第二話
時刻は6時。白熱電球の光の下、ちゃぶ台に夕食がならんだ。
ショウガで風味をつけたスルメイカの煮つけに、豆腐とワカメの澄まし汁、ジャガイモの塩ゆで、キュウリの酢の物、タクアン。
音矢が作れるのは簡素な家庭料理だけだ。しかし、炊きたての飯とともに食べる旬の食材は翡翠にも瀬野にも好評だった。イカは一口で食べられる大きさに切りそろえてある。
隔離された環境で偏った教育を受けて育った翡翠は、箸を使うのがうまくない。だから飯を食うにも匙をつかう。そんな彼に配慮した結果だ。
「おかわりをくれ」
翡翠は自分の茶碗をさし出した。音矢は御櫃から飯をよそって彼に渡す。
「はい、どうぞ」
「あら……ずいぶん食べるようになったのね」
瀬野は感心したように翡翠を見た。
「鍛錬したら、腹が減るようになった。
それに、音矢くんの作る料理はうまい。
孤島の研究所にいたときにはこんなものは食べられなかった」
(それは……あそこに持って行ける食料は、保存がきくものしか……
だから、しかたないのよ)
彼女は心の中でだけ反論した。
食べ終わって、食後の茶を飲んでいるとき、翡翠が[萬文芸]を取り出した。音矢が私物として持ち込んだ月刊総合小説誌だ。
「これにのっている小説に変なことが書いてある。
なぜだかわからないから教えてくれ」
「どういうこと?」
瀬野は一口飲んだ茶碗を下ろして問いかける。
「瀬野さんに渡された教科書で、ボクは地理の勉強をした。
その内容と違うことが書いてある」
「ああ、新連載のですか」
音矢はすでにその小説を読んでいた。
「主人公の敵になる人物は
[ソビエト連邦出身のロシア人]と書いてあるのだが、
この世界に、そんな国は無いだろう?」
翡翠はしおりを挟んである箇所を開く。
「小説の説明では、
ソビエトとは北にある、とても大きな共産主義国で、
連邦ができる前のロシア帝国時代には
日本と戦争したことがあるそうなのだが。
地理の教科書で調べてみたら、
その条件に合うのは均分主義でもって作られたソユーズ連邦、
そこに住んでいるのはリューシャ人だ。
なぜこの小説には現実にない主義や国家や民族が書いてあるんだ?」
「作者の都合でしょうね。ほかにも気づきませんでしたか?
その小説の中では日本の元号が違ってます」
翡翠は雑誌をめくって、該当する箇所をみつけた。
「……ああ本当だ。光文であるはずが、昭和になっている」
「要するに、[昭和事件]をもとにして作られた異世界物小説ですよ」
「なんだ、それは?」
翡翠は小首をかしげた。
「先帝陛下が崩御されて、元号を新しくするときに、
どこかの新聞社が[次の元号は昭和]って誤報をだしてしまったんですよ。
しかし、実際は光文になった。
おそらく作者は、その出来事を基にして
この世界とは違う、
元号が昭和で、北にある大国がソビエト連邦、
そこに住んでいるのはロシア人っていう
架空の世界をでっちあげたわけです。
小説にはいろいろな種類がありまして、
こういうのは[異世界物]というくくりに入ります。
それには現実とまるっきり違う世界を作ることもあるし、
逆に、よく似ているけれど微妙に違う世界を使うこともある。
この話は後者でしょうね。他にもいろいろ違うところがありますよ。
尺貫法が廃止されていなかったり、
かな遣いが旧式だったり、
自動車の操縦を運転と呼び換えたり」
「なぜ、そんな面倒なことをするんだ?」
「主人公の敵というからには、悪役です。
そいつの出身を書くときに、実際にある主義や国や民族を使うと、
そこから文句が来ることがあるんですよ。
自分たちの悪口を書くなって。
ヘタすると、小説の掲載が取りやめにされることもある。
それは作者にとってよろしくない。
だから、実際にはない世界をでっちあげて、
[これは嘘っ話だよ。
本当のことではない架空の世界の話だから、あなたたちとは関係ないよ。
あなたたちの悪口をいうつもりもないよ]って予防線を張るわけです」
音矢の説明は、さらに翡翠の疑問をよんだ。
「ならば、悪役を出さなければすむことではないか?」
「主人公を大活躍させないと、冒険活劇は成り立ちません。
それには、とっても強くて、とっても邪悪な悪役がいないと困るんです。
主人公が知恵と勇気で、大きな敵を倒す。これでないと話が盛り上がらない」
「なぜ、話を盛り上げなければならないんだ?」
「人間はそういう筋書きを好むものですからね。
昔から世界中にある物語のたぐいですよ。
スサノオのヤマタノオロチ退治とか
オデッセウスのキュクロポス退治とかが良い例です」
音矢は茶で口をうるおしてから、さらに説明をつづける。
べつに面倒だとは思わない。むしろ普段しゃべる機会のない自分の知識を披露できて、音矢は楽しくなっていた。
「他にも[異世界物]の利点はありましてね。
僕たちの世界の現実が小説の筋書の邪魔になるとき、
都合のいいような事柄をでっちあげておいて、
[これは異世界の話だから、
現実には存在しない町があっても、
現実ではありえない技術があっても、
現実にはない法律や制度があっても、
現実にはありえない組織内人事があってもいいんだよ。
この異世界ではこれが正常なんだよ]
って言い張るときにも役に立つ…………瀬野さん?」
「すー、すー」
音矢と翡翠の視線は彼女にむかった。
「湯呑茶碗を持ったまま居眠りしてるな」
「器用なもんですね。
……小説談義は退屈だったのかな?
でも、このままにしては置けませんね。布団に移してあげな」
音矢が瀬野に手をのばしかけた瞬間、彼女の目が見ひらかれた。
「うあ!」
「おおっ?」
驚く二人を前にして、
「そうね。地理の勉強をするのはいいことだわ」
あくまでも自然な調子で、彼女は語る。
「ああ、そっから寝てましたか……」
音矢は感心してつぶやく。
礼文に指定された日は、ちょうど梅雨の晴れ間だった。
女学校時代の友人が入院している。その彼女の見舞いにいくという置手紙をするという行動で、やっと自分の常識に折り合いをつけ、北原福子は呼び出された銀座にあるビルの一室に出かけた。そして礼文に迎えられた。
彼の姿。異国人にも似た彫の深い風貌と日本人にはない高い身長、そして上品な物腰。一目で高級品とわかる背広と靴。
内面が女学生のまま年を取った彼女には、彼が物語から飛び出してきた貴人のように感じられた。
礼文の軽く左足を引きずる動作さえも、福子には彼が過去にうけた迫害を思わせる聖なる烙印と見えた。
夢見ごこちで高級そうな椅子に座り、福子は勧められた紅茶を飲む。
紅茶には、イチゴジャムが入っていた。リューシャの習慣だそうだ。そのハイカラな飲み物を一口含む。まるで天国から与えられた神酒のようだと思った。
そのジャムに、麻酔性の薬物が混ぜられていたことを、福子は知らない。
次回に続く




