ヤニ臭い黒猫は私をバカにして笑った。
夜の歓楽街ってのは何もこんなに悲しさを呼び起こすのやら。
なのに、寂しさっつーか妙に澱んだ感じが、どっかしらに引っ掛かってやがるんだな。
歓楽街なんて言やぁ、それこそネズミやらなんやらの蔓延るテーマパークのお仲間のはずだろう。
……ま、こっちにも大通りから一本逸れりゃ、ネズミなんてごっそりいるけども。
するってぇと、根っこのとこにあんのは夜という概念が持ってる哀愁か、ネオンの薄っぺらさが滲ませる人生の儚さか、それとも……。
夢ってやつを諦めた大人たちの上っ面だけの楽しみってやつか?
*
俺はブルリと頭を振ってから、裏路地に置かれたきったねぇゴミ箱の上から飛び降り、にゃぁーと鳴いた。
一歩、二歩、と俺が地べたをむぎゅむぎゅ踏んづけるたび、ふわふわした影が高く低く、染みのついた壁に奇妙な舞を踊る。
俺は軽く助走をつけ、縮めた体を一気に伸ばして、湿気ったダンボールをいっぺんにとっとっと、と三箱駆け上った。
途端に目の前に広がるのは、安っぽいネオンに当てられた騒がしい人々の群れ。
掃いて捨てるほどの数でもないが、ぴーちくぱーちく、それぞれ勝手に喋くるせいで、それぞれ何を言っているのか見当もつかない。
俺は再びにゃおんと鳴いて、きゅるりとした丸っこい目を横にズラした。
臨時休業なのかなんなのか、2階に入っている雀荘の窓は書き入れ時のくせに薄暗い。
そこには黒々とした毛並みの一匹の黒猫が伸びをする姿が映っていた。
ふふふ。いつみても惚れ惚れするような美しさだね、俺様ってば。
ビロードの柔らかさに、ツヤも最高。さらには滲み出るような高貴さが顔立ちから見てとれるぜ。
と、いつもの如く悦に浸っていた俺の鼻先に、不意に僅かな煙草の煙がすり抜けた。
俺はぴくりと鼻を動かして、数度そいつを香ってみる。
ふんふん、初っ端はハッカがカーンと来て、そんでもってしけった埃見てえな苦味がこんにちはっと。
ロードスターの緑、ね。
しかもこいつはわざわざ緑を選んどいて、しけた気持ちで吸いやがってまぁ……。
俺は心ゆくまでにその煙を胸いっぱいに吸い込んでから、ふみゃぁと吐き出して鼻をぺろりと舐めた。
……だが、なかなかに芳醇な味わいの人生ってやつが煙の中にじんわり溶け出していやがる。
どうにもこいつぁ俺の好きそうな種類の匂いがするぜ。
少しばかりこの煙草の吸い主に興味が出てきた俺は、今日も今日とて覗きに行く相手を決めた。
俺様はぱっと宙返りをしてダンボールから飛び降り、くるりくるりと二回転。
ずんずん背筋に迫ってくるのは梅雨明けのまだチビっと湿った地面。
ぎゃあ死にたくないってのはご冗談で。
背中からしこたま大地に叩きつけられるまさに寸前、俺の体はぶわりと灰色の煙になって地べたに低く漂った。
俺様は猫だ。
でもただの猫じゃない。
超偉い、タバコの神様だぜ。
*
と、そうは言っても、超偉かったのも昔は昔。
今の世の中、タバコの神様ってのは肩身が狭くてならねぇ。
愛煙家の爺さまがたはどんどんくたばってくし、ガキどもはちっとも煙草に興味なんか持たずにピコピコに夢中になってやがる。はぁ。
なんだのかんだのぼやきつつ、俺は夜の街並みを尻目にするりするりと足元をすり抜け、煙の流れを辿っていく。
ポツリ、ポツリとだんだん人通りが減っていき、それとともに香ってくるのはツンと鼻にくる潮の香り。
見えてきたのは寂れた港だった。
まばらな星空の下で青白いコンクリートの魚が背中を少しだけ覗かせてる埠頭。
ベテルギウスみたいなクレーン車のランプは、自分はここにいると弱々しい赤さで語りかけてくる。
乱雑に積み上げられたテトラポットはオレンジ色の街灯に照らされ、ぼんやりと海を見ていた。
そしてオレンジ色に染まり、海を見つめる姿がもう一つ。
煙草を咥え、真っ暗な水平線を眺めているそいつは、こんな辺鄙な場所には似つかわしくない若い女だった。
まだ18にもなっていないようなそのガキは、くすんだ制服がさらに汚れるのも気にせずに地べたにあぐらをかいて座っている。
本来、海にあって然るべきのセーラー服は、深夜の港にはあまりにも不釣り合いで。
近くにほっぽらかしてある半開きのギターケースからは、サイケのテレキャスがその傷だらけの青い身体を覗かせていた。
そいつは少し赤くなった目を細めて、不恰好に咥えた煙草から煙をたなびかせている。
俺はくるりと宙返りをして黒猫の姿に戻ると、その女の隣に成猫4つ分開けて座った。
チラリとこちらを見た彼女は、ぶっきらぼうに吸いかけの煙草を放り投げると近くの石で念入りにそれを潰した。
「なに。なぐさめてくれんの?」
青白い静けさに満ちていた埠頭は一瞬、その均衡を揺らした。
数泊おいてから、そいつは切れ長の目を瞬かせて苦笑いをする。
決まりの悪さを誤魔化すように、やや早口でぶつぶつと呟き始めたその女を遮るように、俺は前足を差し出した。
「や、タバコを一本もらえないかと思ってな」
「ああ、タバコねタバコ」
反射的にそう答えてボロいギターケースに手を突っ込んだそいつは、一瞬後にピタッと固まった。
再び埠頭には痛いほどの静けさが満ちる。
今度はたっぷり数十泊をおいたそいつは、ギターケースから引っ張り出したばかりの煙草の箱をポロリと落として呟いた。
「………………は?」
*
「……で、なに。つまりあんたはタバコの神様だっていうわけ?」
「そうそう、ま、俺はタバコ吸えっけど、他の猫にタバコ吸わせたら死ぬから気い付けろよ」
「いや、そんなことしないから」
私は自分の頭がどうかしてしまったのかと疑いながらも、タバコの神様を名乗る変な黒猫と喋っていた。
遠目から見たら頭のおかしい女に見えそうだから小声で。
「ま、あんたはそこらへん気を使ってくれてたし、大丈夫だとは思うけどな」
私のあげたタバコを吹かして上機嫌な黒猫の顔が、タバコの火に照らされて赤く浮かび上がる。
もともと夜中に一人で家を抜け出してオレンジ色のライトの下に立ったときから、夢を見てるみたいな気持ちがさっぱりなかったというと嘘にはなるけど。
でも、今は奇妙にふわふわとしたような、それこそ夢見心地のような、そんな気分だった。
少し愉快になってきた私は、傍に座る奇妙な黒猫をつっつく。
「にしても変な見た目。猫がタバコ咥えてるの」
黒猫はうざったがるように顔をブルリと振るわせ、身を捩った。
「おい、気安く触んじゃねぇ。俺ぁ神様だかんな」
「……で、神様はなんでこんなとこにいるの」
「おもしろそうな人生の匂いがしたからさ」
「人生の、匂い?」
黒猫は黄色い目を細めて煙を吸い込むとふみゃふみゃ言いながらそれを口の中で転がす。
やかんから出る湯気みたいにそれを一気に吐き出してから、黒猫は耳を後ろ足で引っ掻いた。
「なんつーかな、タバコってのは寿命を縮めんだろ」
突然そんなことを言い出した黒猫に、私は顔を顰める。
「……なに、未成年の喫煙が云々みたいな話?」
「そうかっかすんなって。つまりはな、タバコの煙の中にはそいつの寿命、いや、想いが少しだけ宿るんだよ。鬱屈とした生活の中で吸ってるやつのタバコには日々のやるせなさ。成功した実業家の吐く煙には自信や虚栄心。不倫してる旦那の灰皿には結婚前の日々の燃えさし。ま、そいつはそれこそ人によって……」
そこまで言って、黒猫はふみゅうと一息つく。
「色々だ」
黒猫はピカピカ光る目に、いつもよりも一層ブサイクになっている私の顔をそのまま映して、じっとこちらを見つめている。
その瞳が、私の奥の方を見透かすような色を滲ませていたからか。
私は、自分よりも遥かにちっぽけな猫に少しの間気押された、という事実を認めたくなくて、なんでもないかのようにこう聞いてみた。
「へぇ。じゃ、私の煙はどんな匂いがしたの」
「聞きたいのか?」
「勿体ぶらなくていいよ」
黒猫は目をギラリと光らせて静かに言う。
「……私の唯一の理解者が死んでしまった。ああ、私はこれからどうすればいいの。一人で孤独に戦わなきゃいけないの。ってなとこか。ん?」
瞬間、意識がガチガチに凍りついた。
眩暈がするような重低音が耳の奥で二重にこだましている。
「おいおい、どうしたんだ急に」
ピシリと港に渡った緊張感を壊すかのように、神様はツンとした鼻をぴすっと鳴らして嗤った。
「…………神様ってのはほんとなんだね」
「はっ、最初っから言ってんだろ」
そう言った黒猫はもう短くなったタバコを最後に一息吸い込んでから、プッと吐き出す。
「もう一本くれや」
「……はいはい」
私は動揺を押し殺すように箱からタバコを一本つまみ出し、ライターで火をつけようとしたけれど、何度やっても火がつかない。
苛立ちながら何度カチカチと押しても出るのは火花だけ。ちゃんとした炎にはならなかった。
その様子を見た黒猫は、バカにするような口調で空を引っ掻いて見せる。
「ガス欠か?普段そんなになる程吸ってるようには見えないが」
「これは仏壇から持ってきたやつ。普段は吸わない」
「おおかたそのタバコよこしたやつがおっ死んだってとこか」
いくら神様だとしても、これには流石に腹が立った。
「……あんた友達少ないでしょ」
「へっ、知ったこっちゃねぇや」
黒猫はなんでもないかのようにそう言うと、私から視線を逸らしてこれみよがしにあくびを噛み殺して見せる。
でも、艶やかな黒の中に埋もれる神様の黄色い瞳は、強気なセリフの割に少し寂しげに見えて。
なんだか毒気を抜かれてしまった私は、別に何が見つかるわけもないのに、水平線に目を沿わせた。
*
……この黒猫以外にも神様ってのはいるのだろうか。
だとしたらあの人——おじさんは死んだ後にどこに行ったのかな。
おじさんが天国でのんびり幸せに暮らしてイメージはいまいちわかない。
別に地獄行きになる程悪い人でもないけど。なんというか小悪党という言葉がまさにお似合い、みたいなそんな人だったのだ、おじさんは。
まあ、小悪党、とまで言っちゃうと可哀想かもしれないけど。
ちょいワル親父を気取ってる週末ミュージシャンって感じかな。
事務職のくせに髪が長くて、剃り残しみたいな口髭があんまり似合ってなかったおじさん。
いつも変にカッコつけてて、親戚のみんなにはいつまでも叶わない夢を追いかけてると馬鹿にされてたおじさん。
でも、真面目に音楽やりたいって言った私を絶対に馬鹿にはしなかったのは、おじさんだけだった。
おじさん以外の大人はずるい。
子供のうちは夢を持てっていうくせに、大人になった途端に『現実』って言葉でそれを捨てさせようとする。
きっと、おじさんを馬鹿にしてた奴らはみんな、夢をいつしか諦めてた自分の弱さを突きつけられて、居心地が悪かったのだろう。
いつも間にかそこから逸れて逃げた夢。
最初から諦めて手を伸ばさなかった夢。
そんな自分の弱さを棚に上げて、傷だらけで夢に手を伸ばしてたおじさんを笑ってたんだ。
でも、きっと私が一番苛立っているのは。
『ほらね』って言ってる大人たちに混じって、なんでもないかのように笑うふりをしてた——私自身。
都会の割にはそれなりの星空を見上げて、中途半端、と呟いてみる。
どうせ光るんだったら、満点の星空にして欲しい。
そうじゃないなら星なんて一つも見えない曇り空でいいのに。
私はぼんやりとした光がまばらに散らばってる空に軽く手を伸ばして、下ろす。
「あーだめだ。めっちゃバット入ってる」
そうぼやきなから、私は黒猫の吐き出した煙を思いっきり吸い込んでむせた。
「ま、青春ってやつだねぇ」
そんな一言で話を括った気になっている黒猫は、興味ないぜと言わんばかりにもくもく煙を吐き出している。
「あんた話聞いてた?」
「いんや、俺はお前の吐く煙を味わうついでに、ちょっとばかしタバコを貰いにきただけだかんね。あ、もう一本くれ」
挙げ句の果てにそんなふざけたことを宣った黒猫の頭を一発はたいて、私はさっきまで地面に出していたタバコの箱をポケットに仕舞い込んだ。
「そんなこと言うならあげないから」
半開きになった黒猫の口から短くなった吸い刺しがポロリと落ちた。
「え、ちょ、ラス1だけ!もう一本!」
「やだ。あげない」
そう言ってむくれて見せた私の周りを、慌てたように黒猫はぐるぐる回りだす。
「お、落ち着け落ち着け。一旦落ち着いて、そうだ、まずは座ろう、な?」
「……最初から座ってるけど」
「そういやそうだったな!あー、いや。あ!あのギターかっこいいよなー。サイケデリズムのスタTだろ?あれに目をつけるとはなかなかにお目が高いよな!」
私は黒猫が意外にもギターに詳しいことに驚いて一瞬声をあげかける。
「え、あんた弾けないでしょ、ギター」
「タバコ吸ってる奴にはバンドマンも多いからな。そいつらから聞いた」
「ふーん。どうせどいつもこいつも売れてないんでしょ。おじさんみたいに」
「あんりゃま、今度は言ってることがこれまた見事に正反対だな」
「うるさい」
私は黒猫を無視して体育座りをする。
普段なら角度に気を使うところだけど、どうせ猫しかいないしいいや。
そう思いつつも、私は癖で膝裏に布地を挟んだ。
このままの自分がこっから音楽の道に進んでも、どうせおじさんの二の舞になるなんてことはよくわかってるのだ。
やり場のないやる気を燃やしてメジャーに出るぞって頑張ってみても、やる気が出ないときは全然練習しないし、音楽用のSNSも2ヶ月止まったまんま。
「……私って本当に音楽が好きなのかな」
そしてこっちが真剣に悩んでるってのに黒猫はそんなの知らないと言わんばかりににゃーにゃー騒いでいる。
「そいつは俺にはわからねえな。それはともかくタバコをくれよ。一本でいいから!」
「……はぁ、なんだか神様はブレないね」
あんまりにもあんまりな神様の様子に心底呆れた私は、黒猫の頭上にため息と残りのタバコをまとめて置いた。
どうせライターつかないんだから吸えないけど、と思っていたら。
「おっ!大将気前がいいじゃねぇか。ほんじゃ失敬失敬」
そう言った黒猫は頭を振ってタバコの箱を地面に落とすと、器用にタバコを一本だけ咥えて、くるりと宙返りをした。
するとどんな手品を使ったのか。
鮮やかな着地を決めた黒猫のタバコにはいつのまにやら火が灯っていた。
薄くメンソールの混じった煙がこちらにゆらりと漂ってくる。
「ははっ。ほんとに昔話の世界観だ」
私はあまりにも現実離れした光景に少しばかり笑った。最初から現実離れしていると言えばしているけど。
黒猫は実に満足げに煙を吸い込むと、深く煙を吐いて頬髭を揺らした。
「俺様、今超絶気分がいいぜ。なに、カウンセラーの真似事でもしてやろうか」
「いや、いいよ別に」
「ほーん」
ふざけた返事をした黒猫はぴょこぴょこ頭を左右に揺らしながら、煙をくゆらせて遊んでいる。
訳のわからないこの状況を改めて認識し、なんとなく気持ちが昂ったのか、私の手はいつの間にかギターをケースから引っ張り出していた。
よっこいしょっとあぐらをかいて膝の上に乗せてみる。
碧いボディーに白のピックガードを乗せたこの子の姿は、いつみても最高にかっこいい。
エレキギターだからいま弦をはじいてみても気の抜けた音しか出ないけど、私は最近練習してる流行りの曲をプチプチ弾いてみる。
脳内で音は鳴ってるから、これでも十分楽しい。
黒猫をほっぽらかしてしばし私がギターで遊んでいると、無視されているのが気に食わないのか器の小さい神様は私に話しかけてきた。
「タバコを吸ってる姿はなんとも見てらんなかったけど、ギターを弾いてるときはなかなか胴に入ってるじゃねえか」
そう言って鼻を鳴らした黒猫は自分の吸っているタバコの赤い火にじっと瞳を合わせる。
闇の中に黒猫の狭い額が赤く浮かんでいた。
黒猫はタバコを咥えたまま器用に話を続ける。
「いつからギター弾き始めたんだ?」
「……2年ちょっと前くらいかな。中三の受験期だってのにおじさんが初心者向けギターセットを押し付けてきてさ」
ちょっと前に私がギターに興味がある、みたいなことを軽くぼやかしたからかなんなのか。
全部して15万円近くもするであろう立派なフルセット。
そのときの子は今のギターを買ってからしばらく触っていないが、今もケースに入れてちゃんとしまってある。
10万円近くもするあのギターは、初心者には相当な宝の持ち腐れだろうに、あのおじさんはまったく。
そう呟いて私はギターのネックをギュッと握りしめた。
黒猫はなにがたのしいのやら前足でタバコの箱をつっついている。
「2年でこれだけ引けたら大したもんじゃねえか?」
ろくに音も出ていないのによく言うなぁ、と思いつつも、私はジャン!と一度ギターを鳴らしてみる。
実際にはチュワンってのが関の山だけど。
「……それで、一年くらいしてそれなりに色々と曲とか弾けるようになってさ。おじさんにプロのギタリスト目指したいって話をしたときに、このタバコをもらったんだ」
いつも調子のいいことを言って、タバコを吹かしていたあの人は、自分が一生日の目を見ることなく早死にしてしまうなんてこと。ずっと、思ってもなかっただろう。
でも、いつか、私にこのタバコの箱を預けたとき。
おじさんは普段とどこか違う目をしてた。
変なワッペンのついたジーンズも、ダメージ加工された革ジャンも。
よく着ていたような服は何も着てなくて、らしくもないただの休日のサラリーマンみたいな格好をしてた。
それで。
私にワケも言わずに、いつもみたいにカッコつけた仕草でタバコを一箱渡して来たんだ。
いつもみたいに無責任な励ましみたいなことを言って、及び腰の私に無理やりこのタバコを押し付けてきたんだ。
なんでタバコ?意味わからない。
きっといつものおじさんのよくわからないカッコつけだろう。
でも、確かに私はあの日。
何かを。すごく大事な何かをおじさんに預けられたような気がしたんだ。
私はその瞬間に、新品のタバコの箱と一緒に、何か大事な想いみたいなやつをこっそりポケットにしまった気がしたのだ。
「で、2年と少し前が中3なら今は高二か。どうせ進路の面談か何かが近くにあるとかだろ。んで。ああ!どうやって父様と母様に言わんとするや如何!ってな具合か」
黒猫はあいも変わらずイラつく言葉回しで私のことを笑っていた。
「なんか言い方がムカつくけど、そう。だから親にそろそろ言わなきゃいけないの。音楽の道に行きたいって」
「そんりゃま、世界の危機ってやつだなぁ」
「まあ、あながち間違ってもないかもね」
逡巡するかのように尻尾を三度くねらせた黒猫は、少し間を置いてから、やけにボソボソと語り出した。
「なんつーかさ。お前は夢を叶えないまま死んだそのおじさんを見ても。親が明らかに反対しそうでも。それでも音楽やりたいって言うんだろ。あーだこーだ言ってても、結局は音楽やりたいってとこは最初っから決まっているような気が俺にはするけどな」
黒猫はそう言ってそっぽを向いた。
そんな大層なことをこいつが言うと思っていなかった私は一瞬面くらい、軽く吹き出す。
「ふふっ、なに。慰めてくれんの?」
「いやま、そんなわけでもないけどさ」
何やらブツクサ言っている黒猫は、気恥ずかしさを誤魔化すように、またもや謎の宙返りをして次のタバコに火をつけた。
私は手持ち無沙汰に、数度ギターのボディを撫でる。
青っぽいエメラルドグリーンに塗装されたこの子の表面には、今までにつけちゃった傷があちこちにある。
その傷を一つ一つなぞりながら、私はなんとなく黒猫の吸うタバコの火を眺めていた。
寄せては返す波の音が、黒猫が煙を吐く音と混じって遠く聞こえる。
「……でも、私。やる気が出ない日とかは全然練習しないときもあるよ。ムズいフレーズが全然引けなくて指攣りそうなときとかイライラして窓ガラスぶち破りたくなるし」
「だけども、なんだかんだで二年弾いては来たんだろ。いけるいける」
「ふーん。へぇ。そうかな」
他人の人生に責任なんて持つ方がおかしいような気もするけど、黒猫の言葉はあの日のおじさんとおんなじでやっぱり無責任だった。
おじさんと比べても、いささか無責任がすぎるような気もするけど。
私は黒猫から目線を外し、空を見上げた。
4月の空は、なんの星座が見えるんだったか。
確か。北斗七星と、大熊座と。あれ、この二つっておんなじ星座だったっけ。
でも。
こんなにたくさん見える星も、宇宙全体から見たらほんのわずかなのだ。
二等星と三等星と、目がいい人でも四等星くらいまでだろう。
ほとんどの星は光が弱すぎるか、地球からは遠すぎて、見えない。
ふと腕時計に目をやる。
もう午前3時だ。
あと数時間すれば明るくなってくる。
そうすれば、もうあの星たちは全く見えなくなるだろう。
だけど。
私はいつの間にかあの星に憧れていたのだ。
あの中に混じって私も輝いてみたいって思ってしまったのだ。
私がどうにも無責任な応援に弱いのか、どうなのか。
あの日。タバコと一緒にもらった訳のわからない情熱みたいな何かが、またもや音を立てて焦れ始めたような気がする。
それを察したのか、たまたまタイミングが良かっただけなのかなんなのか。
黒猫は急に訳のわからない話を始めた。
「このタバコの銘柄。ロードスターっていうのは知ってるだろ」
「……まあ、箱に書いてあるし?」
私はいまいち趣旨の見えない話にやや困惑しつつ相槌を打つ。
「ロードスターってのはオープンカーのことなのさ。そのおじさんはお前に夢まで突っ走れっていう気持ちを込めてこのタバコを渡したんじゃねぇか?」
と、そう好き勝手におじさんの気持ちを代弁した黒猫は、みゃふわぁと大欠伸をして顔をぐしぐし拭って。
そして、唐突に私の手の甲を数度肉球でふにふに触ってきた。
急に距離を近づけてきた黒猫にびっくりした私はそちらを見た。
猫の表情なんてわからないけど。
そのときの黒猫は、何か眩しいものを見るかのようにこちらを見たように、見えた。
離れていく前足にもう一度触れようと私が手を上げたとき、あいつはにゃぁと一つ鳴きして。
「じゃ、俺は帰るぜ。タバコあんがとよ」
たった一言言い残して、ぱっと煙になって消えてしまった。
一つ瞬きをした次の瞬間に。
私の気持ちも、言いたいことも、何もかも置き去りにして。
地面に残った空き箱と黒猫が捨てていった吸い殻。
黒猫と私が吸ったタバコの煙の残り香。
そして、中途半端に伸ばしたまんま宙を漂っている私の手だけが、さっきまでここに変な神様がいたことの証明だった。
*
私はしばらくぼんやりと黒猫が消えた場所を見つめて、別れってのは突然だな、とここ最近散々脳裏をよぎった格言をもう一度反芻していた。
「なんだったんだあいつ」
しばしの間を置き、はっと我に帰った私はそうぼやいてタバコの空き箱を拾い上げる。
「唐突に変な雑学語って一方的に消えちゃったし」
ため息をついた私は、手の中でタバコの空き箱をひっくり返す。
でっかく書かれたブランド名の下には小さなアルファベットでROAD STARと書かれている。
人の感情をかき乱すだけかき乱してからすたこらと退散していったあの黒猫に意趣返しをするつもりで、私はワザとさっきの雑学を無視してそれを読み上げた。
「ロードスター。道の星、星の道」
夜中に適当な道をうろついてたら、今でもどこかにおじさんの後ろ姿がある気がする。
あーあ、もっと話したいこと、聞きたいこと、あったのに。
どうせ、大したことなんて言ってくれないってこと、最初からわかりきってはいるけど。
私はゴロリと地べたに背を預けて、また、星空を見上げた。
少しくたびれた緑のパッケージを私は適当な明るい星に重ねてみる。
地面に漂っていた煙の残滓は湿気った埃みたいなタバコの匂い。
おじさんがよく吸っていた、タバコの匂い、だった。
目を閉じた私はその匂いを深く吸い込んで、吐き出す。
そうだ。
このタバコは、おじさんが『夢の星への道を目指せ』って意味で私に渡したってことにしよう。
そう決めた。
そう、思うことにした。
ほんとはおじさんがどんな気持ちでこれを渡したのかはわからない。
全然違う意味があるのかもしれない。
そもそも意味なんて何もないのかもしれない。
でも、私は勝手にそう思うことにした。
たぶん。
きっと。
カッコつけのおじさんなら、調子のいいことに『そうそう!よくわかったな!』とかなんとか言ってニヤニヤしてくれることだろう。
「さて、と」
ゆっくりと起き上がって、私は制服から汚れをはたき落とした。
ギターをいつものようにケースにしまって背負った。
ポケットにはタバコの空き箱をこっそり隠して。
私は静かにさざ波を立てつづける海に背を向けた。
随分と長くここにいたような気がするけど、今はまだ夜中の3時すぎ。
まだまだ夜明けには遠い。
でも、ここから家まで帰ったら3時半。
そうしたら1時間もしないうちに夜明けだ。
私はまだ真っ暗な海をもう一度見渡した。
ここを見回しても、やっぱり何も見つからない。
でも、家に帰れば。
夜明けまでもうすぐ。
もう、すぐだった。




