第六話
ホクホク顔で瀬野は翡翠を連れ出す。音矢はその後ろから声をかける。
「行ってらっしゃい」
彼女は振り向きもしない。
「……お気をつけて」
音矢は、ある意図をもって言葉を追加する。
(よし、第一目標は成功した)
音矢は丸めた座布団を枕にして、茶の間に大の字で寝転がる。思えば、孤島に連れて行かれて以来、翡翠の世話に追われて音矢には休日がなかった。
(翡翠さんは瀬野さんと出かけたから、
僕はのんびりと昼寝ができる。[鬼のいぬ間の洗濯]ってやつだな)
庭に面した障子は開けてある。外からは雑木林を抜けたさわやかな風が入ってくる。紺絣の単衣をくつろげて、音矢は目を閉じた。
(さらにうまくいけば……僕にもチャンスがめぐってくる)
小一時間ほど眠ったろうか。音矢は枕元に置いた小型電波送受信機の音で目を覚ました。
(瀬野さん、モールス信号でなにを伝えようとしているのかな?)
音矢は耳に神経を集中して、信号を解読する。
ギンザ カブキザ スグコイ
(銀座の歌舞伎座? すぐ来い?)
「あはは。やった。僕の目論見通りだ」
(翡翠さん、なにかやらかしたな。
最近まともに行動できるようになったように見えるから、
瀬野さんも油断して連れ出したんだろうけど)
(本質は全く変わっていない。
自分のやりたいことだけを考えて、
邪魔されるとヘソを曲げる。それが翡翠さんだ)
(瀬野さんの手におえなければ、僕にお鉢が回ってくる。
当然僕も外出しなければならない)
(二段階目の計略成功だ。あはは)
音矢は置きあがり、外出のために戸締りにかかった。
彼は無意識に[抜刀隊]のメロディを口笛で奏でている。
礼文はステッキを買う覚悟を決めた。
これまでは足が不自由になったことを認めたくなくて、使わずにいた。しかし、この国に対する戦いを始めるには、武器が必要だ。
故国で彼は、サーベルの名手と言われていた。
しかし、日本では廃刀令なるものが施行されており、一般人は帯刀できない。
だから礼文はステッキを買う。
たよりない武器だがサーベル替わりだ。
机の引き出しに入れてある給金の中から礼文は紙幣を取り出し、無造作に背広のポケットに入れる。
亡命する旅の中で資金の欠乏に苦しんだ。男爵家に身を寄せているときも生活費のことでなじられた。その経験から彼は金を憎んでいた。国民がすべて金などに支配されず、公平な配給だけで暮らす均分な世界を礼文は夢見ている。
三越百貨店で、翡翠一行は食事をとることにした。
なお、この時代では、三越と伊勢丹は経営統合していない。
食堂がある階にエレベーターで直行はせず、一階上がるごとに乗り降りする。見たことのない機械に何度も乗れるので、翡翠は上機嫌だ。そして、陳列してある文具や家具など、彼の知らない商品を見分しながら歩くことを翡翠は大いに楽しんでいた。
彼の後を並んで歩きながら、音矢は瀬野に事情を聞いた。
「ああ、せんに弁慶と義経の話をしたから、
[勧進帳]でも見せようとして歌舞伎座につれていったわけですか」
しかし、今回の演目は違っていた。それでも瀬野は自分が好きな歌舞伎の魅力を知ってほしくて、昼の部を見ることにした。
この時代の歌舞伎は大衆芸能として非常に人気があり、若い女性に問えば贔屓役者の一人二人がいるのが普通だった。
当日の三等席ではあったが、二人は歌舞伎座に入る。翡翠の水兵帽のことで注意されないように、最後列に彼女は席をとった。しかしその席は、座高の低い翡翠にとっては舞台が見えづらい不都合なものでもあった。そして視覚ではとらえられない情報を得るために、翡翠が行ったことで問題が生じる。
「まさか、翡翠さん、演目が始まってから、
今現れた人は何者かとか、あの人は何をしているのかなんて、
普通の大きさの声で質問しまくったり……」
「したのよ」
瀬野は疲れた様子で答えた。
「注意してもやめないどころか、どんどん声を大きくして質問して
……あんまり騒ぐから、周りの人に嫌がられたんで、
途中退場してチケットが無駄になって……」
「それを叱ったら、翡翠さんがヘソを曲げてしまったと。
いったんヘソを曲げたら、
ウンでもスンでもなくしゃがみこんで、動きませんからね。
あの人を抱えて運ぶと人目について恥ずかしいでしょうし」
歌舞伎座用の駐車場はすでに満車だったので、瀬野はやや離れたところに路上駐車した。12歳くらいに見える翡翠を抱っこしてそこまで運べば、当然通行人の注目を浴びるだろう。
「かといって車を一人で取りに行くこともできない。
いくら[勝手に動かない]と約束したとはいえ、
翡翠さんから目を離すのは心配でしょう。
それでどうにも手に負えなくなって、僕を助っ人に呼んだと。
こういう事情ですか」
「……あんたが来るまで、
ずっと歌舞伎座の前から動かなくなっていて……私がどれだけ……」
恨みがましい瀬野の言葉を受けて、音矢は謝った。
「あはは、長いことお待たせしてすみません。
これでも連絡を受けてすぐ戸締りをして、
最寄駅への2.5キロ道を駆け抜けて、
国鉄の列車が来るまで待機するのではまどろっこしいと、
駅前で円タクを拾って銀座まで馳せ参じたんですが」
[円タク]とは、帝都市内なら1円均一の料金で乗客を運ぶタクシーのことだ。大阪で始まったこのサービスは1926年から帝都でも広まり、大いに利用されている。
「……そうよね。どうしても、それなりの時間はかかるわよね……」
瀬野はしぶしぶながらも同意する。
しかし音矢が到着しても、翡翠の機嫌はすぐに戻らなかった。
むりやり車に乗せれば、翡翠の不機嫌は延々と続く。それを恐れて、瀬野は音矢に説得しろと命令した。
音矢はいろいろと声をかけて、翡翠の心を動かすことに成功した。
『そうだ、ライオンを見たくありませんか?
本物ではなくて、銅像ですけれど。それでもかなり大きいみたいですよ』
この言葉に反応して翡翠は動きだし、瀬野の案内で三越百貨店前にやってきた。
ロンドンのトラファルガー広場にあるという銅像を模倣したという、ライオンを見た翡翠はたちまち機嫌を直し、なでたり乗ったりして楽しんだ。
そして、せっかく来たからということで一行はここで食事をすることとなった。
「……翡翠くんが動物好きなことも……
三越の前にライオンの像があることも……私は知っていたのに」
音矢が翡翠を動かした理屈の種明かしを聞いて、瀬野はくやしそうにしている。
(まあ、コロンブスの卵みたいなもので、
言われてみれば当然のことなのに
言われるまで気がつかないってのも普通にあることなんだけど)
音矢はそう思ったが、あいまいに笑うことだけで答えた。
(はっきり言うと、
またぞろ〈私は普通以下ってこと!〉
なんてヒステリイを起こすかもしれない。黙っていよう)
(この人は、僕を支配下に置くと安心するみたいだから、
そのうちに小さなしくじりでもして、
また叱らせてあげようかな。
あまり僕の成功を見せつけると嫉妬するみたいだし)
音矢は翡翠だけでなく、瀬野の操縦法も試行錯誤の上で見出そうとしていた。
「おっと」
買い物客が、おつりの小銭を落とした。
音矢はすばやくその硬貨を目で追い、商品を陳列している棚の下に転がり込んだのを見て取った。
ためらわずに彼は床に手をつき、隙間に手を差し込んで硬貨を取り出す。1銭玉だ。
その価値は1円の百分の1しかない、少額通貨だった。
丁寧に埃をはらうと、音矢はそれを落とした買い物客のところに持って行った。
「どうぞ。落としましたよ」
「ふん」
裕福そうな中年男は、音矢の差し出したものを見て、つまらなそうに鼻をならした。
「ご苦労だったな。そんなものはくれてやる。駄賃として取っておけ」
屈辱的な言葉に、音矢は笑顔で答える。
「ありがとうございます!」
背中を向けた男に、音矢は明るく礼をいい、頭をさげた。
首にかけた紐を引いて懐から大振りのガマ口財布をとりだし、1銭玉をしまう。
瀬野はその姿を見て、考える。
(こんなに、
お人よしで働き者の、さわやか好青年って様子なのに……
音矢は今まで5人も、残虐な方法で殺しているのよね)
(それに対して罪の意識があるからこそ、
[人殺しなんて誰にでもできる普通のこと]と自分に言い聞かせて
むりやり開き直って平常心をたもっている……と
酔っぱらった時に演説してたけれど……)
(平常にもほどがある。全く表面にでていないじゃない。
ここまで善人を通せるなんて……気持ち悪い)
瀬野はかすかに頭痛を感じた。
「ねえ、あんなことを言われて腹が立たないの?
親切が無駄になってくやしくないの?
一言でも言いかえすこともできないなんて、なさけないわね」
苛立ちが、つい彼女の口に出る。
「別にかまわないんですよ。
褒められようとしてやったわけではないんですから」
「ご立派なこと。じゃあ何のためなの。自己満足?」
瀬野は皮肉を言ってしまい、すぐに後悔した。
「そうですね。僕が親切にふるまうのは、自分自身のためと言えるでしょう」
しかし、音矢は笑顔を保ったままだ。
「とっさのときに、普段やっていることがでるんです。
だから、普段から心がけて、いいことをしておく。
そうすれば、非常事態が起きてもいいことができます」
瀬野は視線を感じた。翡翠がいつの間にか商品ではなく、音矢のほうを向いている。
「そして、非常事態が起きてもいいことができる人は、信頼されるんです。
この信頼というものは、
社会生活を送る上でものすごく大切なものですから、
絶対に獲得しておかなければなりません」
翡翠は音矢の口元を見つめ、うなずいている。
「特に、僕みたいな無産階級に生まれた財産も地位も権力もない人間にとっては、
唯一自分で獲得できる武器なんですよ。信頼は」
もう一つの視線を瀬野は感じた。そちらに目を向けた彼女は、おもわず息をのむ。
異国めいた顔立ちの、背の高い男が音矢を見ていたのだ。
次回に続く




