認知症患者を死者扱いすること/愛情の枯渇について
とある少女のお話です。
彼女には優しい祖母がいました。
母や父が家を空けているときは、祖母がやってきて料理を作ってくれました。
少女は祖母の料理が大好きでした。
祖母は少女が好きなお伽話をたくさん知っていました。
少女は祖母の声に安心して、眠りにつくことができました。
少女が成長してからは、祖母の家に一人で遊びに行くようになりました。
学校で出来た友達や、好きな男の子についての悩み相談を、祖母はいつも温かい微笑を浮かべて聞いてくれました。
少女が高校生になってしばらくした頃、祖母が腰を悪くしました。
ある日、父が言いました。
「来月からおばあちゃんと一緒に住むぞ」
少女は喜びました。大好きな祖母と一緒に住めるのです。
きっと父は、腰をいためた母親を慮って、同居を決めたのでしょう。
少女は祖母との暮らしを楽しみにしていました。
けれど祖母が引っ越してきてから、家の中の雰囲気は悪くなりました。
母と祖母の関係が原因なことは明らかでした。
昔から、二人は仲がよくありませんでした。
少女の教育方針や料理や掃除の仕方、色々なことで対立していました。
父はいつも祖母の味方でした。
祖母と母、どちらが正しくてどちら間違っているのか、少女には分かりません。
少女にとってはふたりとも大好きな家族で、片方の味方につくことはできませんでした。
祖母が引っ越してきてから一年が経ちました。
最近の祖母は物忘れが目立ちます。
自分の眼鏡や財布などを探すことが増え、
ぼうっとしている祖母に「どうしたの」と少女が尋ねると、祖母は「何か用事があったんだけどねえ」と言って苦笑いすることがよくありました。
ある日、少女が学校から家に帰ると、母と祖母が口論しているのが聞こえました。
「お義母さん、トイレの電気は消してくださいと言ってるじゃないですか」
「それくらい、気づいた人間が消してくれたらいいじゃないか」
「こっちは、中に誰かが入っていると思うんですよ」
どうやら、祖母がトイレから出たときに、トイレの電気を消さなかったのが口論の原因のようです。
実は、祖母の電気の消し忘れには少女も困っていました。
心情的には母に賛同しますが、目くじらを立てて怒ることほどではないように思います。
その日の深夜、喉の渇きを覚えた少女が自分の部屋からリビングに行くと、
母が深刻な顔で父に相談をしていました。
「お義母さん、認知症じゃないかしら。一度病院に連れていきましょうよ」
父は顔をしかめてこう答えました。
「馬鹿なことを言うな。母さんはまだまだ元気だ」
少女は胸の中にもやもやしたものを抱えながら自分の部屋に引き返しました。
それから半年が経ちました。
祖母の物忘れは日に日に悪化していました。
少女が祖母と会話しようとしても、途中で会話が噛み合わなくなりました。
例えば、「AはBで、BはCだから、AはCだ」という話をするとします。
少女が「AはBで、BはCだから」と言ったところまで、祖母は話を覚えています。
しかし少女が「AはCだ」と結論を言ったとき、祖母の頭の中から「AはBで」の部分が消えているのです。
祖母は「( )、BはCだから、AはCだ」という記憶を思い返して混乱します。
なぜ「AはCだ」という結論になるのだろうか、と。
要は、記憶の連続性が保てないのです。
それでも、少女は辛抱強く祖母と会話を続けました。
祖母は少女に対しては、昔と変わらず優しく接してくれました。
しかし母に対しては、祖母の態度は物忘れが相まって辛辣なものになりました。
ある日、少女が部活から帰宅すると、祖母の大声が聞こえました。
「財布がない。泥棒が入って、わたしの財布を盗んだんだ」
「わたしもお義母さんも、今日はずっと家にいたじゃないですか」
「じゃあ、あんたが盗ったんだろう」
「訳の分からないことを言うのはやめてください」
常識的に考えれば、母が祖母の財布を盗むわけがありません。
しかし祖母は頭の芯から、母が犯人だと信じているようでした。
少女は仲裁を試みました。もう一度よく探してみよう、と言ったのです。
すると祖母の財布は、祖母の部屋の箪笥の奥から見つかりました。
祖母は母に謝罪しましたが、泥棒扱いされた母は釈然としない面持ちでした。
思えばそれが、少女の、祖母に対する愛情の容器にヒビが入った瞬間でした。
ある日、少女は自分の部屋に入ると、部屋が整理整頓されていることに気づきました。
母は基本的に少女の部屋に立ち入らないので、整理したのはきっと祖母でしょう。
少女は心の中で祖母に感謝しましたが、ふと、文房具のいくつかがなくなっていることに気づきました。
さっそく、リビングにいた祖母に尋ねると、祖母は掃除をしたことを認めながらも、文房具については知らないと言います。
母にも尋ねてみましたが、少女の部屋にはいつもどおり入っていないという答えでした。
小物の場所を知っているのは、祖母しかありえません。
しかし、本人が知らないと言っている以上、それ以上追及することはできませんでした。
少女は仕方なく自分の部屋に戻り、部屋中を探し回りました。
文房具は決して貴重なものではありませんでしたが、自分が家にいない間に、自分の持ち物が消えるというのは、気持ちが悪かったのです。
しばらくして、文房具は見つかりました。ベッドの下の引き出しの、小さなポーチにしまわれていました。
その事実を祖母に伝えると、祖母は「ああ、そういえばそこに入れたんだったね」と悪びれもせずに答えました
そんなことが、何度もありました。
最初は寛容に祖母を許していた少女も、たまらず、「物を仕舞った場所を思い出せないなら、最初からわたしの部屋を掃除しないで」と頼みました。
すると祖母は不機嫌になり、「せっかく掃除してやったのに、ありがとうの一言もないのかい」と言いました。そしてまた懲りずに、少女の部屋を掃除してモノを仕舞っては、その場所を忘れました。
少女の祖母に対する愛情の容器から、ぽたり、ぽたり、と愛情が漏れだしていきます。
少女は学校、父は会社で日中は家にいませんが、母は一日中、祖母の相手をしなければなりません。
母は祖母から何度も泥棒扱いされ、記憶の不一致から嘘つき呼ばわりされ、日に日に摩耗していきました。
父は長らく、祖母に関する母と少女の相談に取り合いませんでした。
自分の母親が認知症であるという可能性から逃げていた、と言った方が正しいかもしれません。
しかし、祖母の物忘れによる矛の切っ先が、父にまで向けられたとき、父は祖母を病院に連れて行きました。
母の予想はあたっていました。
祖母はアルツハイマー病でした。
記憶や思考能力が衰え、最終的には日常生活の最も単純な作業さえできなくなる病気です。
医者は、アルツハイマー病に対する家族への理解を求め、病気の進行を遅らせる薬を処方してくれましたが、
そんなものは気休めに過ぎませんでした。進行を遅らせることはできても、進行を止めたり、アルツハイマーを治したりすることは、現代医学ではできないのです。
祖母の就寝時間は徐々に遅れて行きました。
少女や母や父が寝る時間になっても、祖母は起き続けています。
何か用事があるわけではありません。
いつまでも、家中の戸締まりの確認を続けているのです。
玄関の施錠を確認したら、裏口の施錠を確認し、リビングの窓が閉まっていることを確かめ、風呂場の小窓が閉まっていることを確かめ、
また玄関の施錠を確かめる……。少女の耳には、毎夜、午前三時頃まで祖母が動き回る音が聞こえていました。
就寝時間が遅れれば、起床時間も遅れます。
少女が朝、学校に行くまでに祖母と挨拶を交わすことはなくなりました。
負担を強いられたのは、やはり母でした。
母は祖母の起床に合わせて朝食を作らなければなりません。
また、寝起きの祖母は特に意識が混濁としており、些細なことで機嫌を損ねます。
やがて、祖母に、誰もがよく知る認知症の症状が表れました。
「わたしはまだご飯を食べていない」と、食事後まもなくして言い始めるようになったのです。
祖母は少女や父がなだめてもいうことを聞かずに、冷蔵庫から食品を取り出そうとします。
少女は憤りを覚えましたが、母は文句を言わずに祖母を眺めています。
どうして母は平静を保っていられるんだろう。少女は不思議でした。
あれほど祖母の相手に倦み疲れ、摩耗していた母が、いつの間にか祖母に優しく応じるようになったのです。
少女は祖母が嫌いになったわけではありませんでした。
ときどき、祖母は普通の状態に戻ります。
会話がつながった時、少女は嬉しくなり、会話ができなかった時間を埋めるように話をします。
しかし回復は一過性のものです。
祖母の意識に霧がかかると、祖母は嫌味ったらしく、強情で、自分の非を認めない人間になります。
負の感情が澱のように、少女の心に降り積もり、その重みで、
少女の祖母に対する愛情の容器に入った亀裂が、少しだけ大きくなります。
その亀裂から、ぽたり、ぽたり、と愛情が漏れだしていきます。
やがて、祖母に退行が見られるようになりました。
夜、祖母は時計を眺めて喚き始めます。
祖母にとっての息子であり、少女にとっての父が家に帰ってこないのはどうしてだ、と言い出すのです。
母や少女が「父は仕事に行っている」と説明すると、祖母はこう言います。
「あの子はまだ小さいのに、仕事なんかしているわけがない」
祖母の時間は一時的に、四十年ほど巻き戻っていました。
帰宅した父は、祖母からこっぴどく怒られました。
「こんなに遅い時間までどこに出かけていたんだ。どれだけ心配したと思っているのか」と。
父はただ、残業で少し帰宅時間が遅れただけでした。
父は反論しかけ、説明が無駄だと悟って、悲しげに口をつぐみました。
祖母の様子を知った親族が、家を訪ねることが増えました。
誰もが祖母と話して、その病状に何とも言えない表情を浮かべ、上辺だけの言葉を少女や父や母にかけていきました。
あるとき、少女の従姉妹が泊まりに来ました。
従姉妹は最初こそ祖母と辛抱強く話していましたが、やがて、祖母を避けるようになりました。
従姉妹が帰る日、少女は駅まで従姉妹を見送りました。
電車を待っている間に、従姉妹が少女に言いました。
「おばあちゃん、大変だね。でも、あんたは我慢しなくちゃいけないよ。一緒に住んでるんだから」
なんと無責任な言葉でしょう。自分は二日間と持たなかったのに。少女は従姉妹を睨みつけ、
「……おばあちゃんと毎日一緒に住んでないから、そういうことが言えるんだよ」
と吐き捨てて家に帰りました。
ある朝、祖母は突然寝室を飛び出して、電話をかけ始めました。
しかし電話番号が分からないようで、少女や母にタクシー会社の電話番号を教えるように頼んできました。
理由を尋ねると、祖父に会いに、病院に行くと言うのです。
祖母は今にも泣き出しそうな表情で、早く病院に行かなければ、と訴えました。
けれど、祖父は、何年も前に死んでいました。
少女と母がそれを告げると、祖母は少女と母を「薄情者」と罵りました。
どうして自分を病院に行かせてくれないのか、どうして病気に苦しむ祖父を見守らせてくれないのか、どうして祖父が死んだなどと嘘をつくのか……。
祖母は本気で、少女や母が、祖母に意地悪をしていると信じていたのです。
祖母から侮蔑の言葉を受けたとき、少女の祖母に対する愛情の容器に入った亀裂が、さらに大きくなりました。
けれど、愛情がその亀裂から漏れ出す音は、もう、聞こえませんでした。
それから約一年後に、祖母は肺炎であっさり亡くなりました。
その一年間、少女は一度も祖母に怒りを抱きませんでした。
たとえ祖母が孫の存在を忘れ、少女を家に勝手に入ってきた他人扱いしても、心が乱されることはありませんでした。
少女は、母が至った平静の境地に、やや遅れてたどり着いたのです。
父はそんな少女を褒めました。アルツハイマー病を理解し、祖母に優しく接してくれてありがとう、と。
それはまったくの勘違いでした。
葬儀の場で、泣いているのは父方の親族だけです。
母方の親族は、皆が母を労うような表情を浮かべていました。
少女は母方の親族と同じく、祖母の死を喜んでいる自分に気づきました。
ああ。深夜徘徊したり、糞尿をまき散らす前に死んでくれて、本当に良かった。
そこまで理性を失った祖母の世話をさせられていたら、と思うと怖気がする。
少女は安堵の笑みを浮かべないように、注意しなければなりませんでした。
祖母への愛情は、とうに枯渇していました。
祖母の奇態を見てもなんとも思わなくなったのは、祖母への慈愛や受容の気持ちではなく、諦観と無関心が原因でした。
現実世界の祖母が死ぬずっと前から、少女の心の中で、祖母は既に死んでいました。