星の海を渡る旅人
こっちの世界に来て、一年半が過ぎた。
豚鬼皇帝が建造を進めている“ぴらみっど”なるモノは、少しずつ完成が近づいていた。
もうすぐ巨石を運ぶだけの労働の日々が、終わりを告げようとしている。つまり、それは私達四人の別れの日が近付いている事を意味していた。
だが、まだ別れはもう少し先だ。それよりも、真剣に思い悩む事があった。
「近頃、腹筋が割れてきたように思うんだ……」
作業を終え、お風呂からあがり、くつろいでいる時間に、何となく呟いた言葉に皆が反応した。
「姫騎士ともあろう者が、腹筋が割れるなど片腹痛い」
「姫騎士として、それはどうかと思うでござるよ、アリシア」
「それより、腹筋は割れるくせに、何で胸が小さくならないの? 私に寄こせ、その無駄に大きいモノを」
皆から集中砲火を浴びてしまった。ルーは一人だけ何か違う事を言っている気がしたが、今更だから気にしない事にした。
しかし、腹筋が割れるという事は、姫騎士失格だと……? 私のアイデンティティーがなくなってしまう……。ところで、アイデンティティーとは何だろう?
「腹筋が割れる事が、何だと言うのだッ!?」
次の休日、私は行きつけのバーで荒れていた。酒、飲まずにはいられないッ!!
そう、飲まずにいられない。私の思考はあの時以来、腹筋という言葉によって支配されていた。ここ数日間、腹筋こそが全てだったといっても過言ではない。夢にまで見た。腹筋が割れ続けていくのを。腹筋が割れ続けた場合、どうなるのか? 腹筋の向こう側に辿り着けるかもしれない。……腹筋の向こう側とは、何だ? 酒のせいもあってか、思考が乱れているな。それにしても、おかしい。皆と同じだけの仕事をしているのに、私だけが腹筋が割れるというのは、おかしい。絶対におかしい。
まあ、ルーはエルフだから腹筋が割れないとしても、クリスとサヤは何故だ?
「畜生ッ!!」
飲みほしたグラスを、カウンターに叩きつけた。分からない。一人だけとり残されている気がする。
「もうすぐ別れが近いというのに、一人だけ腹筋が割れたままでいいのか? 否、答えは断じて否だッ!! そんな姿のまま三人の記憶に残ってたまるかッ!! ……おい、何だこれは? 注文はしていないぞ?」
スッと目の前にさしだされたグラスに訝しげな眼を向ける。
バーテンダーのナイスミドルなおじさんは、右手をあげて「あちらの方からです」と、私から見て右側を指さした。
そこには、一人の男、否、蜥蜴がいた。蜥蜴……?
茶色のほっそりとした人間大の蜥蜴であった。器用に椅子に腰かけている。黒色のマントを羽織り、赤いマフラーを巻いていた。風などふいていないのに、赤いマフラーが風にたなびいていた。……酔っているのかな?
「ふむ、まあ、飲みたまえよ。ワガハイの奢りだ、腹筋の割れし戦乙女よ」
「初対面の人間に……、人間? いや、蜥蜴? 蜥蜴に腹筋が割れているなんて言われる筋合いはないぞ」
いくら何でも妖しすぎる。いったい、この飲み物は何だ?
「まあ、飲みたまえよ。毒など入ってはおらぬ。もちろん、飲んだからと言ってバキバキに割れた腹筋がなくなるなどと言う乙女垂涎の飲み物でもないがね。流石のワガハイもそんな飲み物はまだ開発した事がない。いや、これを開発したらワガハイ、大儲け出来るのだがねえ……」
この蜥蜴は、金で物凄い失敗でもしたのだろうか? 大儲け、のあたりから声に悔しさのようなモノが滲んでいた。
「本当に毒など入っていないのだろうな? いや、それ以前に人間が飲める飲み物か?」
「クカカカ、作ったのはワガハイではないよ。そこにいるいい女が客として来たら女を酔わせてお持ち帰りしたいといつも思っているナイスミドルを気取った変態バーテンよ。何かあっても少なくともワガハイのせいではないねえ……」
「おい、てめえ、蜥蜴、何を言っているんだ? 俺がそんな事するワケねえだろうが!!」
「なんだか急にこの店に来づらくなったぞ……」
いい店でここ最近の休日はここで過ごすのが一番のお気に入りだったのに、安心して過ごせる場所がなくなってしまうのか……?
「俺くらいイケメンだったら、酒の力など借りずにすむのさ」
よく分からないが、少なくともバーテンに私をどうこうしようという意欲はないらしい。そして、イケメンだとは今の言葉で思えなくなった。
「そうか、ま、奢りと言うのなら、飲むか。タダで飲める酒程美味い酒はないからな」
「男が初対面の女にタダで酒を飲ませる時は、何かしら下心があると考えておけばよいよ。ワガハイは君に下心など持たないがねえ。ワガハイが下心を持つ女がいるとしたら、それはもっとドSな感じの女だねえ……。一瞬でワガハイを凍らせるくらいの女がいれば最高なんだがねえ……」
何を言っているんだ、コイツは……?
グラスの中身を、喉に流し込む。強烈な刺激が、喉を蹂躙するッ!!
「って、ただのコーラじゃないか」
「星の海を渡る旅人たるワガハイは、酒など飲まぬからねえ、ノンアルコールを奢らせてもらったよ」
「星の海を渡る旅人だと……?」
「まだ、ワガハイは、十六だから……」
「間違えた方向に進んだいぶし銀にしか見えんぞ……、だいたい、貴様、ビールを飲んでいるではないか」
「ビールなど、水と一緒よ」
バーテンダーがうんうん頷いているが、それはアル中がよく言っている言葉ではないのか……?
「それよりも、腹筋に悩みし乙女よ。貴様、ちゃんと魔力を上手く使っていないのではないかね? 貴様の仲間が全然腹筋が割れていないという事は、そういう事だろう。このような所で酒を飲んで愚痴愚痴言うくらいなら、仲間に魔力の上手な使い方を習う事だねえ……」
確かに、皆に聞けばいいのだ。恥ずかしさなど、一時のモノ。だいたい、クリスやサヤやルーが私が腹筋に悩んでいる事など、言いふらす筈もない。
「仲間とはいいモノだねえ……。この世界にはワガハイの愛方になれるだけの笑いのセンスを持ったモノがいなかった。だからワガハイは、この世界で科学を極める事にしたのだよ。それが、全ての悲劇の始まりになるとは、思いもしなかったがねえ……」
何だろう、凄く気になる。続きを聞かないといけない気になってくる。
「おっと、ここから先は素面じゃ話せないねえ……。また今度、もしここで出会う事があれば話してやろう、腹筋に悩みし乙女よ」
「先ほどからビールを五杯は飲んでいるではないか……。まあいい、そうだな、今度会う事があったら話してもらうとするさ。ところで、お前の名前は?」
「ワガハイの名は蜥蜴丸。ありとあらゆる世界に、異なる次元に、様々な時間軸に、色々な世界線に存在するモノよ。ではまた会おう、腹筋に悩みし乙女よ」
釈然としない思いを抱えて、私は店を後にした。
……そう言えば私は名前を教えていなかったな。流石に腹筋に悩みし乙女などといつまでも呼ばれるのは嫌だ。店にすぐさま戻ったが、店内に蜥蜴丸の姿はなかった。
バーテンダーに声をかけたら、気が付けば消えていた、と答えられた。
蜥蜴丸、アイツはいったいナニモノなのだ……?
――――●●●●――――
心地よい音が聞こえると同時に、軍曹殿の右手から戦斧が弾き飛ばされた。弾き飛ばしたのは、私の剣であり、弾き飛ばすと同時に軍曹殿の喉元に剣を突きつけた。
「私の、勝ちだな……」
暫く睨みあっていたが、軍曹殿は戦斧を弾かれた右手で己の頭を掻きだした。
「負けちまったか……」
もっとも、手合せはお互い……、いや、軍曹殿は本気ではないが。軍曹殿が本気を出せば私の武器はすぐ壊されてしまうからな。
「一年半で手合せとは言え、負けるようになるとは思ってもいなかったな……」
少し、軍曹殿の言葉に悔しさが滲んでいるようで、嬉しかった。
「軍曹殿、以前にした約束を覚えているでしょうか?」
「あんだと……? ああ、アレか。お前が俺に勝ったら俺の出来る範囲で何でも言う事を聞くってヤツか。まさか、負けるとは思わなかったからなあ……、あんな約束するもんじゃなかった」
「逃げるつもりですか!?」
苦笑が出迎えた。
「逃げやしねえよ。で、何だ? 俺は何をすればいいんだ?」
「思う存分、軍曹殿をモフモフさせていただきます!!」
「ナニ!?」
「問答無用!!」
私はこの後、たっぷりと軍曹殿を堪能した。肉球がないのが、とても残念であった。ああ、にくきゅう……。
軍曹殿をたっぷりと堪能した後、部屋に戻った。今、どうやらお風呂はアリシアが使っているらしい。シャワーの音が聞こえる。
部屋の中では、厨房を使わせてもらったのだろう、サヤが作った料理がテーブルに並んでいた。それを涎が出そうな表情でルーが見つめている。
「実に美味しそうだよ。サヤは料理の腕を本当に上げたよねえ」
「これも、リョーマ殿の指導のおかげと、アリシアが根気よく付き合ってくれたからでござる。アリシアには感謝してもしきれないでござるなあ……」
休日の度に蒼い顔をしていたアリシアは、もういない。休日で体も心もリフレッシュした筈なのに翌日、死にそうな表情をしていたアリシアはもういない。それだけ、サヤの料理の腕は上達したのだ。……リョーマが面白がらずにしっかりとサヤに指導をしていたら、アリシアが体調を崩す回数は激減していただろうが。
「ん、何だかよい表情をしているでござるな、クリス」
「お、お帰り。ホントだね。いい表情しているよ、クリス。何か、いい事あった?」
もしかして、にやけているのかもしれないな、今の私は。だが、仕方ないだろう、いい事があったのだから。
「ああ、遂に一線を越えたぞ、私は」
そう、今までは軍曹殿と私の関係は師匠と弟子みたいなモノだったが、これからは対等の相手として認めてくれる事になったのだ。それに、軍曹殿のあの毛並をモフモフ出来たのだ。今日は、よき日だ――。
「一線を越えた、だと……?」
後ろからかけられた声に振り返ると、そこには湯上り姿のアリシアがいた。微妙に、色っぽいな……。バスタオルが、力なく手から落ちていた。
「ん? まあな。アリシアがお風呂から上がったのなら、どうしようかな? 私も汗を流すとするかな? それとも、サヤの作った料理を先に食べるかな……?」
温かいうちに食べた方がよさそうな料理もあるからな。ルーが皆が揃うまで待ち続けるのもそろそろ限界だろうし――。
その時、一陣の疾風を感じた。開け放たれたドアの向こうに、アリシアが魔導鎧を装着する時の光が輝いていた。
「風呂から上がったばかりだと言うのに、アリシアは何処へ向かっているんだ?」
「先ほどのクリスのセリフがいけなかったと拙者は思うでござるよ」
「そんな事より、もうゴールしていいかな……? アリシアが帰って来るの、待たなくていいよね?」
――――犬犬犬犬――――
月を見上げながら、酒を飲むのがこれ程美味いとは、な。
徳利を杯に傾け、注ぐ。なみなみと注がれた液体に、月が映えた。
「まさか、負けちまうとはなあ……」
真剣勝負ではなかったとは言え、負けは負けだ。素直に認めるしかないだろう。
「もうちっと、後だと思っていたんだがなあ、負けるのは」
杯を傾け、喉に流し込む。美味い。負けた後に飲む酒がこれ程美味いものだと、今までは思った事などなかった。
豚鬼皇帝が建造を進めているピラミッドは、もう少しで完成するだろう。あいつらの契約期間は、ピラミッド完成までだ。そこで、お別れだ。
「寂しいという感情なのか、これが……?」
満月が、虚空に浮かんでいる。
「月夜が俺に寂しさを教えてくれているのかもしれねえな」
何だか、詩人にでもなってしまったかのような気分だ。月に向かって、吠えたくなった。
そんな時、凶暴な殺気を感じて振り向くと、猛スピードで突っ込んでくるアリシア・ルン・カダスの姿が視界に飛び込んできた。
「軍曹、よくもクリスを、私のクリスをッ!! 許さん、絶対に許さんッ!!」
聖剣クラウソラスとやらの一撃を、かろうじてかわす事が出来たのを、俺は信じてもいない神に感謝したくなった。
「てめえ、何しやがる?」
「それは、こっちのセリフだッ!!」
この姫騎士が最近、剣術の稽古をあんまりしていなかった事に、俺は心の底から、いや、魂の底から感謝した。何とか残りの連中が駆けつけてくるまで生き延びる事が出来たからだ。
「誠に申し訳ありませんでした。一線を越えたとクリスが言っていたので、軍曹殿がクリスを手籠めにしたのかと思ってしまい……」
話を聞けば、バカ弟子が勝負で俺から一本取った事でこれからは対等な相手だと思った事を、一線を越えたと表現してしまい、それを聞いたほろ酔いの姫騎士殿が、俺が弟子を手籠めにしてしまったのだと勘違いしたとの事。
今では訓練場に正座をして、姫騎士殿は反省の態度を示していた。
「勘違いで殺されたんじゃあ、たまんねえな……」
いい夜だと言うのに。
「申し訳ありません……」
「ケッ、まあいいさ、あきれて怒る気にもなれねえ。俺はここで酒でも飲む。お前らは帰れ」
月見酒で怒りを冷まそうとしたら、何故か手元を覗きこまれた。
「ノミニケーションで和解をしましょうか。それも良い、うむ、そうしましょう」
「なら、私もお付き合いしましょう。師匠と酒を飲みかわす、というのも乙なモノでしょうからね」
「ふむ、拙者もご相伴にあずかるとしますか。つまみになりそうな物と、グラスを持ってきましょう。暫く待っていてくだされ」
「私も、私も。だいたいアリシアのせいで料理を食べていないんだから。ま、たまには月の光を浴びながらの食事もいいもんだよね」
その後、宴会が始まった。どうしてこうなった……!?
翌日の仕事は、バカどもが二日酔いの為、休みとなったのは言うまでもないだろう。
蜥蜴丸さんは、拙作「最強装備品で頑張る異世界生活」の登場人物と同じであって異なる存在です。
「最強装備品で頑張る異世界生活」を読まなくても理解できるように物語は作っていく予定です。




