これって、確率は低いけど、ぜんぶ自己責任?
アクチュアリーって、あまり転生しなさそうな職業なので、転生させてみました。
生田 浩一、享年35。
職業、アクチュアリー。
彼の世界は数字で構成されていた。
愛も、夢も、希望でさえも、彼にとっては脳内で分泌される化学物質の作用による非合理的な行動バイアスでしかなかった。
人の生死は、生命表の上にプロットされた冷徹な確率として処理される。
彼にとってリスクとは排除すべきノイズであり、未来とは過去の膨大なデータから導き出される予測値の集合体に過ぎなかった。
「生田さん、来週のコンペ、大丈夫そうですか?」
「問題ありません。競合A社の提案が採択される確率は12.3%、B社は8.9%。当社のプランにおける不確定要素は0.5%未満です。99.5%の確率で、我々が勝ちます」
後輩の不安げな顔に、浩一は眼鏡のブリッジを押し上げながら無感情に答える。
彼に不安はない。全ては計算の上だ。
喫煙者の肺がん罹患率、台風による浸水被害額、アイドルの結婚による株価への影響。
あらゆる事象を数字に落とし込み、未来を予測し、リスクをヘッジする。
それが彼の仕事であり、存在意義だった。
そんな彼でも、自らの死を予測できなかったのは当然としかいいようがない。
誰にでも死ぬ可能性はある。
しかし、これはないだろう。
歩道橋の金属疲労による崩落。
その発生確率は、日本のインフラ管理レベルを考慮すれば0.001%にも満たないはずだった。
地面が急速に近づいてくる。 薄れゆく意識の中、最後に思ったのは「このリスクは計算外だ」という、職業病めいた慨嘆だった。
◆
次に目を開けた時、彼は重厚な石造りの天井を見ていた。
古びているが、梁には丁寧な彫刻が施されている。窓から差し込む光は、電気照明とは明らかに違う、柔らかく頼りない自然光だった。
「坊ちゃま、お目覚めですか!」
しわがれた声と共に、麻の頭巾を被った見知らぬ老婆が顔を覗き込んできた。
その顔には、安堵と喜びが混じっている。
坊ちゃま? 誰のことだ?
混乱する頭で体を起こそうとして、浩一は自分の手が驚くほど小さいことに気づいた。
慌てて部屋の隅にある姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、亜麻色の癖っ毛と、大きな青い瞳を持つ、10歳にも満たない見知らぬ少年の姿だった。
貧乏男爵家の三男、レオン・フォン・ブルーメンタール。
それが浩一の、いや、彼の新しい名前らしかった。
剣と魔法、そして神への祈りが全てを支配するこの世界で、人々はあまりにも無防備に「不確実性」という名の濁流に身を任せていた。
天候は神の気まぐれ。病は悪霊の仕業。作物の豊凶は、神官への祈りの量で決まる。モンスターの襲撃に至っては、勇者が現れるのを待つしかない。
アクチュアリーであった浩一にとって、この世界はノイズと非合理性に満ちた悪夢そのものだった。
データがない。統計がない。
人々はただ、祈り、幸運を願い、そしていとも容易く死んでいく。
転生して数年、レオンが8歳になった頃、彼は自分に与えられたスキルを自覚した。
兄との剣の稽古中、木剣を振りかぶった兄の頭上に、ふと冷たい数字が浮かび上がったのだ。
【当攻撃がレオンに命中する確率:87.2%】
【レオンが回避に成功する確率:12.8%】
咄嗟に体をひねると、木剣が頬を掠める。
兄は「動きが良くなったな!」と笑っているが、レオンはそれどころではなかった。
彼の目の前に、あらゆる事象の確率が、前世で愛用していたモニター画面のフォントのように、冷たく浮かび上がるようになっていた。
【食堂のシチューに、嫌いなニンジンが入っている確率:95.4%】
【目の前の古びた宝箱に罠が仕掛けられている確率:73.2%】
スキル名【確率予知】。
それは、彼が狂おしいほど愛した統計と確率の世界そのものだった。
炎や氷を操る派手な魔法ではない。
だが、レオンは歓喜した。これさえあれば、この非合理的な世界に「秩序」をもたらすことができる。
◆
転機は12歳の春に訪れた。
父であるブルーメンタール男爵が、ここ数ヶ月領地を荒らしているオークの一団を討伐する計画を立てたのだ。
広間に集められた騎士たちの士気は高い。父は誇らしげに作戦を説明している。
しかし、レオンの目には、その熱気の向こうに破滅的な数字が見えていた。
【当討伐計画の成功確率:12.5%】
【父、ライナー・フォン・ブルーメンタールの戦死確率:67.9%】
ぞっとした。これは作戦ではない。集団自殺だ。
「父上、お待ちください! その計画では皆、死にます!」
レオンは生まれて初めて、計算結果以外の何か――衝動に突き動かされて叫んだ。
「レオン、何を言う。子供は部屋に戻っていなさい」
「いえ、戻りません! この作戦は、無謀です!」
「小僧、オークごときに後れを取る我らではないわ!」
騎士の一人が怒鳴るがレオンは冷静に続けた。
「ええ、個々の技量では我らが上でしょう。ですが、戦いは個人の武勇だけで決まるものではありません。敵の出現パターン、天候、我々の装備と練度。これらの変数から期待値を算出すると、現在の作戦は極めて非合理的です。サイコロで1の目が出るまで、何度も振り続けるようなものです」
「きたいち…? へんすう…?」
未知の概念に、騎士たちは戸惑う。
「しかし、」とレオンは言葉を継いだ。
「作戦を変えれば、確率は跳ね上がります。出発を半日遅らせ、西の湿地帯から迂回し、オークたちが最も油断する夜明けと共に奇襲をかける。そうすれば、成功確率は89.4%まで上昇します。父上の生存確率も95%を超えます」
その理路整然とした説明と、子供とは思えぬ確信に満ちた瞳に、父は何かを感じ取った。
半信半疑のまま、男爵はレオンの策を受け入れる。
結果は、レオンの予測通りだった。
討伐は最小限の犠牲で完了し、父は息子の未知なる才能に驚愕した。
◆
この日を境に、レオンは静かな革命を始めた。
彼はまず、街の酒場を兼ねた冒険者ギルドに足を運んだ。
そこで彼は、片腕を失った元女剣士・エララと出会う。
彼女はレオンに、この世界の理不尽さを語った。
「冒険なんて聞こえはいいけど、ただの博打さ。運が悪けりゃ、仲間も、腕も、命も失う。残された家族は路頭に迷う。全部、自己責任の一言で終わり。あんたみたいな貴族の坊ちゃんには分からないだろうね」
その目に宿る諦観を見て、レオンは決意を固めた。
「ギルドマスター、そしてエララさん。私が、その『運』を計算し、制御する仕組みを作りましょう」
レオンが提案したのは、世界初の「冒険者保険」。
【確率予知】で算出したリスクに応じた掛け金を事前に徴収し、万一の際には莫大な保険金が支払われるという制度だ。
「面白い! だが坊主、誰がそんな大金を出すんだ?」ギルドマスターが問う。
「金の出所は、賭場の胴元です」
レオンは街で最も荒くれ者が集う賭場へ向かった。
胴元である大男、”鉄拳”のボルグは、レオンを鼻で笑う。
「ガキが、俺たちに喧嘩を売りに来たのか?」
「いいえ、ビジネスの提案です。あなた方に、確実に儲かる新しい賭場を開いてもらいたい」
ボルグの眉がぴくりと動いた。
「確実に儲かるだと? そんな美味い話があるか」
「ええ、あります」レオンは平然と言った。「賭けの対象は、冒険者です」
レオンは指を一本立てた。
「冒険者が依頼を受ける前に、我々が掛け金を集める。依頼が無事に終われば、その掛け金は手数料を引いて、すべて胴元であるあなた方の儲けになる」
「ほう。それで、失敗した場合はどうなる?」ボルグが腕を組む。
「その時は、あなた方が事前に決められた大金、つまり保険金を支払う。……どうです? ほとんどの冒険者は無事に帰ってきます。つまり、あなた方は何もしなくても、毎日チャリンチャリンと金が入ってくる。たまに起きる不運な事故の時だけ、支払えばいい。これほど割のいい賭けはありませんよ」
ボルグは数秒黙った後、腹の底から笑った。
「ケッ! ガキが、俺をなめるなよ! ほとんど勝てる代わりに、一回の負けで全部吹っ飛ぶような博打が一番危ねえんだ! お前、分かってんのか? ゴブリン退治で銅貨1枚ずつせしめても、ドラゴン退治に失敗したパーティに金貨100枚払ったら大損だろうが!」
「ええ、その通りです」レオンはボルグの指摘を待っていたかのように、にやりと笑った。「だからこそ、俺の出番なんですよ」
レオンは自分の胸を指さした。
「俺には、その『負ける確率』が正確に見える。ゴブリン退治の本当のリスク、ドラゴン退治の本当のリスクが。俺が、あなた方が絶対に損をしない絶妙な『掛け金』を算出して差し上げます。あなた方は、ただ俺の数字通りに胴元をやるだけでいい。例えるならこうだ。ボルグさん、あんたはサイコロのプロだ。どの目がどれくらいの頻度で出るか、大体わかるだろ? だから、出にくいピンゾロには高い賞金を、よく出る目には安い賞金を賭けて、全体としては必ず胴元が儲かるように調整しているはずだ」
ボルグはギロリとレオンを睨んだ。
「……それが博打の基本だ。……だがな坊主、俺を敵にしない方がいい。イカサマを見抜いて、どの目が出やすいかを見極めるのが俺の仕事だ。全てお見通しだからな」
「素晴らしい」レオンは一切怯まず、笑みを深めた。
「ならば話が早い。俺はあんた以上に『冒険者』というサイコロの目を読める。だから、どんなに大きな依頼でも、絶対に損をしない掛け金と賞金を設定できる。あんたは、俺が作った必勝のルールで賭場を開くだけだ。どうする?」
ボルグはしばし絶句し、やがてその巨体を震わせて笑い出した。
「ク、クク……クハハハハ! 面白い! ガキの癖に、とんでもねえことを考えやがる! 必勝のルールだと!? いいだろう! その喧嘩、買ってやる!」
教会は猛反発した。「人の生死に金を賭けるとは神への冒涜だ!」と司祭は叫んだ。
だが、最初に加入したパーティが保険金で高価なエリクサーを手に入れ九死に一生を得たことで、風向きは変わる。仲間を失ったリーダーが死亡保険金で遺族の生活を支えたことで、制度の真価は人々の心に深く刻まれた。
エララは組合の初代責任者となり、その卓越した現場知識でレオンを支えた。
冒険者たちは安心してダンジョンに挑めるようになり、街は活気づく。レオンの事業は「商人保険」「火災保険」へと拡大。彼が設立した「ブルーメンタール共済組合」は、王国の経済と民の生活になくてはならない存在となっていた。
◆
レオンが18歳になった頃、彼が築き上げた平和と繁栄は、盤石に見えた。
王国は「ブルーメンタール共済組合」という社会基盤の上で、かつてないほどの安定を享受していた。人々はリスクを恐れず未来に投資し、若い冒険者は万一の備えがあるからこそ、より困難なダンジョンに挑んで国に富をもたらした。
だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。
東の大国、ガリアン帝国から不穏な噂が届き始めたのは、レオンが組合の舵取りを任されて数年が経った頃だった。
帝国に、一人の預言者が現れたという。
名を、”宿命”のゼノン。
彼は人の運命を寸分違わず予言し、奇跡を次々と起こしているらしかった。
「馬鹿馬鹿しい。ただの詐欺師か、偶然が重なっただけでしょう」
組合の若き数理人の一人が、報告書を読み上げて一笑に付す。
だが、レオンは眉一つ動かさなかった。彼が注目したのは、報告書の末尾に記された一つの「奇跡」――帝都の広場で行われた富くじで、一人の孤児に三度連続で天文学的な確率の一等を当てさせた、という記述だった。
「……あり得ない」
別の数理人が息をのむ。彼らは知っている。統計学的に、それがどれほど異常なことかを。それはもはや「幸運」という言葉で片付けられる事象ではなかった。
「ゼノンは自らの力を『運命を読み解く力』だと。個人の人生から国家の未来まで、すべては定められた一本の道筋に過ぎないと説き、民衆の熱狂的な支持を集めている、と」
その言葉に、傍らで報告を聞いていたエララが静かに口を開いた。
「レオン、嫌な感じがするね。あんたがこの国に築いたものと、正反対の思想だ」
レオンは深く頷いた。彼の哲学は「未来は不確定であり、だからこそ備えることができる」。対してゼノンの哲学は「未来は確定しており、変えることはできない」。両者は、決して相容れない水と油だった。
そして、最悪の知らせが届く。
ガリアン帝国が、王国に対し宣戦を布告。その布告文は、王国全土に衝撃を与えた。
『神の代行者、預言者ゼノンは告げる。汝らの王国は、一月後、我が帝国の前に滅びる。これは避けられぬ宿命である。抵抗は無意味なり。神が定めた運命に、静かに従うがよい』
それは単なる脅しではなかった。未来が確定しているという、絶対的な確信に満ちた宣告だった。人々の間に、かつてレオンが払拭したはずの「運命」という名の濃霧が、再び立ち込め始めていた。
王城に招集されたレオンは、重苦しい空気に包まれた会議室で、居並ぶ重臣たちの顔を見渡した。国王、騎士団長、大臣たち…誰もが絶望的な表情を浮かべている。ゼノンの予言は、あまりにも恐ろしい成功率を誇っていたのだ。
「レオン卿。貴殿の『確率予知』をもってしても、この状況を覆すことはできぬのか?」
国王の声は、かすかに震えていた。
「陛下、私はこのゼノンという預言者がいかさま師であると断言します」
レオンの言葉に、場が静まり返る。
「いかさま師だと? あの富くじの奇跡を、貴様はただの欺瞞だと言うのか!」
大臣の一人が激昂した。
「ええ。確率は偶然の事象に対してのみ意味を持ちます。もし富くじの一等が三度も当たるのが運命ならば、それはもはや運命ではなく、仕組まれたトリックです。統計学的に、あり得ません」
レオンは冷静に言い放った。
「だが、奴の予言では、我々の王国は一ヶ月で滅びるとされているのだぞ!」
騎士団長が焦燥に駆られ、拳を強く机に叩きつけた。
「いいえ」
レオンは静かに首を振った。
「私のスキルが示す未来は異なります。現在、この国がガリアン帝国との戦争によって滅亡する確率は――【52.5%】。決して100%ではありません」
「52.5%だと…?」
王がかすれた声で聞き返した。
「過半ではないか…! 我らが滅びる未来の方が、わずかでも高いと、そう言うのか!」
「陛下、重要なのはそこです」
レオンは王の目を真っ直ぐに見据えた。
「彼の予言は『滅びは避けられぬ宿命』。しかし、私の計算では未来は五分五分で揺らいでいる。つまり、彼の言う『宿命』は嘘っぱちだということです。奴は、預言者などではない、ただのいかさま師に過ぎません」
レオンは一度言葉を切ると、場の重い空気を引き受けるように続けた。
「……しかし、彼の嘘を放置し、一度戦端が開かれれば、確率など関係なく、この国に甚大な被害が出ることは避けられません」
「では、どうすれば…」
王が希望を求めるように呟く。レオンは、重苦しい沈黙が支配する会議室を見渡し、確信を持って告げた。
「彼の力の源泉は、予言そのものではなく、それを信じる民衆の『信仰』です。ならば、我々が戦うべきは帝国の軍隊ではない。ゼノン、その個人です。彼が『宿命』と呼ぶものを、私が『確率』という名の真実で打ち破り、その信仰を崩壊させる。それこそが、血を流さずにこの国を救う、唯一の道です」
かくして、レオンは外交使節団を率いて、敵国ガリアン帝国の帝都へと向かった。表向きは和平交渉、真の目的はゼノンの化けの皮を剥がし、戦争の火種そのものを消し去ることにあった。
帝都の中央広場は、預言者ゼノンを一目見ようという民衆の熱気でむせ返っていた。彼はレオンを打ち破るため、一枚の金貨を手に、大観衆の前で宣言した。
「この聖なる金貨は、神がもたらす『調和』の象徴! 私が投げれば、宿命によって完璧な秩序が示される。すなわち、光(表)と闇(裏)は、驚くほど均等に、そして交互に現れるであろう!」
多くの人々は「ランダム=均等」と直感的に信じている。表と裏が綺麗に交互に出る様は、まさしく神が細やかに世界をコントロールしている証左に見えた。ゼノンは宣言通り、十数回投げては「表、裏、表、裏…」という恐ろしいほど整然とした結果を見せつけ、民衆の信仰を絶対的なものにしていた。
「これが宿命がもたらす『秩序』だ!」ゼノンはレオンに向き直り、勝ち誇ったように言った。「お前の言う混沌とした『確率』など、この完璧な調和の前では無意味だ!」
しかし、レオンは全く動じず、静かに口を開いた。
「…見事な手品ですね。ですが、その『完璧すぎる調和』こそが、あなたの力が神の御業ではない、ただのイカサマである何よりの証拠です」
「何だと…?」ゼノンの顔がこわばる。
レオンは広場の黒板の前に立つと、チョークを手に取った。
「皆さん、本当の偶然というものは、我々が思うよりもずっと気まぐれで、偏りのあるものです。コインを20回も投げれば、4回や5回、同じ面が連続で出ることは全く珍しくありません。むしろ、それが自然な姿なのです」
彼は観衆に向かって語りかける。「しかし、預言者のコインはどうでしょう? まるで『連続』を恐れるかのように、あまりにも綺麗に表と裏が交互に出すぎている。これは、自然界では極めて不自然な状態です」
レオンの指摘に、民衆は「言われてみれば…?」とざわつき始める。だが、まだ半信半疑だ。
ゼノンはカッと顔を赤らめ、鼻で笑った。「神の御業は、人の矮小な計算を超えるのだ! それを不自然と断じるか、愚か者め!…よかろう、ならばその身で思い知らせてやる!」
彼はレオンを指さした。
「さあ、前に出よ、異国の数学者よ! 私がこれから投げる金貨の面を予言してみせろ! だがお前の言葉は、我が宿命によって常に覆される!」
勝負が始まった。
一度目。レオンが「表」と宣言すると、ゼノンはこともなげに「裏」を出してみせた。
二度目。レオンが「裏」と宣言すると、ゼノンは今度は「表」を示す。
三度、四度、五度…レオンの予言は面白いように外れ続け、民衆は再び神の御業だと熱狂する。
ゼノンは勝利を確信し、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「どうした? お前の愛する確率とやらは沈黙したか?」
しかし、レオンは静かだった。彼はゼノンの振る舞いを完全に看破していた。
「素晴らしい御業です、預言者殿」
レオンは丁寧な口調で切り出した。
「ですが、些かコインを投げる高さが低いように見受けられます。神の御業ならば、もっと高く、天に届くほどに投げても結果は揺るがないはず。いかがでしょう?」
それは、神への敬意を装った、あまりにも的確な要求だった。
広場の熱狂が水を打ったように静まり、ゼノンの笑顔が凍りついた。
「…よかろう!」
それでも、ゼノンは民衆の手前、断ることができず、虚勢を張ってコインを高く投げ上げた。
くるくると天高く舞う金貨。それは、先ほどまでとは全く違う、真の回転だった。
レオンは宣言する。「表」
ゼノンの手の甲に落ちたコイン。結果は――「表」。
初めてレオンの予言が当たり、そして完璧だったはずの「交互のパターン」が崩れた。
広場がどよめく。
「偶然だ!」とゼノンは叫び、再びコインを高く投げる。
レオンは告げる。「表」
結果は――またしても「表」。
あれほど完璧だったゼノンの「調和」は、レオンのたった一つの要求で完全に消え去った。コインは気まぐれな金属片に戻り、時には当たり、時には外れ、同じ面が連続で出始めた。
民衆も、ついに理解した。レオンが「高く投げろ」と言ってから、奇跡が止んだことを。
ゼノンが狼狽しきったところで、レオンが解説を始めた。
「皆さん、彼の奇跡の正体は、その投げ方にありました。回転しているように見えて、実はほとんど回転させずに投げる…『パストス』と呼ばれる初歩的な手品です。低い投げ方でなければ成功しにくい、単純なトリック。だから私は、高く投げるようお願いしたのです」
レオンの解説に、ゼノンは反論の言葉も失い、ただ震えることしかできなかった。
その時、舞台の袖から凛とした声が響いた。
「そして、彼がその手品をどこで覚えたか、我々が突き止めました」
声の主、エララが進み出る。彼女の手には一通の羊皮紙の巻物が握られていた。
「ゼノン! いや、奇術師ジーノ! お前に神を名乗る資格はない! 我々ブルーメンタール共済組合の情報網は、帝国のみならず、大陸全土を網羅している。お前の『宿命』とやらより、よほど確かで広範囲にな!」
エララは巻物を広げ、そこに書かれた内容を高らかに読み上げた。
「お前の本当の名は、ジーノ! 数年前、ここより遥か南の自由都市同盟で、『"神の手"のジーノ』と名乗り、酒場でコイン手品を見せて日銭を稼いでいた三流奇術師! これが、その当時お前がイカサマ賭博で追われ、ギルドから発行された手配書だ!」
エララが巻物から一枚の古い羊皮紙を抜き放つと、そこには間違いなく若き日のゼノンの似顔絵と、震えるような文字でこう書かれていた。
『――コインを使ったイカサマに注意』
もはや、ゼノンに反論の言葉は残されていなかった。
レオンは、崩れ落ちる男に静かに告げた。
「あなたの正体は預言者でも神の代行者でもない。故郷を追われた、ただの詐欺師だ。あなたは、この帝国の民衆の敬虔な信仰心を、最大の舞台として利用したに過ぎない!」
論理による確率の罠の解明。
観察による手品のトリックの暴露。
そして、組織力による過去という動かぬ証拠。
三段構えの完全な論破を前に、偽りの預言者ゼノンは膝から崩れ落ちた。彼の神性は、もはや跡形もなく砕け散っていた。
この鮮やかな逆転劇は、ガリアン帝国の戦意を根底から打ち砕いた。「宿命」という絶対的な拠り所を失った兵士たちは、もはや戦う理由を見出せなかった。
ゼノンが予言した「王国滅亡」の宿命は、一枚の手配書と共に、歴史の笑い話へと変わったのだ。
戦後、王国はガリアン帝国との間に和平条約を結び、レオンの提唱した「統計」の概念は、ガリアン帝国にも広まり、両国間に新たな協力関係が生まれた。
レオンは若くして、人々に未来への希望を取り戻させた英雄として、その名を轟かせた。
◆
エピローグ
数十年後、白髪の賢者となったレオンは、国王に謁見していた。
傍らには、銀髪の美しい女性となったエララが寄り添っている。
「レオン卿。そなたは勇者のように魔王を討ったわけでも、聖女のように奇跡を起こしたわけでもない。だが、この国から“もしも”の恐怖を拭い去り、人々に“安心”という名の光を与えた。ガリアン帝国との戦いにおいても、そなたは我々を救った。一体、そなたは何者なのだ?」
老王の問いに、レオンは穏やかに微笑み、しわがれた声で答えた。
「陛下。未来は誰にも見えません。私の力は、航海の始まりを示す、最初の羅針盤に過ぎませんでした。ですが、今は違います」
レオンは窓の外に目をやった。活気に満ちた城下の街並みが広がっている。
「この国を支えているのは、もはや私個人の力ではありません。あの組合の書庫に眠る、何十万もの人々の成功と失敗の記録、すなわち『統計』という新たな羅針盤なのです。私はただ、人々が運命を呪い、明日を恐れずに済むよう、そのお手伝いをしたに過ぎません。確率という神の言葉を、少しだけ人々のために翻訳する方法を、皆に伝えただけなのですよ」
彼の名は、英雄譚として吟遊詩人に歌われることはなかった。
銅像が広場に建てられることもなかった。
しかし、彼がいなくなった後も、人々が安心して眠りにつき、失敗を恐れずに挑戦し、愛する家族と明日への希望を語らえる社会の礎――不確実性を乗り越えるための「知恵」そのものを残した「偉大なる数理人」として、その名は歴史のページに静かに、だが、確かに刻まれたのである。
短編です。