし、この世にたった一人しかいない、 [真世界への道]の首領、均分主義者でもある首領が、自分の言葉を今、真後ろで聞いているという異常事態など、音矢の想像力の限界を越えていた。

もしもそのような事態を想像できるなら、すでに正気ではない。

音矢は、その点では普通の思考をしていた。



「ああ……そ、そうね。うん……」

瀬野も自分たちが後ろ暗いことをしているのを思い出したのか、言葉を濁した。しかし、翡翠にはわからなかったようだ。


「さっきの人は、社会を変えるのは若者の義務だと言っていたが、

 ボクはやらなくていいのだろうか」

「あんな人たちよりも優れた、

 社会を変えるための手段を翡翠さんは開発しようとしていますよ」


「ボクはそんなことをしている覚えはないが」

「アレを科学で研究して、使用するための技術を開発しているでしょう。

 社会構造を変えるのは科学、そして技術です。

 火の使用、農業の発展、そして産業革命。

 尋常小学校でも習う、歴史の基礎です。

 政治的な主義主張なんて、その後追いでつける小理屈にすぎませんよ」




音矢の持論は、礼文の心を傷つけ続ける。

(違う。科学などは、人類が進歩する過程で得た、知識の集成でしかない。

 正しい主義があってこそ、

 正しい政府を作り、

 正しい生活を人民に与えることができる。これが真理だ)

反論したいが、今の彼にはできない。




「どこの国でも、

 新しい勢力が古い体制を倒す……王朝の交代はしょっちゅう起きていました。

 でもこの国では違う。

 天朝様に弓を引き、逆賊になったヤカラは、すべて滅びている。

 これも小学校で習う歴史的事実です。

 秦の始皇帝は、ずっと自分の王朝が続くと思ったから、[始]を名乗ったのに、

 次の二世皇帝で滅びてしまいました。

 他の王様や皇帝だって

 ずっと自分の作った王朝が続いてほしいと思っていただろうに、

 結局新しい王朝に倒されてしまう。それが世界の普通なんです。

 でも、日本だけは違う。

 他の王様や皇帝たちができなかったことをやってのけるような、

 理屈では説明できない力を持っている。

 それなら、神様ってことでいいではないですか。

 だから、僕は官軍側につくのが主義なんです。逆賊なんて嫌ですよ」


「ああ、[勝てば官軍]というのが、君の主義だったな」




礼文は残っていたコーヒーを飲み干す。

甘苦い味わいでも、彼の不快感を消すことはできなかった。


(どこまでも、卑屈、そして権力への追従……聞けば聞くほど腹が立つ)


(もう、あいつを観察する必要はない。

 ステッキを買いに行こう。

 丈夫なステッキを。

 強力な打撃を与えられるようなステッキを。

 私の敵を倒すためのステッキを)

彼は杖という武器を脳裏に描き、その象徴する力にすがりついて恐怖をなだめることで、ゆっくりと体の自由を取り戻していく。





「ところで、この箸はなんだ。くっついているぞ」

音矢が手を貸したので、翡翠は割り箸をきれいに割ることに成功した。なんでも一人でやりたがる彼だが、音矢の忠告は素直に聞くことにしたようだ。


注文したものが彼らのテーブルに運ばれてきた。翡翠は初めて見るクリームソーダに大いに興味をしめし、一口味見させてもらう。炭酸にむせた。次にチャーシューメンに箸をつける。気に入ったようだ。


音矢も念願のカレーライスを前にしたが、すぐには食べない。まず翡翠の味見用の分を、添えてもらった小皿に匙できれいに盛り付ける。

その後ろでイスが動く音がした。彼の後にいた客は音矢の横を通って勘定場に向かうようだ。音矢はその姿をふと見た。


(背が高くて、身なりもよくて、かっこいい人だなあ)

(足が不自由みたいだけれど、姿勢はいい。もと軍人さんだろうか)

音矢は幼いころに世話になった[一ツ木のおじさん]を連想し、懐かしく思った。





――これは昔々の物語――


――――探していたもの(ネコ、敵の首領)を、

 ついに発見する(けれども逃げられる)物語――――




礼文は樫製ステッキを素振りした。なかなか良いものが手に入った。硬くて、重心も申しぶんない。L型グリップ部に彫られた三日月文様もしゃれている。


次に手首をひねってステッキを体の左右で交互に回す。風を切る音が耳をなでる。懐かしく、頼もしい音だ。

左足をそっと引いて構える。やはり力がうまく入らない。後ろ脚を蹴りだすより、前に出した右足で踏み込むのを重点とするようにフォームを改造する必要があるだろう。


「どうだ。私の杖さばきは?」

部屋の隅、壁際に立たせた水晶に問いかける。

効力を確かめるために、上半身の服は剥いだ。

「どうだろうね」

単調な声が答える。


「威力を知りたいか?」

「知りたいよ」

鋭く息を吐き、礼文はステッキの先端を水晶の右胸に突きこむ。肋骨が砕ける感触が手に伝わる。

水晶の唇から呼気が漏れた。それは苦痛を表すものではない。ただ、肺を強く押されたために、中の空気が噴き出ただけのものだ。


ステッキを引くと、胸のくぼんだ部分がモゾリと動き、復元する。アザすら残らない。

「両手を水平にあげろ」

「あげるね」

肩の高さに掲げられた右の二の腕を礼文はステッキで打つ。折れた骨は腕の重さを支えきれず、不自然な形で腕がガクリと下がった。

礼文は手首を返し、左腕も打つ。こちらも同じように折れた。


壊れたカカシのような姿を見て、礼文は笑った。

自分には人体を破壊する力が残っていると確信できたからだ。

(できる! 私はまだ戦える!)

復活の喜びが、喉からほとばしった。


自ら発したリューシャ語の歓声が耳に伝わり、礼文をさらに駆りたてる。

骨折を復元しつつある水晶の、額に生えた紫色の角。そこを狙ってステッキをふる。

脳に直結している部位への攻撃は、さすがに耐えきれなかったようだ。

水晶は床に倒れ伏す。


その無様な姿を見下ろしながら、礼文は背広のポケットからガラスの小瓶を出した。

直接手に触れないように、床に落ちた角のかけらをその瓶の口ですくい取り、蓋を閉める。

次回の実験に使うための材料を採取して、礼文は思う。



(新田音矢。

 お前の思想はあまりにも低劣だ。

 かならずや、私はお前を打ちのめし、

 ねじれ曲がった思想を破壊し、

 正しい思想を注入して、お前を真の均分主義者にしてやる)


(この国の政府から押しつけられた思想からお前を解放し、

 自由を求める魂の素晴らしさを、私はお前に学習させる。

 人間は国家の財産などという穢れた物質ではない! 

 もっと清らかで尊厳のある存在だと、認めさせてやる!)



士官学校には実技や軍事知識の授業だけでなく教養課程もあった。


ヴォルテールの、

[私はあなたの意見には反対だ。

 だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る]

という名言もそこで学んだ。


音矢のように、ヴォルテールの名言を、雑誌に掲載された雑学として知り、うろ覚えでいるわけではない。

リューシャ貴族のたしなみとして、彼はフランス語も習得しているのでヴォルテールの著作も原文で読んだことがある。


しかし、礼文はこの思想を実行するつもりは全くなかった。


むしろ、[実行するつもりは全くない]という自らの思考さえ、彼は意識していなかった。





(やあ、オバケくん)

今回は夜中ではなく、寝入りばなに金縛りがきた。

音矢は慣れた様子で、枕元にうずくまる薄白い物体にあいさつする。


(昼間は銀座に行ってきたよ)

音矢は計略を使って自分の望みをかなえた自慢話をオバケくんに語る。


昔、呉服屋に勤めていたころには、音矢は自慢話の聞き役に回ることが多かった。自らの手柄を吹聴することで、生意気だと反感を買い、仕事上で嫌がらせを受けるのを恐れていたからだ。

しかし、オバケくんは音矢の枕元に現れることしかできない。だから、安心して音矢は目も鼻も口もない物体に自慢をする。


(お土産は寿司ではなくて、ビスケットになったよ。

 翡翠さんが缶の模様が気に入ったから、

 どうしても欲しいって言ったんだ。

 僕としても、高級洋菓子を食べてみたかったから瀬野さんに勧めた。

 帰ってからお茶を入れてみんなで食べたけど、とってもおいしかったよ)


音矢はビスケットの味を思い浮かべる。


(この感覚、きみに伝わってるかな? 

 おすそわけしようにも、

 オバケくんには口がないから、

 せめて僕の体験だけでも分けてあげたいんだけど……

 伝わらなかったら、ごめんね)


音矢は枕元の気配を探る。オバケくんが喜んでいるのか、何も感じていないのか……

(やっぱり、よくわからないや。

 きみはなんのために、僕のそばに出てくるの?)

返事はない。

(まあいいか。少なくとも、僕をいじめるつもりではないようだし)

(瀬野さんとは、大違いだな)



――そして、これは――



(瀬野さんは僕のことをぶったり、

 難癖をつけたりしていじめる。

 ややこしい状況を引き起こしておいて、

 それが手におえなくなると、

 僕に後始末を押しつける)


音矢は彼女のことを考えた。


(おまけに、嘘つきだ……

 まあ、嘘をつくのは女の本性なんだからしかたないか)


(瀬野さんは美人で胸も大きくてスタイルがいいし、

 足も西洋人みたいに長くてきれいだから、そのくらいは許そう)


音矢も20世紀初頭に生まれた男性なので、どうしてもその時代の偏見や差別から逃れられない部分があった。

しかし、彼の歪みはそれだけではない。




(でも瀬野さんは、

 女性にしては比較的に性格がいいし、物わかりがいいし、

 有能な部類だよ。あの人が連絡係でよかったな)


(なりゆきで変な状況に巻き込まれて、

 苦労もさせられるけど、

 そのおかげで瀬野さんにめぐりあえた。

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ)



――ウブな男が性悪女にだまされる物語――



音矢が女性の代表としている人物は、世間一般の常識からすると、ひどく低級な存在だ。しかし、彼はその歪んだ基準を自覚してはいない。音矢がまだ幼いころに刷りこまれたものだからだ。




(僕が自分の命を的に、

 [真世界への道]の信者と戦う理由として

 研究機関に与えられたのは……

 神代細胞の暴走を防いで人類滅亡を防ぐという目的)


(目的の中でも、特によりぬいて

 瀬野さんを守るっていうことを足してもいいかな。

 好きな人を死なせたくないってのは……普通の気持ちだし)


(僕の心を異常だとして、瀬野さんは否定するけど

 ……がんばって、彼女を守りぬいたら……

 少しは、僕の考え方を認めてくれるかな……)




次回に続く


1月中は休暇をいただき

次回は 2月 2日(火曜) 20:10ごろに投稿予定です。


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