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第二話

礼文は自室で机に向かい、[真世界への道]の会員に配る小冊子の原稿を書いている。



印刷と製本の作業は銀座の貸事務所で行う。発行部数はそれほど多くないので、礼文はそこに備え付けてあった謄写版印刷機を利用していた。


これはパラフィンなどを塗布した原紙に鉄筆で文字を書き、印刷の原版とする簡便な印刷機である。その作業で鉄筆がたてる音にちなんで[ガリ版刷り]とも呼ばれる。まだコピー機のなかった20世紀初頭ではよく使われていた。


事務所の賃貸契約は礼文ではなく、津先という男の名義だ。表向きは、業界紙の発行を行う小規模な会社という名目で借りている。


富鳥家の名を出すことは、そこの奉公人である島口を通じて、執事長に禁じられた。そして他国からの亡命者である礼文と契約することを不動産屋が嫌がるので、名義人兼、事務所管理人として津先が新たに雇われた。


掃除や電話番、電気料金や家賃の支払いなどの雑務が彼の仕事だ。[真世界への道]の小冊子を印刷するための紙やインクの補充も津先が行う。印刷した紙を製本し、宛名を書いた封筒に入れて会員に発送する作業も、礼文は津先に手伝わせていた。




執筆作業に集中したいが、壁越しでも聞こえる会話に礼文は邪魔されていた。


「ねえ、部屋から出ておいで。パパと話そう」

この声は富鳥元子爵。


「やだ」

この声は礼文の主人である富鳥義知。富鳥家の次男だ。


二人はドアをはさんで会話しているようだ。おかげで声が大きくなり、義知の隣の部屋にいる礼文の耳にも届く。


「水晶細胞を研究するための施設が完成したよ。

 義知ちゃんが孤島にこもって研究するのが厭だっていったから、

 この帝都にわざわざ作ったんだ。

 パパといっしょに見に行こう」


「行かない」



「そんなことを言わないでおくれ。

 おもしろい仕掛けも作ったよ。

 隠し通路から、どの部屋も監視できるようになってるんだ。

 どんでん返しがついた壁も、外に通じる地下通路もある。

 他にもいろんなカラクリを作って忍者屋敷みたいにしたんだよ。

 義知ちゃんはこんなのが好きだったよね?」


「好きだったけど……それは昔のことだもの。今は違う」


「とにかく、神代細胞を、

 そのなかでも水晶細胞を実用化してくれないと、パパ困るんだ。

 もう、あっちこっちにお願いして、手を貸してもらってるし。

 早く成果をあげないと、まずいことになるんだよ」


「知らない! やらない!」




(これが33歳の男とその父親の会話か……)

毎度のことながら、礼文は二人の行動にあきれかえる。


(まったく、無駄なことしかしない親だ。

研究施設に、なぜそんな変な仕掛けを作る?

善意からの行動なのだろうが、まったく役に立たない)


その無駄な善意で、亡命者である自分が救われたことを礼文は認めたくなかった。



(若いときは先代から引き継いだ重役たちに支えられ、

 今は親に似ず有能な長男に爵位と建設会社を預けて

 のうのうと暮らしている。

 そして、ありあまる金をくだらん思いつきで浪費し、恥じない。

 なんたる不均分だ。

 この世界には明日の食事にもことかく貧しい者が大勢いるというのに)


礼文が今着用している高級な背広も革靴も、富鳥元子爵からの金で手に入れたものだ。礼文が便利に使っている事務所と管理人を維持するために、元子爵が思いつきで浪費する金が使われている。そんな事実から、彼は目をそらしている。





西暦1894年。礼文ことレフ・ダビードヴィチは、外交官として訪日したリューシャ帝国の貴族と、日本の華族令嬢との間に生まれ、父の国で育った。


彼が成人するころ、ウラジーミルという名の均分主義者が、志を同じくする仲間とともに、政治的に腐敗した帝国に戦いを挑んだ。その思想にひかれ、若きダビードヴィチも均分団員となり、反政府運動に身を投じた。


やがて均分主義革命は成功し、帝国はソユーズ連邦となった。だが、革命の後、均分団内が思想相違により2派に分裂し、主導権争いが起きた。


思想闘争にダビードヴィチの属する派閥は負けた。その際に、彼は肉体的な損傷も受けた。祖国に居られなくなった彼は母の実家である野間男爵家をたよって1925年に日本へ亡命してきた。


だが、男爵家当主は、駆け落ち同然で異国に嫁いだダビードヴィチの母をよく思っておらず、その息子の存在をも不快に感じていた。


それでも世間体を気にして彼を放り出しはしなかったが、早急に職に就いて独立することをもとめられた。しかし、足が不自由なこともあり、なかなか決まらずにいた。この時代、障がい者の就職差別はよくあることだった。加えて混血児差別もひどかった。

そして母から教わってはいたが、やはりリューシャ育ちなので日本語をうまく話せないことも、悪条件となった。


そうこうするうちに、亡命者が困窮しているとの噂を聞きつけて、富鳥元子爵が野間男爵家を訪問した。富鳥は遠慮のない目で彼を見分し、立たせたり歩かせたりした。そうして元子爵は大いに満足した様子で、ダビードヴィチを引き取ることを宣言した。ダビードヴィチが世話になっている男爵家当主も、大賛成した。彼の意見など両者は考慮するつもりなどなかった。




男爵家にダビードヴィチを迎えにきたのは富鳥家の使用人だ。彼は島口と名乗った。子爵家に向けて自家用車を走らせながら彼は仕事内容を説明した。


『食事の支度や洗濯は母屋でやるからお前は受け渡しするだけ。

 掃除も別の奉公人にさせる。

 お前は坊ちゃんの話し相手、

 イギリスでいうコンパニオンみたいなことをしてくれればいい』


本来のコンパニオンとは、上流階級の女性につきそう、いわば金銭でやとわれた友人のようなものだ。普通の奉公人のような家事労働はせず、主人のそばに控えて話し相手を務める。

コンパニオンとして雇われるのは、主人よりやや下の階級に属する自分自身の財産をもたない女性だ。当時の社会は女性が働けるところが限られていたので、そのような職制ができた。




富鳥子爵邸は帝都環状線の駅からやや離れたところにある。

使用人の話では、神宮球場が5つ入る大きさだそうだ。そう言われても当時のダビードヴィチは神宮球場の面積など知らなかったが、使用人はそれ以上説明しなかった。


塀の横を長く続く道を通り、専用の駐車場に自家用車は止まった。

富鳥邸に3つある通用門の1つを使用人は開ける。ダビードヴィチは彼の後からついていく。足が不自由なので距離が開いていくが、前を歩く男は頓着しない。


芝生の間につけられた道は、純日本式建築の母屋の裏をぬけ、この国のものではない形式の建物に通じていた。

尖った切妻屋根から突き出たレンガ造りの煙突、半ば露出した木の柱と柱の間を白い漆喰が埋めている壁を持つ、こじんまりした建物が敷地の隅にひっそりとたたずんでいる。


環状線の原宿駅と同じ、イギリスから伝わったチューダースタイルという建築様式だと、使用人はダビードヴィチに語る。富鳥家の先々代が本場の建築士を呼び寄せて作らせたもので、離れ屋と言っても日本の一般人が住む家よりずっと大きいのだと、使用人は自分の財産でもないのに自慢した。


故国に残してきた別荘の半分くらいしかない建物だとダビードヴィチは思ったが、そんなことを口にしても意味がないということを、亡命者としての生活で学んでいた。


ドアの前に来ると、使用人にここで待てと言われた。そのままダビードヴィチは放置された。


富鳥元子爵が使用人をひきつれて母屋から現れたのは20分ほどたってからだ。ポッチャリと太った体に似合わず軽快な足取りで芝生を踏み、離れ屋の前に立つ。すかさず使用人がドアを開けた。


『ほれ、行け』

使用人はダビードヴィチの背中を押し、離れ屋に入れる。よろめいた彼の背後でドアが閉まった。



次回に続く

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