第9話 聖女の追放
サルヴィアン聖王国。
その国は、この世界において最も大きな大陸であるベルミラントの中でも多大な影響力を持っている。
しかしそれは他の列強のように圧倒的な軍事力を保持している、広大な国土を有している、種族的な優位性があるなどといったものではない。
サルヴィアン聖王国が強い影響力を持ち続けられるその唯一無二の理由は、この大陸において広く信仰されているルミラ教の総本山を首都とする宗教国家であるからだった。
この国は豊穣と慈愛の女神ルミラを信奉する多くの神官たちを輩出している。
彼らはモンスターという危険な生物が跋扈するこの大陸において、それらと戦う者たちの傷を神の奇跡によって癒して回っている。
それが神官たちにとっての修行であり、また女神ルミラへの信奉の証なのだ。
それらの行為は、どんな人種、どんな場所においても分け隔てなく行われている。
もちろん時の有力者が、その癒しの力を独占しようと考えたこともあったが、それらは周辺諸国によって潰されるという歴史が繰り返されてきていた。
そういった積み重ねもあり、現在サルヴィアン聖王国に手を出そうとする国は存在しない。
そんなサルヴィアン聖王国の首都ミラーラには、ルミラ教の総本山である聖ルミラ大聖堂が存在していた。
そこはかつて女神ルミラが降臨したと伝えられる土地であり、それを証するかのように職人たちの技術の粋を凝らした絢爛豪華な聖堂が建っている。
ここに勤めることができるのはルミラ教徒の中でも限られた者ばかりであり、その椅子を狙ってし烈な争いが起きていることは公然の秘密だった。
そんな聖ルミラ大聖堂の最奥に、その圧を感じさせるほどの芸術的な外観にそぐわない一室があった。
白無地の壁には飾りはなく、置かれているのは壁際に置かれた古い木の机と簡素なベッドのみ。くすんだカーテン越しに差し込む光がなんとか部屋を照らしているが、それも日中を過ぎれば入らなくなってしまうような場所だった。
その部屋の中で椅子に座り、経典を写していた少女がそのペンを止める。彼女はその美しい漆黒の瞳を閉じると、ゆっくりと息を吐いた。
「終わり、みたいね」
その言葉が合図であったかのように、外の渡り廊下を歩く音が彼女の耳に届く。
手抜きではないかと思うほどに、いや実際に手抜きなのだろうが簡素な板が張られただけの廊下を踏み抜くのではないかと思うほどの大きさの足音だ。
そしてノックもせずに部屋に飛び込んできたのは、彼女の管理者であるアーチー枢機卿だった。
「とんでもないことをしてくれたな、ソフィア」
「とんでもない、とは?」
清貧を是とする聖職者とは思えないほどの贅肉を体に張りつけ、荒い息を吐きながらアーチーがその彼女、ソフィアを糾弾する。
くすんだ黒髪を揺らしながら振り返ったソフィアは、その動きだけで大きな音を立てる椅子に辟易としながらも、睨みつけるアーチーの視線をものともせずに見つめ返した。
なぜアーチーがこれほどまでに怒っているのか、既にソフィアは知っているからだ。
「貴様の虚偽の予言のせいで、貴重な聖騎士が8名犠牲になった。オリバーも片腕を失くし、もはや使い物にならん」
「そうでしたか。それは悲しいことです」
「心にもないことを」
ソフィアの形ばかりの言葉に、アーチーの怒りのボルテージが上がっていく。
顔を真っ赤に染め上げていくアーチーの姿を眺めながら、ソフィアはそのうち血管が切れるんじゃないかしら、などと余計なことを考えていた。
「しかしそんなことはどうでもいい。最も重いお前の罪は、お前があるといった宝がどこにもなかったということだ。お前はただ無駄に聖騎士を殺し、優秀な駒の未来まで奪ったことになる」
そこまで言い切ったアーチーは、一転して晴れやかな笑顔を見せる。それだけでソフィアは次にアーチーが発するであろう言葉が予想できてしまった。
もちろんソフィアにも言いたいことはある。
ソフィアがアーチーに伝えた情報は、あくまで『という話がある』程度のものなのだ。それを信じ、実際に命令を下したのはアーチーに他ならなかったはずなのだが……
「聖女ソフィアよ。背信者である貴様は、いくら慈悲深き女神ルミラも許しはしないであろう。今この時をもって、聖女の任を解き、破門とする。すぐに出て行くがよい」
「承知いたしました」
「やけに素直だな。ふん、まあ良い。これまで10年の務めの報いとして、部屋に残っている物は好きに持っていくがよい。私の慈悲に感謝することだな」
もはやここには用はなく、こんな薄汚れた場所には一瞬もいたくないと、アーチーはそのでっぷりとした体を揺らして部屋から出ていった。
扉の向こうに消えるアーチーの背中を見送り、ソフィアは大きなため息を吐く。
「予想していた中では良かった方かな」
背もたれにぐでっと体重を預けたソフィアは、抗議の声をあげるそれを無視して部屋の中を見回す。
聖女として務めた、いや半ば監禁のような形で押し込められたこのボロ部屋だったが、長年住み続けていれば愛着も湧く。
「しかし好きに持って行けと言われてもね」
この部屋には金銭的に価値のある物などほとんどない。今ソフィアが使っているペンと経典を写すための紙はそれなりの値段はするだろうが、それ以外の容易に換金できそうな装飾品などはまったくなかった。
聖女の儀式用の衣装でもあればかなりの価値になるのだが、この部屋の粗末な箱に収められた衣服は、すべからく着古したものばかりだった。
「まあ文句を言っても始まらないしね」
ふぅ、と息を吐いて気持ちを切り替えたソフィアは、着替えなど最低限必要なものを洗濯に出す時に使う袋に詰め込んでいく。
そして机の中から自らが書き写した経典を綴ったものと、写経に使う予定だった紙を取り出すと、それを丁寧に袋に詰め込んだ着替えの上に置いた。
紙の束の重みで沈みこんだ自らの着替えを見つめたソフィアは、その元となった経典を机の上に綺麗に並べる。破門されたソフィアにとって既にこの経典は意味のないものなのだ。
このミラーラにおいて経典を売ることができるのは教会のみであり、それを売ることのできる国外まで持っていくには重すぎる。
幼少の頃から使用し、愛着あるその本の淵を軽く撫で、ソフィアは笑った。
「今までありがとう」
そう言い残し、ソフィアは他に必要そうな物を揃えて袋に詰めこんだ。
3日分程度の洗濯物しか入らないその袋にはまだ余裕があったが、ベッドや机などの大物を持ち運べるわけがない。
旅立ちに必要な物がなくなったのにも関わらず、あまり今までと変わりのない部屋をソフィアは少し寂しそうに眺める。
「じゃあね」
何年も過ごした部屋に別れの挨拶を告げ、洗濯袋を肩に背負ってソフィアは渡り廊下を歩きだす。
既にアーチーがソフィアが聖女を解任され、それどころか破門されていることを周知しているのだろう。一人歩く彼女を見ても蔑むような目つきでひそひそと話すばかりで、言葉をかけるものは誰もいなかった。
なるべく人目につかない細い通路を通り抜け、ソフィアはやっとのことで大聖堂の出入り口へと到着する。
そして信徒に向け開け放たれた門をためらうことなく超えると、振り返りもせずそのまま去ろうとしたのだが……
「ソフィー」
かけられた懐かしい声にソフィアが振り返る。大聖堂の出入り口脇の壁に背を預けるようにして立っていたのは、キリリとしたブラウンの瞳が印象的なソフィアよりも少し年上に見える女だった。
「ミア。どうしたの、その傷」
「ああ、うん。神殿騎士をやめるって言ったら聖騎士長にぶん殴られただけ」
「治せばいいのに」
「不義理をしたのは私だから。この傷は自然に治るまで待つよ」
赤く腫れた頬を撫で、少しぎこちない笑いをミアが浮かべる。
そしてミアは壁から背中を離すと、その肩口で切りそろえられた青髪から伸びた三角の耳を揺らしながらソフィアに近づいていく。
「じゃあ行こうか」
「いいの?」
「ソフィーのことは私が守る。それが約束でしょ」
ソフィアの横に並んだミアは、その手で優しく彼女の頭を撫でると先導して歩き始めた。
いつの間にかごつごつと硬くなったミアの手を感じながら、その変わらぬ姿にソフィアは頬を緩め、そのピョコピョコと揺れる長い尻尾の後に続いて歩き始めたのだった。
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