デウス=エラー
ロミーは夜の住宅街で息を吐いた。アムと並んで歩く道は、オレンジ色の街灯に照らされていた。玄関先の花壇も、どこか冷たく見えた。少女との約束の時間は近い。アムの歩幅が微かに速くなるのを、ロミーは気づいていた。
住宅街の角、制服の少女が両手を前で組んで立っていた。顔はやや下を向き、二人に気づくとおずおずと目を上げる。
「こんばんは・・・今日は本当に来てくれてありがとうございます。」
声は消え入りそうだった。ロミーは微笑んで返す。
「こっちこそ・・・また会えてよかった。」
少女の家は、小さな表札と古びたポストが印象的だった。玄関を開ける音が小さく響き、三人で階段を上がる。少女の部屋は整然としていて、壁際にきれいに畳まれた制服の替えと、小さなぬいぐるみが五つ並んでいた。カーテン越しの月明かりが、部屋の隅に淡く落ちている。ベッド脇の机には、例の石が・・・あの光り方は自分達も一度見た光景だ。
アムが椅子を引く。
「・・・この部屋で、“気配”を感じるんだね?」
と声をかける。少女は小さくうなずく。
「はい、毎晩・・・ここで、そばにいる気がして。」
その言葉にロミーは辺りを見渡した。壁にかけられた小さなカレンダーや、ペン立てに差した消しゴムの減り方まで目に入る。
「今はどう?」
とロミーが尋ねる。少女は短く息を吐き、目を閉じて耳を澄ませる。
「・・・います。」
アムは真顔で問う。
「神に話しかけると、何か返事は?」
少女は一瞬躊躇したが、机の向こう側の空間に視線を向け、小さな声で言う。
「・・・神様、いますか?」
部屋の空気がわずかに張りつめたようになった。次の瞬間、聞き慣れない声が部屋の隅から返ってきた。
「そんなストレートに返ってくるかなー。」
「ナイナイ。」
「・・・いるよ。」
「いた。」
男とも女ともつかない、乾いた機械のような声だった。少女は肩を震わせ、アムとロミーも思わず顔を見合わせる。ロミーは恐る恐る聞く。
「・・・あなたは、本当に神なの?」
と尋ねる。
「神だよ。あなたたちがそう呼んでいるだけだけど。」
その言い方は妙に理屈っぽく、温度がなかった。アムが息を整える。
「(普通に返答してくるんだけど?)」
「(録音の波形が無い、見間違いか確認したい。)」
「願いは叶えてやらないのか?」
と聞き、切り出しては覆す。
「願いがなければ、叶えることはない。あなたが誰かを憎み、望み、祈るなら、それに応える。でも、何も求めなければ、何も起きない。」
部屋の空気はただ冷えていくばかりだ。少女は、勇気を振り絞るように聞いた。
「・・・それは、私が悪いの?」
神は一拍置く。お茶を渡すと飲み始める。
「(茶をしばくな。)」
「誰も悪くない。ただ“動機”がないだけだ。」
と平然と答えた。少女の手がわずかに震え、指がスマートフォンのケースを擦る音がかすかに響いた。
「・・・何かお願いしなきゃ、いけないんでしょうか。」
少女は、神を正面から見据えるように言う。神は淡々と続ける。
「必要があれば、勝手に願うだろう。それまでは、ただここにいるだけだ。」
と言った。その声に感情はなく、部屋の空間に妙な“重さ”だけが積もっていく。
アムはごく小さく息を吐く。
「本当に・・・普通に話が通じるんだな。」
と呟いた。ロミーも思わず頷く。その空間には、人間と神というより“説明のつかないもの同士が対話してしまっている”異様さと、言葉が現実をすり抜けていく感覚だけが残っていた。
少女の部屋に重苦しい静寂が降りる。ロミーはカーテンの隙間から夜の外を一瞬だけ覗く。「・・・この気配、普段もずっと?」
少女はうなずき、机の上のメモ帳に目を落とす。「はい。寝る前も、朝起きても、ここにいます。誰かに見られてる気がして・・・慣れません。」
「でしょうね。」
アムは壁際の棚に目をやりつつ、「今まで願ったこと、ひとつも思い浮かばなかった?」と問いかけた。少女は少し黙って考えた。
「皆が“幸せになりたい”“楽になりたい”って願ってるのは知ってます。でも自分には・・・何も。欲しいものが分からなくて。」
ロミーは椅子の背に寄りかかり、つかぬ質問と枕を挟んで言う。
「じゃあ誰かを羨ましいとか、許せないって思ったことも?」と聞く。少女はまた静かに首を振った。
「本当に・・・そういうの、ないです。友達もクラスの子も、うらやましいと思ったことも、憎いと思ったこともありません。自分が何か足りないのかも・・・とずっと思ってました。」
アムは机の端を指で軽く叩く。
「じゃあ、さっきの神は何を待ってるんだろうな。」
部屋の隅で、神の声がふわりと返る。
「“人間は誰かを欲しがり、誰かを恨み、何かを求める。その結果が祈りとなる”。それがないなら、私はただ“在る”だけ。」
少女が少しうつむきながら、「このままだと、ずっと何も変わらないんでしょうか。」
何か悲痛な顔をしながら問いかける。
「変わらない。君が望まない限り、私は動かない。」
神の返答はまるで自動音声のように感情がなかった。
「(希薄な感じ、願いとか無かったせいで周囲にあれこれ言われたタイプかしら。)」
ロミーは不意に息をつき、少女を見つめる。
「でもさ、誰にも何も言えず一人で抱えてたら、いつか壊れちゃうよ。」
少女は、少しだけ目を見開いた。
「・・・話を聞いてもらえるだけで、少し楽になりました。」
その声にはほんのわずかな温度があった。
「視聴者がせがんでるみたいな、キスとかでもいいよ。」
「ゆりりん私に何させようって?」
「やっぱ聞かなかったことにして。」
アムは窓の外の夜空を眺める。
「・・・おかしいのは君じゃないかもな。世の中や神様の方がよっぽど分からない。」
少女は小さく微笑む。
「ありがとうございます。こんな話、誰にもできなかったので・・・。」
部屋の時計が静かに時を刻む。カーテンが微かに揺れ、部屋のどこかで神がただ静かに在り続けている気配だけが消えずに残った。
アムはしばらく沈黙したまま、少女の机に置かれた本やノートに視線を滑らせる。
「君は、今まで本当に誰も憎んだり妬んだりしたことがないんだな。」
少女は困ったように、けれどどこか誇らしげにうなずいた。
「はい・・・多分、自分だけちょっとおかしいんだと思ってました。」
ロミーが神に向かって問いかける。
「ねえ、神様。君は“誰かの強い感情”がないと何もできないって言ったけど、もしこの子みたいな人間ばかりだったら、君はずっとここにいるだけなの?」
神の声はやはり淡々としていた。
「そうなる。私は“望まれなければ、ただ在る”。君たち人間が動かなければ、私は何もしない。」
アムは、冷蔵庫の音や廊下の遠い生活音を耳で拾いながら、「思ってた“神様”ってイメージと違う・・・。」と呟く。
「無関心なだけ、まだ優しいのかもね・・・人間だって興味ない相手には何もしないし。」
苦笑するが本題まで現時点で辿り着けていない。・・・迫るべきか、ロミーに聞いてみたが合意を拒否、少女が離れてからと言いたげだ。
少女がおそるおそる神に質問する。
「私が今、何か望んだら・・・本当に何でも叶うんですか?」
神は即座に返す。
「できることとできないことがある。“祈り”は現実の枠に縛られている。けれど、誰かを妬む・憎む・強く求めるなら、私はそれに応じる。」
アムは腕を組むと胸があるかないかをロミーに指摘される様な目線を向けられ、すぐに下ろす。
「じゃあ・・・結局、人の中に“願い”や“憎しみ”がないと、神ってただの空気なんだな。」
「その通りだ。私は“動機”に従って動く仕組みでしかない。」
と、さらに機械的に繰り返す。
妬み・・・か、誰かよりも良くなりたいが願いにはある。それが自分に対しての場合も有り得る・・・とはいえこの一件は質が違う。
警戒は滞らない、しかし混乱が徐々に集まり始めている。・・・神が限りなく黒く、怪しい。人を殺せる神である事に間違いは無い。・・・それが、この中のシチュエーションで一番信頼出来るからだ。
ロミーが少女に微笑みかける。
「でも、今のままで困ってないなら無理に何か願う必要ないよ。君が無理して誰かを羨ましがったり、憎んだりしなくていい。」
「・・・はい。」
空調の音だけが静かに響く。アムは机に肘をつき、ロミーは軽く椅子を揺らす。神はただそこに“存在”し続け、誰の感情も揺らさずに静かに漂っていた。
しばらく会話も尽き、部屋の空気はまた静かに重たくなっていった。少女は自分の膝に手を置き、何度も指を組み直す。
「・・・私、これからもこの神様と一緒にいなきゃいけないんでしょうか。」そ
の声は、どこか決意と諦めが混ざっていた。
ロミーは、優しくも真剣な目で少女を見た。
「無理に変わろうとしなくていいよ。もし“誰かのために”とか“自分のために”って思えることができたら、その時また考えればいいんじゃない?」
「・・・分かりました。しばらく、このままでいてみます。」
少女は決意から考えに戻し、再び頭から思考した。そして一度扉の向こうで深呼吸して安堵するとの事だ。今の内に、一つ質問する。アムは神に向き直り、脚を組まずに聞く。
「君はこの子のこと、どう思う?」
「私はただ“存在”している。君たち人間がどう思うかに興味はない。」
と事も無げに言う。そのあまりの無関心さに、ロミーは小さく息を吐いた。
「・・・正体はその子の前では明かさない、お願いしていい?」
「分かった、受け入れよう。だが、願いが果たされるまではその手が首に掛かっている事を忘れるな。」
「あの子にそういう旨の話をしないでよ。」
戻ってきた少女はゆっくりと立ち上がり、机の上のスマートフォンと石を手に取る。
玄関先に進み、神とやらも姿を消し、一通り片付いたと終わる。
「・・・今日は来てくれてありがとうございました。本当に、少しだけ安心できました。」
ロミーとアムも立ち上がり、部屋の出口で振り返る。「また何かあったらいつでも呼んで。絶対に一人で抱え込まなくていいからね。」
三人が廊下に出ると、家の中は静まり返っていた。玄関のドアを開けて夜風が入り込む。外に出ると、遠くで犬の鳴き声と車の音が交じっていた。
少女は少しだけ背筋を伸ばした、それでも小さいと頭を撫でてやると・・・。
「私、貴女よりも年上です。」
「えっ・・・?」
「その子高校三年生よ、受験勉強の疲弊で幼児退行してるけど。」
「四歳位年上?」
「・・・そうね。」
「私、しばらくこのままで大丈夫な気がします。」
と微笑んだが、アムとしては何も大丈夫じゃない。ロミーは頷き、アムも静かにその姿を見守り、家から一歩一歩遠のく。
「人間の願いも、神様の沈黙も、どっちも簡単じゃないよな。」
アムがぼそりと言うと、ロミーは振り向く。
「・・・でも、今日のアムを見てたらちょっとだけ希望が湧いてきた気がする。」
「もう少し見る目は鍛えておくべきだと思うぞ。」
小さく笑ったロミーは、月明かりで魅力的だ。・・・配信で皆が見ている彼女は、こういう姿なのだ。
夜の街に三人の影が伸びていく。家の窓に戻った灯りが、少女と神の部屋をそっと照らしていた。
夜、月明かりは漏れ出る様に地に降り注ぐ。
幾ら歌の題にされようと、そこに陰りはない。
涙と共に、アムは祈り続ける。
断熱材の大して入っていない、冬は極寒で夏は猛暑の家。一人しか住むことは無く、動物達の住処にもなってしまった家。
・・・しかし、血や黒さはない。
だが、妙に香ばしい匂いがしてしまう。
祈り続ける、夜に、安心出来ず祈り続ける。出生が悲惨な程神は救う・・・それの正体は、無意識下で祈り続ける。寝言は大抵無意味だ。意識は水底に落ちて、すぐに目が覚める。
傷の痕が、膨らみが、呪いの様に自分を締め付ける。
「・・・。」
ロミーは、彼にも盗聴器を仕掛けていた。
彼は何時死ぬかが分からない様な、苦しんでいる人間だ。
・・・彼の寝言は、何度か確認したが・・・ある、一人の人間の事だ。
イブ・・・アダムと対比された様な名前だが、何か目的があるのだろうか。熱心な宗教家か。
「・・・イブは彼の妹・・・か。」
それだけは確かだった。
寝言の音声を必要な部分以外カットして推測する。そして、マネージャーに診断を貰おう。彼は大事な手駒だ、慎重に、事細かに扱わねば。