第7話 水仙のつぼみ〜心の庭に咲くまで
第7話 水仙のつぼみ〜心の庭に咲くまで
新球場、エルコンフィールドは、札幌と新千歳空港の中間という絶好の立地に誕生した。
近年、ラピダスの開発で注目される千歳にも隣接している。
完成した今では、まるでここに生まれるべくして誕生した場所のように感じられた。
けれど――。
計画が発表された当初、響香の思いは少し違っていた。
新聞で新球場建設の記事を読んだとき、彼女は思わずため息をついた。
「また、ひとつ無駄な箱が増えるだけじゃないの」
北広島に舞台を移してからも、その気持ちは変わらなかった。
岩見沢に住む彼女にとって、北広島もまた札幌のベッドタウンのひとつ。
「球場が似合う町じゃない」
心の中で、そっとつぶやいた。
響香は横浜出身で、夫の哲郎は広島出身。
転勤族同士のふたりは、北海道で学生時代に出会った。
二十年以上前、札幌の少し東、岩見沢に小さな注文住宅を建てた。
そこが、終の棲家になった。
都会の渋滞や満員電車に心をすり減らす生活を思えば、ここでの暮らしは、まるで深呼吸のようだった。
高層マンションに囲まれた街並みは、ときに息苦しい。
もう一度、せせこましい町に戻りたいとは思わなかった。
雑踏やネオンから遠く離れた暮らし。
春の芽吹き、夏の陽ざし、秋の紅葉、冬の静けさ。
四季の移ろいが、すぐそばにある。
広い空と土地は、心を落ち着け、自由をそっと運んでくれる。
「東京や横浜のような発展は、必要ない」
そう思う彼女にとって、エルコンフィールドの計画は、どこか煩わしい話だった。
けれど――。
車で五十分ほど走り、完成したばかりの球場を初めて訪れたとき。
響香の心は、静かに揺れた。
洗練されたデザイン。
広大な敷地。
地域に新しい風を吹き込む力強さ。
「そんなはずはない」
そう思っていたのに。
知らぬ間に、彼女の胸にも小さな風が吹き込んでいた。
広い敷地に足を踏み入れた瞬間、四世代で集う光景が浮かんだ。
コテージで家族が揃い、愛犬のこゆきも一緒に過ごす。
孫たちの笑い声。
娘夫婦はテレワークをしながら、バーベキューを待つ。
ナイターの試合さえ忘れてしまいそうな、やわらかな時間。
球場の歓声を背に、 孫と遊ぶ。
そんな想像をして、響香はひとり、ふふっと笑った。
――そして、ガーデンへ向かう。
2
エルコンの案内図を手に、コテージへと歩く。
北海道の四月の風は、まだまだ冷たい。
そして、一番見たかったガーデンへ。
哲郎は球場内に戻りたそうだったけれど、響香は外を歩き続けた。
最初に咲くであろう水仙も、多くはまだつぼみだった。
伸子が新聞の切り抜きで見せてくれた庭の予想図――いま、その中にいる。
「そろそろ、行こうよ」
哲郎の声に、「うん」とだけ、生返事。
彼の背中を追いながらも、振り返ってスマホで写真を撮る。
春の花壇といえばチューリップを思い浮かべるけれど、ここにはなかった。
自宅のチューリップは、ネット対策もむなしく、今年もネズミにかじられ、哀れな姿だった。
この庭の設計者は、すでにげっ歯目たちの食欲を心得ているのだろう。
ネズミの餌になりそうなものは見当たらない。
日当たりのよい斜面では、みずみずしい葉とともに、水仙が黄色い花を咲かせていた。
げっ歯目たちは、この葉に毒があることを、もう知っているのかしら?
響香は再び庭を見渡した。
このガーデンの「霊長類」と「げっ歯目」の知恵比べは、もう始まっているのね――。
水仙の多くは、まだ緑の薄膜にその黄色い花を包み隠し、ひっそりと佇んでいた。
3
この春、ようやくコロナのトンネルを抜けた――。
人々の表情が、そう語っているようだった。
けれども、皆が会話を弾ませるその光景を、響香はどこか遠いものに感じた。
伸子が案内してくれると思っていたこのガーデン。
「ここでボランティアをするの」と意気込んでいた、あのときの伸子の表情が、ふと浮かぶ。
伸子は、海を越えて、いつ帰ってくるのだろうか?
はじめての一人旅で名古屋に行くと聞いたとき、この春にはまた会えるものと、疑いもしなかった。
けれど今度は、行き先も告げないまま、もっと遠い旅に出たらしい。
最初に咲くであろう水仙も、多くはまだつぼみだった。
水仙のつぼみって、本当に葉っぱみたい。
葉とつぼみがまだ一体になっていて、どちらが花で、どちらが葉かわからないくらい。
静かに、混ざり合っている。
風に揺れると、つぼみも葉のふりをしているように見える。
「まだだよ。まだ咲かないよ」
そう言っているみたいに。
その形も、その色も。
まるで、身を守っているようだった。
だからこそ。
花が開くときの、あのふいの明るさが、たまらなく美しい。
まだ咲いていないことで、二、三輪の花さえ、まぶしく感じる。
響香は、空を見上げた。
季節は、また巡っている。
――二〇二三年の春。
その日、水仙の写真は、結局だれにも見せなかった。
第7話 水仙のつぼみ〜心の庭に咲くまで おしまい
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次話へつづく
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