第一話
新田音矢は夢を見ていた。
闇の中、タイマツの明かりに照らされて、翡翠と瀬野が言い争っている。
『みてくれ。このとおり、火とは便利なものだ』
『それはわかっているわ。
お日様が沈んでも、火があれば暗闇を追い払える。
肉や魚を焼けば腐りにくくなる。
芋や栗を焼けば柔らかくなる。
……使っているうちに火はいなくなってしまうけれど……
でも、火とはもともと神様のものなんだから、
神様のもとに帰りたがっても、それはしかたないわ』
瀬野はいつもの洋装ではなく、毛皮をざっくりと体にまきつけただけだ。夢の舞台は原始時代らしい。
『しかし、ボクは火の種を保存する技術を開発した。
この目の詰まった籠に灰をたくさんいれて、
その中に小さな熾火を埋めて朝晩交換していれば、
いつ起きるかわからない山火事を待たなくてもいい。
ずっと火を使い続けることができる。
だから、あなたたちの村でも使ってくれ』
『冗談じゃないわ!』
瀬野は大きく首を横にふった。
『いいこと? 火というものは、
神様がときどきくれる、ありがたいものなの。
大昔から、私たちはそれを感謝しながら恵みをうけてきた。
これまでずっとそれでうまくやって行けたのに、
なんでそんな変なものを使わなければならないの!
人の分際で勝手なことをして、
神様がお怒りになったらどうしてくれるのよ!』
瀬野は彼女の背後に向かって声をかけた。
『みんな、神様の敵をやっつけておしまい!』
彼女は村の支配者のようだ。闇の中で、人影らしいものがうごめく。このままでは翡翠が危ない。
音矢は暗闇の中で弓を構えた。それにつがえた矢は、先端に、栗の殻に穴をあけて中身を取り出したものを取り付けてあるものだ。
細工をした矢を放つと、空気が勢いよく穴を抜けるときに鋭い音を立てる。その音色は夜の空を切り裂くように聞こえた。
狙い通り、矢は村の中に落ちた。群衆は動揺している。
彼らに向かって音矢は叫んだ。
『翡翠さんに手を出すな!
それ以上近づいたら、今度は矢に火をつけて撃つ!
村ごと焼かれたくなければ、下がれ!』
村人も弓で応戦したいのだろうが、音矢は種火の籠を大きな岩の陰に隠してあるので、闇の中では位置がわからない。
あきらめて、瀬野は村の中に帰っていった。
夢のなかで、場面が変わった。
朝日をあびて、音矢と翡翠は川沿いに進む。
籠をかかえた翡翠は、うつむいたまま言った。
『なぜ、みんなボクの発明を受け取ってくれないのだろうか。
便利なものなのに』
『まあ、いままでのやり方を変えて、
もし失敗したら困るって考える気持ちも、否定できませんよ』
音矢は翡翠をなぐさめる。
『川沿いに旅していけば、また別の村があるでしょう。
駄目なら次、また次と探していけば、
いつかは受け取ってもらえるかもしれません』
『そうだな』
翡翠は顔をあげ、胸をはって歩いていく。音矢は彼に続いて進んでいく……
音矢は目覚まし時計のベルで目を覚ました。
今日はオバケくんが出てこなかった。夢を見たのが夜明け近くだったからだろうか。
身支度を整えるために、音矢は風呂場に向かった。
この貸家は金持ちがやっかいな身内を住宅街から隔離して住まわせるためにつくられたそうだ。そのせいか、小さい家だが贅沢にも内風呂がある。
タイル張りの浴室には風呂桶と、ヒゲ剃り用にしては大き目の鏡がついている。備え付けてあるのは関東で一般的な鉄砲風呂だ。鉄、銅製の筒を風呂桶に入れて外から火を焚くもので、うっかり筒に触れてさわって火傷しないように、木の柵で囲ってある。
音矢は汲みおいてある残り湯を洗面器ですくい、ヒゲ剃りの準備をする。ここでシャボンの泡を立てて安全カミソリでヒゲを落とし、外の井戸端にまわって新鮮な水で洗面の仕上げをする。音矢は毎日そうしていた。
18歳である彼のヒゲは、まだ産毛に近い。とはいえ、無精ヒゲをはやしたままにするのを音矢は好まない。
「おっと」
鏡の正面に立つと、窓から入った光の反射をまともに受ける。音矢はすこし斜めにかまえてヒゲをそった。
(間取りがよくないんだな)
(いや、ここに越してきたときは、朝日がさしてもまぶしくなかった)
(季節がすぎて朝日の昇る角度が変わったから、
反射するようになったんだ)
(あれから3……いや4か月目になるのか)
(僕、よく生き延びられたな。
あんな狂暴で強力な敵を次々と相手にして)
先日、音矢が倒したのは家族二人を殺し、死体をバラバラにちぎって部屋中にまき散らした女だ。彼女は、その有様を抽象芸術だと称していた。
(あれで5人目か)
鏡には音矢が映っている。我ながら目立たない顔立ちだと思った。しいて言えば眉毛が濃くて真っ直ぐなのが特徴だが、それほど際立ったものではない。実際、故郷の町で知り合いに出くわしても、自分から声をかけないとただの通行人として見過ごされたことが何度もある。
今、故郷にいたころにはなかったものが、彼の耳たぶにはまっている。緑色の小さな飾り石。音矢の身体に投与された神代細胞を制御するための石だ。
礼文は、彼が身を寄せている富鳥子爵家の庭に出た。
子爵邸の広大な庭は通常とは違う構成だ。母屋に近いところは花畑を配置し、中央の芝生地帯にはドーナツ型のプールがあり、そのわきには日よけになる藤棚もそなえてある。そしてその奥には季節ごとの花が楽しめる樹木が多数植えられている。
元々は池と庭石のある伝統通りの日本庭園だったそうだが、先代の子爵が改装して水泳ができるプールを中心としたつくりになった。
時刻は早朝なので、まだ彼のほかに人影はない。
1930年〔光文5年〕の日本では華族制度が施行されていた。江戸時代からの堂上公家、諸大名に加えて、明治維新で功績のあった者を華族とし、政府からはさまざまな特権が与えられていた。
その特権とは
・華族は世襲財産を保障される。
・華族の子弟は修練院学園に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証される。
・華族は[皇室の藩屏]としての義務を果たすために貴族院議員となる。
などである。
その華族階級は、
上から [公爵][侯爵][伯爵][子爵][男爵]という五つの順位に分けられていた。
さわやかな朝の空気を深呼吸で取りこんでから、礼文はプールの周りにある遊歩道を散歩した。一周が約80メートルのコースだ。
最初の3周はゆっくりと、次に早足で7周歩く。普段より長時間の運動で、呼吸が荒くなってきた。
それをこらえて、さらに走ろうとしたとき、左膝が抵抗した。痛みと痺れが礼文の足を止める。
(やはり……駄目か)
礼文は庭木に寄りかかり、息を整える。
(こうなれば、認めるほかはないようだ。
私の足は元のように動かないのだと)
痛む足をさすりながら、礼文は考える。
(足が不自由になってから、私は昔のような鍛錬をしていない。
だから、現役の兵士だったときとは比べ物にならないほど
体力が落ちている)
(そう、これが現実だ)
(しかし、脳は正常だ)
(むしろ苦しみを乗り越えて経験を積んだ分、私の精神は向上している)
礼文は昇ってきたばかりの太陽を見た。まぶしさに目を細める。
(この国の象徴だ。私はあれを崇めない)
礼文は朝日に背を向け、自分の影を見た。まだ日は高く昇っていないので、そのシルエットは長い。
(むしろ、私はこちらを崇めよう)
(私の影、私の思想で、この国を覆いつくしてやる)
――さあ、昔々の物語を始めましょう。
これは異なる世界の物語。
そして
探していたものを、ついに発見する物語――
音矢はラジオの音楽番組を聞きながら、茶の間の掃除をしていた。
曲は榎本健一が歌う[洒落男]。
精いっぱい着飾って見栄をはり、銀座で遊ぼうとしたウブな男が、悪い女に騙されてひどい目にあう、という内容の滑稽な曲だ。[ウブ]とはこの時代の言葉で異性との交際経験が乏しい人間のことを示す。
リズムに合わせて、音矢はハタキをふる。そこに翡翠がやってきた。彼は庭に下りて、生えている松にむかった。松には音矢の作った縄バシゴがつるしてある。
太くて丈夫な枝があるこの松は、なんどか首つり自殺に使われたと瀬野から聞いた。それは翡翠も知っているのだが、まったく気にする様子はなく、お気に入りの遊びを始めた。
庭用の下駄を脱いで、小さな手で縄をつかみ横棒に足をかけ途中まで登る。
その体勢でブランコのように揺れたり、松を足でけって反動をつけ、右回り、左回りと錐もみ運動するのが楽しいらしい。顔が音矢側に向いた時に見える表情が、それを物語っている。
ハタキをかけながら、音矢は翡翠の言葉を思い出した。
先日、瀬野の言動があやしいと、音矢が問い詰めていたとき、翡翠は仲裁に入った。その時、彼はこう言った。
『瀬野さんはいい人だ。ボクに文字を教えてくれた』
音矢はその意味を推理する。
(瀬野さんは、翡翠さんのことを、
英才教育を受けた12歳の研究者だと僕に紹介した)
(瀬野さんはだいたい20歳くらい。
彼女は僕よりも上の教育を受けているみたいなことを言っていた。
だから女学校を卒業して18歳くらいで働き始めたとしたら、
翡翠さんと接触したのは最低でも2年前くらいか、もっと後だな)
(10歳から英才教育して、
2年であの性格と知識としゃべり方っていうのは……
やっぱりおかしいな。
だいたい10歳になるまで文字を知らないんだったら、
6歳で尋常小学校に入学した僕より教育環境が悪い。
英才教育どころじゃない。瀬野さんは嘘をついている)
(あのとき、
翡翠さんに止められたから問いつめられなかったけれど……)
(制御石を使う技術は、僕が開発した)
(それなのに、僕が雇われる前に水晶さんを誘拐した礼文が、
呉羽ちゃんや福子さんに制御石を与えるのはおかしい。
どう考えても、情報が漏洩している)
(その上、瀬野さんは
礼文が実験を行う予定を知っているかのようなことも言っていた)
(食事会のある日に投与するから、
前回の結果から考えて、
暴走するまでに1週間くらいはゆとりがあるだろうと油断していた、
みたいな反応を示した)
(ただし、あるのは状況証拠だけだ。
これでは告発しても否定されるだけ。
そう、帰りの車の中でやったみたいに)
(瀬野さんはなかなかしぶといし……
決定的な物証、
もしくは本人が図らずも漏らした自白を得てからではないと、
推理を口にすることさえ無謀だ。もっと調査しないと……)
音矢は薄く笑う。
(僕も
『身内を探偵ごっこでつつくのは、ちょっとばかり趣味が悪い』
とは言ったけど、僕の趣味が悪いのは、瀬野さんも承知の上だ)
(そして、僕は『心得ておきます』とは言ったけれど
[もう、探偵ごっこはやらない]とは言っていない)
(ましてや、翡翠さんに対しては何も約束してないからね。
とりあえず、この人のほうから探りを入れよう)
しかし、遊びの最中に声をかけると、翡翠はヘソを曲げる。音矢は何度か失敗を繰り返すうちに翡翠の取り扱い方を学んでいた。
ハタキのあと、ホウキで畳を履き、チリトリでゴミを集める段階になって縄ばしごの揺れ幅が小さくなってきた。そろそろ疲れてきたようだ。
翡翠が自室に引きこもる前に、こちらに興味をもたせなければならない。
急いで音矢は台所にいき、ヤカンで沸かしておいた麦茶を二つのコップにそそいだ。それを盆にのせて縁側に戻る。ちょうど翡翠が縄ばしごから降りたところだった。
音矢は片手でラジオのスイッチを切った。翡翠は歌を聴きながらだと、話しかけられる言葉を聞き取りにくくなることがわかってきたからだ。
「翡翠さん、麦茶がありますよ。一緒に飲みましょう」
「ああ。飲む。喉が渇いた」
アゴ紐を締めている木のビーズを引いて、翡翠は水兵帽を外した。緑色の角をよけて、その周りの汗を袖で拭く。
まだ頬は赤く、運動によって体熱は上がっているだろうが、翡翠は急いだ様子で帽子をかぶり直した。
ラジオの音が消えたら、気の早いセミが鳴く声がそれに代わった。まだそれほどうるさくはない。
縁側に並んで腰掛け、音矢は翡翠に疑問を訊ねる。
「瀬野さんにあうまで、ボクは言葉をうまく使えなかった。
自分の考えを言葉にして
他人に伝える必要があるとは思えなかったんだ。
でも、彼女に文字を教えてもらって、
研究資料と父の日記を読めるようになった。
おかげで考えを文章として口に出すことができるようになった。
そしてボクが知りたかったこと……
自分の身体がどのようになっているのか、
普通の人とどのように違うのかがわかった」
「ひょっとして、その言葉づかいは日記から?」
「そうだな。ボクは父の文章をまねて話している。
瀬野さんの言葉をまねたこともあるのだが、
それはやめろといわれた。男が女言葉を使うのは良くないことらしい」
翡翠が『そうなのよ』などと話しているところを想像して、音矢は笑いだしそうになったが、自らの太腿をこっそりとつねってこらえる。
「僕にもその資料を見せてほしいんですが」
「研究資料と父の日記は礼文にもっていかれてしまった。
ところどころは覚えているが、全文は暗記していない」
「それは惜しいですね」
音矢は本心から言った。彼自身にも神代細胞は融合しているのだから、研究内容には大いに興味がある。
「翡翠さんが神代細胞の研究を始めたのはいつからですか」
「空間界面の研究は物心ついた時から……
いや、つく前からしていたな。だが、研究という自覚はなかった。
自分が意識すると、空間界面が発生する。
最初のころはすべてを遮断してしまうので、
内部は真っ暗になるし、なにも聞こえなかった。
それが厭で、なんとか光や音を通すように一生懸命調整していた。
まわりに自分より大きいものがいたことは覚えている。
今考えると、彼らはボクの身体を研究していたのだろう」
翡翠は小さな手で自分の胸を押えた。
「彼らは、検査をするとき以外はボクにかまわなかった。
ボクのほうからも、とくに接触しようという気にはならなかった。
ただ空間界面を発生させて、息が苦しくなると解除する。
それを繰り返して生活していた」
「文字を覚えたきっかけはなんですか?」
「最初は絵本だ。
物語というものがあること、そしてそれがとても面白いということを、
瀬野さんはボクに教えてくれた。
それに、絵本にはネズミのようにしっぽがあるが、
あきらかに違う存在が描かれていた。イヌだ。
そして島にはない、サクラという木に、
見たこともない美しい花が咲いている様子も描いてあった」
その時のことを回想しているのか、翡翠はしばし考えこんだ。
([花咲かじいさん]かな)
音矢は考えながら、翡翠の言葉を待つ。
「……ボクは、瀬野さんに図鑑も見せてもらったんだ。
図鑑にはもっとたくさん、
サル、キジ、ネコ、ウマ、ウシ、ゾウ、キリン、ライオン、
そのほか、ボクが見たこともない姿をした動物や植物がこの世界にはある
ということを知った。それで孤島以外の世界に興味をひかれた」
「だから、瀬野さんに連れ出してくれと頼んだんですか」
「しかし、外の世界にはいろいろな決まりや常識があるので、
それを守らなければつれていけないと言われた。
決まりと常識を知るために、瀬野さんは教科書をくれた。
がんばって覚えようとしたのだが、うまくいかないものもある」
「箸の使い方とかですか?」
翡翠はうなずいた。
「それもあるが……先の研究主任、
つまりボクの父が書いた論文と、その蔵書で、ボクは医学知識を得た。
だが、算術まではまだ学習ができていない」
音矢が不審に思っていたことの理由がわかった。
(1、2,3、たくさん……みたいな概念しかないのかな)
(船乗りみたいに隔絶した環境では、
普通の人間でも暦の感覚がおかしくなるってきいたことがある。
ましてや算術が理解できていないなら、
経過年数や日付を翡翠さんに聞いてもあいまいなのも道理だ。
……別にとぼけているのではなくて、自分でもよくわかっていないんだ)
ついでに彼は、別の疑問も翡翠に聞いてみる。
「神代細胞の制御についてか……
どう説明していいかわからない。
とにかく、こんなふうに空間界面が変化したらいいなと、
心で思い描いていると、実際に変化していく。
その過程で、ボクの脳内で何が起きているかは、まったくわからない」
翡翠は、ため息をついた。
「脳の構造などをもっと細かく解析できる装置が欲しいな。
今の顕微鏡では拡大にも限界がある。もっと倍率の高いものが欲しい。
それに、ボクは染色体を外から見るだけではなくて、
直接いじって切り離し、
どの部分がどのように働いているか調べるなどをしてみたいのだが、
現在〔1930年、光文5年〕の科学では不可能だ。
もっと性能のいい研究器具が開発されればいいのだが」
翡翠の望む、磁気共鳴断層撮影(MRI)、電子顕微鏡、光DNAシークエンサー、バイオイメージングアナライザー等の機器が開発されるのは、まだまだ先の未来である。
したがって神代細胞の研究は、文字どおりに手さぐりの体当たり方式で進めるしかなかった。
麦茶を一口飲み、翡翠は庭に目をやった。
「しかし、ここには動物が少ないな。
外の世界に行けばいろんな動物と出会えると思っていたが……」
「はあ」
1930年〔光文5年〕現在では、ノライヌやノラネコは珍しいものではない。音矢は何匹かが雑木林に住みついていることを知っている。
そして、今の今、白黒ブチのノラネコが庭先にやってきて、こちらを見ている様子を音矢の目はとらえていた。
エサをねだろうとしているか、隙をついて台所に忍び込み食べ物を盗もうとしているか、どちらかだろう。
「翡翠さん、ネコに会いたいんですか」
「ああ。一度でいいから遭遇してみたい」
その相手が、彼の正面にいることにまったく気づいていないらしい。
「そのまま、大声を出さずに、体も動かさずに、そっと前を見てください。
そう、縄ばしごの松から2メートルほど左……」
指さして音矢は教えてやった。それに先立って、観察する時の注意点も伝えた。
しかし、ずっと望んでいたものが目の前にいると認識した瞬間、翡翠は反射的に行動した。
「おおお! ネコだ! ネコだネコだ!」
叫びながら、翡翠は彼にとっての全速力で突進する。
当然、ノラネコは逃げ出す。
「まってくれ!」
追いかけようとして、翡翠は転んだ。
「なぜ逃げるんだ……」
倒れたまま、彼はくやしそうに言った。
「大声をあげて、急に近づくからびっくりしたんですよ」
「そうか……それで音矢くんは……ああ、言うとおりにすればよかった」
翡翠は地面をたたいて悔しがる。
それを縁側から見下ろして、
(翡翠さんのことだから、やらかすと思ったけど……
あはは。人を計略にはめるのは面白いな……あはは)
心の中だけで、音矢は笑う。
5年前、江戸川乱歩の小説【赤い部屋】を読んで以来、親切にしているようでいて、実は不幸に導くというこの手法は、彼のお気に入りである。
(だいぶ、この人の行動が先読みできるようになってきたな)
音矢は自分の観察力に満足を覚えた。しかし、翡翠の行動が読めるがゆえに、彼は不安を感じはじめていた。
(翡翠さんが本土の生活に慣れて、好き勝手に動きまわり始めたら……)
危険の芽は、早めに摘んでおきたい。音矢はそのための計略を練っていた。
(まあ、とりあえずは、完成しているほうの計略を実行してみよう)
(うまくいけば、翡翠さんだけではなく、僕にも利益が出るように仕組んである)
(決行は、次に瀬野さんが来る日。その食事会で結果を出してみせるぞ)
音矢は庭に下り、その計略のカギとなる翡翠を起こしてやる。
次回に続く




