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第三話

2階まで吹き抜けの玄関ホール。その横にあるダイニングルームに彼の主人となる男はいた。


まだ火の入っていない暖炉の前にあるソファに腰をおろしていたのは、猫背気味の貧弱な体に高級な服をまとった青年だ。富鳥元子爵に似た、大きくてやや垂れぎみの目をしていた。


『義知ちゃん! ほら、いいもの連れてきたよ!』

元子爵はダビードヴィチを振り向きもせずに叫ぶ。彼が自分の後についてくると、確信している動作だった。


ダビードヴィチが入室する姿を観察していた息子も大声で歓声をあげる。

『こいつは素敵だ! 西洋人みたいな顔、そして、その足!』

無遠慮に彼はダビードヴィチの足を指さした。


『悪魔は足をひきずるものって、あの本に書いてあった。

 まさにメフィストフェレスそのものだ!』


その本とは、ゲーテの【ファウスト】だとダビードヴィチは理解した。年老いたファウスト博士をメフィストフェレスという悪魔が誘惑し、魂を手に入れようとする小説だ。


『義知ちゃんが気に入ってくれて、パパうれしいよ!』

まるで新しいペットを歓迎するような扱いだと、ダビードヴィチは思った。


彼が名乗ると、元子爵の息子、義知は顔をしかめた。


『呼びづらいから、

 レフ・ダビードヴィチなんて名前はもう使うな。オレが新しい名をつけてやる』

大きな目を宙にさまよわせて、義知はしばし考えこんだ。


その間、ダイニングルームが、静寂につつまれる。母屋では大勢の奉公人たちが働いているだろうが、この離れにその音や会話は届かない。

『ねえ、こんなのはどう?』

沈黙に耐えかねたというように、富鳥元子爵が口をはさむ。


『……あの悪魔にちなんでつけたらいいんじゃない?

 黒いムクイヌとしてあいつはファウスト博士の前にあらわれたから……

 黒田犬助? 

 いや、そのまんますぎるかなあ。

 もうすこしひねって……犬田黒助とか?』


男爵家に滞在するうちに学習し、レフ・ダビードヴィチはやや日本語に慣れてきた。それで[犬田黒助]なる名前が屈辱的なものであることはなんとなくわかった。


『パパ……もう少しましな名前にしようよ』

幸い、息子のほうが拒否してくれたので、レフ・ダビードヴィチはまだ完全ではない言葉を駆使して請願し、礼文と名乗ることを許された。


北の海にうかぶ小さな島。彼を樺太の大泊港から本土の新潟港に向けて運ぶ船が、嵐を避けて停泊した島の名前だ。正規の旅客船ではなかったので、非常に苦しい航海だった。その中で得られた一時的な休息は、彼にとって忘れられないものだった。そして、本名の一部に似た音を持つところも気に入っていた。




義知は帝都帝国大学医学部の大学院生だ。

それにもかかわらず、彼は医学よりも神秘主義に傾倒している。

富鳥元子爵がわざわざ礼文を雇ったのは、義知の相手をする書生たちから次々と不満の声があがったためだった。


和風建築を嫌ってイギリス風の離れに住みついた彼の身の回りを世話することはそれほど難しいことではない。しかし、書生たちの本分は正当な学業を修め、立派な社会人となることだ。延々と続く義知のオカルト話に付き合っているヒマはない。


書生の学業を邪魔すれば、彼らを紹介してきた地方の有力者との繋がりに支障をきたす。それを現在の子爵家当主であり富鳥建設の社長である義広はおそれた。


だから、他に雇われるあてがないレフ・ダビードヴィチに義知のお守役が押しつけられたのだ。


礼文も神経衰弱を患いそうになった。だが、彼には故国での均分主義活動経験があった。

(くだらん話を聞き、坊ちゃまを褒めたたえ続けるのはもう飽きた。

 あの思想を受け付けそうなものをさがそう)


リューシャ帝国の首都はパーテルグラードにあった。そこの士官学校に在籍していたレフ・ダビードヴィチは新聞や雑誌の投稿欄をつかって同士を募った。彼はその手法を再現する。


義知の好きな[萬文芸]という雑誌。その読者交流欄を使って、崇拝者を集めることを、礼文は提案した。


『義知さまの思想を、皆に広めましょう。

 あなたさまなら、きっと優れた指導者になれるでしょう。

 私がそのお手伝いをいたします』


さまざまな募集に応じて礼文は手紙を書いた。そのうちで悩みを相談したいという読者たちにあてたものに手ごたえがあったので、的をそれに絞って手紙を送る。


往復したやりとりで心をつかみ、神秘主義で興味を引いて会員にし、義知の書く随筆や論文を掲載した小冊子を送る。最初は全て手書きだったが、会員数が増えて喜んだ義知が父にねだって、銀座にある印刷設備つきの貸事務所を手に入れた。そして本部が銀座にあるということが、社会的な信用がある組織だと誤解され、入会志望者はさらに増加した。


[真世界への道]はそうやってできた組織だ。

活動を手紙中心にしたのは、発足当時の礼文が日本語の発音がうまくなかったからだ。しかし、不完全な発音を嫌った義知がしつこく矯正したので、現在の礼文は不自由なく話せる。


小冊子の制作は、礼文の文章力も向上させた。言葉を間違った用法で使ったり、誤字や脱字があると会員から手紙で指摘され、義知から叱責されるからだ。新聞などを読み、礼文は懸命に日本語を学習した。



奉公人や礼文には苦痛だったオカルト思想は、なぜか会員たちに好評だった。彼らは義知をほめたたえる手紙を送ってきた。義知は喜び新しい文章を作成したが、それは自分の書きたいことだけで、会員への返事は礼文に丸投げした。


返事を代筆するため、会員の手紙を読むうちに、彼らの共通点を礼文は発見した。

均分主義にひかれるものたちと同じ、現在の状況への不満と憤りを[真世界への道]の会員たちは持っている。


(そうか、均分思想をこの国では非合法とし、

 それを説く書物の発行も検閲を受け、弾圧されている。

 だから代用品として、

 取締り対象にまだ指定されていない団体のオカルト思想に手を出すのだ)


礼文はそう考え、この国の若者に同情した。

(そうであれば、少しずつ彼らに正しい思想を啓蒙してやろう。

 [真世界への道]を入り口として)


小冊子を発行するにあたり、礼文は少しずつ自身の思想を混ぜていった。

このようないい加減な動機で設立された[真世界への道]だ。はっきりいって、何かの役に立つとは思っていなかった。

それが軍部に目をつけられ、神代細胞の実用化などという途方もない仕事を押し付けられることになるとは、礼文は予測していなかった。




富鳥義知は父が去ってから、ベッドの上で毛布にくるまり愚痴をつぶやいている。


(ううう、神代細胞を実用化できればノーベル賞まちがいなしだけど……

 だから、パパがもってきた話につい賛成しちゃったけど……

 実際に何をどうすればいいか全然分かんないよ……)



(だって、今手に入る教科書にも、参考書にも、先行する論文にも、

 神代細胞を実用化するために

 どんな実験をやればいいか、どんなデータを集めればいいか、

 具体的な方法を書いてあるものがない……)


実用化を成功させた者がいないのだから、当然のことなのだが、義知はこの点が大いに不満だった。


(前にやった人たちの研究も論文もあてにならない。

 だって、その通りにやっても失敗することがわかってるもの。

 無駄なことはしたくない)

そのような理屈をつけて、義知は先人の残した文献を読もうとしない。


(前の人の成果は中途半端な実験体を2匹作っただけ。

 結局、暴走した神代細胞に食われて全滅してるし……

 そんな危険なもの、オレ、いじりたくないよ)


名誉につられて、義知は考えなしに神代細胞の実験を請け負った。しかし、今になって彼は怖気づいている。


(だから、帝都じゃなきゃやらないって言ったんだ。

 そうすれば無理だから実験は止めようってことになると思った)

(なのに、パパったら研究所を帝都に作っちゃうし……)

(おまけに、料亭の接待で軍部の人を籠絡して、

 帝都での実験を承認させちゃった)

富鳥元子爵の前向きすぎる善意は、ここでも被害をもたらしていた。




高等学校までの義知は、教科書と参考書を丸暗記して試験を合格してきた。

教えられた手順をたどって、あらかじめ教師が設定した正解に至る。それが勉強というものだと彼は思い、自分はそれが得意だから賢いと信じていた。


しかし、医学部に進学したことで、そのやり方が通用しなくなった。


20世紀初頭というこの時代では、文部省の認定を受けている帝国大学の医科を卒業すれば、自動的に医師免許を取得できる。

しかし、不器用で傲慢な義知は実習時にさんざんな目にあったので、医師として働くことを断念した。



彼が自分の性質を理解していれば、医学部などに入らなかったであろう。しかし、義知は自分が華族であることだけに満足せず、その中でも特に価値のある存在になりたいと願い、修練院学園大学部に進学せず、帝都帝大の医学部を受験した。この時代、医者の社会的な地位は非常に高いからだ。


自分が極度に不器用であることを身に染みて理解したのは、教養課程を終えて医学部の実習を受けたときだ。華族の次男坊として甘やかされて育った義知は、身の回りのことを全て奉公人に任せていた。鉛筆を小刀で削ることも、図画工作の課題も、富鳥家で働く書生たちにやらせていた。


修練院学園高等部には、帝都から離れた地に実家を持つ旧大名系華族子弟のため、学生寮が備わっていた。帝都に住む華族でも、精神を鍛えるために寮生活をすることが推奨される。


義知も皆と同じように寮へ入れば自分の欠点に気づいたろう。しかし、そのころはまだ彼の母が生きていた。義知を手元から離したくなかった母は、彼が身体虚弱であると申し立て、特例の自宅通学を勝ち取った。


そのために、自分が不器用だと気がついた時点で、すでに進路を変更するには遅かった。父に泣きついて、教授たちに手心を加えてもらい、実習はなんとかごまかした。記述式の試験ではほぼ満点をとれたので、義知は無事卒業できたが、そのあとの進路に困った。


医師として働く自信はない。しかし、兄の経営する建設会社に入ることも、義知は拒否した。

兄の義広は、父と違って義知に厳しく接する。仕事で不手際をすれば、激しく叱責されるだろう。それを義知は恐れた。


外部に出ることをあきらめた彼は、大学内にとどまるため院生になった。しかしここでも、義知は新たな壁にぶつかった。


自分で課題を設定し、自分で回答に至るまでの手順を考えだし、それによって得られた結果が正解だと自ら証明する。

それまで彼がやってきたことは全く異なる行動を大学院では求められ、義知は挫折した。、



(お金の力で

 修士論文は講師と助教授に手伝ってもらって、

 それを教授に合格にしてもらったけど……

 それをやってくれた教授の研究室にまたお金の力で入っても、

 やっぱり、自分のやりたい課題はわからない)


さすがに、教授も外部の審査が必要な博士号の面倒まではみてくれないので、彼は名ばかりの大学院生を続けている。これは義知にとって居心地の悪いものだった。


そのようなわけで、義知には自らの苦境をどうすることもできなかった。だから、現実逃避のため、彼は魔術にすがった。



(ああ、魔術はいいな。

 外国から取り寄せた本を翻訳して

 会報に載せれば、ほめてくれる読者がつく)


義知は、イギリスの実践魔術師である[アレイスター・クロウリー]の著作を参考にして[秘密の首領]という存在をでっちあげ、そのお告げと称して会報を書いている。

義知が取り寄せた本は、それぞれの著者が持つ思想によって異なる意見が載っている。それを順次翻訳していけば過去に発行した文と矛盾が生じることがある。

だが、会員の手が届かないような高みにいる[秘密の首領]という権威者の言葉だとすれば、会員の批判を封じることができる。


《一見矛盾しているように見えても、

 それには深い意味がある。

 が、意識の低い者には教えられない》と言い切ることで、

かえって会員がよせる[秘密の首領]への信頼は増すのだ。


(……でも、神代細胞の研究はでっちあげでは済まない。

 実際に役立つ根拠がないと、軍部の人に怒られる)

彼はいらだって、布団の端を噛みしめた。




執筆が一段落ついたので、次に神代細胞を投与する対象者を、礼文は寄せられた手紙の中から選ぼうとしている。


選考の基準は、対象者が実験に邪魔が入らない環境、具体的には広い家を使用できるか否かというものであり、医学的なことは考慮されていない。


(医学については戦場での応急手当の知識しかないからな。

 日本語には慣れてきたが、専門用語が満載の医学書となると私の手に余る。

 こんな弱音は口にできないが……

 うまく定着するか、暴走するかは運任せと言っていいだろう)


(まったく、

 あの坊ちゃんは医学の大学院で細胞を研究しているのだろうに、

 組織の運営のみならず、神代細胞の実用化まで私に丸投げとはな。

 知識を生かそうとしない、家柄だけの馬鹿だ)




その馬鹿は、布団の中で礼文を罵っていた。

(オレが神代細胞の実用化をしろと言っているのに

 研究は全然進まない。

 礼文もだらしないな。あの無能者め)


上位者が命令すれば、部下は実行し成功させるのが当然の義務。

義知にとっては、それが普通だった。


確かに、礼文は義知の命令を受けて実用化のために働いている。しかし、それが礼文自身の野望をかなえるためだと、義知はまったく予想していない。





(組織の実権は私が握る。

 そして、いつかはこの国を真の均分主義国家に作り替えてやる)

義知とは違い、礼文は夢をかなえるための努力を始めていた。


(そのためには……)

礼文は膝を撫でる。現実を直視した結果、彼はある決意を固めた。


(よし。アレを買おう)


(いつまでも過去にとらわれて、現実的な対応ができなければ、

 私まで義知のような馬鹿の仲間入りだ)


(さて、いつ買い物に出かけるか……)


礼文は卓上のカレンダーを見る。それにはある日付に印がつけてあった。瀬野に指定されたものだ。


(この日にするか)

礼文の頬に、皮肉な笑みがうかぶ。



次回に続く



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