改訂版本編フルバージョン
一応前のも残しときます。
人は祈る、それがたとえ意味のないことだとしても。
人は祈る、それがたとえどれだけ努力した人間であっても。
人は祈る、確率論でも決定論でも、自分が知らぬなら祈る。
人は祈る、得体の知れない未来に怯え、いつも祈る。
祈ることは折ることと大して変わらない。
希望の「希」は希釈の「希」であるかのように、望みを薄くする。
そして、ようやく望みは果たされる。
人は働き続けられないが、人が働くことを強いる誰かがいる。そして、それが正しくあるかのように振る舞う。
取り返しのつかない利便性と引き換えに、命を託す。
望みと願いを石に託す。
この世界に神が存在するかは、運次第である。
つまり、だ。
石に祈り、時間を浪費し、神を引けるかどうか。
分からないが、成功者がいるのは確かだ。
シーン2 - 田園の中で
アムを対峙させる構図で。(演出指示なし。強いて言うなら、瞬きによる目の開閉を台詞ごとに交互に配置。切り替えは発言前。)
人の前には、いつしか神というものが与えられた。正確には、最初からいたが、独占からようやく逃れたらしい。
しかし神も無限に存在するわけではない。その中で神は人々に告げる。
「人の子よ、お前達に石を与える。これは祈ればやがて我々を手繰り寄せることができる。」
「しかし、祝福は全員には与えられぬ。努力を怠ってはならぬ、苦痛から常に逃れてはならぬ。人は神に頼るために作られたものではない。」
「自分は、昔、神に出会った。」
「親に捨てられ、一人空腹の中で祈り、『デウス=ノーヴァ』という神を引き当て、大人になるまで最低限食える分の金を得ることができた。」
「しかし、それ以降は全く祝福もなく、そんな退屈な日々を過ごしていた。」
「名前はアム。捨てた親は名前のスペルAdamすら間違え、こんな名前になった。」
「信仰は多くの人を狂気に陥れた。聖書なき単純な信仰は、恩恵こそ存在するものの特に倫理を育てることはなかった。」
「自分には先がない、未来がない。」
「その中で生きる、そんな話だ。」
「そう、そういう、悲しい話なのだ。」
煌びやかなガラスは足元を決して照らしはしない。
あの空は青々としている。白の陽光は閃光を何度も送り出す。
嗚呼、焼けるように暑い。
焼けるような鼻奥にこびりつく臭い、数秒間触れることすら許さない指先、呼吸の度に飲料の余韻を残す舌先。蝉の鳴き声が耳に張り付き、目の前の空気が揺らめいて蜃気楼が見える。この暑さの全てが、アム一人で残された家を守る重みを増している。
当然のように学校の準備をして、向かうために靴先を揃え、鍵も閉めずに外へ出る。
どうせ鍵をかけたところで、人が住んでいるとは誰も思わない。
田園に、野良犬を見た。
野良犬は祈りはしない。その不幸な生まれから、ヒトに拾われ、生き延び続け、そしてヒトに捨てられた者もいる。
あの犬は、多分捨てられた。
アムは、その犬を見てふと思う。
「あの犬は、祈りを知っているだろうか。」
犬のために祈る。しかし何も起きはしない。あの時のように、誰かのために祈っても、奇跡は起こらないのだと、アムは知っていた。
後ろから細いブレーキ音が聞こえる。
彼女はロミー。使い古して今にも壊れそうな自転車を器用に止めて、足をついた。
「今日、暑すぎるんだけど。」
アムが振り返ると、ロミーは自分の前腕を彼の腕にそっと押し付けてくる。
「風で冷えた。気持ちいいでしょ?」
アムは何も言えず、一歩だけ距離を離した。その腕から伝わる体温が、熱気とは違う種類の焦燥を彼にもたらす。
「ああ、暑い。」
ロミーが笑う。ほんの少しだけ、からかうように。アムは「数ヶ月でパッと会話が途絶えるタイプの女か」と思った。しかし、その笑みはどこか突き放したような、あるいは全てを見透かしたような、不思議な感覚をアムに残した。
商店街へ入る。
開きかけたシャッターの取っ手だけが鈍く擦れていて、一方で上にある屋根は部分的に新しかった。どうやら、田舎でも繁盛はしているらしいようだった。
暑いという文句から店に立ち寄り、ミルクティーをロミーに差し出す。
「え、くれるの?」
ロミーは驚いたように受け取り、すぐに一口飲んだ。
アムは、心の中で呟く。
「どうせ神からの端金だ。今のうちに恩でも売っておこう。自分と違って内気でもない彼女に対して。」
「ありがと。」
そのままベンチに腰かけ、ひと息ついた後、周囲を見渡す。
しかしアムは立ったまま、何も飲まずにいる。ロミーはしばらく彼を見て、それから立ち上がり、近くの店に入った。
戻ってきたときには、フレンチトーストの入った紙箱を持っていた。ロミーは紙箱を開け、すぐにミルクティーのカップ、透明なフタを開きアイスだけを器用に取り出す。
彼女はスプーンで慎重にそれをすくい取り、トーストの上にそっと落とした。
「はい、食べて。」
アムは答えない。しかし、その目は関心というよりも、何かを凝視しているかのように、一切感情のこもらない光を宿していた。
(野良犬と同調でもしていたのだろうか、空腹は抑えられないものだから、そうなのかもしれない)とロミーは思ってしまう。
視線だけがトーストに向けられ、静かに、ゆっくりとアムの手が伸びる。その動きはまるで、長い間飢えていた獣が餌に手を伸ばすかのように見えた。
ロミーはアイデアを叩き付けた者として、笑顔で何も言わず、紙二枚とペンを再び握る。
祈りのもう一つの手段として、努力というものがある。
努力は祈りよりも確実で、祈りよりも誇らしい。それゆえに、大抵の幸運な人類は努力したと言い張る。
授業は静かに進行していた。
教科書を読み上げる声と、ノートに書き込む音だけが響く。
それは、祈りとは関係のない時間だった。
だが、チャイムが鳴り、休み時間になると、教室の空気がゆっくりと変わる。一部の生徒は立ち上がり、窓際や廊下へ向かう。
鞄から取り出した小さな石を手に持ち、目を閉じる者もいる。
誰も騒がず、誰も笑ってもいない。まるで、各々が小さな儀式を行っているかのようだった。
そんな中で、アムとロミーは校庭の片隅にいた。
誰が持ってきたのかすらわからない、やや空気の抜けたボールを蹴り合っている。
芝生はすでに土が露出していた。靴の裏で砂がこすれ、小さな埃が舞い立つ。
「祈りの時間、遊びの時間ってわけなのね。」
ロミーが笑いながらボールを返す。ポニーテールが肩で弾む。
アムは黙って受け止め、すぐに返した。蹴り方が重くなく、手加減もない。まるで、彼にとってボールを蹴る行為自体が、意味を持たない日常の一部であるかのようだった。
教室の窓から、それを見ている生徒もいた。
だが咎めるでもなく、羨むでもない。ただ、見ている。手のひらに石を包んだままの指が、ほんの少しだけ強張っている。彼らの視線の先には、祈りから解き放たれた二人の姿があった。
ロミーは転がってきたボールを足で止めながら、ちらりとアムを見る。わずかな汗が額に滲んでいた。
「なんかさあ、空っぽの方がよく跳ねるって言うよね。」
アムはそれに答えず、軽く蹴り返した。砂埃が舞い、彼らの足元に残る。その蹴りには、どこか投げやりな、あるいは何かを振り払うような力が込められているように見えた。
一見有意義だが、無駄な体力消費を抑えるという機会が減り、不健康は進む。しかし努力とて確実なものではないのだ。
「どうやら、今日の昼からは外部講師らしいわよ。暇になりそうね。」
「全員が社会経験を拒絶しているのに、大人になんてなれるか。」
アムは蹴りを強くした。その一撃には思い返す痛みがあった。彼の脳裏に、何か不快な記憶がよぎったようだった。
ロミーはボールを拾い上げて手の甲で汗をぬぐいながら、校舎を見上げる。
「場所って大事よね。学歴も極論、勉強内容じゃなくて学校の構造とか、建物の構造から推測したものなんじゃない?」
「なるほどね。確かに、大学の説明会で『エアコンのある話し合える場所』が多数ある所と全くない所で分かれているのを見た。」
念の為言うと、彼ら自身は中学生だが、就職も早い段階から進み、学歴フィルターどころかカースト制度になりつつある影響で、このようになっている。
「学力がなくてもコネ作りで強い所はあるし、学歴ってそういうのを見るのがメインになるんじゃないかしら?」
アムは少しだけ息を切らしながら深呼吸して頷いた。
「それは、神の有無を問うのか?」
強めのキックで返す。アムには何か煮え滾るものがあったのだろう。彼の胸の奥で、漠然とした不満が燃えているようだった。
「さぁね。努力も所詮、積み重ねの運よ。結果も、実績も。だから努力は生半可じゃダメ。当たり前のラインを引き上げるの。」
「ああ。」
アムは納得はしなかった。不満ではあったが、今は耐えるしかなかった。
「アムは、できる。」
違う、自分は努力しても大して出来はしないだろう。祈りも努力も微妙だ。不快ではあるが、顔には出さない。ロミーは不敵に笑う。その笑顔は、アムの心を見透かしているようでもあり、あるいは試しているようでもあった。
「まあ、根性論にも聞こえるかもね。」
「?」
アムは「そういう話か」なんて思っていたが、実は違うらしい。
「頑張るというのは、単なる視点ではできないの。諦めを自制し、最終的に自分の感情を制御しきり、大人になったかどうかを確認する。必要なのは、そういう能力よ。」
ロミーは優しくボールを届ける。それにアムは合わせてしまう。球の速度にアムの感情が露出する。そのパスには、アムの心の動揺が映し出されているようだった。
「字を綺麗じゃなく丁寧に・・・なんて言うけど、それはごまかしよ。綺麗に丁寧に書くの。」
神々の時代、人々は単純な力を神に託し、己だけにしか磨けない能力を伸ばすことが多かった。勉学も運となった時に、より多く選択された。
大人は、かなりの数がコミュ障である。必要な説明をせず、無駄な手順を重視する割に、それ以外は疎かにする。
その結果、多くのミスを起こす。礼儀作法が大事なのは、そういうことだ。
失敗や過失を不思議と許せる人格であれと、そう願った結果が礼儀作法という一番簡単な手段なのだ。
その中で礼儀作法は許し合える関係性を築くものだが、その重要な部分を全て忘れてしまったのだ。
その上で多様性を求めるのは、個性や芸術性の勝負という風になり、礼儀作法を覆せる手段かどうかが試された。
「芸術性で勝負する。それは競合ばかりよ。その上で生き残るなら、丁寧に綺麗に、そこから異質な芸術性を露出させるの。」
ロミーの舌先がちらりと見え、アムはそこに何か奥深いものがあるのを感じた。しかし、それを目視した時には遅かった。
「これがミルクティーの分。タピオカはお返しするわ、一つだけだけど。」
ぬらぬらと光る喉の奥から、そっと口の奥にキスで押し込まれ、アムは反射的に指先で掴み取り出した。
「ビー玉か?」
「歯の裏で球体に整えただけよ。芸術性はこの位個性があってようやく評価できるもの。この神々の時代で個性は諦めるべきだと思うわ。」
「一連の行動も芸術的で、呆気に取られたよ。」
「そう?」
疑問形の割には、彼女の笑顔は先から小悪魔的だ。アムはロミーの予測不能な行動に、ただ圧倒されるばかりだった。
「芸術の神はいない。出ないようにされたと聞いたわ。だから私は貴方に忠告する。」
アムは、ゆっくりと心臓を掴まれるように感じ取った。どこかで彼女は自分の境遇を把握していたのだと。それは、今まで誰にも明かしていないはずの、彼の最も深い部分だった。
「自分の境遇を不幸と思い、稼ぐのは良いわ。でも、それを自らの芸術性と勘違いしないことね。飽きやすいエンタメよ。」
アムは、ロミーが自分の出生をどこかのタイミングで掴んだのだと気づいた。一切明かしていないはずだった。学校内でもバラバラの噂が飛び交っていた・・・だが、彼女だけは見抜いていた。
(このタピオカ一発ネタはどうなんだ。だが、よく考えればこれは鮮烈だ。深く重いものではなく、シンプルで具体的で、印象的だ。何より味がある。いや、違うのだ。)
アムは心の中で、ロミーの行動を咀嚼する。彼女の言動は、彼の固定観念を揺さぶるものだった。
「忘れられる?」
「いや、無理そうだな。」
この世界では不運を嘆く不運主義というものがある。努力でも運でも成功しなかったと諦めるのだ。
だから逆に周囲に対し、自分より不幸ではないだろう、自分の方が感情としては重い、と考えて祈る。
神にではない。自分の方が不幸であれと、自分自身に願うのだ。
「今日出会ったばかりなのにね。」
「意外と増えたよな。」
神の中には、結婚や恋愛、友情や敬意といった種類があり、どれが出るかは分からないが、片方だけ出ていれば問題ない。
そのため、この人かもしれないと運命的に出会ったり、どちらも引いてないのに向き合ったり・・・そもそも神がどう出現するかすら知らない人間が大半だ。
「君の名前は?」
「ロミー。名前はロマンスからとった感じ。アムは何?」
「親のスペルミスだ。アダムをAumと間違えた結果こうなった。」
アムは「もう、明かしても構わないか」とロミーに伝える。
「アダムから何も考えてなさそうな所が素敵だと思うわ。」
「ありがと。いつか自分の名前を変えてくれ。」
「そういう腹積もりなんだ。」
「まあ、縋るのは大事だ。」
実は、両者互いに違う感情を抱いているが、すれ違う感情を気にせず、互いが互いを運命と錯覚している、それだけのことなのだ。彼らの関係は、互いの「望み」が偶然にも重なり合った結果に過ぎないのかもしれない。
昼下がりの教室、窓から差し込む光だけが白く眩しい。石を机に並べて数えている生徒、隣の席の子に向かって手をひらひらさせている。
教室の隅で座り込んだまま、鞄を足で突っつく者もいる。誰もがそれぞれの形で、見えない神に思いを馳せているかのようだった。
「またダメだった。昨日もずっとお願いしてたのに。」
「私なんか三日も飲み物飲まなかったけど、全然何も変わらないし。」
「それ本当?水分取らないと死ぬって。」
「ほんとだってば。ほら、私もう細くなったでしょ。」
わざとらしく袖をめくって見せる。机の向こうから数人が苦笑い。
「これぞホントの無茶だな。」
「アム、無茶以上に無粋よ。」
「何より無謀だ。無望とか、絶望とは言ってやらないでおこう。」
アムの方は祈る様子があまりない。石の光り方としてはかなり使い込んでいる。
関連性は不明だが、祈る回数や確率は形で変わるとか聞いたことがあるが、今のところ関連性はないらしい。アムの石は、もはや彼にとってただの重しなのかもしれない。
「うちの親、“祈れば楽になる”って言ってさ、また石買ってきたよ。」
「神引いたってだけで進学決まった人もいるんだよね。」
「いいなあ・・・。」
羨望と嘲りが交じったため息がいくつも落ちる。祈りの効力は、人々の間で常に議論の的だった。
ロミーは教室の一角、窓際の席でノートのページを繰りながら、会話に加わらない。
時折、誰かの言葉にだけ視線を上げる。田舎の小規模な所であるため、そもそも学年が違い、話すのも抵抗がある。
結局引けたところで、所詮運であると軽蔑される。引けたことが祈りのアイデンティティを支える。
努力は否定される、祈りも否定される。それが所詮彼らの中身なのだ。彼らは、ただ漠然とした「何か」を求めているに過ぎなかった。
机の下、アムはぼんやりと自分の手を見つめている。会話の輪から遠く、返事をしない。その瞳には、諦めにも似た虚無感が宿っていた。
ロミーはその様子にも一度だけ目を止めるが、すぐまた窓の外に視線を戻す。
「努力も遊びも意味ないよね。全部、神頼み。」
「もう無理だよ。神出るまで、みんな待つだけなんだし。」
誰も本気で笑わず、うつむいたまま指先だけが石を弄っている。自分の不幸を競い合い、話が途切れると空気が重くなる。教室全体が、重苦しい諦めに包まれていた。
ロミーはうるさそうに髪を耳にかけ、ペンでノートを小さく叩く。
教室の空気に溶け込まず、どこか一歩引いたまま、窓の外の陽射しを眺めていた。
だが、アムだけはそれを興味深そうに見つめる。彼の視線は、ロミーのどこか超越したような態度に引きつけられているようだった。
「興味あるの?」
「勿論だ。分からないからな。」
「一旦次の授業よ。そろそろ向き直しなさい。」
「ああ。」
チャイムが鳴る。会話は自然と止まるが、重たい沈黙は残ったままだ。
「本日は外部から講師の方をお招きしています。」
静かに入ってきたのは、見慣れないスーツ姿の男。近年移住してきた、有名な資産家だった。
話題の“配信者上がり”で、だが、今は広告でしか見ない。
前に立った瞬間、ロミーがぼそっと呟く。
「落ち目の芸人ってなんでもするわよね。」
「映画のエキストラでなら見たことがある。サメ映画のだけどな。」
一瞬だけ空気が揺れるが、すぐに静まり返る。アムの冗談にも、教室には重い沈黙が続く。
資産家は黒板の前に立ち、教室全体を見回す。表情に余計な愛想はなく、視線はどこか諦めたような色を帯びている。その目は、何かを深く見てきた者の瞳だった。
「私は、現実の話をしに来た。まあ、お前達が知っている通り、神は、今やこの世界中で引き合いに出されている。」
静かに、ロミー以外は頷く。アムは素直ゆえに頷くが、視線は逸らさない。彼の表情には、期待と、わずかながらも疑問の色が混じっていた。
「祈りで願いが叶うだの、幸せになれるだの・・・そんな話、いくらでも転がってる。だが、現実は全く別だ。」
彼は机の前に手をつき、声のトーンを一段下げる。その声は、重く、教室に響き渡る。
「実際に神を引いた。確かに願いは叶った。だが、それは誰かの不幸が俺に巡ってきただけだ。お前らが思っているハッピーエンドなんかじゃない。」
一瞬だけ目線が生徒の列をなぞる。生徒たちの顔には、恐怖と混乱の色が浮かび始めていた。
「神で人を殺してしまった。偶然だった。一瞬だった。理解するのに一週間もかかった。誰を殺したかはニュースでしか確認できなかった。」
静寂が教室を満たす。重く、悲痛な空気が張り詰める。それは、神の存在がもたらす、残酷な真実だった。
「努力も祈りも、選べるほど立派なもんじゃない。幸福も不幸も、誰かの“結果”が回ってくるだけだ。それでも現実は、いつも正直だ。」
資産家は短く息を吐き、全員に聞こえるように淡々と締めくくる。
「お前達は、何かを祈っているか?それとも努力するのか?」
誰も身動きできず、冷たい空気だけが残る。
恐ろしい事実が降って湧き、ロミーですら衝撃を受ける。アムは知っている。神は問答無用で呼び出され、同時に機能することを。それが、どれほど残酷な力であるかを。
神が人を殺せるなら、それは同時に人殺しを強制される・・・あるいは、既存の神の影響が結婚後に恋愛を引くとか、周囲が金銭を引いて一人だけ貧困になるとか、そういうものならまだ分かる。
どうやら、それは違うらしい。神の恩恵は、必ず誰かの犠牲の上に成り立っているのだ。
放課後の校門前。アムとロミーは並んで歩き始めた。
まだ明るさの残る夕方の通学路を、二人の歩調が静かに揃う。
「今日の授業、妙な話だったね。」
ロミーがぽつりとつぶやく。
「あんなふうに、神に頼んで人を殺すとか・・・本気で信じているのかな?」
アムは肩をすくめる。
「噂の域を出ないだろう。けれど、誰か一人でも本気で信じて願っているなら、そういう神が現れてもおかしくないかもな。」
器用に指を動かして傷がないか確認し、その指先を見つめながら歩く。彼の視線は、どこか遠くを見ているようだった。
「私はミティを引いてから配信を始めた。友人関係で一度裏切られちゃってね、警戒していたの。」
「・・・配信業か・・・うん?・・・ああ。」
アムはロミーを見ずに答える。彼の声には、僅かながら興味と、どこか諦めのような響きが混じっていた。
「ノーヴァを引いたことはあった。二十年分は生活は保障されているけれど、それだけだな。」
ロミーは小さく息を吐いた。
「羨ましいよ。私、そういう現実的な恩恵はなかったから。だけど、配信で知り合った友達も、自分は神に選ばれたって信じている。信じているっていうか、もう、運命だって決めつけている感じ。」
アムは少しだけ口元を緩めた。皮肉めいた笑みにも見えた。
「まあ、稀に聞く。一年に一度とかそんなものか。言わないことも多いだろうし、実際はもう少し多いんじゃないか?」
「私達は偶然被ったって感じね、嬉しい。」
ロミーは楽しそうに笑う。その笑顔は、夕日を受けて一層輝いて見えた。
「逆に、全部スカだって文句言う人もいるけれど・・・それなりに引けないものなのでしょうね。」
「だな。引いた時点で十分すぎるさ。」
歩く道には春の柔らかい光が残っていた。校舎の屋根に陽が沈みかけている。雨の乾き切らない木造建築は、夕日に照らされて影を長く落とす。アムは小さく空を見上げ、紙幣数枚と小銭の入った財布から道中の瓶コーラを買い、音を立てて栓を開ける。
「どんな神を引いたって、こうして普通に生きているだけで十分かもな・・・。」
ロミーはその横顔を見て、ふっと微笑んだ。アムの言葉には、どこか達観した響きがあり、それがロミーの心にじんわりと染み渡る。
「アムが言うと、コーラも風情ある飲み物に思えるね。」
笑い合った後、ふたりはまた静かに歩き始めた。夕闇が少しずつ深まり、彼らの影がゆっくりと伸びていく。
ロミーの家は、畑の広がる田舎道に面した古い一軒家だった。
門の前には自転車が無造作に停められ、庭の隅には使い込まれた遊具が半分土に埋もれている。時間が止まったかのような静けさが、その家にはあった。
アムはロミーに案内されて玄関をくぐる。中はどこか懐かしい、木と畳のにおいが漂っていた。
「結局、ロミーの家に誘われて自分は家に入った」とアムは心の中で思った。
「どうぞ。靴、そこに並べて」
ロミーがそう言う前から、アムは玄関脇の棚に靴を揃えていた。その手つきは、どこか慣れたものだった。
家の中は、よく片付いているというよりも、生活感が積み重なっている印象だった。
壁に貼られた古いカレンダー、窓際の鉢植え、家族写真。どこもかしこも、田舎の“日常”が詰まっている。
ロミーは居間へ案内し、デスクトップの電源を付け、マイクのミュートをセットアップ中に外し、小さなカメラの向きを整える。
「今日、ちょっとだけ配信しようと思っていたんだ。アムも良かったらゆっくりしていって。」
「忙しそうだな。帰りは邪魔しないようにするよ。」
ロミーの声は明るい。配信の準備も慣れた手つきで、コードをさばき、椅子の高さを調整し、画角をチェックしている。
アムは、少し調べたことを思い出す。どうやらかなり前から、彼女の姉が起こしたチャンネルで、引退と同時にロミーがバトンタッチしたらしい。色恋営業をした影響でコメント欄が荒れており、見るに堪えない状態だったはずだ。
アムは部屋の隅に座り、静かに部屋の様子を観察していた。
田舎らしい仏壇もなく、スペース自体はあるが完全に本棚スペースとなっている。埃一つないその空間に、アムは違和感を覚える。
邪魔するのも悪いと、撮影の準備を手伝うべく、気合いを入れて掃除をした。彼の掃除は丁寧で、まるで何かを隠すかのような手際良さだった。
配信が始まると、画面のチャット欄には常連のリスナーたちが続々と集まってきた。
「やっほー!」「今日もかわいいね。」「ロミーの部屋、落ち着く感じ。」
ロミーは画面越しに手を振り、にこやかに挨拶を返していく。
(ああよかった、割と平和なコメント欄だ)とロミーは安堵した。
しばらくは平和なやり取りが続いた。だが、数分もしないうちにコメントの空気が変わり始める。
『・・・あれ、なんか男のにおいしない?』
『右手がにおう・・・。』『ロミーの部屋、誰かいる?』『マイクが妙にくぐもっている。』
『今、一瞬映った?』『なんか空気変わった。』『視線感じる。』
ざわざわと、違和感が連鎖するように書き込まれていく。コメントの気持ち悪さに、アムは眉をひそめる。(においってなんだ。掃除のしすぎか。力を入れた痕跡が光加減で見えたのか?どう考えても過剰な妄想だろう)
ロミーは明らかに表情を曇らせた。
笑顔を作りながらも、手元のキーボードをそっと握りしめる。その指先は微かに震えていた。
アムはそんな様子を横目に、素早く部屋の隅に置かれたカーディガンとスカートに手を伸ばした。上半身以外も映る状態だということを瞬時に判断したのだ。
「ごめんね、お邪魔しているよ。」
小声でロミーに告げると、ロミーも何も言わず頷き、さっと椅子を引いた。
アムはカーディガンを羽織り、髪を軽く整えて、配信カメラの死角からそっと画面の端へ顔を出す。
ロミーがとっさにフォローを入れる。「今日遊びに来ている友達だよ!」
作り笑顔を貼り付けながら、アムをさりげなく紹介した。
チャット欄は混乱と好奇心で渦を巻く。
『友達?』『でも声低すぎじゃね?』『女?』『なんか・・・イケボ。』『右手のにおいの正体わかった』『顔は可愛いかも』『リア友女子登場!』『右手のことは突っ込むな!』
悪ノリと興味本位、そして露骨な下心が入り混じっていた。アムは、彼らのコメントに明確な不快感を覚える。(そういう関係じゃない)
アムは平然と混じり、息を整え話を切り替える。声は意識的に低く抑えられているが、不自然さはなく、初動からより高い声で期待に応える。それはまるで、長年の経験が培った自然な演技のようだった。
「気分を害したかな?・・・そうでもない?・・・ならいいや。今日は私が家の鍵を忘れちゃったんだ。夜まで誰もいないからこっちに来たの。」
(かなり高い、特有の傾向とか違和感もない。昔からやっていた・・・とかそんなレベルじゃないかしら・・・。)とロミーは内心で驚きを覚える。
「可愛いでしょ?壁をつい友達が来るからって磨きすぎちゃう困った友人がいたんだよ。」
アムがロミーに寄られ詰められ、カメラにはアムの細身と背中、そしてその一回り大きくロミーの影だけが見える。
(呆気にとられるなってか?)とアムはロミーの意図を察する。
(完璧じゃない自分をサポートできるのは君だけだよ。)アムはロミーの隣に立ち、意識的に自然な笑顔を浮かべる。
最初は戸惑いと疑いに満ちていたコメントも、やがて気持ち悪さを落とさず盛り上がり始めた。妙な熱気と悪ノリのまま、配信は普段よりも長く、勢いよく続いていった。
とは言っても、配信自体は慣れていないのか、会話のつなぎが変に長い。言葉を頑張って濁そうとしたり、受けとしてのセンスを振るったりする場面もあった。
『会話の感覚が長い。』『サン〇ャイン池崎?』
「誰がサン〇ャイン池崎だ。」
(意外とそういうの通じるタイプなのね。)とロミーはアムの意外な一面に笑みがこぼれる。
『ロミーちゃん全然話さないじゃん。』『やっぱこいつ男じゃね?』『ロミーが男説ある。』
「ロミーの彼女でーす・・・イェイ!」
『嫉妬なんだが?』『そこ代われロミー。』
部屋の隅に春の夕方の光が差し込む中、アムは静かに息をつき、どこか遠くを見るような目をしていた。彼の心は、この騒がしい配信の場とはかけ離れた場所にあるようだった。配信の盛り上がりは加速していった。コメント欄には新規の名前も増え、変な書き込みをするような訓練された輩の数が一気に減る。
アムは一度カメラから外れ、ミュートボタンをそっと押した。
「こうなるとは思わなかった、ごめん。」
気まずそうに視線を落とすロミーに、アムはただ短く答えた。
「気にするな。」
別に落ち込んでいるわけではなさそうだ。むしろ、その表情はどこか虚ろで、感情の動きが見えなかった。
「服は返してよ、入れ替えるの面倒くさくてそのままにしていたから。におうでしょ?」
「いいにおいならするが・・・うん?」
「バカ、カメラオフにしてないけどどうする?」
ロミーの焦った声に、アムは一瞬の間を置いて答える。
「再開するか。」
ミュートを外すと、リスナーたちの熱量はさらに上がっていた。
『そういえば名前は?』
「あれ?言ってなかったね・・・。」
空気を切り替えるように、アムはカメラの前でロミーのカーディガンの袖を軽く直し、わざとらしく髪に手をやった。その仕草は、驚くほど自然で、女性的だった。
「友達のユリです。声が低いのは昔から・・・。」
落ち着いたトーンでそう告げると、コメント欄には『低音女子!』『イケボ!』『ガチで可愛い。』『可愛い外見なのに声低くてギャップ感じる。』といった声が溢れる。
「新規さん結構増えた?」
「最近AIのトレンド判断でどんな人でも伸びるようにしているの。ショート動画で株主をごまかすまではいいけれど、その後の伸びが乏しくてね。」
次々に肯定的な声が重なる。
(ここまで層が変われば安心かな。)とロミーは胸をなでおろす。
(変態共が消え去って安心だ。)とアムは内心で毒づく。
そんなふうに安心し切っていたらロミーがすかさず「昔からの親友なんだよ!部活でもずっと一緒で・・・。」と話を盛る。
(ダメだ、ヤバい質問を振られて何言えば良いか分からない奴が来る)とアムは内心で冷や汗をかく。
二人でピースサインを作ってみせる。
『二人ともかわいい!』『もっと映して!』『今度二人で歌って!』
「歌は著作権的にね・・・。」
といったリクエストが絶え間なく続いた。アムは、その場の空気に合わせて、完璧な笑顔を保ち続ける。
「君達は普段どういった配信活動を見ているんだい?ゲーム?毎日違うのか?」
先とは変わって顔をどんどん近づける。疑ったところで、男っぽさや女っぽさを見る度に「可愛い」しか残らない、不思議な魅力がアムにはあった。
「最近配信の移り変わりが凄いよな、テレビは不祥事多いし、個人の技術も良くなったしな。」
『だねー。』『すぐ入れ替えられるし、こっちの方が見やすい。』
「続きを見なくていいのかい?進展、終わっちゃうよ?」
(魔性の女。)と、ロミーはアムのこの状況を操るような巧みさに、内心で舌を巻いた。
最初の違和感や不穏な空気は、「“仲良し女子コラボ”」という形で上書きされていった。視聴者層も浄化され、センスある変態は新たな住処に旅立ったようだった。
アムは配信画面で淡々と求められた通りに振る舞い続ける。声はやや低いが、女の子らしいしぐさを無理なくこなしてみせ、それが不自然にならないことに、ロミーはどこか妙な違和感を覚えた。配信は予想外の盛り上がりを見せ、コメントの勢いも普段の倍近くに膨れ上がって・・・ロミーは嬉しさと不安が入り混じったような複雑な表情で、その流れに必死で乗り続けた。
「サーバー落ちた。」
「私も配信者としてはまだまだだから、等級自体低くて質良いの借りられないんだわ。」
「この領収書・・・マジか。」
「元々十万だからかなり安くなった方よ。毎日配信の影響が重いけれど、アルゴリズム的には一番良いのよね。」
「別プラットフォームは?」
「民度が悪すぎて弾かれる。コメント以外も結構ヤバいの多くて。」
配信終了をソフトに指示し、アーカイブを残すか確認する。
「それはそっちの判断の方が良いわ。色々な意味で。」
「そうだな。」
配信が終わり、アムは無言でウィッグを外した。ロミーのカーディガンも静かに畳み、元通りに戻す。畳み方は下手な癖に、脱ぎ方は整っている。
その手つきはやけに慣れていて、ロミーはどうしても目を離せなかった。
「ねえ、アム・・・。」
ロミーは少しだけ声を潜めて尋ねる。
「どうして?」
アムは一度、動きを止めた。その背中は、どこか寂しげに見えた。
「別に。そういう状況が多かっただけ。」
ロミーはそれ以上深くは聞かなかった。ただ、その“慣れ”の裏に何か事情が隠れているのだと、胸の奥に重たいものが沈む感覚だけが残った。アムの言葉は、彼の過去に深く刻まれた傷を物語っているようだった。
アムは目を伏せてウィッグを袋にしまい、箱の奥に入れる。
「今日は助かった。ありがとな。」
そう言うと、少しだけぎこちない笑顔を見せた。
ロミーも「うん・・・。」とだけ返し、夕闇の静かな部屋に、ふたりの間だけ重たい沈黙が流れていた。
「でも女装趣味って評価最悪だからね?可愛いから許すけど!!可愛いから!!」
「やめろ!写真を撮るな!!」
ロミーの正気はもたなかった。冷静になるまで数時間かかり、彼に目を向けることすら当分できなかった。
ロミーは服ごとアムに与え、彼を解放した。染料パックは勘弁してやろうと心の中で思う。
しかし、以前のあの感じからして、彼は親がいない・・・孤児だ。
「それも、虐待を受けていたタイプの」とロミーは直感した。
変な整い方だ。親の愛はあったが、それは歪んだ愛情だったのだろう。親が女の子を希望し、気に入らなかったからと殴り蹴り、ヒステリックになってああなったのかもしれない。
普通彼の様な性格なら商店街を通ると思えない、自己肯定感が磨り減って人目を避けるはずだ。可愛さを抜きにしても細身で心配になる。だが、彼は愛情と被虐からくる憐憫や心配という視線の区別ができないのだ。
ロミーは考える。
「逆にいっそ女装に振り切らせ、嘘で覆い隠し、人格を切り離すか。」
それも一つの手だ、言わば人格的自殺。心が無いと言われても仕方あるまい。彼に宿る価値はそれで失われないし、それだけの犠牲を払う価値はある。
「・・・。」
通知音が連続で響く。
「視聴者DMか、感想系は事務所経由になっているからな・・・うーん?」
そう思って内容をのぞく。余計な話はほとんどなく、思考が回り切っていない。だが、一つだけ分かった。最も伝えたいのは・・・。
「神を引いたが何も起きない。」
という事らしい。それは、資産家の言葉と重なり、ロミーの胸に重くのしかかった。
翌日、学校帰りに無理矢理手を引かれた。どうやら緊急らしい。それも厄介なタイプの。夕暮れの気配が部屋の奥まで静かに染み込んでいた。アムはソファに横たわり、窓の向こうの淡い色に目を細めていた。机の上には冷めきった紅茶と、ロミーのスマートフォンが転がっている。いつもは気ない配信やコメントに軽口を叩く彼女だが、今は言葉を飲み込んでいるようだった。
「ねえ、アム。」
不意にロミーが口を開いた。その声色には珍しく迷いがあった。
「先に言っておくと私達、関係ないわ。でも、少し面白いかもね。」
「正直だな。焦らして弄ぶ性格かと思った。」
「昨日はね、可愛いからね。これ、見て。」
スマホを渡され、アムは画面に目を落とした。
DM欄には、いくつかの短いメッセージが並んでいる。
『配信、いつも見ています。突然ごめんなさい。相談したいことがあります。』
カーソルをさらに下にして、再び確認する。
『神を引いたのに、何も起きませんでした。』
ロミーを呼び出し、見間違いか確認したが、どうやら事実らしい。
『おかしいのでしょうか?誰にも言えなくて・・・。』
アムは眉を寄せた。
「神引きで“何も起きない”って、どういう意味なんだろう。」
「わからない。」
ロミーは珍しく弱気な声で続ける。
「こういうの、ほっとけないんだよね。」
「頑張ってリピートしてほしいからな。」
アムは小さく頷いた。その口元には、薄く笑みが浮かんでいる。
「会って話、聞いてみるか。」
「うん、直接会う方が早いよね。」
二人は簡単に返事を打ち、待ち合わせの場所と時間を決める。ロミーの表情には、どこか落ち着かない影が浮かんでいた。
数時間後、駅前のカフェ。
人通りが少しずつ減り始め、店内は静かなざわめきだけが満ちていた。
「元々バイト先だったの。焼肉屋の居抜きだから、ほぼ個室よ。」
ロミーは髪を整え、いつもの快活な笑顔を作ろうとするが、どうにも顔が引きつる。緊張が彼女の表情を強張らせているのが見て取れた。アムは無言のまま、扉に目を向ける。
「この格好で電車乗りたくねぇんだけど。」
アムは不満そうにつぶやいた。
「もう来たんだからしょうがないじゃない。似合ってはいるわよ。心にも衣服と鎧が必要そうね。」
ロミーはからかうように返す。
「着替えるためのヴェールは最低限欲しい。」
「石鹸を泡立てる網で我慢しなさい。」
やがて、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、年齢より少し幼く見える少女だった。制服の袖をきつく握りしめ、何度もあたりを見回している。その視線には、明らかな不安と戸惑いが浮かんでいた。
「別の学校か?」
アムは静かに観察する。
「隣の市の子ね。塾のバッグはこの辺りのかしら。」
ロミーが補足する。
「県に展開している塾だな。教師がまともな部類らしい。具体的に言うと黄〇ャートまでしかオススメしない。」
「本当にまともだ。というかアムって結構本好きよね。」
「家族が馬鹿なお陰で捨てていったからな。」
アムは一旦姿勢を整える。実際にそうかは分からないが、反社みたいな格好をした鳶職の愉快なおっちゃんがいる店は、中々入りにくいだろう。
「あのおじ様スポーツ選手もやっているよ。」
ロミーが隣にいる少女に聞こえないように、しかしアムには聞こえるように囁く。
「46で?」
「実際は48らしいわよ。」
「体重なのか年齢なのか分からなくなってきたな。」
聞いていた話と数段階小さな少女に出会った。その幼さに、アムはわずかに目を見張った。
「こんにちは・・・ロミーさんですか。」
声は透き通っている。話すには若干異質で、すぐに聞き取れるほどの特徴があった。
「うん、来てくれてありがとう。」
ロミーが柔らかく返す。アムも軽く会釈した。彼の内心は「話すのはいい、これ以上は関与したくない」と叫んでいた。
少女は二人の前の席に腰を下ろし、肩をすぼめたまま視線を落とす。手元のスマートフォンをぎゅっと握りしめたまま、言葉を探しているようだった。しばらく沈黙が続いた。重苦しい空気が三人を包む。
アムが口火を切る。
「相談っていうのは、『神引き』のこと?」
少女はおずおずと頷いた。
「・・・はい。神を引いたんです。でも・・・何も起きなくて。」
「何も起きない、って?」
ロミーが優しく促す。その声には、彼女自身の不安も混じっているようだった。
少女は、少しずつ語り始めた。
「みんな、神を引いたら何かしら変わるって言っています。願いが叶ったり、生活が楽になったり。でも私には・・・何も、変わらなくて。それどころか・・・何かいる“気配”だけは感じるのに、動きも、声もなくて・・・。」
少女の手が震えていた。その震えは、彼女の心の奥底にある恐怖を物語っていた。
「怖かったの?」
アムが静かに尋ねる。その一言に、ロミーは内心「(片腹痛くなるわね。配信といい、猫被りで猫耳メイドを出せる実力は、見習いたいものだ)」と感心する。
「・・・はい。でも、誰にも話せなくて。もし自分だけがおかしいなら、もっと怖いと思って・・・。」
少女の声が細く揺れた。ロミーもアムも、その言葉を遮らず、じっと耳を傾けていた。沈黙が再び三人の間に落ちる。外では人々の足音と、暮れかけた夕陽が世界を静かに包み込んでいた。
カフェの空気は、徐々に重たくなっていった。
ロミーは、少女の表情と手元を静かに見守っていた。そして、奢りで注文したホットサンドをできるだけ多く口の奥に入れる。
(食べすぎよ、バカ)とロミーはアムに目配せする。
(仕方ないだろう、焼肉設備を利用した肉が美味いからな)とアムは無言で返す。
「そっか・・・怖いよね。みんなが“神を引いたら何か変わる”って言っているのに、自分だけが違う気がしたら、余計に不安になるよな。」
少女は顔を上げ、かすかにロミーを見た。その目に、微かな希望の光が宿る。
「・・・ネットで調べても、誰も“何も起きない”なんて言ってなくて。本当は・・・自分が何か悪いことしたんじゃないかって思っちゃって・・・。」
「それは無いでしょうね。経験者としても。」
アムが断言する。
「答えが出ているかどうか次第・・・誰相手のものか迷っているとか?」
アムはしばらく考えてから、率直に尋ねる。
「その“気配”って、どんな感じ?」
少女は、少し言葉を探してから答える。
(神の種類も知らない・・・とりあえず、ノーヴァではないな。)とアムは冷静に分析する。(ロミーは結婚したい相手がいない中で、結婚を扱う神のファミリオを引いた可能性が高いと示唆している。リリアという恋愛の神もいるが、肉体相性のリリア、生活相性のファミリオと似ているようで異なるのだ。)
(ロミー的にはどうだ?)とアムはロミーに問いかける。
(友情の神・・・ミティね。あの子はフレンドリーだから、そういう感じじゃないのよね。)とロミーは答える。
(心当たり自体はある。)とアムはさらに深く考える。
(多分同じ答えだけど、早急に出すべきではないわ。)とロミーはアムを制する。
(分かっている、一旦見守ろう。)アムは頷いた。
「・・・ずっと、そばにいるんです。目には見えないけれど、気配だけは感じる。でも、話しかけても返事はないし、動きもしない。ただ、いるだけ・・・。」
少女の声は、まるで宙に漂う空気のようだった。
ロミーが尋ねる。
「石は置いてきた?」
少女は首を横に振る。石とは祈りを込めてガチャを引くための石だ。アムもロミーもアクセサリーとして気に入っているので必ず持っている。とはいえ、いつ頃から持っているかは分からない。本当に突然持っていた感じで、記憶にさっぱり存在しないのだ。
「それは・・・できなかったです。なんとなく・・・捨てても、気配が消えない気がして。むしろ、自分が“おかしくなった”みたいな感じで・・・誰にも言えなくて、でもずっと怖くて。」
アムは、自分のカップを一度指で回しながら、言葉を選ぶ。違和感がある。何か、以前似た体験をした気がするのだ。それが思い出せない。
「たとえば、何か願ったりした?神を引く前に“こうなりたい”とか、“何かしてほしい”とか思ったことは?」
少女はしばらく考え込む。
「特別な願いはなかったです・・・。みんなみたいに“幸せになりたい”とか、“いいことが起きてほしい”とは思ったけれど、誰かを恨んだり、羨んだり・・・そういうのは一度もなくて。」
ロミーは小さく頷いた。その表情には、少女への同情と、どこか困惑の色が混じっていた。
「たとえば、ちょっとでも“誰かが嫌い”とか“あの子みたいになりたい”とか思ったこと、ない?」
少女は静かに首を振る。
「本当に・・・そういうの、分からないんです。
嫌いな人も、妬ましい人もいない。みんなが“普通に”抱く感情が、自分だけどこか足りてない気がして・・・。」
アムは少女の言葉を反芻した。その純粋さに、彼は複雑な感情を抱く。
「じゃあ・・・神は、何をすればいいか分からなくて“いるだけ”になったのかな。」
彼は独り言のように呟いた。少女は再び視線を落とし、小さくつぶやく。
「どうして、自分だけこんなふうなんでしょうか・・・。神様に何かお願いしなきゃいけないのに、何も思い浮かばなくて、ただ怖いだけで・・・。」
ロミーがそっと声をかける。
「それは、悪いことじゃないと思うよ。
世の中には“何も望まない”ことの方が、ずっと難しいんじゃないかな。」
少女はしばらく考えたが、答えは出なかった。彼女の瞳には、まだ混乱の色が宿っている。
(脳の機能が異常なんじゃないか?考えないというのはいくらなんでも・・・。)とアムは合理的に推測する。
(映像の録画で確認するわ・・・一旦神へのコンタクトをとってみましょう。留まっているなら可能性としてはあり得ます。)とロミーは冷静にアムに伝える。
(コンタクト?・・・そっちはそういうことが可能だったのか?)アムは驚きを隠せない。
(友情は広く浅くか狭く深くの二択よ。幸福感で気を緩めて、本心を聞き出すの。だから神の種類次第で可能だと思うわ。)
(追跡するか?)
(アムは皆振り返る程度に目立つから、着替えてからね。)
カフェの窓の外では、空が徐々に紫色へと変わり始めていた。
三人の影だけが、テーブルの上で静かに揺れていた。中では小さなBGMと食器の音だけが、時折三人の沈黙を埋める。少女は自分の手をじっと見つめている。指先は冷たく、震えていた。
ロミーは穏やかな声で続ける。
「たとえば、その“気配”に何か伝えようとしたことは?」
少女は小さく首を振る。
「怖くて、あんまりちゃんと話しかけたことがないです。お願いも、謝罪も・・・どうせ何も届かないんじゃないかって思って。友達を作るのは得意ですけれど・・・やっぱり、失うのは怖くて・・・。」
アムはゆっくりと言葉を継ぐ。その言葉には、少女への共感のようなものが滲んでいた。
「その気配、怒ったり悲しんだりする?」
少女は黙ったまま考え込む。
「・・・分からないです。ただ、なんとなく・・・こっちの気持ちには反応しない感じです。自分がどれだけ怖がっても、泣いても、そばにいるだけで・・・。もしかしたら、本当に“ただいるだけ”なのかもしれません。」
ロミーは少し考えてから、少女の肩に視線を落とす。
「“誰か”がそばにいるのに、何も変わらない。それが神様だっていうのも、なんか・・・やりきれない。」
少女はぽつりとつぶやく。その声には、微かな絶望が混じっていた。
「みんな、“神様がいるから変われる”って言っています。でも、自分には、そもそも変えたいものがなかったのかもしれません・・・。それがいけなかったんでしょうか。」
アムはその言葉を受けて、優しく返す。その声は、驚くほど温かかった。
「いけないことなんてない。誰かを恨まなくても、羨まなくても、本当は“普通”じゃないかもしれないけど・・・でも、君の気持ちは君のものだよ。」
少女はかすかに笑いかけるが、すぐに俯いてしまう。その目には、まだ戸惑いの色が残っていた。
「今まで、誰にも話せなかったです。親にも友達にも、言っても分かってもらえない気がして・・・。こうやって話を聞いてくれて、ちょっと楽になりました。」
ロミーはやわらかな声で頷く。
「何も起きなくても、不安にならなくていい。
“おかしい”のは君じゃなくて、世の中や神様のほうかもしれないよ。」
少女の瞳には、ほんの少しだけ光が戻る。店の外では、夜の気配が街を包み込み始めていた。電灯がひとつずつ灯り、通りを行き交う人々がそれぞれの物語を歩いていく。
テーブルに残った三人の影だけが、それぞれに違う未来を思い描いて、静かに伸びていた。
カフェを出ると、外の空気は一層ひんやりしていた。少女は両手でスマートフォンを抱え込むように持ち、俯きながら歩き出す。アムとロミーはその後ろを静かに並んで歩いていた。
駅までの帰り道、信号待ちのたびに少女は何度も後ろを振り返った。
「今日は、ありがとうございました。」
声は小さく震えていたが、どこか張り詰めていたものが少しほどけているようにも見えた。
ロミーは、少女の横に並ぶ。
「困ったことがあったら、またメッセージしていいから。」
そう言って、スマートフォンの画面を見せる。
少女はこくりと頷いた。
アムは夜空を見上げる。
都会の光のせいで星は見えないが、かすかな雲の切れ間に淡い月だけが浮かんでいた。
その下で、自分たちはどこに向かって歩いているのか。ふと、そんな考えが浮かんだ。彼の胸には、得体の知れない不安が広がっていく。
「自分だけがおかしいと思い込むのは、もうやめます。」
少女がぽつりと言った。その言葉には、微かな決意が感じられた。
「何も起きなくても、それでも、生きてていいんですよね。」
ロミーは少し驚いた顔で、すぐに優しく頷いた。
「もちろんだよ。何も起きなくても、変わらなくても、生きているだけでいい。」
駅の明かりが近づくと、少女は二人に頭を下げた。
「ありがとうございました。お二人も、お元気で・・・。」
そして改札へと消えていった。ロミーとアムはしばらくその場に立ち尽くした。静かな余韻だけが、二人の間に漂っている。
ロミーが小さくつぶやく。
「何も起きないって、ある意味すごいことだよな。本当に“何も望まない”って、きっとすごく難しいことなのに。」
アムはポケットに手を入れたが、スカートだと思い出しすぐに手を抜き、そっと答えた。
「神様も困っただろうな。“何をしてほしいか分からない”っていう人間、たぶん珍しいんじゃないか。」
ロミーはふっと笑った。
「まあ、世の中いろんな奴がいるってことだ。」
二人は歩き出す。
夜風が肩をすり抜け、まだ灯りの消えない街の中へと溶けていった。
歩きながら、アムは小さくつぶやいた。
「誰にも悪感情を持たない人間に、神は何もできないのかな。」
ロミーは答えなかった。けれど、二人の足取りはほんの少しだけ軽くなっていく。月の明かりが、三人の心の上に静かに降り注いでいた。
「それで、神とやら自体は怪しいな。」
アムが沈黙を破る。
「ええ、神を騙る犯罪は聞いたことがあるわ。授業で触れるきっかけになった大規模な誘拐事件、手口自体は同じじゃない?」
「本人の合意で録音アプリは入れさせといた。明日持ち帰って確認よ。」
「分かった、そっちはやっておく。配信はどうする?」
「私だけで十分よ、焦らさないと面白くないでしょ?」
「ソロでも良いぞ、もういい加減明かしたい。」
「ダメよ、五年やってから明かして脳を破壊するの。」
結果的には、五年後に明かすことになった。
「一応、あの先の神の予想は出来ているか?」
「あの子自体は脳の機能障害でしょうけれど、一つ心当たり自体はあるわ。」
ロミーの顔が、わずかに引き締まる。
「人を殺せる神。」
以前、資産家が話した神に関して、情報収集の必要がある。下手すれば、こちらが一番矛先を向けられている可能性すらある。緊張が張り詰め、確実に詰めなければならない。
「そっちに指示は託した。」
アムはロミーの決断を待つ。
「経験則での判断は頼るわ。」
ロミーはウィッグを整え、声も調整し、練習した分を叩きつける。彼女の表情には、並々ならぬ覚悟が宿っていた。
「惚れ込ませれば問題ない。」
それが原因で失敗する可能性もあるが、とりあえずは敵意を抱かせないことが大事だ。しかしロミーはあの変態視聴者を量産した程度に誘惑が強く、警戒されてしまう可能性もある。
できるのは、自分だけだ。ロミーは、アムの言葉の重みをひしひしと感じていた。
翌日。
ロミーは夜の住宅街で息を吐いた。アムと並んで歩く道は、オレンジ色の街灯に照らされている。玄関先の花壇も、どこか冷たく見えた。少女との約束の時間は近い。アムの歩幅が微かに速くなるのを、ロミーは気づいていた。その僅かな変化が、彼の内心の焦りを物語っているようだった。
住宅街の角、制服の少女が両手を前で組んで立っていた。顔はやや下を向き、二人に気づくとおずおずと目を上げる。
「こんばんは・・・今日は本当に来てくれてありがとうございます。」
声は消え入りそうだった。ロミーは微笑んで返す。
「こっちこそ・・・また会えてよかった。」
少女の家は、小さな表札と古びたポストが印象的だった。玄関を開ける音が小さく響き、三人で階段を上がる。少女の部屋は整然としていて、壁際にきれいに畳まれた制服の替えと、小さなぬいぐるみが五つ並んでいた。カーテン越しの月明かりが、部屋の隅に淡く落ちている。ベッド脇の机には、例の石が置かれていた。あの光り方は、アムたちも一度見た光景だ。
アムが椅子を引く。
「この部屋で、“気配”を感じるんだね?」
と声をかける。少女は小さくうなずく。
「はい、毎晩・・・ここで、そばにいる気がして。」
その言葉にロミーはあたりを見渡した。壁にかけられた小さなカレンダーや、ペン立てに差した消しゴムの減り方まで目に入る。彼女の観察眼は鋭かった。
「今はどう?」
とロミーが尋ねる。少女は短く息を吐き、目を閉じて耳を澄ませる。
「・・・います。」
アムは真顔で問う。
「神に話しかけると、何か返事は?」
少女は一瞬ためらったが、机の向こう側の空間に視線を向け、小さな声で言う。
「・・・神様、いますか?」
部屋の空気がわずかに張りつめたようになった。次の瞬間、聞き慣れない声が部屋の隅から返ってきた。
「そんなストレートに返ってくるかなー。」
ロミーがつぶやく。
「ないない。」
アムも首を振る。しかし、機械的な声が響く。
「・・・いるよ。」
「いた。」
男とも女ともつかない、乾いた機械のような声だった。少女は肩を震わせ、アムとロミーも思わず顔を見合わせる。二人の間に、驚きと警戒の色が走った。ロミーは恐る恐る聞く。
「あなたは、本当に神なの?」
と尋ねる。
「神だよ。あなたたちがそう呼んでいるだけだけど。」
その言い方は妙に理屈っぽく、温度がなかった。アムが息を整える。
(普通に返答してくるんだけど?)アムは驚きを隠せない。
(録音の波形がないわ。見間違いか確認したい。)ロミーは冷静に状況を分析する。
「願いは叶えてやらないのか?」
アムは切り出すように問う。
「願いがなければ、叶えることはない。あなたが誰かを憎み、望み、祈るなら、それに応じる。でも、何も求めなければ、何も起きない。」
部屋の空気はただ冷えていくばかりだ。少女は、勇気を振り絞るように聞いた。
「・・・それは、私が悪いの?」
神は一拍置く。アムは、その機械的な存在が何を考えているのか、読み取ろうと試みる。ロミーはポケットから出したお茶を飲み始める。
(茶をしばくな。)アムは内心で毒づく。
「誰も悪くない。ただ“動機”がないだけだ。」
と神は平然と答えた。少女の手がわずかに震え、指がスマートフォンのケースを擦る音がかすかに響いた。
「・・・何かお願いしなきゃ、いけないんでしょうか。」
少女は、神を正面から見据えるように言う。神は淡々と続ける。
「必要があれば、勝手に願うだろう。それまでは、ただここにいるだけだ。」
と言った。その声に感情はなく、部屋の空間に妙な“重さ”だけが積もっていく。
アムはごく小さく息を吐く。
「本当に・・・普通に話が通じるんだな。」
とつぶやいた。ロミーも思わず頷く。その空間には、人間と神というより“説明のつかないもの同士が対話してしまっている”異様さと、言葉が現実をすり抜けていく感覚だけが残っていた。
少女の部屋に重苦しい静寂が降りる。ロミーはカーテンの隙間から夜の外を一瞬だけ覗く。
「この気配、普段もずっと?」
少女はうなずき、机の上のメモ帳に目を落とす。
「はい。寝る前も、朝起きても、ここにいます。誰かに見られている気がして・・・慣れません。」
「でしょうね。」
アムは壁際の棚に目をやりつつ、
「今まで願ったこと、ひとつも思い浮かばなかった?」
と問いかけた。少女は少し黙って考えた。
「みんなが“幸せになりたい”“楽になりたい”って願っているのは知っています。でも自分には・・・何も。欲しいものが分からなくて。」
ロミーは椅子の背に寄りかかり、つかぬ質問を投げかけるように言う。
「じゃあ誰かを羨ましいとか、許せないって思ったことも?」
少女はまた静かに首を振った。
「本当に・・・そういうの、ないです。友達もクラスの子も、羨ましいと思ったことも、憎いと思ったこともありません。自分が何か足りないのかも・・・とずっと思ってました。」
アムは机の端を指で軽く叩く。その音は、張り詰めた空気に小さく響いた。
「じゃあ、さっきの神は何を待っているんだろうな。」
部屋の隅で、神の声がふわりと返る。
「“人間は誰かを欲しがり、誰かを恨み、何かを求める。その結果が祈りとなる”。それがないなら、私はただ“在る”だけ。」
少女が少しうつむきながら、何か悲痛な顔をしながら問いかける。
「このままだと、ずっと何も変わらないんでしょうか。」
「変わらない。君が望まない限り、私は動かない。」
神の返答はまるで自動音声のように感情がなかった。
(希薄な感じね。願いとか無かったせいで周囲にあれこれ言われたタイプかしら。)とロミーは少女の過去を推測する。
ロミーは不意に息をつき、少女を見つめる。
「でもさ、誰にも何も言えず一人で抱えてたら、いつか壊れちゃうよ。」
少女は、少しだけ目を見開いた。その言葉が、彼女の心に響いたようだった。
「話を聞いてもらえるだけで、少し楽になりました。」
その声にはほんのわずかな温度があった。
「視聴者がせがんでいるみたいな、キスとかでもいいよ。」
アムは、からかうように言う。
「ゆりりん私に何させようって?」
ロミーが呆れたように返す。
「やっぱ聞かなかったことにしといて。」
アムは窓の外の夜空を眺める。
「おかしいのは君じゃないかもな。世の中や神様の方がよっぽど分からない。」
少女は小さく微笑む。
「ありがとうございます。こんな話、誰にもできなかったので・・・。」
部屋の時計が静かに時を刻む。カーテンが微かに揺れ、部屋のどこかで神がただ静かに在り続けている気配だけが消えずに残った。
アムはしばらく沈黙したまま、少女の机に置かれた本やノートに視線を滑らせる。彼の目は、何かを探しているようだった。
「君は、今まで本当に誰も憎んだり妬んだりしたことがないんだな。」
少女は困ったように、けれどどこか誇らしげにうなずいた。
「はい・・・多分、自分だけちょっとおかしいんだと思ってました。」
ロミーが神に向かって問いかける。
「ねえ、神様。君は“誰かの強い感情”がないと何もできないって言ったけど、もしこの子みたいな人間ばかりだったら、君はずっとここにいるだけなの?」
神の声はやはり淡々としていた。
「そうなる。私は“望まれなければ、ただ在る”。君たち人間が動かなければ、私は何もしない。」
アムは、冷蔵庫の音や廊下の遠い生活音を耳で拾いながら、「思っていた“神様”ってイメージと違う・・・。」とつぶやく。
「無関心なだけ、まだ優しいのかもね・・・人間だって興味ない相手には何もしないし。」
ロミーは苦笑するが、まだ本題まで現時点で辿り着けていない。ロミーに聞いてみたが、合意を拒否する。少女が離れてからと言いたげだ。
少女がおそるおそる神に質問する。
「私が今、何か望んだら・・・本当に何でも叶うんですか?」
神は即座に返す。
「できることとできないことがある。“祈り”は現実の枠に縛られている。けれど、誰かを妬む・憎む・強く求めるなら、私はそれに応じる。」
アムは腕を組むと、胸があるかないかをロミーに指摘されるような目線を向けられ、すぐに腕を下ろす。
「じゃあ・・・結局、人の中に“願い”や“憎しみ”がないと、神ってただの空気なんだな。」
「その通りだ。私は“動機”に従って動く仕組みでしかない。」
と、さらに機械的に繰り返す。
(妬み・・・か。誰かよりも良くなりたいという願いもある。それが自分に対しての場合もあり得る・・・とはいえ、この一件は質が違う。)とアムは深く考える。
警戒は怠らないが、混乱が徐々に集まり始めている。神が限りなく黒く、怪しい。人を殺せる神であることに間違いはない。それが、この中のシチュエーションで一番信頼できるからだ。
ロミーが少女に微笑みかける。
「でも、今のままで困ってないなら無理に何か願う必要ないよ。君が無理して誰かを羨ましがったり、憎んだりしなくていい。」
「はい。」
空調の音だけが静かに響く。アムは机に肘をつき、ロミーは軽く椅子を揺らす。神はただそこに“存在”し続け、誰の感情も揺らさずに静かに漂っていた。
しばらく会話も尽き、部屋の空気はまた静かに重たくなっていった。少女は自分の膝に手を置き、何度も指を組み直す。
「私、これからもこの神様と一緒にいなきゃいけないんでしょうか。」
その声は、どこか決意と諦めが混ざっていた。
ロミーは、優しくも真剣な目で少女を見た。
「無理に変わろうとしなくていいよ。もし“誰かのために”とか“自分のために”って思えることができたら、その時また考えればいいんじゃない?」
「分かりました。しばらく、このままでいてみます。」
少女は決意から思考へと戻し、再び頭から考え込んだ。そして一度扉の向こうで深呼吸して安堵したようだった。
(今の内に、一つ質問する。)アムは神に向き直り、脚を組まずに聞く。
「君はこの子のこと、どう思う?」
「私はただ“存在”している。君たち人間がどう思うかに興味はない。」
と事もなげに言う。そのあまりの無関心さに、ロミーは小さく息を吐いた。
「正体はその子の前では明かさない、お願いしていい?」
ロミーが神に問いかける。
「分かった、受け入れよう。だが、願いが果たされるまではその手が首に掛かっていることを忘れるな。」
神の言葉に、ロミーはわずかに顔を強張らせる。
「あの子にそういう旨の話をしないでよ。」
戻ってきた少女はゆっくりと立ち上がり、机の上のスマートフォンと石を手に取る。
玄関先に進み、神も姿を消し、一通り片付いたところで会話が終わる。
「今日は来てくれてありがとうございました。本当に、少しだけ安心できました。」
ロミーとアムも立ち上がり、部屋の出口で振り返る。
「また何かあったらいつでも呼んで。絶対に一人で抱え込まなくていいからね。」
三人が廊下に出ると、家の中は静まり返っていた。玄関のドアを開けて夜風が入り込む。外に出ると、遠くで犬の鳴き声と車の音が交じっていた。
少女は少しだけ背筋を伸ばした。それでも小さいと、アムは頭を撫でてやろうと手を伸ばす。
「私、貴女よりも年上です。」
少女の意外な言葉に、アムは手を止める。
「えっ・・・?」
ロミーは笑って解説する。
「その子高校三年生よ。受験勉強の疲弊で幼児退行しているけれど。」
「四歳くらい年上?」
アムは驚きを隠せない。
「そうね。」
ロミーは頷く。
「私、しばらくこのままで大丈夫な気がします。」
少女が微笑んだが、アムとしては何も大丈夫じゃないと内心で思った。ロミーは頷き、アムも静かにその姿を見守り、家から一歩一歩遠のく。
「人間の願いも、神様の沈黙も、どっちも簡単じゃないよな。」
アムがぼそりと言うと、ロミーは振り向く。
「でも、今日のアムを見てたらちょっとだけ希望が湧いてきた気がする。」
「もう少し見る目は鍛えておくべきだと思うぞ。」
小さく笑ったロミーは、月明かりで魅力的だ。配信で皆が見ている彼女は、こういう姿なのだと、アムは改めて感じた。
夜の街に三人の影が伸びていく。家の窓に戻った灯りが、少女と神の部屋をそっと照らしていた。
夜、月明かりは漏れ出るように地に降り注ぐ。
いくら歌の題にされようと、そこに陰りはない。
涙と共に、アムは祈り続ける。
断熱材のあまり入っていない、冬は極寒で夏は猛暑の家。一人しか住むことはなく、動物たちの住処にもなってしまった家。
しかし、血や黒さはない。
だが、妙に香ばしいにおいがしてしまう。
祈り続ける、夜に、安心できず祈り続ける。出生が悲惨なほど神は救う・・・その正体は、無意識下で祈り続けることだ。寝言は大抵無意味だ。意識は水底に落ちて、すぐに目が覚める。
傷の痕が、膨らみが、呪いのように自分を締め付ける。
「・・・。」
アムは、息苦しさに胸を押さえる。
ロミーは、彼にも盗聴器を仕掛けていた。
彼はいつ死ぬかが分からないような、苦しんでいる人間だ。
彼の寝言は、何度か確認したが・・・ある一人の人間のことだ。
イブ・・・アダムと対比されたような名前だが、何か目的があるのだろうか。熱心な宗教家か。
「イブは彼の妹・・・か。」
それだけは確かだった。
寝言の音声を必要な部分以外カットして推測する。そして、マネージャーに診断を貰おう。彼は大事な手駒だ。慎重に、事細かに扱わねばならない。ロミーの瞳には、アムへの複雑な感情が宿っていた。
妹は、朝がとても早い子だった。目覚ましが鳴る前に、眠たげなまま起きてくる。カーテンを開けて、寝ぼけた自分の顔をのぞきこむ。
「また寝ている。もう七時だよ。」
とあきれた声。起き上がれない自分の布団を、容赦なくはがしていく。自分より小さな手なのに、いつも力が強いと感じていた。顔をしかめながらも、妹はすぐに口角を上げて笑う。不思議と、それだけで眠気が少しだけ和らいだ。
そんなに真面目な癖して、妹の髪は毎日寝癖がついていた。後頭部がいつもぴょんと跳ねて、本人は気にしていない。母が櫛を持って追いかけてくると、逃げて押し入れに隠れる。
小さな声で「今日は結ばなくていいってば」と反抗する。でも、結局は櫛を入れられて、膝の上でおとなしくなっていた。
妹の食べる朝ごはんは、白ご飯と味噌汁が定番だった。たまにパンだと、バターを塗りすぎて叱られていた。食べるのが遅くて、よく学校に遅刻しかけた。ランドセルのポケットには、よく小さなお菓子を入れていた。怒られるのに、こっそり分けてくれる時もあった。
妹は、学校ではいつも笑顔だったらしい。友達と一緒にふざけて、廊下を走って先生に叱られる。
帰ってきてから、その出来事を楽しそうに報告してきた。自分は、その話を半分しか聞いていなかった気がする。ゲームをしながら「ふーん」と答えると、拗ねて部屋を出ていく。
しばらくして、お菓子を持って戻ってくる。自分のそばに座って、静かにテレビを見ていた。
妹は、テストでよく失敗していた。隠れて泣いたあと、開き直って「次は絶対満点だから。」と宣言する。落ち込んでも、次の日にはけろっとしている。そんな妹の強さを、羨ましいと思ったこともあった。
妹の部屋は、少しだけ散らかっていた。机の上には、手紙や折り紙や、使いかけのノートが山になっている。鉛筆が短くなるまで使い込まれていて、キャップだけ新品だった。窓際のぬいぐるみには毎日話しかけていたらしい。「この子がいないと眠れない。」と言って、何度も洗ってほしがった。
妹の笑い声は、家の中で一番大きかった。母に怒られても、父に注意されても、最後は自分で笑いに変える。自分がどんなに無愛想にしても、妹だけはめげなかった。「お兄ちゃん、なんでそんな顔なの?」と、よくのぞき込まれた。自分は何度も「本を静かに読みたい。」と返した。それでも、妹は気にしなかった。
妹は、普通の子だった。どこにでもいるような、明るくて、わがままで、泣き虫で、優しい子だった。でも、今となっては、その“普通”がどれほど大切だったのか分かる。あの時間、あの光、あの温度が、二度と戻らないと知ったのは、ずっと後になってからだった。
あの日も、何も特別じゃなかった。妹は朝から普通に振る舞っていた。朝食はろくに用意されていなかった。母は寝室で寝ていて、父はもういなかった。妹が台所で冷たいご飯をよそい、自分にも分けてくれた。「お兄ちゃん、早く食べなよ。」と、静かに言う声。
自分は眠そうにそれを食べ、妹は洗濯物を回していた。親がしてくれないことを、小さな手で黙々と片付けていた。ランドセルを自分で用意し、制服のほころびも自分で縫っていた。
家の中は、朝からどこか冷えていた。妹の姿だけが、少しだけあたたかかった。妹は母の部屋の扉を見て、何も言わずに靴を履いた。
父の靴は既にない。プライベートの靴もだ。
「じゃあ、いってきます。」
あの言葉だけが、家の中に残った。
昼過ぎ、家に誰もいなくなった。自分は家でぼんやりと漫画を読んでいた。妹はまだ帰ってこない。
夕方になっても妹は帰らなかった。近所の大人がドアを叩き、「大丈夫か。」と声をかけてきた。「急に倒れて・・・。」という説明が、うまく耳に入らなかった。
知らされていたのは、「突然死」という言葉だけ。倒れた場所も理由も、誰にも分からなかった。救急車が呼ばれていたが、何もできなかったという。即死だった、原因不明の即死。
母は、何かを叫びながら家を飛び出していった。父は母親に痺れを切らし、ずっと連絡を絶っていた。自分はただ家の奥で、部屋の壁をじっと見つめていた。
妹の部屋に入った。ぬいぐるみが落ちていた。ベッドのシーツに小さく丸められた制服。置きっぱなしの水筒と、折り紙で作った花。
誰も妹のことを見ていなかった。家族の誰も、本当に妹のことを考えていなかった。自分も、結局、何も守れなかった。
愛も心血も、何も。ただ、その夜だけは、二度と明けなければいいと思った。
それからの日々は、何も感じないまま過ぎていった。妹がいなくなった部屋の扉は、誰も開けなかった。家族は妹の死骸以外なく、心も冷え切っていた。
朝、妹の声がしない。リビングも、廊下も、静かすぎて息苦しかった。妹のノートや持ち物は、誰も片付けようとしなかった。ぬいぐるみが埃をかぶっていくのを、ただ見ていた。
自分だけが、家のどこにいても「独りぼっち」だった。妹が残した物を手に取ることもできなかった。声を出そうとしても、喉が詰まるだけだった。
あの日から、夜になるのが怖くなった。暗い部屋の中で、何も見えない天井をじっと見ていた。眠れなくなった。眠ったとしても、何度も妹の名前を呼びながら目を覚ました。
誰も、自分のことを気にかけてくれなかった。家族が「家族」ではなくなった。自分の居場所は、どこにもなかった。
ただ、妹の声や笑顔を思い出すだけだった。思い出せば思い出すほど、苦しくなった。自分が、何のために生きているのか分からなくなった。そして、誰にも「ただいま」と言えないまま、帰る家だけが残った。
腐る前にと、妹の死骸は回収された。
そして、次の日に・・・自分は彼女に出会った。
ロミーはスマートフォンを持ったまま、部屋の隅で足を組んだ。画面の通話表示は、企業ロゴとシステム担当者の名前。
「配信補助の件だけど、前の動画のあの子さ、ちょっとね。」
受話器の向こうで、年上の女性がため息をつく。「また誰か誑かしたのね、ロミー。」
「まあ、そうなんだけど。あいつ、普通の無気力とは違う気がしてさ。妹を亡くしているって話、聞いた?」
「経歴には載っていなかったけれど・・・親も、ちょっと問題ある家みたいね。あの母親、結構有名な学校を出ているわ。」
「ああ、聞いたことある。有名大学への推薦枠があるところね。」
「そういうところ、隔絶されるせいで危険思想がたまりやすいのよ。ネットと違って制限されることなく、しかもより影響されやすく。」
「音楽家としては優秀だけど・・・って感じ?」
「それは後の話。当時は才能だけはある普通の子だったけれど、蹴落とされちゃったのよ。オーストリアもモスクワも、切符逃しちゃってね。そこで危険思想に染まって、成功して自信を持って、最終的に業界追放。音楽以外に取り柄がないどころか、音楽以外はマイナスよ。」
「詳しいですね。」
「私が切符取った側だからね。」
ロミーは壁に背を預ける。
「家であんまり話もできてなかったみたい。自分で何とかしなきゃいけない状況が長かったんだと思う・・・。」
「自立と孤立は違うのよ。」
女性は事務的な声で言う。
「“突発的な喪失体験”の後って、感情が止まるケースも多い。子供の頃から家庭で疎外されていた子は、特に。」
「やっぱり、愛着障害みたいな・・・。」
「それもあるし、“複雑性PTSD”なんて診断も増えているわ。普通の無気力じゃなくて、“喪失から何も始められない”って感覚。心理的安全がなかった子の特徴ね。」
ロミーは、静かに同意した。
「人と距離があって、自分から“お願い”とか“助けて”とか絶対言えない。逆に自分を責めて、全部引き受けようとする癖もある。」
心当たりはあった。しかし、彼は克服しようとしているのか、それ以前に苦しんでいるのか・・・分からない。女装を嫌がる癖に、何度も続ける。この時だけは、傷つけられないと。アムのそんな心の声が、ロミーには聞こえるかのようだった。
「正直、今の配信界隈じゃ、そういう子はどんどん増えている。SNSも“居場所”になるどころか、余計に孤立感を増幅させる場合もあるし。」
ロミーは天井を見上げる。
「これからどうすればいいんだろうな・・・。」
マネージャーは「大人が手を差し伸べても、簡単には回復しない。けれど、“一緒にいるよ”って伝え続けることしかできないのよ。」と淡々と語る。
ロミーは、画面越しの自分の映り込みをぼんやり眺めた。
「なるほどね。まあ、やれることをやるしかないか。」
「それが一番よ。」女性の声は少しだけ優しくなった。
「話を聞く限り推定なら他にも可能よ。今も虐待が続いているなら薬剤性胃腸障害、長期間でしょうからジェネコマスティア、これは訳さない方が良いわよ、彼が気になっているなら。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーはすぐに問い返した。
「他にも性腺機能低下症、肝障害、血栓症・・・薬剤性精神症状とかね。この辺は自殺するとか突然死の要因にもなるから予兆を確認しなさい。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーは再び、食い下がるように尋ねる。
ジェネコマスティアというのは、女性化乳房という症状である。乳腺の発達によるもので、女性ホルモンを促進させなくても起きる場合はある。マネージャーは、それを答えることはない。
「貴女の視聴者に聞きなさい。」
「変態達は一掃されちゃったからいないよ。」
ロミーは、いたずらっぽく返す。
「道理でスパチャの金額が落ちていると思った。・・・分かってて聞いているわね?」
「・・・いや・・・はい。」
ロミーはまだスマートフォンを耳に当てたままだった。
「神関係での喪失ではない?神から与えられた恋人を失うと、よりダメージが大きい・・・というのもあるけれど。」
「金だけみたい。」
マネージャーが続ける。通称・・・神引き症候群。ギャンブル依存症の亜種で、祈りに傾倒し、労働を放棄することだ。心的外傷にはこれが上乗せされ、合併症として知られている。
「リスクやレバレッジも必要ないからと傾倒する・・・動画サイトとかで見るロード画面ね。本当は必要ないけれど、ロードをさせることで面白いものが来るか期待するというのと同じ仕組みよ。」
「SNSや配信で“神引きした”って報告が溢れているけど、あれ本当にみんな幸せになっているのかな・・・。成功体験ばかりが拡散して、失敗や虚無は消されているから・・・。」
「表面上は“夢を見て努力している”ように見せる。でも、実際は“何もしていないのに救われたい”って希望ばかり肥大する。本当に満たされている子なんてごく一部。大半は現実逃避や諦めのサイクルにはまっていく。努力の見せ方を変えたり、逆に才能一つでやった風に見せたり・・・他人により優れるために手段を選ばない輩の集まりよ。」
ロミーは眉をしかめた。
「昔みたいに“努力すれば報われる”って感覚が薄れている。今の子供たち、何も得られなかった時に本当に絶望しそうで怖い。アムも正直、同じ。刹那主義に染まりすぎている。」
「“逆転できるかも”という期待だけが残って、実際には何も変わらない。自己責任論が蔓延して、社会や周囲が手を差し伸べなくなる。逆に“神引きできなかった人”を笑いものにする空気すら出てくる。祈りに確実性がないとしても、信じる者は絶えないでしょうね。良くも悪くも。」
「もし今後、この傾向が社会全体に広がったら・・・?」
ロミーは窓の外の夜景を見つめる。何が一番危ないと思うか、そう問うまでもない。
女性は一拍置く。
「“無力感”の蔓延よ。みんな自分では何も変えられないと思い込む。“他人の運”や“神の気まぐれ”ばかりが話題になって、自分自身や社会への関心がどんどん薄れる。最終的には、“誰かを救う”とか“誰かと一緒に立ち直る”って発想そのものが消えてしまうかもしれない。」
ロミーは無意識に息を飲んだ。
「それって、本当に“救い”なのかな・・・。」
「形だけの救いが広がって、本当の孤立や絶望が見えなくなる。“みんな幸せそうに見えて自分だけが違う”って錯覚が、一番の危機よ。」
「分かった。今できることは、小さいかもしれないけれど、目の前の子供の話をちゃんと聞いてやること、かな。」
「それができる人が、本当に少なくなっている。でも、ロミーならできると思うよ。」
女性の声は、少しだけ温度があった。
ロミーは「ありがとう。」と静かに返し、通話を切ってそのまま画面を見つめていた。
「あの子ならできるわ。」
女性が話す。彼女は昔有名な配信者だったが、会社の不祥事でトラブルになり失踪、その影響から裏方として勤しみつつ、別アカウントでメンバー限定だけは現在も続けている。その立場として、彼女に願いを託す。それは、自分の届かなかった数字だ。
アムは薄暗い自室の窓辺で、外の景色をぼんやり眺めていた。一日が終わっても、心の中はいつまでも重たかった。妹の声や仕草が、ふとした瞬間に頭をよぎる。時々、涙が浮かびそうになるのを必死で堪えた。スマートフォンにロミーからのメッセージが届く。
「今日も配信手伝ってくれてありがとう。疲れてない?」
アムはすぐに返信しようとするが、なかなか言葉が浮かばない。金のおかげで許してはいるが、納得はしていない。
「うん、大丈夫。」とだけ返す。
その短い言葉に、自分でも何かがすり減っていくのを感じた。ロミーは電話越しに明るい声で話そうとする。けれど、アムの声はどこか遠く、上の空のようだった。
「また来週、企画の打ち合わせできる?」
「たぶん、平気。」
アムの返事はいつもより淡白で、少しだけ間が空いていた。電話を切った後、ロミーはしばらく画面を見つめていた。アムの疲れた様子、心ここにあらずの返事がどうしても引っかかった。二人の間に、ゆっくりと沈黙が広がる。以前はすぐに埋められた間が、今はどんどん長くなっていく。まだ会って一週間ではあるが、親密だった。アムは、自分の苦しみをロミーに伝えきれないままだった。ロミーも、どうやって寄り添えばいいのか分からなくなっていた。
日々のやりとりは続いているのに、
心は少しずつ、離れていく。
互いに相手のためを思って動いているつもりだった。だけど、本当の孤独は、誰にも説明できないものだと二人とも気づき始めていた。
夜、ベッドに横になったアムは、天井を見上げたまま眠れずにいた。ロミーもまた、画面越しのアムの沈黙に不安を覚えながら、静かな夜の中に溶けていった。
妹は、朝がとても早い子だった。目覚ましが鳴る前に、眠たげなまま起きてくる。カーテンを開けて、寝ぼけた自分の顔をのぞきこむ。
「また寝ている。もう七時だよ。」
とあきれた声。起き上がれない自分の布団を、容赦なくはがしていく。自分より小さな手なのに、いつも力が強いと感じていた。顔をしかめながらも、妹はすぐに口角を上げて笑う。不思議と、それだけで眠気が少しだけ和らいだ。
そんなに真面目な癖して、妹の髪は毎日寝癖がついていた。後頭部がいつもぴょんと跳ねて、本人は気にしていない。母が櫛を持って追いかけてくると、逃げて押し入れに隠れる。
小さな声で「今日は結ばなくていいってば」と反抗する。でも、結局は櫛を入れられて、膝の上でおとなしくなっていた。
妹の食べる朝ごはんは、白ご飯と味噌汁が定番だった。たまにパンだと、バターを塗りすぎて叱られていた。食べるのが遅くて、よく学校に遅刻しかけた。ランドセルのポケットには、よく小さなお菓子を入れていた。怒られるのに、こっそり分けてくれる時もあった。
妹は、学校ではいつも笑顔だったらしい。友達と一緒にふざけて、廊下を走って先生に叱られる。
帰ってきてから、その出来事を楽しそうに報告してきた。自分は、その話を半分しか聞いていなかった気がする。ゲームをしながら「ふーん」と答えると、拗ねて部屋を出ていく。
しばらくして、お菓子を持って戻ってくる。自分のそばに座って、静かにテレビを見ていた。
妹は、テストでよく失敗していた。隠れて泣いたあと、開き直って「次は絶対満点だから。」と宣言する。落ち込んでも、次の日にはけろっとしている。そんな妹の強さを、羨ましいと思ったこともあった。
妹の部屋は、少しだけ散らかっていた。机の上には、手紙や折り紙や、使いかけのノートが山になっている。鉛筆が短くなるまで使い込まれていて、キャップだけ新品だった。窓際のぬいぐるみには毎日話しかけていたらしい。「この子がいないと眠れない。」と言って、何度も洗ってほしがった。
妹の笑い声は、家の中で一番大きかった。母に怒られても、父に注意されても、最後は自分で笑いに変える。自分がどんなに無愛想にしても、妹だけはめげなかった。「お兄ちゃん、なんでそんな顔なの?」と、よくのぞき込まれた。自分は何度も「本を静かに読みたい。」と返した。それでも、妹は気にしなかった。
妹は、普通の子だった。どこにでもいるような、明るくて、わがままで、泣き虫で、優しい子だった。でも、今となっては、その“普通”がどれほど大切だったのか分かる。あの時間、あの光、あの温度が、二度と戻らないと知ったのは、ずっと後になってからだった。
あの日も、何も特別じゃなかった。妹は朝から普通に振る舞っていた。朝食はろくに用意されていなかった。母は寝室で寝ていて、父はもういなかった。妹が台所で冷たいご飯をよそい、自分にも分けてくれた。「お兄ちゃん、早く食べなよ。」と、静かに言う声。
自分は眠そうにそれを食べ、妹は洗濯物を回していた。親がしてくれないことを、小さな手で黙々と片付けていた。ランドセルを自分で用意し、制服のほころびも自分で縫っていた。
家の中は、朝からどこか冷えていた。妹の姿だけが、少しだけあたたかかった。妹は母の部屋の扉を見て、何も言わずに靴を履いた。
父の靴は既にない。プライベートの靴もだ。
「じゃあ、いってきます。」
あの言葉だけが、家の中に残った。
昼過ぎ、家に誰もいなくなった。自分は家でぼんやりと漫画を読んでいた。妹はまだ帰ってこない。
夕方になっても妹は帰らなかった。近所の大人がドアを叩き、「大丈夫か。」と声をかけてきた。「急に倒れて・・・。」という説明が、うまく耳に入らなかった。
知らされていたのは、「突然死」という言葉だけ。倒れた場所も理由も、誰にも分からなかった。救急車が呼ばれていたが、何もできなかったという。即死だった、原因不明の即死。
母は、何かを叫びながら家を飛び出していった。父は母親に痺れを切らし、ずっと連絡を絶っていた。自分はただ家の奥で、部屋の壁をじっと見つめていた。
妹の部屋に入った。ぬいぐるみが落ちていた。ベッドのシーツに小さく丸められた制服。置きっぱなしの水筒と、折り紙で作った花。
誰も妹のことを見ていなかった。家族の誰も、本当に妹のことを考えていなかった。自分も、結局、何も守れなかった。
愛も心血も、何も。ただ、その夜だけは、二度と明けなければいいと思った。
それからの日々は、何も感じないまま過ぎていった。妹がいなくなった部屋の扉は、誰も開けなかった。家族は妹の死骸以外なく、心も冷え切っていた。
朝、妹の声がしない。リビングも、廊下も、静かすぎて息苦しかった。妹のノートや持ち物は、誰も片付けようとしなかった。ぬいぐるみが埃をかぶっていくのを、ただ見ていた。
自分だけが、家のどこにいても「独りぼっち」だった。妹が残した物を手に取ることもできなかった。声を出そうとしても、喉が詰まるだけだった。
あの日から、夜になるのが怖くなった。暗い部屋の中で、何も見えない天井をじっと見ていた。眠れなくなった。眠ったとしても、何度も妹の名前を呼びながら目を覚ました。
誰も、自分のことを気にかけてくれなかった。家族が「家族」ではなくなった。自分の居場所は、どこにもなかった。
ただ、妹の声や笑顔を思い出すだけだった。思い出せば思い出すほど、苦しくなった。自分が、何のために生きているのか分からなくなった。そして、誰にも「ただいま」と言えないまま、帰る家だけが残った。
腐る前にと、妹の死骸は回収された。
そして、次の日に・・・自分は彼女に出会った。
ロミーはスマートフォンを持ったまま、部屋の隅で足を組んだ。画面の通話表示は、企業ロゴとシステム担当者の名前。
「配信補助の件だけど、前の動画のあの子さ、ちょっとね。」
受話器の向こうで、年上の女性がため息をつく。「また誰か誑かしたのね、ロミー。」
「まあ、そうなんだけど。あいつ、普通の無気力とは違う気がしてさ。妹を亡くしているって話、聞いた?」
「経歴には載っていなかったけれど・・・親も、ちょっと問題ある家みたいね。あの母親、結構有名な学校を出ているわ。」
「ああ、聞いたことある。有名大学への推薦枠があるところね。」
「そういうところ、隔絶されるせいで危険思想がたまりやすいのよ。ネットと違って制限されることなく、しかもより影響されやすく。」
「音楽家としては優秀だけど・・・って感じ?」
「それは後の話。当時は才能だけはある普通の子だったけれど、蹴落とされちゃったのよ。オーストリアもモスクワも、切符逃しちゃってね。そこで危険思想に染まって、成功して自信を持って、最終的に業界追放。音楽以外に取り柄がないどころか、音楽以外はマイナスよ。」
「詳しいですね。」
「私が切符取った側だからね。」
ロミーは壁に背を預ける。
「家であんまり話もできてなかったみたい。自分で何とかしなきゃいけない状況が長かったんだと思う・・・。」
「自立と孤立は違うのよ。」
女性は事務的な声で言う。
「“突発的な喪失体験”の後って、感情が止まるケースも多い。子供の頃から家庭で疎外されていた子は、特に。」
「やっぱり、愛着障害みたいな・・・。」
「それもあるし、“複雑性PTSD”なんて診断も増えているわ。普通の無気力じゃなくて、“喪失から何も始められない”って感覚。心理的安全がなかった子の特徴ね。」
ロミーは、静かに同意した。
「人と距離があって、自分から“お願い”とか“助けて”とか絶対言えない。逆に自分を責めて、全部引き受けようとする癖もある。」
心当たりはあった。しかし、彼は克服しようとしているのか、それ以前に苦しんでいるのか・・・分からない。女装を嫌がる癖に、何度も続ける。この時だけは、傷つけられないと。アムのそんな心の声が、ロミーには聞こえるかのようだった。
「正直、今の配信界隈じゃ、そういう子はどんどん増えている。SNSも“居場所”になるどころか、余計に孤立感を増幅させる場合もあるし。」
ロミーは天井を見上げる。
「これからどうすればいいんだろうな・・・。」
マネージャーは「大人が手を差し伸べても、簡単には回復しない。けれど、“一緒にいるよ”って伝え続けることしかできないのよ。」と淡々と語る。
ロミーは、画面越しの自分の映り込みをぼんやり眺めた。
「なるほどね。まあ、やれることをやるしかないか。」
「それが一番よ。」女性の声は少しだけ優しくなった。
「話を聞く限り推定なら他にも可能よ。今も虐待が続いているなら薬剤性胃腸障害、長期間でしょうからジェネコマスティア、これは訳さない方が良いわよ、彼が気になっているなら。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーはすぐに問い返した。
「他にも性腺機能低下症、肝障害、血栓症・・・薬剤性精神症状とかね。この辺は自殺するとか突然死の要因にもなるから予兆を確認しなさい。」
「ジェネコマスティアって何?」
ロミーは再び、食い下がるように尋ねる。
ジェネコマスティアというのは、女性化乳房という症状である。乳腺の発達によるもので、女性ホルモンを促進させなくても起きる場合はある。マネージャーは、それを答えることはない。
「貴女の視聴者に聞きなさい。」
「変態達は一掃されちゃったからいないよ。」
ロミーは、いたずらっぽく返す。
「道理でスパチャの金額が落ちていると思った。・・・分かってて聞いているわね?」
「・・・いや・・・はい。」
ロミーはまだスマートフォンを耳に当てたままだった。
「神関係での喪失ではない?神から与えられた恋人を失うと、よりダメージが大きい・・・というのもあるけれど。」
「金だけみたい。」
マネージャーが続ける。通称・・・神引き症候群。ギャンブル依存症の亜種で、祈りに傾倒し、労働を放棄することだ。心的外傷にはこれが上乗せされ、合併症として知られている。
「リスクやレバレッジも必要ないからと傾倒する・・・動画サイトとかで見るロード画面ね。本当は必要ないけれど、ロードをさせることで面白いものが来るか期待するというのと同じ仕組みよ。」
「SNSや配信で“神引きした”って報告が溢れているけど、あれ本当にみんな幸せになっているのかな・・・。成功体験ばかりが拡散して、失敗や虚無は消されているから・・・。」
「表面上は“夢を見て努力している”ように見せる。でも、実際は“何もしていないのに救われたい”って希望ばかり肥大する。本当に満たされている子なんてごく一部。大半は現実逃避や諦めのサイクルにはまっていく。努力の見せ方を変えたり、逆に才能一つでやった風に見せたり・・・他人により優れるために手段を選ばない輩の集まりよ。」
ロミーは眉をしかめた。
「昔みたいに“努力すれば報われる”って感覚が薄れている。今の子供たち、何も得られなかった時に本当に絶望しそうで怖い。アムも正直、同じ。刹那主義に染まりすぎている。」
「“逆転できるかも”という期待だけが残って、実際には何も変わらない。自己責任論が蔓延して、社会や周囲が手を差し伸べなくなる。逆に“神引きできなかった人”を笑いものにする空気すら出てくる。祈りに確実性がないとしても、信じる者は絶えないでしょうね。良くも悪くも。」
「もし今後、この傾向が社会全体に広がったら・・・?」
ロミーは窓の外の夜景を見つめる。何が一番危ないと思うか、そう問うまでもない。
女性は一拍置く。
「“無力感”の蔓延よ。みんな自分では何も変えられないと思い込む。“他人の運”や“神の気まぐれ”ばかりが話題になって、自分自身や社会への関心がどんどん薄れる。最終的には、“誰かを救う”とか“誰かと一緒に立ち直る”って発想そのものが消えてしまうかもしれない。」
ロミーは無意識に息を飲んだ。
「それって、本当に“救い”なのかな・・・。」
「形だけの救いが広がって、本当の孤立や絶望が見えなくなる。“みんな幸せそうに見えて自分だけが違う”って錯覚が、一番の危機よ。」
「分かった。今できることは、小さいかもしれないけれど、目の前の子供の話をちゃんと聞いてやること、かな。」
「それができる人が、本当に少なくなっている。でも、ロミーならできると思うよ。」
女性の声は、少しだけ温度があった。
ロミーは「ありがとう。」と静かに返し、通話を切ってそのまま画面を見つめていた。
「あの子ならできるわ。」
女性が話す。彼女は昔有名な配信者だったが、会社の不祥事でトラブルになり失踪、その影響から裏方として勤しみつつ、別アカウントでメンバー限定だけは現在も続けている。その立場として、彼女に願いを託す。それは、自分の届かなかった数字だ。
アムは薄暗い自室の窓辺で、外の景色をぼんやり眺めていた。一日が終わっても、心の中はいつまでも重たかった。妹の声や仕草が、ふとした瞬間に頭をよぎる。時々、涙が浮かびそうになるのを必死で堪えた。スマートフォンにロミーからのメッセージが届く。
「今日も配信手伝ってくれてありがとう。疲れてない?」
アムはすぐに返信しようとするが、なかなか言葉が浮かばない。金のおかげで許してはいるが、納得はしていない。
「うん、大丈夫。」とだけ返す。
その短い言葉に、自分でも何かがすり減っていくのを感じた。ロミーは電話越しに明るい声で話そうとする。けれど、アムの声はどこか遠く、上の空のようだった。
「また来週、企画の打ち合わせできる?」
「たぶん、平気。」
アムの返事はいつもより淡白で、少しだけ間が空いていた。電話を切った後、ロミーはしばらく画面を見つめていた。アムの疲れた様子、心ここにあらずの返事がどうしても引っかかった。二人の間に、ゆっくりと沈黙が広がる。以前はすぐに埋められた間が、今はどんどん長くなっていく。まだ会って一週間ではあるが、親密だった。アムは、自分の苦しみをロミーに伝えきれないままだった。ロミーも、どうやって寄り添えばいいのか分からなくなっていた。
日々のやりとりは続いているのに、
心は少しずつ、離れていく。
互いに相手のためを思って動いているつもりだった。だけど、本当の孤独は、誰にも説明できないものだと二人とも気づき始めていた。
夜、ベッドに横になったアムは、天井を見上げたまま眠れずにいた。ロミーもまた、画面越しのアムの沈黙に不安を覚えながら、静かな夜の中に溶けていった。
朝の教室は、昨日と同じようで、どこか違っていた。席に着くと、クラスメイトが数人、スマートフォンを手に集まっている。画面には「無心祈願こそ最強」と書かれた配信チャンネルのタイトルが踊っていた。影響されやすい子供達は、祈りを肯定するか否定するか、それ以前に「どう祈ったか」を努力として飾ろうとする。
「やっぱ、ひたすら祈るのが一番引けるって!」
「でもさ、バイトしながら祈ってたら二体引いたって人もいるよ?」
「えー、それ効率よすぎじゃん!」
彼らの言葉は、誰も否定できない。否定は自分にすら刺さり、苦しめられるからだ。
誰かが真面目な顔で「本当は純粋な想いが大事なんだよ。」と主張する。
別の子が「でも、時間かけて生活に組み込まないと無駄じゃん。」と反論する。
教室の隅で、その言い争いを静かに聞いている自分がいた。無心で祈る人、何かと並行して祈る人。どちらも“信じている”はずなのに、まるで宗派が違うみたいに互いに譲らない。
黒板の前には、先生が遅れて入ってくる。
「お前ら、そろそろ石をしまえ。祈るのは授業終わってからにしろ。」
誰かが「先生、並行祈り派ですか?」と茶化す。教室に笑い声が広がるが、その熱量は本物だった。
廊下でも、休み時間でも、SNSでも。
「無心が正解」「並行が効率」そんな議論が絶えず飛び交う。みんな、自分なりの“祈り方”に自信を持ちたがっていた。
アムはどちらにも加わらず、ただ静かにその空気を見つめていた。自分は何も信じていないわけじゃない。だけど、どちらの主張にも、どうしても違和感が残った。
窓の外では、今日も太陽が淡々と昇っている。“祈り”が、誰かの救いなのか、それとも新しい“対立”の火種なのか。その答えは、誰も持っていないようだった。
ロミーの配信は、今夜も安定した視聴者数を集めていた。カメラの前で彼女はストレッチをしながら、今日のメニューや日常の工夫を紹介する。
「祈るのも悪くないけど、まずは身体を動かさないと何も始まらないでしょ。」
そう言いながら、飾らない笑顔を見せる。
アーカイブのコメント欄には「ランニング配信見たい!」「神引きチャレンジは?」とリクエストが流れる。ロミーはそれを横目に、あえて祈りの話題を深く掘り下げない。
「私はね、ちゃんと毎日トレーニングしているから、確実性のある努力も大事。神頼みだけじゃダメだよ。」
否定をしなかったのは、彼女も同じだった。
それでも、ときどき質問が混じる。
「ランニング配信?自慢?」
ロミーは一瞬だけ間をおいて、「SNSに投稿しない運動なんて価値ある?」と返す。「確実な結果が残せないなら、やる意味減っちゃうし。」
ロミーは、割と強かだ。その言葉についつい笑ってしまう。
視聴者の中には「自分も無駄な努力したくない」「記録もバズもどっちも欲しい」と頷く声が多い。
ロミーは、ストイックに“毎日の積み重ね”をアピールしつつも、「どうせ努力するなら、得をしたい」という合理主義が、彼女の根っこに息づいている。「一石二鳥を狙わなきゃ時代遅れ」とでも言うように。
祈りを口にするのは簡単だ。けれどロミーは、汗や工夫、配信の結果こそ価値があると信じていた。それでも、「努力と効率が両立しない時代なのかも」と、どこかで割り切れないものも感じているようだった。
画面の向こうで誰かが、「ランニングだけじゃなくて、配信で何か新しいことやらないの?」と投げかける。ロミーは少しだけ笑いながら、「考えとくよ、みんなの為に。」と画面に手を振った。
「オートチューンホラーゲームとかどうかな、ユリはオートチューンじゃなくてハーモニカでいこう。」
アイデアで勝利することはない。彼女はそう、発想力で返す。焦らしが上手いというか、視聴者層の変遷をうまく扱えている。アムは、彼女に個人的に尊敬できる理由が詰まっていると感じていた。
最近、教室の空気が微妙に変わってきた。「神引きした」という噂が立った子の周りには、自然と人が集まらなくなった。昨日まで一緒に弁当を食べていた友達が、今日は別のグループと固まっている。あからさまに避けるわけじゃない。でも、視線が合わない。「また今度遊ぼうね」と言いながら、誰もその子の机に近寄らなくなる。
田舎の学校では、目立つ噂話はすぐに静かになる。“神を引いた”と分かれば、周囲の態度は少しずつ冷たくなっていく。表立って「バカ」だと責めるわけではない。ただ、沈黙と距離で線が引かれていく。本人もそれに気付き、だんだん自分から話しかけなくなっていく。
神は何が存在するか分からない。妄想だけが肥大化し、追い詰める。もし人を殺せる神がいるとしたら。
アムは、そういう微妙な空気を肌で感じていた。自分の席の周りにも、最近は誰かが近くに座ることが減った。廊下ですれ違う時、目をそらされたり、無言で足早に行き過ぎる子が増えた。これに関しては、嫌悪ではない。ロミーの方は、話題層が女子高生で、自分よりも年上の「妹」を持った感覚で楽しく見ている。一方でユリ、正確にはアム・・・輪郭とかは結構同じで、声は多少変えているが、そこまで離れていない。兄弟じゃないかな、でストップしてほしいものだ。嫌なあの感じではなく、盛り上がるざわつきと、過ぎた後の気が抜けたと思えば盛り上がっている・・・最初こそ嫌われたかと思ったが、質問を既に何度かされている。
「ネットニュースにあるのか・・・。」
ロミーチャンネルのメンバー・ユリ。普段は男装して学校に通う?・・・とあるが、逆だ逆、何を以て信じていないのだ。
実は、神を引くと文字通り目の色が変わる。少女は黒に、ロミーは赤、自分は黄・・・と、神の色に合わせた色が混じる。変化すると言うよりは加えられ、段々色が混じり合う。神を引いた風にするカラーコンタクトや、逆に引いたことを誤魔化すコンタクトもあり、他にサングラスも売り上げが上がっている。
その結果、ユリとしても目は黄色。ウィッグも特定されたが・・・自分に姉妹なんていたのだろうか。アムの脳裏に、記憶の断片がよぎる。
一方で、SNSやネットには派手な「神の奇跡」動画があふれ返っている。どこまでが本当で、どこからが編集や演出なのか、誰も分からない。「ご利益自慢」がバズるたびに、現実の人間関係はますます冷たくなっていく。
現実のSNSでも妊婦は幸せだから邪魔していい・・・といった「子持ち様排除思想」というものがあるが、実はSNS以前からもこういう傾向はあった。というか定期的にこの思考が出てきた。だからキリスト教は流行ったとも言える。過激ゆえに身を守る組織を作らなければいけなかったのだ。嫉妬を正当な努力として活かせないならば、その嫉妬はただの害である。
その結果、代理母のように祈ることを契約に使う輩も増えた。なんというか、運を確実なものにする感じになった。その割にはロミーのような合理性もない。
その影響か最近は努力主義や懐疑派も、じわじわと増えてきた。
「祈っている暇があれば、手を動かした方がマシ」「奇跡に頼るなんて、逃げている証拠」そういう書き込みが少しずつ力を持ち始める。
田舎の学校では、声高に否定する者はいない。けれど、静かな孤立と見えない線引きが、今日もゆっくりと広がっていた。対立の中に、徐々に巻き込まれていく。アムは、その流れをただ見つめるしかなかった。
アムは帰り道、人気のない道をゆっくり歩いていた。ランドセルを背負った小学生が、前を走り抜けていく。その姿を見ても、何も感じない自分に少しだけ驚いた。誰かに声をかけられることも、呼び止められることもない。学校を出てから家に着くまで、誰とも目が合わなかった。帰宅しても、家の中はひっそりと静まり返っている。
全員が祈りに集中し、目をかけることもなく、やがて会話は消えていく。神の選ばぬ友は不要とばかりに。アムは、その孤独をひしひしと感じていた。
部屋でぼんやり窓の外を眺めていると、ロミーからメッセージが届いた。
「今日の配信、手伝ってくれる?」
画面の中のロミーは、相変わらず明るくて頼もしく見える。アムは肯定の意を示す返事をした。手伝いはする。でも、心はどこか遠くにある。配信の準備をしているロミーの声も、どこか別世界のことのように響いた。
ロミーは配信の画面越しに、元気に話しかける。「最近ちょっとバタバタしているけど、前より人も増えてきたし、やりがいあるよ!あと変態が減ったのはプラスね。」
そう言いながら、時折スマホを見て、どこか落ち着きがない。
ロミー自身も、周囲の変化や配信の方向性に悩み始めていた。効率や合理性を追求し続けてきたけれど、それだけでは満たされない何かがあることに、何気なく気づき始めている。
アムは、ロミーの変化を遠くから見ていた。自分には、どちらの道も正しいと思えなかった。ただ、誰にも話せない思いが胸に溜まっていく。
二人の距離は、会話の中でも、どこか少しずつ離れていった。夜が更けるほどに、アムの部屋は静まり返っていく。机の上には、誰にも見せられないノートが一冊、開いたままになっていた。
今日の出来事、教室の空気、家族の無関心、ロミーとの会話。一行ずつ書き残そうとするたび、言葉がすり減っていくのを感じる。アムは何度もペンを持ち上げ、そしてページを閉じる。
自分は「無心で祈る」ことも、「並行して何かをやる」ことも、どちらも心から信じていない気がした。祈りは誰かの救いになるかもしれない。だけど、自分の心に響いてくるものは何もなかった。
ただ黙って日常をこなし、同じ場所をぐるぐる歩いているような感覚だけが残る。彼の心は、深く、静かな虚無に沈んでいた。
ロミーから、もう一度メッセージが届く。
「今、少し話せる?」
アムは画面を見つめていたが、なかなか返信できなかった。しばらくして、ああ、とだけ返す。通話が繋がると、ロミーの声はどこか張り詰めていた。
「最近、配信してても“本当にこれでいいのかな”って思うことが増えた。」
ロミーは正直にそう言った。
「頑張っている人もいれば、ただ祈っているだけで結果を出す人もいる。どっちも間違いじゃないのかもしれないけど・・・。私は、努力しないと怖い。でも、それだけだと置いていかれる気がするんだ。どっちの方が稼げると思う?」
配信は、努力か運か、才能という要素を一旦除外した場合、ケースの少なさと見栄っ張りで知ることは少ない。その貪欲さが夢を叶えた理由であり、同時に落ちる原因も、対策を知らないこともその貪欲さゆえに。
アムはしばらく黙って耳を傾けていた。
自分の中でも答えは出なかった。
ただ、ロミーの気持ちだけは少し分かるような気がした。
「他人事って感じするよな・・・。」
アムは小さな声でそうつぶやいた。電話の向こうで、ロミーは静かに息を吐いた。
「そういう時ってどうしたらいいのかな。誰にも分かってもらえない気がしてさ。」
アムは正直にそう答えた。
「どいつもこいつも同じなんじゃないかと思う。それぞれ違うけど、孤独なのはきっと一緒だ。」
ロミーは、しばらく無言だった。
その静けさの中に、ほんの少しだけ希望のようなものが混じっていた。
社会は今、三つの派閥に分かれていた。“無心派”は純粋さを誇り、“効率派”は時間を徹底的に使い、“努力主義派”は信仰そのものを冷笑していた。どのやり方が正しいのか、誰も答えを持っていない。だからこそ、みんな焦りや孤独の中で足踏みをしている。祈るべきか、努めるべきかを。
窓の外では、遠くの街灯が夜道を照らしていた。アムもロミーも、それぞれ別の部屋で同じ月を見上げていた。
“自分なりの答え”はまだ見つからない。
でも、ほんの少しだけ、歩き出す勇気が生まれそうな気がしていた。次の日が、今よりも少しだけ違う一日になるかもしれない。そう思いながら、アムはゆっくり目を閉じた。ロミーもまた、静かにスマートフォンを握りしめていた。
それが、祈りと大して変わらないと知っていても。
芸術に手を伸ばすことは、とても危険なことだ。引き返せないほどの魂を売り渡した上で、段々とその芸術の正体を知る。
今の時代は、芸術なんて高尚な品はなく、ただ人的関係をどれだけ組み上げ信頼されるか。いずれ漫画家も小説家も、どこかに所属している場合、血縁や関係性が必ず何かを通過するようになる。
評価の偽装を大手でさえ行い、質を落とす。SNSに対抗できなかったのだ。どの立場にせよ、優秀な人間全てを欠いた中で進めるわけもなく・・・。
それが良いことかどうかと問われたら、間違いなく最悪だ。この世で最も唾棄すべき出来事であろう。芸術品にあって良いはずがない侮辱と、限りなくどす黒い泥を塗っている。
自分は、ある悩みに応じた。
「どんな大義名分があったとしても、公開するのは許さないわ。」
決定的に噛み合わない、痛みが残る。
その思考は、許されるかどうかは・・・知ったことではない。
少なくとも言えるのは、有益ではないという事実だ。
全国のニュース番組が、朝から「価値ある情報運動」の特集を組んでいた。
テレビの画面には、各地で開かれる“情報交換会”や、“役立つ豆知識をシェアしよう”と掲げる町内集会、SNSのインフルエンサーが“祈りより努力”と声高に主張するクリップが次々流れている。
アムが家を出ると、町の掲示板にまで「価値ある情報を集めよう」「自分の体験を発信しよう」というポスターが貼られていた。
いつもの商店街はどこかよそよそしく、普段話しかけてくる店主や近所の大人たちも、「最近はただ祈っているだけじゃだめだからね・・・。」と、皮肉まじりの挨拶を交わすようになっていた。
学校に着くと、昇降口には“みんなの知恵コーナー”が設けられ、「試験で使える暗記法」「効率的な勉強時間の作り方」など、生徒が投稿したメモやプリントが貼り出されていた。
職員室でも「祈る時間があるなら英単語を一つでも多く覚えろ。」という教師の説教が飛び交う。
教室内も空気が張り詰めていた。
グループチャットは「今日の役立ちネタ。」で溢れ、誰かが珍しい情報や勉強法を投稿するたびに、“すごいね!”と称賛が飛び交う。
けれど、その裏では「今どき神頼みしているやつは時代遅れ」「努力できないやつは置いていかれるだけ」と、棘のあるコメントや陰口も交錯していた。
昼休み、廊下の奥で、アムは悩む。ある悩みに応じようとしたところ、答えるべきではない、それもエンタメではないとロミーは拒絶し、アムはイマイチ納得ができなかった。彼女を信じてはいるが、それは人間性やアイデアからであり、彼女の思想に関しては一切触れていないからだ。
「今日のテーマは“地道な努力と結果”。みんなで自分なりのやり方を共有しよう!」
画面の向こうでは、リスナー同士の議論も熱を帯びていく。ロミー自体は元々努力派だ。神を引いて以来、来る予感がしないと言っている。
「配信で話題になった豆知識、すぐに実践したらテストで点が上がった!」
「祈ってばかりじゃ何も変わらない・・・!」
誰かが褒められれば、誰かが揶揄され、情報の価値をめぐるマウンティングが絶えず続く。
ロミーは努力を多く重ね、赤い目の友好的な人間であり、それ以外は特にない。アムは痩せ細り気味な身体が華奢さを出しつつも、黄色の目は最低限を約束する。しかし所作という何よりも褒められる箇所は彼個人の努力であると分かっているから、視聴者も手を抜かない。
町内会でも、最近は「ご利益」や「神引き」の話題より、「自分で役に立つ知恵を持っているかどうか」が大人同士の優劣になっていた。
「うちは娘が勉強法で賞を取って・・・。」
「息子は自己管理アプリで生活改善・・・。」
親たちの会話も競争めいて、ほんの少しだけ刺々しい。
アムは、そのすべてを遠巻きに見ていた。
誰もが“何が正しいか”を競い合い、“間違った信じ方・時代遅れのやり方”を排除しようとする。
空気が変わり始めていることに、アムは肌で気づいていた。
「これが本当に誰かの役に立っているのか・・・。」
アムの心の中で、静かな疑問が渦巻く。
努力も祈りも知恵も、結局は“誰が優れているか・どんなやり方が時代に合っているか”ばかりが競われ、本来の優しさや寄り添いはどこか遠ざかっていく。
合理化は、利便性ではなく効率化だけしか求めない。減らして減らして、すり減らすのだ。
ロミーは配信の準備をしながら、「情報を発信しないと“損”だよ。みんなで知恵を分け合えば、もっと楽になれるはず!」そう明るく言うが、その目の奥には焦りの色が隠れていた。
涙が滴る。繋がったように、二つ目はなぞり落ちていく。違う方向に多少生え伸びて。アムの頬を、熱い雫が伝った。
SNSのタイムラインを眺めながら、アムはふと妹のことを思い出す。もし今、妹がこの空気の中にいたら、笑えていただろうか。情報を持たない子が、こんなにも簡単に置き去りにされるのを、誰も疑問に思わない世界を、妹はどう感じただろう・・・。
一瞬だけそう思ったものの、すぐに思考は引き戻される。苦しみの理由は思い出せない。
教室の窓から見える空は晴れていた。
だけど、胸の奥には言いようのない重さがあった。アムは自分でも気づかないうちに、拳をぎゅっと握りしめていた。
「違うのだ・・・。」
その思いだけが、静かに、確かに膨らんでいった。祈りを知っている人間として、祈りに虚構性を見出せなかった。苦しんでいる彼は、人とは異なるものだった。
少女が学校に着くと、昇降口からもう妙な静けさを感じた。
誰かが遠巻きに『神引き』の話をしているのが、背中にまとわりつく。
下駄箱で靴を履き替える手が微かに震えていることを、本人だけが知っていた。
教室では、すでに空席がひとつだけ浮いていた。それが自分の席だと気づくまで、少女はしばらく立ち尽くした。ランドセルを机に下ろすと、机の上に、見覚えのないメモ用紙が置かれていた。友達だったはずの子たちは、朝の会話をやめ、スマホを隠しながら何かの画面を覗き込んでいる。隣の席の子がそっと椅子を引き、微かに机を離す。その動きに言葉はないが、拒絶だけは確かだった。HRが始まっても、担任の「噂に惑わされるな。」という声は、教室のどこにも届かない。空気は冷え、ただ咳払いとノートをめくる音だけが静かに広がる。
一限目の国語、先生が問題を当てても、少女の番だけ誰も反応しない。答えが合っても、小さな拍手も、声援もない。窓の外を見つめる少女の横顔は、無表情の仮面で固められていた。休み時間。少女は給食の準備係を忘れず、いつも通り配膳台に立つ。だが「ありがとう。」の一言すら返してもらえない。その姿を見て、クラスの数人が『また一人でいる』『関わりたくない』とグループで回し合っていた。昼食の時間、誰かのトレーがわざと少女の机の端にぶつかる。牛乳がこぼれる。でも目も合わさない。誰一人手伝おうともしない。少女はハンカチで静かに机を拭く。沈黙の輪の中で、音だけが刺すように響いた。
SNSでは匿名の『神引き少女』の話が、ますます拡散していた。動画サイトにはBGMに乗せて少女の後ろ姿を隠し撮りした映像がバズっている。『運動』の主催者グループも「努力できないやつは必ず不幸になる。」と断言した。「結局、祈るしかできないから排除されるんだよ。」コメント欄は同調の嵐で埋め尽くされる。
放課後、少女は下校のタイミングを外そうとトイレに身を潜めていた。廊下には、何かを囁き合う集団の笑い声が響く。帰り道では、ご近所の大人たちが『あの子が例の・・・。』『関わると面倒なことになる。』と遠回しに話しているのが耳に入る。家に帰っても安息はない。母親はニュースを見ながら、「本当にあんたが悪いことをしたわけじゃないんでしょうね・・・。」と小さく言った。食卓の上で冷めたご飯を前に、少女は声を出す気力もなかった。スマホには通知が止まらない。「大丈夫?」という一言もないまま、匿名のDMが積み重なる。
かくして、少女の狭い世界は、見る見るうちに埋め尽くされ、滅びるように崩れ去るのだった。
ロミーは、彼女の衣服に仕込んだマイクから、少女が失望するような嗚咽を聞き届け続けていた。
アムはその一日をずっと、教室の隅から見ていた。少女の姿に『妹』の影が色濃く重なった。無力感と怒りが混じった感情が、じわじわと胸を焼く。
(どうして誰も彼女に手を差し伸べないのか・・・。)
(なぜ、社会全体がこれほどまでに“孤独を押し付ける”のか。)
アムの拳が、膝の上で音もなく震えている。怒りであり、震えである。それほどまでに強く、心苦しい。
神というものへの狂信から、努力というものへの狂信に。人は神から科学に信仰を変えただけで、理論を自由に立て、利用し、都合良く使う。それは、役立てると言うにはあまりにも悪用に等しいものであった。窓の外、空は快晴だった。それでも教室の空気は、これ以上ないほど重く、冷たかった。
アムは心の奥底で強く思った。
「これ以上、誰も見捨てたくない。」
その決意だけが、静かに、しかし確かに、アムの中で燃え始めていた。
昼下がり、ニュースサイトが速報を繰り返していた。『価値ある情報運動』の象徴とされてきた人気の学生配信者が突然亡くなり、社会全体が、目に見えない不安でざわつき始めていた。
テレビもネットも、誰もが「祈りがもたらす危険」や「奇跡と不幸の因果関係」を探し続けていた。『神引き』や『祈りの効果』といった言葉が繰り返される中で、ひとりの少女が静かに追い詰められていくのを、誰も気に留めなかった。
近隣には、「あの子が何かしたんじゃないか。」「最近変だったよね。」「本当に偶然?」という憶測や批判が並ぶ。神の話を子から聞き、真に受けたのだろう。けれど、少女自身には、心当たりがひとつもなかった。
少女は確かに、何度も祈った。
でも、願ったのは「みんなが元通りになりますように。」「誰も不幸になりませんように。」
それだけだった。同じ状況なら、普通の子ならきっと祈らなかっただろう。でも、自分は、どうしようもなく孤独で、誰にも届かないと分かっていながらも、“せめて何かを変えたい”という切実さしか残らなかった。
彼女は、その神の撃ち方を知らない。しかし、撃ててしまった。射抜けてしまったのだ。
クラスメイトや教師、大人たちは“現象が起きるはずだ”と決めつけ、「誰かが犠牲になったんだ。」「誰かのせいで不幸が起きたんだ。」と責任を探し続けていた。
ニュースは「原因不明の急死」「未成年の精神的ストレス増大」など、センセーショナルな言葉で社会不安を煽るばかりだった。だが、肝心の少女自身の心の中で、“何も起きなかった”という現実が、周囲の混乱よりもはるかに重く、静かな絶望となっていた。家に帰っても、母親は「本当に大丈夫なの・・・。」と目を合わせずに言うだけだった。父親は不快な視線を母に向け、沈黙のまま、食卓でスマホのニュースだけを見ていた。
夜、少女は窓の外にぼんやりと光る月を見つめていた。「もしも、もう少し違う自分だったら。」「もしも、もっと強く誰かを憎めたら。」どこにもぶつけられない思いだけが、胸の奥でぐるぐると渦を巻いていた。それがもっと早くにあれば、引き金は止められた。
アムはその様子を、画面越しで、ずっと見つめていた。
「結局、誰も救われていない・・・。」
アムの心の奥で怒りがまたひとつ、静かに燃え始めていた。
夜になると、町は普段よりも落ち着きを失っていた。主要駅前には、報道の中継車が何台も停まり、「現場から最新情報です。」とリポーターが緊張した声で騒動を伝えていた。
それは、どの事件のものかは判明していない。しかし、草食動物の怯えよりも醜い騒乱が山を下るように壊していく。
「ロミー、これがお前の正解なのか?」
アムは、ロミーに問いかける。
「いや、ミスかな。」
ロミーは素直に答える。
「それでいいのか?」
アムはさらに詰める。
「価値のあるものじゃなくて、今は稼げるものを作るのが主流の時代。全員が自分の身を守った結果、価値も物も行き渡らず、物は不足し荒れる。物価高はそれと同時に金の価値が希薄になったってことだから。」
ロミーは現実的にそう答える。
「そうだな。だが、自分の責任だとは思わないのか?」
アムは問い続ける。
コンビニの前やマンションの下、あちこちで大人たちがスマートフォンを手に集まり、SNSのライブ配信を見ながら「やっぱりあの子のせいだよ。」「親も大変だな。」と噂し合う。学校から配信された公式の注意メールも、誰もがもう聞き流すだけだった。
その頃、SNSで関与した配信者は「本当にお前は何も知らないのか。」「配信者なら説明しろ。」という匿名のメッセージが溢れていた。中には「直接会って話したい。」「場所を教えろ。」と危険な要求も混じっている。
ロミーはスマートフォンを強く握りしめながら、「正直、関与するのも嫌だね。」と声にならない吐息を漏らした。
「もしもの時はユリを犠牲にして話題性を奪う。それでいいか?」
アムが冷静に提案する。
「ギリギリまで稼ぐつもりだから、もう少し待ってて。」
ロミーは、まだ躊躇しているようだった。
「分かった、それで良いんだな?」
アムは、ロミーの覚悟を問う。
アムは帰宅し家にいながらも、気が気でなかった。ニュース速報、SNSのトレンド、町のざわめき、どれもが少女と“妹”を失ったあの日の悪夢と重なる。
「今度こそ、黙って見ているだけじゃ済まない・・・。」
怒りと後悔が混ざり合い、アムの中で巨大な熱になっていく。そのとき、ロミーから一通のメッセージが届いた。
「誰かが家の前にいるみたい。どうしたらいい・・・。」
アムの胸が一気にざわめいた。
アムはスマートフォンを握りしめ、すぐさま外に飛び出した。通りは異様なほど静まり返り、けれどどこかから人の気配が絶えず漂っている。
ロミーの家の近くでは、“価値ある情報運動”の参加者だと名乗る数人が、小声で何かを話し合っていた。配信者嫌いの輩だからか、強盗のようにバールを持って壁を壊している。
アムが駆け寄ると、その一人が振り返り、
「配信で嘘をついているんじゃないか。」「何を隠しているのか話してくれ。」と詰め寄ってくる。
「誰に言っている、強盗どもが。」
アムは一歩も引かずにフラッシュライトを向け、ライターで火を添え、ロミーの方に向かう。その目に、強い怒りの光が宿る。
「ああ、あいつのように犠牲になればいいのか。」
気分が悪くなって来たその瞬間、怒りと恐怖と決意が混ざり合い、アムの中で何かがはじけた。
「犠牲になるってことは、足掻けってことだな。ロミー。」
アムはロミーの手を掴み、二人はその場を抜け出し、夜の町へと駆け出した。
「その選択をするのね?アム。」
ロミーは、アムの覚悟を確かめるように問いかける。
町は深夜になってもざわめいていた。
どこからともなくパトカーのサイレンが響き、コンビニの明かりがやけに冷たく路地を照らしていた。
アムとロミーは人目を避けて歩きながら、少女がどこにいるのか、考え続けていた。
「きっと、どこかで震えているはず・・・。」
ロミーは不安げにつぶやいた。
「でも、誰にも助けを求められなかったんだよ。」
アムは自分に言い聞かせるように答えた。
しばらく歩いていると、薄暗い公園のベンチに小さな影を見つけた。
少女が両膝を抱えてうずくまっていた。
その肩は小刻みに震えている。
近寄ると、少女は二人の足音に気づいて顔を上げた。
涙で赤くなった目が、街灯の下で光っていた。その赤は・・・ロミーと同じ。まだ混ざっていない段階の赤だ。
「誰も、信じてくれないの・・・。」
少女の声は震えていた。
「わたし、何もしていないのに・・・。何も起きていないのに・・・。」
その言葉は、アムの心に深く突き刺さった。妹を失ったあの日の無力感が、再び彼を襲う。
「自分を責めるな。悪いのは・・・強いて言うなら神頼みの馬鹿どもだ。」
アムはそっと手を伸ばした。少女の手が添えられる前に、アムはその手を掴み、ロミーに荷物を任せる。
「本当は、何も起きなかったんだろう。君が誰も傷つけなかったから、だから、今ここにいられるんだ。」
ロミーも優しく微笑みかける。
その時、公園の奥から複数の人影が近づいてきた。スマートフォンを構えた運動の参加者たちだった。
「見つけたぞ。」「全部話してもらうからな。」
彼らの声は責め立てるように鋭かった。
「なんなんだよあいつら!?」
ロミーが声を上げる。
「多分扇動された輩だね、しかも厄介なタイプ。」
アムは少女の前に立ちはだかり、全身で守ろうとした。
「何が価値あるだ!損失ばかりじゃないか!」
怒りが混じった叫びが、夜の空気を震わせた。
ロミーもアムの隣に立つ。
「小さい子傷つけるとか本当信じられない!馬鹿じゃないの!?」
少女は二人の背中越しに、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて涙をぬぐい、アムの腕をそっと掴んだ。その小さな手の温もりが、アムの心に確かな希望を灯す。
パトカーのライトが公園の端を照らし、運動の参加者たちはしぶしぶ走ってその場を離れていった。アムの心にはまだ怒りと悔しさが残っていたが、少女の手の温もりだけが、今夜だけは確かなものだった。
「ありがとう・・・。」
少女が小さくつぶやいたその一言が、アムの中に新しい決意の種を落とした。
ロミーが警察に説明すると、別の事実も見えてきた。
「おかしいとは思っていたけれど、移民らしいわ。」
「移民?因果関係がイマイチだな。」
アムは首を傾げる。
「祈祷用の石、あるじゃない?中国の賭石の翡翠が効果あるってことらしいわ。」
「国を間違えてやしないか?」
「まあ・・・様子見なんじゃない?」
夜明けはまだ遠い。
けれど三人の間には、初めて小さな静けさと希望が灯っていた。
騒動が収まった後、町は静かすぎるほど静かだった。
公園のベンチに三人で並んで座ると、夜の空気が妙に澄んでいるように感じられた。
パトカーのライトも遠ざかり、ただ虫の声と微かな風の音だけが世界を満たしていた。
少女はしばらく何も言わなかった。
握りしめた手のひらがまだ震えている。
アムもロミーも、言葉を探しながら時折少女の横顔をそっと見やった。
「・・・ごめんなさい。」
少女がぽつりとつぶやいた。
「わたし、みんなを困らせてばかりで・・・。」
ロミーは優しく首を振った。
「困ってなんかいないよ。みんなが間違っているだけだよ。」
アムも静かに付け加える。
「神を知らないから妄想しているのさ、なんでもかんでも。」
少女の目に、また涙が浮かんだ。
でも今度は、少しだけ力強さが混じっていた。その瞳には、諦めではない、微かな光が宿っていた。
事件は終わったわけじゃなかった。
SNSではまだ、責任や真実を求めて騒ぐ声が止まなかった。学校も町も、しばらくはぎこちない空気が続くだろう。
それでも三人は、互いの存在を確かめ合うようにベンチで肩を寄せて座っていた。月明かりが三人をやさしく照らし、静かな夜の中で小さなぬくもりを分け合っていた。
アムは空を見上げながら、心の奥底で決意した。
「当分は荷物持って逃亡だな、警察には話したか?」
ロミーに問いかける。
「さっきしたわ。それより、心配なのは貴方。」
ロミーもまた、隣で微笑みながら同じ思いを胸に抱いていた。
「一旦病院だな。金はあるし、逃げるには最適だろう。」
少女は、二人の存在に支えられて、ほんの少しだけ前を向くことができた。たった一晩の出来事が、三人それぞれの心に確かな爪痕を残した。
夜が明けるころ、三人は静かに立ち上がった。
誰もまだ、明日がどうなるか分からなかったが、今日だけは、孤独じゃないと思えた。
そしてまた、ゆっくりと歩き出す。
それぞれの家へ、それぞれの明日へ、
新しい希望を胸に抱きながら。
春の終わり、町からひとりの少女が姿を消した。アムとロミーも、誰にも告げずに静かに姿を消した。誰もが彼女たちの行方を探し始めたが、手がかりは何ひとつ残されていなかった。
少女の母親は毎日、町中を歩き回り、警察にも何度も足を運んだ。スーパーの掲示板や電柱には『行方不明』の貼り紙が増え、母親はすり減った声で、「お願いします、娘を知りませんか・・・。」と道行く人に声をかけていた。
父親は会社を休み、何度も町外れまで車を走らせた。夜中には部屋でスマートフォンを握りしめ、SNSに「娘を返してほしい。」と投稿した。
しかし、町の空気はどこか冷めていて、貼り紙の前を誰も足を止めない。警察の調査も形だけで、新しい手がかりが見つかることはなかった。というのも、アムたちが事前に警察に状況を話していたため、実際のところは把握されていたのだ。
やがて、母親は過労で倒れた。
父親も無言で病院の廊下を歩き続ける日々が続いた。
『価値ある情報運動』は最初こそ「少女を探せ」と声高に叫んでいたが、次第に熱が冷め、参加者たちは別の新しい活動や議論に移っていった。「やっぱり祈りに頼るのは危険だ。」「今こそ情報を厳選すべきだ。」そんな声だけが空回りし、かつての熱気はどこかへ消えていった。
「妙な金の動きが露呈したみたいだな。」
アムがロミーに問いかける。
「そんなことだったの?資産家は懲りないわね・・・資産家?」
ロミーの言葉が途切れる。
「どうかしたか?」
アムが訝しむ。
「以前授業に出た資産家だけど、会ったことはある?」
「人伝になら。」
「妹・・・ってことね。」
ロミーの表情が険しくなる。
「そうだ。」
アムは静かに肯定した。
ロミーがスマホを見せる。
「アナリティクスが妙に伸びているんだけど、資産家が公開しているアナリティクスとほぼ同じ形が自分の視聴者層に加わっているの。若年層の増加はアムちゃ・・・ユリのおかげで増えたのは分かるけど。」
「誰がアムちゃんだ・・・確かに、それ抜きにしたら資産家の視聴者層の数値だな。」
「で、妙に配信回数がユリの登場以降減っているの。」
ロミーは顔をしかめる。
「太いおじが入ってきたな。」
アムが呆れたように言う。
「その言い方やめなさい。ユリの時でもそのサービスは許さないわ。」
ロミーは厳しく嗜める。
「資産家が殺した人物は、貴方の妹ってことなんじゃない?」
ロミーは、アムの顔を真っ直ぐに見据えて言った。
「・・・は・・・?」
アムの言葉が凍りつく。
「辻褄がやたら合うのよ。殺したはずが生きてるように向こう側は見えるし、以前助けた子は似ているし。」
「待てよ、そんなはずが・・・。」
アムの顔から血の気が引く。
「あの神は、問答無用で殺すわ。殺意ではなく、利益を重視した時に。邪魔な人間を不意に殺し、罪悪感も達成感も残さず、安定させる。」
ロミーの声は冷静だった。
「・・・ダメだ、ロミー。」
アムの呼吸が乱れる。
「ごめんね。でも、これを切り札にされたらだめだから、先に切っただけ。ワクチンみたいなものよ。」
ロミーは痛ましげにアムを見つめる。
「・・・覚悟はしておく。」
アムの目には、深い悲しみと、それでも揺るぎない決意が宿った。
一方で、他の新しい運動や運営団体が、競うように「正しさ」を主張しはじめた。
「もっと公平なシステムを」「感情よりも結果を重視しろ。」
SNSやニュースには、次々と新しい“主張”や“流行”が現れては消えていく。あくまで冷静な判断ではなく、流行の結果である。
町の人々も、事件や噂に疲れ果て、次第に少女とその家族のことすら忘れていった。
だけど少女の両親だけは、どんなに疲れ果てても、どんなに絶望しても、「娘を見つけるまでは終わらない。」と信じ続けていた。
そしてどこか遠い場所で、アム、ロミー、少女は、誰にも見つからないように息を潜めて生きていた。
少女の失踪から数日が過ぎても、親の捜索は止まらなかった。母親は家の中のどんな小さな物音にも耳を澄ませ、誰かが郵便受けにチラシを入れる音にも「もしかして」と玄関に飛び出した。台所には手つかずの食事が並び、母親は食べることも眠ることも忘れ、娘の名前を呼び続けた。
警察からは「新しい情報が入り次第ご連絡します。」という定型文の電話が毎日入った。だが何も変わらなかった。町内放送で流れる「行方不明のお知らせ。」も、やがて人々の耳に届かなくなっていった。
父親は古いアルバムやノートを持って町内を歩き回った。近所の交番、コンビニ、駅、すべての掲示板に写真を貼った。
「最近、娘を見かけませんでしたか。」
誰もが最初は同情の眼差しを向けたが、数日も経てば「まだ見つからないんですか・・・。」とため息交じりに返されるようになった。
母親はある朝、駅前で倒れ、救急車で運ばれた。病院のベッドに横たわる彼女は、点滴のチューブを外してでも「娘を探しに行かないと・・・。」と涙を流した。父親は病室の椅子に座ったまま、夜が明けるまで窓の外を見つめていた。
「消耗戦だな。」
アムが静かにつぶやく。
「ごめんね。会いにはいけるでしょうけれど、多分見張られているわ。」
ロミーは、アムと少女の両親の間にある、見えない壁を痛感する。
「ロミーの言うことが本当なら、資産家は君を狙っている可能性が高いし、この運動を扇動した人物が資産家の可能性もある。」
アムは、冷徹に状況を分析する。
一方、町の空気は確実に変わっていった。
『価値ある情報運動』のグループチャットには「結局は個人の責任だ。」「親が甘やかしすぎた。」「いなくなったのは仕方がない。」そんな冷たいメッセージが増えていった。議論はすぐに「祈り依存の危険性」「これからはデータとロジックだ」という方向にすり替わる。それと同時に、人々は離れていく。
近所の子どもたちは、かつて少女と遊んでいたことすら口にしなくなった。「今は新しいゲームの方が流行っているし。」「そういえば最近あの子見ないね。」大人たちも、週末のスーパーや集会で事件のことを話題に出すことは減っていった。しかし、心の中では後悔が残った。
その空白の時間の中で、新しい運動や価値観が次々に生まれては消えていった。「公正さ」や「合理性」を掲げるグループが現れ、「運動は冷静にすべきだ。」「感情で騒ぐ時代は終わった。」そんなスローガンがSNSに並ぶ。
一方、少女の両親だけは、体も心も限界に近づきながら、「必ず見つける。どこかで生きていると信じている。」そう言い聞かせるように毎日を過ごしていた。
少女とアム、ロミーは遠く離れた病院で息を潜めるように暮らしていた。家族も町も、誰も自分たちの居場所を知らなかった。だが、それぞれの心には、消えない痛みと罪悪感が残っていた。
ロミーは毎晩、スマートフォンで親たちの安否を確かめていた。アムは部屋の片隅で何度も「これ以上は負担になる」と少女を止めた。
少女は夜になると、夢の中で自分の家族を呼び続けていた。
外の世界はどんどん新しい価値観や流行を追い求めていった。だが、この三人の時間だけが、静かに、重く、止まったままだった。
少女が姿を消してから、町のカレンダーはゆっくりと、しかし確実に日付を進めていった。数週間が経つ頃には、「行方不明事件」はもはや町の新しい日常の一部となり、ポスターや貼り紙も色褪せて、雨風に晒され、やがて誰にも見向きされなくなった。
少女の母親は退院した後も、自宅と町中を毎日のように往復していた。誰かに呼び止められるたびに頭を下げ、「どんな些細な情報でも・・・。」と懇願する。だが、返ってくるのは「今は忙しいので・・・。」「もうあれから時間が経ちましたし。」どれも無関心と遠慮の混ざった返事だった。
父親は会社に復帰したものの、仕事中も娘のことが頭から離れなかった。深夜のコンビニでコピー機の前に立ち尽くし、行方不明のチラシを何十枚も刷る。その指先は震え、目の下の隈は日に日に濃くなっていった。
ご近所でも、最初は心配する声が上がっていたが、新しい話題が出るたびに関心は薄れ、「そういえば、あの子どうなったんだろう。」「今頃どこかで暮らしているのかしら。」話題は長続きしなかった。
町の掲示板には新しい張り紙やイベントのお知らせが重なり、少女の写真は徐々に紙の下に埋もれていった。
一方、メディアやネットの空気も大きく変わっていった。『価値ある情報運動』は分裂と消耗を繰り返し、「次の社会改革を」「今こそ知識偏重から脱却を」と新たな運動が立ち上がる。ニュース番組ではコメンテーターが「今後の社会は合理性と共感のバランスが必要です。」と語る。
けれど、その言葉もすぐに忘れ去られ、SNSのトレンドはすぐ別の流行や炎上に飲み込まれていった。
家庭の中でも、少女のいない日常がゆっくりと固定化していった。母親は料理の味付けを間違えても誰にも気づかれず、父親は食事の時間に間に合わなくなっても咎められなかった。食卓の椅子は三つのままだが、一つだけ誰も座らなかった。
少女の部屋は手付かずのまま残されていた。
ベッドの上には、読みかけの本と、家族写真が置かれていた。
ロミーは配信活動をメンバー限定に制限し、過去動画もメンバーだけが確認できるようした。
「ロミーの親はいいのか?」
アムが問う。
「え?ああ、海外出張よ。」
「こっちも海外出張だな。地獄は海外扱いで良いか?」
アムは皮肉めいて言う。
「海外というより川の外ね。」
ロミーは笑って返す。
アムは毎日、日記に短い文章を残していた。というより痛みで書くことができなかった。少女は窓から差し込む光をじっと眺めていた。夢の中で、両親の声や家の匂いが何度もよみがえった。
「もう一度だけ家に帰りたい。」
その願いは誰にも口にできなかった。
アムは少女の願いを察し、心の中で語りかける。
「もし、戻れば家族の誰かが狙われるぞ。ロミーの悪だくみに精一杯力を割くのがこっちの仕事だ。」
町も社会も、確実に新しい時代へと流れていく。新しい運動が始まり、古い事件は思い出の底に沈んでいった。でも三人だけは、止まった時間の中で、お互いの存在だけを頼りに静かに息をしていた。
少女の家では、時計の針がただ虚しく音を刻み続けていた。朝になると、母親は娘の部屋のドアを開け、ベッドのシーツを整え、机の上に小さな菓子パンを置いた。「いつか、ふらっと帰ってくるかもしれないから・・・。」そう自分に言い聞かせながら、窓を開けて新しい空気を入れた。
父親は、会社での同僚たちの沈黙がますます重たく感じられるようになっていた。以前は「心配ですね」「早く見つかるといいですね」と気を遣う声があったが、今では誰も娘の話題に触れなくなった。昼休みのカフェで独りカップを握りしめながら、スマホで何度も警察や地域掲示板をチェックする日々が続く。
母親は時折、玄関のチャイムが鳴るたびに全身を強張らせた。訪問販売、町内会の書類、宅配便――どれでもない娘の気配を求めて。病院で受け取る薬袋が増えるたび、「これが本当に現実なんだろうか・・・。」と何度も心の中で問い返した。
一方、社会の流れは完全に変わっていた。町の広報板には『新生活支援』や『イベント告知』の張り紙が目立つようになり、行方不明事件の貼り紙は人々の目線の外に追いやられていた。
新しい『運動』や『情報共有会』が立ち上がり、「これからはデータ分析とAIを駆使して町を良くしよう。」「無駄な感情論は排除しよう。」などという理想が声高に語られる。
けれど、実際には町の人々の表情にはどこか諦めと疲れがにじんでいた。「もう昔のことだよ。」「誰も悪くなかったんだろう。」そんな曖昧な総括で、誰もが過去と距離を取り始めていた。
少女の両親は、そんな流れの中でもわずかな希望に縋り続けていた。母親は日記帳に毎日「今日も会えなかった。」と短い言葉を記す。父親は夜ごと、娘が好きだった場所を歩き、何か手がかりが落ちていないか探し続けた。たまに町外れの川原で空を見上げ、涙を堪えて背筋を伸ばした。
時折、アムは部屋の隅でノートを広げ、
「このまま逃げ続けて、本当に意味があるのか・・・。」と無言で書き綴った。
ロミーは少女に「眠れた?」とさりげなく声をかける。
少女は黙ってうなずくだけだった。
部屋のカーテン越しに差し込む夕日が、
三人の影を長く伸ばした。
世界がどんどん遠ざかっていくような感覚だけが、
日々、静かに積み重なっていった。
少女の母親は、もう何日も外に出られなくなっていた。
薬の副作用で立ちくらみが続き、リビングのソファで目を閉じて過ごす時間が増えた。
けれど、その耳は玄関の物音を逃さなかった。
郵便受けに何かが落ちるたび、無理やり体を起こして確認しに行く。
新聞やチラシしかないと分かっていても、それでも期待せずにはいられなかった。
父親もまた、家ではほとんど口をきかなくなった。
会社の同僚からも、少しずつ距離を置かれ始めた。
かつては「娘さんの件で何かできることがあれば」と声をかけてくれた人も、
今ではただ視線を落とし、小さな会釈をするだけだった。
夜になると、母親はかつて少女が好きだった絵本を開き、
ページをめくりながら声に出して読んだ。
「早く帰っておいで・・・。」
その声が誰にも届かないことを知りながら、
何度も同じ一文を繰り返していた。
ある夜、母親はとうとうベッドから起き上がれなくなった。
病院の天井を見つめながら、
「私はあの子にちゃんと向き合えていたのだろうか・・・。」
自問自答を繰り返す。
父親は帰宅後、ただ一人台所で手を組んで祈った。
町の空気はますます冷えていった。
『価値ある情報運動』の残党グループは、
「かつての事件を再検証しよう」「情報の真偽を見極めろ」とSNS上で再び活発になった。
けれど、そのほとんどは“過去”にすがり、責任の押し付け合いに終始するものだった。
新しい運動や価値観が次々に立ち上がる一方で、
かつての事件を振り返る声がときおり浮かび上がり、すぐに流れの中へ消えていった。
町の住人たちも「また何か起きたのか?」「そろそろ終わりにしないとな・・・。」と、
表面的な関心だけを残して日常へ戻ろうとした。
遠い町の小さなアパートでは、
アム、ロミー、少女の三人がひっそりと暮らしていた。
三人とも、日々の生活の中で、ほんのわずかだが新しい感情に気づき始めていた。
アムは毎朝、窓の外の空を見上げるたび、
「いつかきっと、この空の下に戻る時が来る。」
そんな思いをかすかに抱いた。
ロミーは小さなノートに、今の生活や感じたことを書き留めていた。
「今日も家族が無事でよかった。」「誰かの声を聞くことができた。」
その一行一行が、失われた日常の断片を埋めていく。
少女は夢の中で、何度も家族と再会する。
けれど目が覚めると、涙をこぼしながら、
「今日も生きている。」と心の中で呟いた。
社会は新しい価値観と運動の波に洗われ、
人々の記憶はどんどん薄れていく。
だが、三人と少女の両親だけは、
まだ“あの日”を越えることができず、
それぞれの思いと傷を胸に、静かに明日を待ち続けていた。
春が過ぎ、夏の気配が町を包み始めても、少女の家には変化が訪れなかった。
母親は病院のベッドでカレンダーの数字を指でなぞり、
「今日は何日だったかしら・・・。」と小さな声でつぶやいた。
父親は、朝食の席で無言のままコーヒーを飲み干し、
空っぽのカップを見つめる時間がどんどん長くなっていった。
家の中の時計は、壊れても誰も直そうとしなかった。
食卓の椅子は、相変わらずひとつだけ空いたままだった。
町では、少女の話題が完全に消えていた。
新しい祭りやイベントの話で持ちきりで、
「去年の今ごろは事件があったんだっけ?」と、誰かが何気なくつぶやいても、
「もう昔のことだよ。」と簡単に流されていった。
それでも母親は、夜が明けるたびに「今日も待つ。」と心の中で繰り返した。
父親も仕事帰りに、娘が好きだった公園のベンチで夕焼けを見つめる習慣をやめなかった。
「帰ってきても、きっと何も聞かないでおこう。」
そんな静かな決意が、胸の奥でゆっくりと形になり始めていた。
一方、遠く離れたアパートの部屋では、
アムとロミー、そして少女が、
少しだけ日常らしい時間を取り戻し始めていた。
最初は誰も話そうとしなかったが、
ある朝ロミーがパンを焼いて、「朝ご飯、みんなで食べよう。」と声をかけた。
アムは戸惑いながらも席につき、
少女もおそるおそるテーブルに座った。
「いただきます。」
たったそれだけの言葉が、
どれだけ遠い場所から戻ってきたものか、三人は互いに分かっていた。
窓の外では、セミが短い夏を謳歌していた。
三人の会話はまだぎこちなく、笑顔も続かなかったが、
食卓の上にはほんの少しだけ、
昔のような温もりが戻り始めていた。
社会は新しい流行とニュースに夢中で、
三人も少女の家族も、まるで時の狭間に取り残された存在のようだった。
けれど、それぞれの場所で、それぞれの思いを手放さずにいた。
母親は夜、窓の外の星を見上げて、
「あなたがどこかで元気でいますように・・・。」と
声にならない祈りを捧げた。
父親もまた、古びた家の玄関で、
娘の靴が戻る日を想像しながらそっと靴箱を磨いた。
アムは窓際の小さな観葉植物に水をやり、
「明日は少し外に出てみようか。」と自分に言い聞かせた。
ロミーは新しいノートに、
「ここから、少しずつ前へ。」と一行だけ書いた。
少女は初めて、朝の光の中で目を覚まし、
「今日もちゃんと生きている。」と、
小さく微笑むことができた。
過去の重さも、孤独も、簡単には消えなかった。
だが、静かな再生の気配が、
ゆっくりと三人と家族の周囲を満たし始めていた。
さぁ、物語を覆そう。
ロミーはこの日のために手を尽くした。
「よくぞ耐えた、少女・・・ちょっと待って結局名前なんだっけ。」
「個人情報はノータッチで、小ロミーでいいだろもう。」
「小ロミーですよろしくお願いします。」
「なんだかんだ仲良いわよね。」
「妹みたいで仲良くなるしかないんだ。」
田舎にひっそりと佇む小さな病院は、どこか取り残されたように静かだった。建物の壁には雨の染みがいくつも残り、受付カウンターの看護師たちは無表情でパソコンを見つめている。その淡々とした空気は、この病院が何よりも『無難さ』を大切にしていることを物語っていた。
ロミーとアムがここで何をしたのか、それはシンプルなものだった。アムの選択は「シンプルイズベスト」。ロミーの手段は外道だが、その外道要素は外注品で済むため安価に抑えられている、という感じだ。
「私中学生だから分かんなーいとでも言っておけばいいのよ、世間には。」
ロミーは涼しい顔で言う。
「お前、結構年齢疑われているのにか?」
アムが呆れる。
「姉のせいでそうでもないわ。姉と比較してバストサイズマイナス十八よ?ウエストちょっとしか変わらないのに。」
ロミーは得意げに胸を張った。
ロミーに促されて、アムと少女は短期間の入院手続きをした。受付を終えると、職員たちの小さな声が耳に届いた。
「最近は、軽い症状でもすぐ入院したがる患者が多くて困る・・・。」
「わかる。診察しても大したことないのに、『念のため』って言って長引かせるでしょ。誰も責任を取りたくないから仕方ないけど・・・。」
(彼女のは重症だからか、妙に嬉しそうだな。)アムはそんな看護師の様子を冷めた目で見ていた。
その会話の『責任を取りたくない』という部分が、妙に耳に残った。アムは、これが今の社会全体の空気だと感じていた。『安全地帯』にこもり、自分の責任にならない範囲でのみ生きること。それが常識になってしまっているのだ。
ロミーもまた、表情を変えずにその言葉を聞いていた。彼女は何も言わなかったが、その瞳は冷静に病院の中を観察していた。
病室に案内される途中の廊下でも、すれ違う職員や患者たちは決して目を合わせようとしない。互いが無関心を装い、『誰も傷つけず、誰からも傷つけられない』ように身構えている。その徹底された空気に、少女は思わずアムの袖を掴んだ。アムはそっと少女の肩に手を置き、小さく微笑んだ。彼の温もりが、少女の不安を少しだけ和らげる。
病室は三人用の個室で、古びた木製のベッドが並んでいた。白い壁には何の装飾もなく、淡い蛍光灯の光だけがぼんやりと部屋を照らしていた。
ロミーがベッドの端に腰を下ろし、深く息をついた。
「結局、どこに行ってもこんな感じだね。」
静かな声で呟くロミーに、少女が顔を上げて尋ねた。
「『こんな感じ』って・・・。」
「誰も責任を取りたくなくて、何も起きないことが一番。何もしないのが、一番いい社会ってこと。」
ロミーの声は静かだが、鋭い皮肉を含んでいた。
アムは窓の外の、薄暗く沈んだ町並みを見つめながら言葉を続けた。
「俺たちの周りって、何か間違えたり、目立つことをしたりすると、すぐに排除されるよな。
だから誰も動けなくなる。みんながただ黙っているうちに、社会全体が止まってしまう・・・。」
少女はベッドに座り直し、膝を抱えながら小さく頷いた。
「私は・・・それが怖かった。誰かと違うことをして、それが失敗したら、もう私には居場所がなくなるんじゃないかって・・・。
だから、ずっと何もできなかった・・・。」
アムは胸の奥に、強い共感を覚えた。
「俺もだよ。妹が死んだとき、俺は自分が間違えたせいだってずっと思っていた。
それ以来、何かをすること自体が怖くなった・・・。」
病室の外の廊下を歩く看護師たちの声が、ふと部屋に入り込んできた。
「最近は家庭の問題にも踏み込まないでしょ。下手に関わって何かあったら、こっちの責任になるもの・・・。」
「ほんとにね。何もしない方がいいわよ・・・。」
それを聞いたロミーは、かすかにため息をついた。
「これが社会の『本音』だよね。みんな責任が怖くて、誰にも踏み込めない。
でも、そのせいで孤立する人がどんどん増えていく・・・。」
少女はしばらく黙り込み、やがて小さな声で呟いた。
「ここで三人でいるのは安心する。でも、外に戻ったらまた私は誰かを困らせるだけなのかな・・・。」
アムはその言葉を聞いて、静かに首を横に振った。
「それでも、俺たちだけは『間違える自由』を持っていたい。
間違えたり、誰かを困らせたりすることすら、許される社会であってほしい。」
ロミーも柔らかく笑った。
「間違えないことが全てじゃないもんね。間違えても許してくれる人がいることの方が、きっと大事だよ。」
少女はその言葉にわずかに頬を緩めた。その目には、小さな光が宿ったようだった。
窓の外の町は変わらず薄暗く、人々の生活の灯りだけが静かに揺れていた。
夜が深まるにつれ、三人の病室は静かな思索の空気に包まれていった。
外から聞こえるのは時折廊下を行き交う看護師の足音と、
窓の外を流れる遠い車の音だけだった。
ロミーは、手持ち無沙汰にベッドの端を指でなぞりながらぽつりと言った。
「さっきも思ったけど、どうしてこんなに“間違いを避ける”ことばかり大事になったんだろう。
皆が失敗しないように、誰も責められないようにって・・・、そのためだけに生きているみたいで、苦しくない?」
アムはゆっくりと息を吐いた。
「分かるよ。俺も、何かを間違えることが怖くて何もできなくなったし。
昔からそうだったわけじゃないのに・・・。」
少女は自分の手を見つめながら、
「私は・・・本当は誰かと違うことをしたかった。でも、何か違うことを言ったり、したりしたら、
すぐに責められるんじゃないかって・・・ずっと怖かった。」
その声には、長い時間胸に溜め込んだものが滲んでいた。
ロミーは首をかしげ、天井を見上げる。
「でもさ、“みんな一緒”が大事だとか、“決められた通りに生きなさい”とか、
そういうのって本当はどうして始まったんだろう。
制度とか、仕組みとか、誰かを守るためのものだったはずだよね。」
アムはロミーの言葉に頷き、少し考え込む。
「たぶん、昔は“信仰”とか“聖典”とかがあったから、“みんな一緒”でも安心できたんだと思う。
たとえばキリスト教は、子供をたくさん作って、家族や国を大きくしていくことで皆がつながった。
イスラム教は、言語やルールを揃えて、違う民族もひとつの信仰でまとめあげた。
東洋の宗教は、災害や家族、世代の循環みたいに、“個”よりも“つながり”を大事にしてきた。」
少女は静かに聞き入っていたが、
「でも、今の社会には“そういう支え”がない・・・。
私たちは“同じでいること”しか頼れなくて、それを守るためだけに生きているみたい・・・。」
ロミーはため息混じりに言葉を続ける。
「今は経済も弱いし、みんな同じ言葉で話しているわけでもない。
だけど“みんな一緒”っていう気分だけは残っていて、それを壊さないために、制度がどんどん窮屈になっていく。」
アムは窓の外の灯りを眺めながら、
「“聖典”があれば、みんなで信じられる“物語”があった。でも今は、その物語がないのに、
“間違わないための仕組み”だけが残って・・・誰も救われない。」
少女はぽつりと呟いた。
「みんなが本当は不安なのに、誰にも言えないから、“正しいふり”だけが広がっているんだ・・・。」
ロミーも同意するようにうなずいた。
「誰も頼れないまま、仕組みにしがみついている。それじゃ、助け合うどころか孤独が深くなるだけだよ。」
三人はそのまま、しばらく黙っていた。
静かな病室の中で、現代社会の“根拠なき連帯”と“拠り所のない生き方”の苦しさが、
ゆっくりと心の底まで染み込んでいった。
夜はさらに深まっていた。
窓の外には病院の駐車場の街灯がぽつりぽつりと灯り、
静けさが逆に三人の心の奥まで言葉を響かせた。
ロミーが静かに口を開く。
「さっき、“みんなで信じる物語”がないって話になったけれど・・・。
それって、たぶん“神”の条件にも関わっているんだよね。」
アムはその言葉に少し考え込み、
「今この世界の“神”ってさ、結局、誰かのためになる願いしか現れない。
友人、恋人、家族、結婚、金銭、勉学・・・どれも“誰か”とつながることや“社会で役立つこと”が前提になっている。」
ロミーは小さく頷きながら続けた。
「逆に、“芸術”はどうなんだろう。自分だけが楽しいとか、
誰にも理解されなくても幸せ、って感覚が、今の世界では“神”として成立しない気がする・・・。」
少女は両膝を抱えてベッドの隅で、静かに口を挟む。
「私は、誰にも言えない“好きなこと”があった。でも、
それが“誰かのため”になっているかなんて、考えたこともなかった・・・。」
ロミーは窓の外に目をやる。
「配信をやってたとき、最初は“自分の表現”のつもりだった。
でも、結局“見てもらう人”がいなきゃ何もならない。
視聴者がコメントをくれて、それを通じて“つながり”が生まれて初めて“価値”になる。
芸術でさえ、結局“関係性”の中に吸収されて、初めて“神”の世界に入れるんだよ。」
アムは苦笑しながら付け加えた。
「もし誰にも見られなければ、それはただの独り言。
芸術の神が生まれないのは、そのせいかもしれない・・・。
本当は、誰にも伝わらない幸福や孤独な満足が“最も深い救い”になることもあるはずなのに。」
少女は顔を伏せていたが、ぽつりと呟く。
「でも・・・私は、誰か一人でも“分かる”って言ってくれたら、それだけで十分嬉しかった。
だから、“誰かのため”じゃなくても、本当は“自分のため”でよかったのかな・・・。」
ロミーはそれを聞いて微笑んだ。
「そうかもしれない。でも、社会の仕組みや“神”の世界では、
“自分だけの幸せ”は守られない。“皆のため”に価値があるってことだけが残っちゃう。
今の社会では、“個”の幸福が一番無視されやすいんだ。」
アムはベッドに座ったまま、手のひらを見つめて言った。
「芸術も配信も、“つながり”がなければ神になれない。でも、本当は、
孤独な幸福だって、本物の救いかもしれない・・・。」
しばらくの沈黙。
病院の廊下から、遠くで笑い声が微かに響いてきた。
三人はそれぞれ、自分だけの“好きなもの”“救われるもの”を心の中で思い描いた。
ロミーが最後に言う。
「結局、“神”が現れるのは、社会が“これが大事”って認めたものだけなんだよね。
でも、それ以外の“ちいさな幸せ”が、時には一番大切だったりする。」
その言葉は、静かに病室に染み込んだ。
誰かのため、みんなのため、それも大切。
だけど、“自分のため”を忘れてしまったら、本当の意味で救われることはないのかもしれない。
三人の心の奥に、ゆっくりと“答えの出ない問い”が残り続けていた。
春の終わり、病院の朝はひんやりしていた。
少女はまだ細い体を起こして、窓から差し込む光をじっと眺めていた。
毎日少しずつ、アムやロミーに励まされながら、
ストレッチや食事、短い散歩にも取り組むようになった。
だが「もう元気になった」と思えるほど、心も体も簡単には癒えなかった。
病院の廊下を歩いていると、
看護師や他の患者たちが少女に気づいても、
ほとんど誰も声をかけてこない。
それはこの社会の“無難”な優しさであり、
同時に“見て見ぬふり”の冷たさでもあった。
少女はリハビリの途中、時折ガラス越しに母親の病室を遠くから見つめた。
母親が静かに眠る姿を見て、
「あの人もずっと苦しかったんだろうな・・・。」と考え込むことが多かった。
でも、自分が今どうあるべきなのか――
『誰かのために強くなりたい』という気持ちと、
『本当は自分のことすら、まだ守れていない』という痛みが、
少女の心で何度もせめぎ合っていた。
夜になると、アムやロミーと短い会話を交わす。
「焦らなくていいよ。」とロミーが言うたびに、
少女はほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
アムも「何もしなくても、ここにいるだけでいい。」と繰り返してくれた。
ある日の午後、病院の廊下で少女は立ち止まった。
大きな決意はないけれど、
「今なら、母親に会ってもいいかもしれない・・・。」
そんな、かすかな思いが自分の中に芽生えていることに気づいた。
アムとロミーは何も言わず、静かに見守った。
少女は母親の病室へ向かい、
扉の前で一呼吸置く。
ノックの音が、病院の静寂に小さく響いた。
カーテン越しに母親の横顔が見える。
少女は短く言葉を絞り出す。
「・・・お母さん。」
母親は一瞬驚いたように目を見開いたが、
弱々しく微笑んだ。
「来てくれて・・・ありがとう。」
少女はそれだけで十分だった。
自分が自分の足でここまで来たという実感が、
小さな誇りとなって胸に残った。
「なんか・・・すごいムキムキだけど。」
アムが誇らしげに、頼れる少女の背中を押した。
春の朝、病院の窓からは青く澄んだ空が見えた。少女の退院の日が決まり、病室にもどこか“旅立ち”の空気が流れていた。
「ああ、ひと段落ついたな。じゃあ、話し合おう、相棒。」
アムがロミーに語りかける。
「そうだな、こっちも話したいことがあったんだ。嫌というほど・・・いや、好きというほどな。」
ロミーは笑みを浮かべる。しかしアムは、ロミーが何をしたのか、詳しく聞いてはいなかった。大体は察しているが。
「結局何していたの?」
アムが問う。
「心臓含めたバルクアップ。」
ロミーはさらりと答える。
「筋トレで解決するのはさすがに笑うしかないわ。」
アムは呆れてつぶやく。
「努力感が足りないのが原因なら努力するしかないだろ。彼女にはボディービルをやらせておいた。自分も勉強と筋トレを重ねて頑張ったが、もっと昔に呼べていたら栄養消費が減らされずちゃんと体を作れた。」
アムは自嘲気味に笑う。
「綺麗で可愛くて私は好きよ?」
ロミーがからかうように言う。
「いい加減、ユリから脱却したくてね。」
「もう多分気づいても視聴者が解放してくれないわ、多分。」
ロミーは肩をすくめる。
「十年は持つけれど、十五年したら多分これだぞ?」
アムは自身のイメージする未来をロミーに見せる。それは、見るに堪えない姿だった。
「四十歳になったらやめてもいいわよ。」
ロミーは笑いながら言う。
「フリフリだけは勘弁だ。」
アムは顔をしかめる。
アムは少し緊張した面持ちで、ロミーの隣に腰掛ける。
「もうすぐ、ここもお別れだな。」
そう言ってから、ふっと苦笑した。
「なんだか、いざ出ていくとなると変な気分だ。」
ロミーも同じように窓の外を見ながら、ぽつりと呟く。
「毎日同じ景色だったはずなのに、今日は全然違って見えるね・・・。」
しばらく静かな間が流れる。
アムはポケットの中で小さく拳を握った。
「俺さ、正直に言うと、これからどうしたいのかずっと分からなかった。
でも、配信でいろんな人の話を聞いたり、
自分たちの日々を誰かに伝えたりして、少しずつ思うようになったんだ。」
ロミーは横顔でアムを見る。
「思うようになった・・・って?」
「誰かと一緒に、何か面白いことを続けてみたい。
それが世界を変えるとか、偉大なことじゃなくていい。
俺たちが“ここにいる意味”を見つけられるなら、それで十分だって思えてきた。」
ロミーは小さく頷く。
「それ、なんだか分かるな。
配信でみんながどんなふうに日々を過ごしているか聞いて、
“特別じゃなくても生きてていい”って、やっと思えた気がする。」
二人はそれぞれ、未来への不安をほんの少しだけ手放していた。
静かな時間の中、約束の言葉は交わされなかったが、
「これからも二人で、何かをやろう」という気持ちは
確かにその場に残っていた。
少女はその様子を見て、安堵の色を浮かべる。
新しい一歩はまだぼんやりしていたけれど、
三人はそれぞれの「自分の居場所」に向かい始めていた。
昼下がりの病室は、外の明るさがまるで守られた空間のように感じられた。
三人で過ごす最後の食事。
少女はおかずを一つ一つ大切そうに噛みしめながら、
時折、アムやロミーの顔をちらりと見ていた。
「ねえ、もしこのままずっと一緒だったら・・・どうなってたと思う?」
少女がぽつりと口を開く。
アムはちょっと考えてから、肩をすくめて笑った。
「うーん・・・多分そのうち、ロミーに怒られてたと思うな。サボるなー!って。」
ロミーはわざとらしくため息をつき、
「いや、むしろアムが食事担当になってくれたら楽だよ。案外、病院のご飯も悪くないんだよね・・・。」
少女はくすりと笑い、少しだけうつむいた。
「でも、きっとずっとは無理なんだよね。みんなそれぞれ、やりたいことも違うし。」
アムは真面目な顔になり、
「うん。たぶん、ずっと一緒っていうより、それぞれの場所で頑張った方が、
また“ここで会いたい”って思えるんだろうな。」
窓の外には、新緑がまぶしく揺れている。
ロミーは、外の光を見つめて言葉を続けた。
「でも、ここまで来られたのは奇跡みたいなものだと思うよ。
配信を通じていろんな人と出会って、結局ここにたどり着いた。
一人きりだったら、こんなふうに“明日が楽しみ”なんて思えなかった。」
少女は、アムとロミーの間に流れる静かな空気を感じていた。
「二人とも、なんか前よりずっと“自分の顔”になった気がする。」
少女の言葉に、アムは少し照れくさそうに笑った。
「アムには裏の顔があるんだよ・・・枕営業専用の・・・。」
ロミーが面白そうに言う。
「ASMR配信を枕営業と言うな。」
アムはすかさずツッコむ。
アムはうなずく。
「人のためとか、何か大きなことをしようとかじゃなくて、
まず自分が“ここにいていい”って思えたのが大きい気がする。」
ロミーもその言葉に同意するように微笑む。
「それに、これから何かを始めるとしても、
もう“失敗を怖がらなくていい”って思えるようになった。
配信でも、農業でも、何でも・・・。」
少女は驚いた顔でアムを見た。
「農業・・・?」
アムは慌てて首を振り、
「いや、まだ決めたわけじゃないよ。ただ、今までと違うことをやってみたいなって思ってさ。」
ロミーがいたずらっぽく笑う。
「いいじゃん。どうせなら泥だらけになって、配信で実況してみれば?
多分、今よりずっと面白いと思うな。」
三人の間に、自然な笑いが生まれる。
“これから”に不安はあっても、どこか温かな期待も混ざっていた。
少女はもう一度アムとロミーを見つめた。
「いつか、どこかでまた会えるよね。」
アムもロミーも、同時に力強くうなずいた。
「もちろん。」
「また絶対、会おう。」
沈黙の後、三人は同時に小さく息を吐いた。
別れの寂しさが胸に広がる。でも、その奥には「ここまで来た」という確かな自信と、
「これから進む」ための小さな勇気が芽生えていた。
病室の外で風が揺れ、春の匂いがゆっくりと窓から流れ込んでくる。
三人はもう、過去の自分たちとは違っていた。
退院の日、病院の玄関先は、いつもよりまぶしい春の光に包まれていた。
三人は小さな荷物を持って並び、
一つの場所からそれぞれの道へ歩き出すタイミングを静かに待っていた。
アムはふと立ち止まり、ロミーに目を向ける。
「結局、“神”も“仕組み”も、俺たちに全部の答えをくれるわけじゃない。
それでも、祈ることで気持ちが楽になったことも、
仕組みのおかげでここまでこれたことも、確かなんだよな。」
ロミーは頷きながら、少し笑みを浮かべる。
「そうだね。“信じる”って、万能じゃなくていいんだと思う。
正しさや奇跡なんてなくても、今日を生きる理由になるなら――
それで十分なんじゃないかな。」
少女は二人のやりとりを静かに聞いていた。
「私も、いつか自分のことを信じられるようになりたい。
『誰かのため』と『自分のため』、両方を大事にして生きていけたらいいな・・・。」
アムは彼女に優しく微笑みかける。
「焦らなくていいよ。俺たちもまだ、何が正しいかなんて分からないんだから。」
ロミーが軽く手を振る。
「迷ったら、また配信で声をかけてよ。どこにいても、きっとすぐ見つかるから。」
三人は最後に見つめ合い、ゆっくりと別々の道を歩き出す。
アムとロミーは病院の門をくぐりながら、
「これから、何を始めようか。」
「面白いことなら、何でもいいよ。」
と、互いに笑い合った。
少女は母親の病室に向かう。
まだ不安も残っているけれど、もう“ひとりきり”ではなかった。
外の世界は、昨日と同じようでいて、
三人の心の中には確かな「今日を生きる覚悟」と、
小さな祈りの力が息づいていた。
病院の廊下を、少女はゆっくりと歩く。
何度も行き来したこの道も、今日で最後かもしれない。
母親のいる病室の前で立ち止まり、
小さくノックをする。
中から弱々しい声が返る。
「どうぞ・・・。」
少女はそっと扉を開ける。
母親は枕元に頭をもたせかけ、少女の姿を見ると、
ほっとしたように微笑んだ。
「退院、決まったのね・・・。本当によかった。」
少女は少し照れくさそうに、ベッドの脇に腰を下ろした。
「うん。まだ体は本調子じゃないけど、自分で決めたんだ。
ここから、少しずつでも前に進もうって・・・。」
母親は娘の手をそっと握り返す。
「あなたが元気でいてくれるだけで、私は十分よ。」
少女は静かにうなずく。
「これからは、自分のためにも生きてみる。
でも、お母さんのこともちゃんと大事にするから・・・。」
二人は言葉少なに、互いの温もりを感じていた。
長い沈黙の後、母親が優しく言う。
「無理しなくていいのよ。
今のままでも、十分頑張ってるもの。」
少女の目に、そっと涙がにじんだ。
「ありがとう・・・。」
病院の外では、アムとロミーが並んで歩いている。
互いに特別な約束はしなかったが、
その歩幅は自然に揃っていた。
春の風が吹き抜ける中、
三人はそれぞれの場所から、
新しい日常へ静かに一歩を踏み出していった。
季節はめぐり、春から初夏へ。
町は静かに賑わいを取り戻し、田舎の畑には新しい芽がのびはじめていた。
農道を歩く人々は、日の出とともに畑へ出て、
泥にまみれ、黙々と作業をこなしていく。
畑の一角で、アムとロミーが肩を並べて土を耕している。
ふたりは都会へ戻らず、この町に残って農業を始めたのだった。
朝は冷たい水で顔を洗い、昼はおにぎりを分け合い、
夕方には畑の小屋で配信機材をセットする。
「毎日土だらけだな・・・。」
アムが笑いながら手についた泥をこすり落とす。
「これが意外と悪くないんだよね。」
ロミーも同じように笑い、
スマートフォンのカメラを持って畑の景色を映す。
配信画面には、畑の風景と、ふたりの日々の何気ないやりとりが映し出される。
視聴者は少ないが、時々送られるコメントに返事をしながら、
今日の出来事や、小さな発見、そしてささやかな祈りを語り合う。
町の人々もまた、誰に強制されるでもなく、
農作業の合間や休憩のひとときに、
それぞれの神様へ短く静かに祈るようになっていた。
一方、都市の高層ビル群では、
多くの人が合理と安定を信じて働き続けている。忙しさの中に、祈りや神を持たない人もいるが、それでも誰もが“今日という日”を確かに生きていた。
華やかな革命も、派手な事件も起きない。
社会は“普通”の中に、静かで小さな祈りと幸福を
少しずつ受け入れていくようになっていた。
夕暮れの空に淡い茜色が広がる。
畑の端で、アムとロミーが並んで腰を下ろし、
遠くの山並みを静かに眺めていた。
配信を終え、道具を片付け終えたふたりは、
何を話すでもなく、同じ景色をただ見ていた。
一日の労働で疲れた体にも、
胸の中には、確かに満ち足りた感覚があった。
「これでいいのかな・・・。」
アムがふと呟く。
ロミーは優しく笑って答える。
「いいんだよ。特別なことがなくても、
毎日生きていれば、それだけで十分だと思う。」
ふたりの後ろでは、田舎町の灯りがひとつ、またひとつとともり始める。
どこかの家で、誰かが今日の無事を祈りながら夕飯の支度をしている。
誰もが、自分なりの“ささやかな幸せ”を胸に、
静かに、明日へと歩き出していた。
アムとロミーもまた、
土の感触と、小さな声の配信、
そしてごくありふれた日々の中に、
これからの自分たちなりの物語を紡いでいくのだろう。
祈りは誰かを特別に救うものではなかった。
けれど、祈りがあることで、誰もが“今日を生きる理由”を見つけられた。
静かな未来の中で、
三人それぞれの小さな一歩と、
社会に広がる無数の祈りが、
今日もまた重なり合っていく。
物語は一旦ここで。
だが、その静かな営みは、
これからもどこかでずっと続いていく。