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第三話

茶を飲みながら、礼文に教義について福子は質問をされる。彼女の答えは彼を満足させたようだ。

次に、礼文は紫色の耳飾り石を一組見せた。願いのかなう薬の効き目を高める効果があるという。薬と飾り石が相乗する作用があるとは聞いたことがなかったが、先ほどの紅茶をのんでから、気分がウキウキしているのでとくに反抗はしなかった。


すすんで福子は大きな柔らかい椅子の背もたれに体を預けた。礼文の白く長い指が彼女の耳たぶをつまむ。アルコール綿で耳を清められたとき冷たさで彼女は軽く身震いをした。


針の痛みに耐えようと、福子は歯を食いしばる。しかし、予想は外れた。軽く刺された傷口に石が触れると、まるでそれは生き物のように彼女の肉を押し分け、そこにもぐりこんでいく。痛みというよりもむずがゆさを福子は感じた。

その刺激をもう一度味わいたくて、福子は反対側の耳を礼文に向ける。二度目はさらにむずかゆかった。



夢ともうつつともつかない意識の中で、福子はついに水晶と面会を果たした。

角のようなものが彼の額から生えている。あの飾り石と同じ色だと、福子は思う。

そして、彼女が生まれて初めて見る、美しい瞳。それは角度によって藤色の光を放つ瞳だった。



気が付くと、福子は銀座の街に出ていた。

今のはつらい生活から逃れるために見た白昼夢だろうか?

不安になり、彼女は手にしていたバッグを開けて見る。


夢ではなかった。その証拠に、バッグには礼文からもらったガラスの瓶と小冊子が入っている。福子は落とさないように、バッグをしっかりと持ち直した。


投与を受けて高揚した気分のまま、福子は銀座をぶらついた。松屋デパート、そして今年開業したばかりの三越にも入ってみた。


店内に展示されている美しい服や宝石、おいしそうな食べ物。それらはすべて金さえあれば手に入る。しかし、福子の持ち出した金では購えなかった。良心が咎めて、往復の電車賃ほどしか金庫からださなかったからだ。もっとたくさんの金が欲しい。福子は心の底から願った。


買い物客の中には、福子の安物銘仙と半幅帯を見て、こっそり囁くものもいた。銀座という晴れやかな場所にそぐわない服装だからだ。


しかし彼女は気にしなかった。神代細胞の影響を受けた脳はむしろ賛嘆の意味に誤解していた。


彼女の社会知識の習得は、面接を受けるため遠出をするのに普段着を着たままはおかしいという、常識を学ぶ前の段階で止まっていた。

まだ両親が健在で経済が良好だったころは、デパートのほうから外商員を北原家に派遣してくれたからだ。




次に福子は路地に入って、画廊を覗いてみた。最初に入ったのはダビンチ、ミケランジェロ、そしてラファエロなどの複製画を扱う店だった。美術の教科書にのっていたような絵を見て、自分の過去を福子は思い出した。


福子は本来、画学校を志望していた。しかし、安定を求める両親の反対にあい、女学校に進学した。

忘れかけていた自己表現の欲求が、身のうちから湧き上がるのを福子は感じた。


次に入ったのは抽象主義表現芸術を扱う店だった。

そこで彼女が見たものは、複数の塗料を乱雑に大きな画布へ叩きつけたような絵だった。

自分が知らなかった表現法に、福子は興味をひかれた。いくつかの絵の前を過ぎ、彼女は思った。


(こんなのなら、わたしにも描ける)


そして絵につけられた値札を見て、福子は驚愕した。


(こんな絵が、こんなに高額で売れるの!)


もう一度福子はその画廊を回る。今度は絵ではなく値札を見るためだ。

どれも高額の値札がついていること、そしていくつかには[売約済み]の印がついていることを彼女は確認した。


(と、いうことは……買う人がいるんだ! 絵は高く売れるんだ!)






昼をすぎたころ、福子は帰宅した。

予想通り、姉とその夫は福子を責めた。それですっかり心が決まった。


説教に疲れた彼らから解放され、福子は与えられた自分の小さな部屋に戻る。

彼女は鞄からガラス瓶を取り出した。

その中には乳白色の塊が透明な液体にひたって浮いていた。塊の大きさは林檎ほどだ。

それを手づかみで取り出す。塊は、暖かいパンにのせたバターのように福子の腕にしみこんでいく。




一仕事終えた福子は廊下に出た。義兄をむかえにいこうとしたのだが、ちょうど彼が自室から出たところに行き当たった。

彼女は無造作に義兄の胸ぐらをつかむ。


「なにをする! 放せ!」

義兄が居丈高に怒鳴ったが、福子は嘲笑で返した。

「あんたのいうことなんて、きかないわ。

 わたしは選ばれた特別の人間なの。

 [真世界への道]に選ばれないカスなんか死んでしまいなさい」

「何を言っている?」

とまどう義兄を片手で彼女は投げた。

神代細胞の発する怪力で、義兄はひとたまりもなく壁に叩きつけられた。


「礼文さまがおっしゃったの。[選ばれた民たちは迫害される] 

 そう、わたしは迫害されてきた。だから選ばれたの」


匍匐して逃げようとする義兄の足首を福子はつかんだ。ズルズルと廊下をひきずられながら、彼は叫ぶ。

「初子! お前の妹をなんとかしろ!」

「お姉さま? うふふ。お姉さまはこちらにいらっしゃるわ」

福子は北原家で一番広い部屋、表座敷の襖をあける。


「うわああああ!」

そこには、初子の死体があった。首を絞められたのか、顔は赤黒く染まり、膨れた舌が口からはみ出している。


「なんでだ! なんでこんなことを!」

福子は礼文からもらった紙束を広げた。義兄が叫んだ問いの答えに相当する部分を見つけ、そこを読み上げる。

「……完全な魔術師となるためには、

 これまで受けてきた教育や常識から解放されていなければならない。

 むしろ能動的に禁忌とされていることを行い、

 社会に衝撃をくわえ、変革を促すことが特別の人間に与えられた使命である」


「え? ええ?」

呆然としている義兄に、福子は解説する。

「つまり、人殺しは悪いことだからやってはいけないと、

 わたしは親や先生に教えこまれた。

 でも、[真世界への道]の教えでは悪いことをするのは良いこと。

 だから、私はあんたたちを殺すのよ」


これまで、福子は自分より目上の姉と義兄に服従してきた。しかし、[真世界への道]の教えは世間の掟よりも上位にあると、神代細胞を投与される前、紅茶を飲んでいるときに彼女は教えられた。


自分のやりたかったことを礼文は肯定してくれる。彼に保障されることで、福子は自信をもち、姉と義兄を殺害した。増殖した神代細胞の影響で、福子は酒に酔ったような精神状態になっていることも殺意の発現に手を貸している。


「これから、わたしの本当にやりたいことをする。

 ……そうして魔術師に……ああ、その前に……」

礼文にわたされた小冊子をめくる。これからやらねばならないことが書いてある部分をみつけなければならない。


「この小冊子と、これまでの手紙を

 付属品の薬剤で燃やして……瓶を始末……」

その方法は具体的に記されていなかったので、彼女はこれまでの習慣どおりにふるまう。

それは、紙類をカマドで燃やし、いらないガラス製品は台所脇にあるゴミ箱に捨てるということだった。

すべての行動を常識外で行えるほど、彼女は創造力に富んでいないのだ。




礼文と、彼の仕えている主の身の回りを世話している担当者は中村ムメという18歳の奉公人だ。

礼文は彼女に命じて紅茶を自室に持ってこさせた。


イギリス式のセットと茶葉だが、礼文が身を寄せている冨鳥家にはこれしかないので、我慢せざるを得ない。ポットから綿の入ったカバーを外し、熱い紅茶をカップにそそぐ。

砂糖もミルクも盆の上には乗っていない。空の小皿とスプーンがそえられているだけだ。


礼文は戸棚から大振りの瓶を取り出す。中身はヴァレニエというリューシャ伝統の保存食だ。


ようするに果実を砂糖で煮たものだが、ジャムのようにペースト状にはなっていない。原型が残るように煮た果物がシロップにひたるように作る。今回購入したのはイチゴのヴァレニエだ。


投与を行うビルの近くには、リューシャ・アヴァンギャルド系の芸術を扱う画廊がある。そこの店主はリューシャからの留学生からヴァレニエ製法を覚えたそうだ。


店主が半ば趣味で作るヴァレニエを買って、仕事が終わってから一人で紅茶にそえて味わうのが、礼文のひそかな楽しみだった。故国は悲しみと屈辱と共に捨ててきたが、味覚については別だ。


(完全ではないがな。私の知る最高のヴァレニエはこんなものではない)


一方、福子に与えたのは、日本で手軽に買うことができる安物の茶葉とジャムだ。それも礼文が急須に適当に葉を入れ、薬缶で適当に沸かした湯をそそいで蒸らし時間も適当に入れた紅茶。使い捨ての実験動物には、これでも高級すぎると礼文は思っている。





貸家の上空、梅雨晴れの空とは対照的に、茶の間には険悪な空気がただよっていた。

前回とちがって、今日の必要経費監査はもめている。金額は予算内だが、音矢が購入した物品が不当であると、瀬野が主張したからだ。


「[萬文芸]の過去号を1年分? 

 翡翠くんの教育にかこつけて、私物を購入しているんじゃないの?」


「そんなことはありません。

 [萬文芸]には市井の人々の生活や思い出をつづった随筆も乗っているし、

 教科書には乗っていない雑学もとりあげられています。

 まさに現代社会の一般常識を学ぶにはうってつけの教材なんですよ。

 僕は翡翠さんに、世間の常識を教えてあげたいから購入しました。

 帝都の交通地図だって、地理の勉強になります。

 そのうえ、この二つにはもっと重要な効能が……」


説明しかける音矢を瀬野がさえぎった。

「ああいえば、こういう。あんたのやり口は私にもわかってきたわよ。

 口車にのせて、経費を私事に使おうなんてゆるせ」

瀬野の言葉に、翡翠が突如割って入った。

「神代細胞の反応だ!」

彼は立ち上がり、目をとじてエーテルエネルギーの光を脳で感じ取っている。


「え、ええっ!」

瀬野はひどくあわてた。

「本当? 早くない? だって今日は、まだ……」

「まだ?」

彼女の反応を見て、音矢は不思議そうに独り言をつぶやく。


瀬野は音矢など目に入らない様子であわてていた。

「だから、わざわざ買ってきた……

 まさか、そんな、急に、早く」


そして、翡翠は自分の言いたいことだけ話す。

「ああ、早い。前回よりも急激に増殖している」

縁側に出て、翡翠は空を見た。正午を過ぎた太陽は、わずかに西に移動している。

「このままでは、夕暮れごろに暴走しそうだ!」


音矢も縁側に出て、太陽の高さを読む。

「そうすると、あと4時間くらいですか」


彼らの言葉を聞いて、瀬野は動揺した。

「この前は投与をうけてから一週間、

 反応を感じてからでも半日近くかかったのに? 

 た、たいへんじゃあない。早く行かなきゃあ……ああでも、どっちに?」


座ったままうろたえる瀬野に、音矢が話しかける。

「瀬野さん、落ち着いて。リベットペンはありますか?」

「あるわよ。いつも持ち歩いているから」

彼女は傍らの大きな皮製バッグを引き寄せた。


「そんなら大丈夫です」

音矢は自分の部屋から背嚢を持ってきた。そのポケットから方位磁石をだして、畳の上に広げた地図の矢印が正確な北を向くように合わせる。


「翡翠さん、どっちから反応が来ますか?」

示された方向を地図で音矢は調べる。その一点を彼は指さした。

「……この家です! そして、信者の名前は北原福子」 


「なんでわかるの! いいかげんなことを言わないでよ!」


恐慌状態の瀬野に、音矢は涼しい顔で説明する。

「[真世界への道]は[萬文芸]の読者交流欄を利用して信者を集めていたでしょう。

 つまり、そこに乗せられた住所を当たれば、

 信者候補がどこにいるかわかるわけです。

 さっきはそれを説明しようとしていたんですよ」

「ああ……そうなの」

瀬野は毒気を抜かれたようすで音矢の顔を見た。


「このために、古紙屋をあたって

 古い[萬文芸]を集めてきたんです」


[古紙屋]とは、1930年〔光文5年〕当時の資源回収業者のことだ。


「雑誌の読者交流欄に掲載された帝都付近の住所を

 赤丸で地図に記入しておきました。

 この家からの近道とその距離から計算した

 移動時間も赤鉛筆で書き込んであります。

 ……患者の家までは車で行けば1時間もかかりませんね。間に合います」


音矢は瀬野の目をみつめ、優しく微笑んだ。

「始末に必要な物品はもう背嚢にほとんど準備してあります。

 着替えの風呂敷包みを僕の部屋から出して、

 水筒に湯冷まし、

 それに、おしぼりを支度すればすぐにでも出発できますよ」


「じゃあ、さっそく出かけましょう!」

「でも……」

立ち上がる瀬野に替わって、音矢は膝を抱えて畳の上にしゃがみこむ。


「僕のやったことを瀬野さんが必要だと認めてくれない……

 僕は仕事の役に立つと思って[萬文芸]を集めて、地図も買ってきたのに、

 私事だと誤解されてしまった……」


「こんなときに、なにをスネているのよ! 

 翡翠くんのマネなんかしている場合じゃないでしょう!」 

「僕が無駄なものを購入したんじゃないと、わかってくれますか?」

うらめしげに、音矢は瀬野を見上げた。


「わかる、わかるから!」 

「じゃあ、清算はあとでもいいですから、

 とりあえず必要経費だと認めてハンコください。今」

彼はその書類を瀬野に向ける。


「あんた! なめた真似を」

怒りにまかせて音矢を打とうと怒る瀬野に、翡翠が立ちふさがった。


「瀬野さん、早くハンコというものをあげてくれ。

 音矢くんがこれから出撃してくれるというのに、

 士気をさげてはいけない。頼む!」

「……ああ、わかったわよ」

バッグの中に手をいれて、瀬野は必要なものを出した。


「ありがとうございます! これで頑張れます!」

署名捺印する瀬野に音矢は明るい声で礼を言った。

「ほら、音矢くんが張り切ったぞ。瀬野さんありがとう」

翡翠もそれに習う。


「あああ、まったくいいタイミングで翡翠くんと協調して……

 二人とも、仕組んでたんじゃないの?」

「偶然です」

音矢はきっぱりと否定した。


「そう、僕らには、いつ患者が暴走するかなんてわかるわけがない」


音矢は水筒を手に取り、台所に向かう。歩きながら、彼は語る。

「そして、礼文がいつ、自分の信者に投与するかなんて予定も、

《僕らには》わかりませんよ」

 

彼は発言の一部分だけ強調した。翡翠にその意味は理解できなかった。

瀬野は沈黙を守り、バッグを肩にかける。





幸いなことに渋滞にも引っかからず、車は予想された時間より早く現場に到着した。

北原家の塀の向こうには大きな屋敷と、蔵が見えた。


音矢はそれを見た素直な感想を口にする。

「前回の信者が住んでいた家よりも立派ですねえ。

[真世界への道]は金持ちばかり狙ってるのかな」


心の中だけで、音矢はさらに深く考察する。

(それにしても、ぬるい)

(どうせ信者の心を支配するなら、

 家屋敷を含めた全財産を現金化してお布施として巻き上げてから、

 実験台にすればいいのに)

(資金が潤沢なのか……それとも他に理由があるのか?)


車の中で、音矢と翡翠は電気工事人のような作業服と半長靴に着替えた。前回は音矢だけだったが、その際翡翠も返り血を浴びて服を汚したので、あらかじめ瀬野に二人分の作業服を調達してもらった。


小柄な翡翠の分は音矢が裾上げをした。彼には作業服に合わせたアゴ紐つきの帽子もかぶせてある。前回よりもかさばるようになったので、着替えが背嚢に入りきらない。だから風呂敷に包んで持参した。


「水筒よし。氷砂糖よし。応急処置用の救急箱よし。

 古新聞紙よし。おしぼりよし」

音矢は改めて背嚢に準備した品を確認する。

瀬野には遠足の準備と笑われたが、実際に必要なものだ。


作業服のポケットにはハンカチと鼻紙、鎖つきキーホルダーが入っている。軍手もはめた。暴走した信者の脳を破壊するための武器、リベットペンは音矢の胸ポケットに差す。

彼は乾電池式小型電波送受信機を翡翠に渡した。これは印籠ほどの大きさで、ボタンを押すと瀬野が持っているほうの送受信機が振動し、急を知らせるしくみだ。


あらかじめ、返り血で車が汚れないように古新聞を座席と床に音矢は敷いておく。

回収した神代細胞を保存するためのガラス瓶は、革鞄に入れて音矢が持つ。

例のごとく、信者の家の戸締りはされていなかった。それどころか扉は開け放たれていた。

「行くぞ」

「行ってきます。僕の実家の件もよろしくおねがいします」

音矢と翡翠は連れだって出動した。


二人が玄関をくぐってから、瀬野は翡翠と対になっているのとは別の電波送受信機を取り出し、乱暴な手つきでモールス信号を礼文に打電する。これまで音矢たちと行動を共にしていたので、暴走を伝える隙がなかったのだ。




結局、礼文が到着することはなかった。

彼が神代細胞の回収を手伝いに来る前に、翡翠側の発信器が振動して作戦成功を伝えてきたからだ。瀬野は安心と失望を感じながら、礼文に回収不要と連絡する。


礼文用の電波送受信機をバッグにしまい、しばらく待っていると、音矢と翡翠が玄関から出てきた。二人の服は血まみれだった。前回よりもひどい。


瀬野は吐き気を催したが、仕事に対する義務感で耐えた。急いで二人を後部にのせて、彼女は車を発進する。そうしながら瀬野は窓を開けた。後ろの二人にも窓を開けるように指示する。

開け放った窓から入る風が、車内の血の臭いを吹き飛ばしてくれた。幸いにも、この町は人通りの少ない静かな場所なので、他人にその臭いを気取られることはなかった。


着替えが終わってから、翡翠は口を開いた。

「今回は、ボクも手伝えたぞ。

 信者である女性の服をぬがして、

 音矢くんとボク、二人がかりでまわしたんだ」


その意味を想像して、瀬野は動揺した。

「え! いまなんて?」

「だから、二人がかりでまわした。彼女は嫌がっていたが……」


「こら! 翡翠くんになんてことをさせるの!」

瀬野の怒りは発言者ではなく、音矢に向かった。

「あはは。種明かしをしますね」

音矢は笑いながら始末の経緯を語る。




北原家は典型的な旧式の日本家屋、それに平屋だ。

(これでは高低差を利用した罠は仕掛けられないな)

そう考えながら、音矢は翡翠をかばうようにして玄関に入る。


マキビシを用心して、二人は土足のまま家屋に浸入した。

廊下を進むにつれ、血の匂いが濃くなっていく。

ひとつの襖が開いて何者かが廊下に出てきた。


赤い模様の銘仙をまとった女性だ。あの読者欄の自己紹介文では28歳のはずだが、それにしては服の趣味が若いと音矢は思った。女学生のようだ。


彼女が近づいてきたので、銘仙の色は鮮血で染められていることがわかった。返り血だ。

彼女の手には血液のしみた紙がある。


「いらっしゃいませ。天使さん。そして悪魔」

きれいなしぐさで、彼女はお辞儀をした。

「どうも、おじゃまします」

音矢も頭をさげてあいさつを返す。


「あなたは北原福子さんですか?」

「そうよ。この家の主人、北原家の福子よ。

 ……私の名前を呼んでくれるの? 悪魔のくせに、やさしいのね……

 悪魔でいいのよねえ?」

福子はあわてて紙を見直した。


「そうそう、小さいほうが天使さん、大きいほうが悪魔」

目を紙面からあげて、彼女は微笑んだ。


「うふふふ。本当は、いけないんだけど、ゆるしてねえ。

 だって、勉強する暇がなかったの。

 だから、儀式のやり方が書いてある紙だけ残したわ。

 でも、いきなり変化があらわれるっていうのは、

 わたしに素質があったからでしょう。魔術師になる素質よ」


その顔の皮膚にはニキビのようなものがいくつもできていた。そこから増殖した神代細胞が滲みだし、ひくひくと蠕動している。


「魔術師生誕の儀式、開場」

福子は再び紙に目を落とし、読み上げる。


「我のもとに天使と悪魔もろともに現れり……もぐもぐ」

読み終わった部分の紙を福子はちぎっては口に入れ、噛み砕く。普段固い煮豆などを食べて鍛えているアゴはよく働いた。


「しかして、我は天使に回生の望みを抱く理由を明言する……もぐもぐ。

 我は天使に生贄を捧げしことを宣言する……もぐもぐ。

 我は悪魔を打ち砕いて力をしめし、

 魔術師の資格を得ることを誓言する……もぐもぐ」

最後の紙を彼女は飲みこんだ。


「暗記できなかったから、頭に入れられなかったから、おなかにいれるわね。

 これでいいでしょう?……駄目って言っても聞かないわ。

 だってわたしは特別なんだもの。

 特別だから、選ばれたの。命令されるのはもうたくさん。

 今度はわたしが命令してやるわ」

福子は胸を張った。


「あなたたち、こちらにいらっしゃい」

命令というには、あまりにも丁寧な言葉を残し、福子はさきほど出てきた部屋に入る。


「どうする?」

「とりあえず、言うとおりにして隙をうかがいましょう」


音矢と翡翠は招かれた部屋に入る。

そこには色彩が乱舞していた。ありったけの服、ありったけの装飾品。それをすべて福子は床に撒いていた。


「ねえ、天使さま。お姉さまったら、こんなに持っていたのよ。

 お父様の集めた骨董品はだんなさまに渡したのに、

 お母様の服も宝石も、全部売ったなんて言って、

 値打ちのあるものは自分の部屋に隠していたの。

 ずるいわ。わたしにはなにもくれなかったのに。

 わたしの晴れ着も、よそ行きの服も取り上げて、

 安物しか持たせてくれなかったのに。

 欲張りの鬼よ。二人とも」


彼女は子供じみたしぐさでジダンダを踏んだ。

「わたしのものをすべて奪った。

 財産も青春も、名前まで奪った。くやしい、くやしい。

 わたしは北原福子! ブク子なんてよばせない!」


学芸会の主役のように、福子は叫ぶ。 

「だから舌を引き抜いた! 悪い舌を引き抜いた!

 手も足もバラバラにしてやった!

 骨はきれいね。血も肉もきれい……

 わたしの望みは、芸術家になること。

 そうして、みんなにほめられるのよ。

 だから、芸術の材料にしてやったの。ほら見て、こちらの部屋よ」

座敷に通じるフスマを開いて、福子は案内する。


強烈な臭いが音矢の鼻をついた。

「見て! この芸術を! 私は抽象芸術画家として世に出るのよ! 

 そしてみんなにほめられるの。みんなが私の絵を欲しがるわ! 

 たくさん買ってもらってお金をもらって、

 私はいろんなものを手に入れるのよ!」


10畳ある奥座敷は血と肉片の海だった。足袋をスケート靴のように滑らせながら、福子は中央に進む。二人も後について入る。底に刻み目が入っている半長靴のおかげで、翡翠と音矢は転ばずににすんだ。


(これは……すごいな)

(前回より人体の破壊がひどい)

(さすがの僕も、気持ち悪くなってきた)

(翡翠さんは?)

心配になった音矢は翡翠の顔色を見た。とくに変化はない。


「ますます増殖している。もう説得して暴走をとめるのは無理だ。

 なんとしても神代細胞を回収しなくては」

言葉にも動揺は感じられない。


(これを見て平気なのか?)

(そういえば……前回も、あの孤島でも、翡翠さんは血みどろの現場にいた)

(でも、まったく取り乱していなかった)


音矢は最初の食事会を行った次の日、翡翠に違和感を覚えたことを思い出した。音矢は心理的トリックを用いて瀬野を騙したが、それは翡翠には通用しなかった。彼は固定概念に疎いがゆえに、音矢の手口を見抜いたのだ。


(今までは、僕自身が殺し合いの恐怖で心がいっぱいで、

 翡翠さんを観察する余裕がなかったけど……

 すこし慣れたのかな。それでわかった)

(とにかく、この人はただ者ではない)




座敷の中央には空の長持が置いてある。福子はその傍らに立った。

「この長持ちは、富と略奪の象徴よ」


福子の顔からにじみ出た神代細胞が汗のようにしたたり、床に垂れた。それはヒルが獲物を探すように蠕動して移動する。新たに融合する相手をさがしているのか、畳に落ちている臓物にいったんたかるが、すぐに離れて別の方向にむかう。生命のない肉片はお気に召さないようだ。福子は顔につぎつぎと湧き出てくる神代細胞を不快に思ったのか、手で拭った。


「そして、血と内臓を長持ちの下にしくことによって、

 財産制度に抑圧されている有様を表現したの!

 床の間に置いた生首は、滅ぼされた特権階級の末路をあらわしているの!」

指さしながら、福子は彼女の作品を解説する。


激しい動作だったので、手についた神代細胞が飛び散った。


「うひゃあ」

音矢の顔に、福子がまき散らした神代細胞が付着したが、それは吸収されない。手で払えば落ちる。彼の身体には翡翠由来の神代細胞があらかじめ融合しているので、反発するのだ。


増えすぎた神代細胞はやがて脳を浸食して体の支配権を奪う。そして繁殖するために新しい宿主を探しに出かけ、強化された身体で暴力をふるう。次の犠牲者を出さないためには、まだ神代細胞の力が完全開放されていない、この段階で福子を殺し、一気に細胞を回収するしかない。


「さあ、悪魔さん。わたしに殺されて。

 わたしはあなたを倒して、魔術師としての資格を得るのよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。もうすこしお話を」

まだ、罠の算段ができていない。音矢は時間稼ぎをしようとした。


「命令は聞かないわ!」

畳の上を滑りながら、福子が突進してくる。


音矢は耳の制御石に手をやりながら、後ろに飛んだ。

彼の身体から緑色の光が放出され、体表5センチほどで柔らかい膜を形成する。

翡翠から移植された神代細胞が形成する空間界面だ。

刃物や銃弾を跳ねかえすほどの強度を持つが、同時に空気も遮断する。そのためにおよそ三分くらいしか発動させていることができない。


「なに、これ? おもしろいわ」

福子は上から弾力のある膜をムニムニと押す。

畳の上に倒れた音矢は完全に抑えこまれた形になった。


彼は自分を包む空間界面の中で体を動かし、土下座の体勢を取る。

「ごめんなさい。勘弁してください」

とりあえず謝ってみたが、

「命令はやあよ。聞かないのよ。やあよ」

駄々っ子のように首をふりながら、福子は空間界面を叩いている。


「やめろ!」

翡翠も空間界面を発動させた。彼は音矢より神代細胞量が多いので、接地したままでも形成できる。

そのまま走り出そうとして、転んだ。靴底が空間界面に包まれたせいで、刻み目による摩擦がなくなったのだ。


緑の膜につつまれたまま、翡翠は畳の上を滑って福子に接近する。それに気づいた彼女は身をひねってかわそうとして、やはり転んだ。


その拍子に着物の裾が割れて、ふくらはぎどころか太ももまで露出してしまう。しかも、この時代の女性下着は腰巻といって、布を巻きつけただけの無防備なものだった。


「きゃあ。いやあ!」

福子はあわてて裾を直し、体を丸めて手で顔を覆う。


「見られちゃった……お嫁にいけない」


この時代の、しかも上流家庭においてきちんとした躾を受けた女学生の心を持つ福子にとって、肉体を異性の目にさらすことは、到底耐えられない恥であった。憎しみに任せて殺人と死体損壊を働くことはできても、福子は羞恥心を捨てきれていなかった。


(よし、罠を思いついたぞ!)

「翡翠さん、その人を押さえつけて」

音矢は翡翠に呼びかけた。


言われたとおりに彼は福子にのしかかろうとする。

それをかわそうとして、彼女は立ち上がった。

空間界面を解除して後ろに回った音矢は、福子の帯に手をかけ、素早く緩めた。体に巻いたまま、下に引き下ろす。


「あ、ちょっと、いや」

「翡翠さん、そっちから服を引っ張って脱がして!」

空間界面を解除し、翡翠は言われたとおりにする。

彼女の肩がはだけて、白い乳房がのぞいた。


「ひいいっ」

悲鳴をあげる福子のむき出しになった胸に、音矢は背後から手を伸ばす。

気配を感じて反射的にかわすと、彼女は襲撃者のほうを向きなおる。

それに見せつけるように、音矢はズボンのベルトに手をかけた。


「福子さん……僕たちと、いいことしましょうよ」


「いやあああ!」

貞操の危機を感じた乙女、福子は逃げ場を探した。そばにある長持に飛び込んで、みずから蓋を閉める。


(よし! 狙い通りだ)

「翡翠さん、そっちを押してください。僕はこっちから」

長持の端を持ち、音矢は畳の上を滑らせながら回転させた。


「ほれぐーるぐる。ぐーるぐる。ぐーるぐる。

 それ、まわせ。やれまわせ」

重いので掛け声をあげながら、音矢と翡翠はしばらく回し続けた。


「いやあ、助けてえ……」

蓋の隙間から福子の悲鳴が漏れていたが、やがて聞こえなくなった。回転で気分が悪くなったらしい。


「もういいでしょう。離れて!」

彼の声を待ちかねたように、翡翠は畳の上に倒れる。


リベットペンを胸ポケットからだして、音矢は構える。

勢いよく蓋をあけ、半分意識をうしなっている福子の目につきさし、ペンのボタンを押した。

特殊爆薬入りの弾丸が、彼女の脳に打ちこまれる。


「……5、4,3,2,1」

音矢は尻もちをついた姿勢で、爆発までの秒を数えた。彼も目が回ったのだ。

「0!」

体内の水分に反応した爆薬が脳と顔面骨を吹き飛ばす。


飛び散った肉片の数々から、人体の細胞に擬態していた神代細胞が分離した。本来の姿、半透明な流動体にもどり、それぞれがヒルのようにうごめく。

翡翠は座った姿勢で自分の手を床すれすれに伸ばした。神代細胞の群体は彼の発するエーテルエネルギーに引き寄せられていく。


「暑い」

翡翠は帽子を脱いだ。額の小さな角が緑色の光を発している。先ほどの長持回転の運動で体温が上がった。そのうえ彼の脳と連動している神代細胞が活性化したせいでさらに発熱しているらしい。翡翠の頬は上気し、角のそばの皮膚には汗の玉が浮いている。


「今回は量が多いですね」

音矢は自分の耳につけられた制御石を一つ外し、同じように神代細胞に近づけてみた。翡翠ほどではないが、神代細胞は引き寄せられていく。


「やあ、これでも回収できるんだ」

音矢は翡翠から離れた位置に飛び散った神代細胞を制御石でペタペタと拾い集めた。


「こまったな、瓶に入りきらないかもしれない」

ミカンほどの大きさに固まった神代細胞を床にいったん置き、音矢は使えそうなものがないか、他の部屋を調べる。


台所脇のゴミ箱で彼はガラス瓶を見つけた。

「あ、これは?……まあ、いいか。

 とりあえず使って……不審な点は、後で瀬野さんに聞いてみよう」


次回へ続く



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