581 ゲルバー伯爵始末
王妃、王子とベルタ嬢のお茶会は開かれたが、王子はこの頃よく見る可愛い小動物にナッツなどをやって構っていてベルタ嬢のほうは見向きもしない。
ここにきて王妃は自分の親族の権力維持より、愛する息子の幸せの方が良いのではないかと思い始めたので、息子を咎めなかった。
それに王妃はゲルバー伯爵と密かに連絡をとっている侍女を見つけたのである。捕らえてみればゲルバー伯爵からの王宮直轄の農園の周辺に賊が出るとの情報を表に流したと自供した。
侍女は親がつけてくれた侍女で、自分の父がラシュレー侯爵殺害に関与しているのではないか、いくらなんでも侯爵を殺害するとはやりすぎであるとため息をつくばかりである。
娘ベルタよりお茶会の首尾を聞いたゲルバー伯爵、王妃の態度がいささか従前とは異なっており、不安にさいなまされるのであった。
娘は恬淡としている。
「もういいわ。今日で良くわかった。私の母も商家の出だし、もし私が妃になっても気苦労してしまう。無理はしない方がいい。これ以上血を流す必要はないわ」
ラシュレー侯爵を殺害したのを娘に知られていたのか。気づかれないように細心の注意を払ったのに。
「巷で噂しているわ。友達からも言われた。世間では証拠がないから近衛兵が踏み込まないけど、ラシュレー侯爵を殺害したのは父上だと思われているわ。揺るぎない事実と取られている。もうよした方がいい。よさないと良くないことが起こる気がする」
人を殺害、それも侯爵を殺害したのである。今更後には引けない伯爵である。
次の日、伯爵が気がつくと娘は妻と消えていた。離婚届と貴族簿からの除籍願の写しが置いてあった。里に帰ったのだろう。
この国では夫婦どちらからでも離婚届が役所に提出できる。それ相応の理由があれば受付されるのである。もちろん異議申し立ては出来る。その場合公開裁判となる。女性が貴族家から出て行った場合、離婚届と貴族簿除籍願はセットである。離婚が成立すれば貴族簿から除籍される仕組みだ。
伯爵は、すぐ離婚すると申し出た。公開裁判の泥試合は避け最低限の体面は保った。それにより離婚が成立し、元妻と娘が貴族簿より除籍された。
ベルタ嬢からノエル宛に手紙が来た。
内容は、以下の通りであった。
母が離婚届・貴族簿除籍願を出した。父は貴族の体面があるからすぐ離婚を役所に申し出るだろう。母の実家に帰る。知らなかったとはいえ大変な迷惑をかけた。お詫びのしようがない。なお、母と私は父とは無関係になった。父がどうなろうと私どもの知るところではないと書かれていた。
直接的には書いてなかったが、侯爵殺害について認める内容であった。
伯爵は肝心の手駒の娘に去られてしまって、権力を得る手段がなくなってしまった。伯爵に残っているのは侯爵殺害疑惑のみである。殺害による益は何もなかった。
伯爵が目を血走らせている。
「もはや後はない。司直の手が伸びる前に、諸悪の根源のノエルとアンリを殺害する。今夜屋敷に討ち入る。用意しろ」
伯爵は乱心したと思い奉公人は顔を見合わせて動かない。
侯爵邸から転げ込んで来ていた元侯爵家の奉公人。ここにいては危ないと逃げ出した。
侯爵家領地で働く人は先祖代々働いている、いわばおらが殿様という人達だが、王都の侯爵邸で働く人は違う。下働きを除き、王家や貴族との付き合い方に詳しい者たちを雇っている。さほどの忠誠心はない。忠誠心はないがプライドは高い。侯爵家を鼻にかけ、親戚から嫌われている。したがって今度のような場合、親戚を頼ることが出来ない。行くところがないので近衛兵詰所に行った。侯爵家に客人が多く、今退避しているが客人が帰るまで兵舎に泊めさせてくれと申し出た。
近衛兵はびっくりした。大挙して侯爵家の奉公人と言っている者とその家族が押し寄せてきた。理屈に合わないことを言っている。
とりあえず侯爵家にお伺いを立てた。侯爵家はその者たちは当家から自主的に去った者であり、当家とは一切関わりがないとの返事であった。
弱った近衛兵。今までどこにいたか聞いたところ渋々ゲルバー伯爵邸であると白状した。
近衛兵も噂はもちろん承知しているので、総出で押し寄せて来た者を伯爵邸まで押し戻した。
ゲルバー伯爵は乱心者である。
「穀潰しの役立たずどもめ。逃げ出したくせにおめおめと何故戻って来た。殺してしまえ」
率先して戻って来た者に切りつけた。
切りつけられれば日和見の元侯爵家奉公人でも応戦する。
「元はといえば伯爵の邪な欲望が引き起こしたことだ。伯爵がいなければ俺たちは侯爵家奉公人で終われた。コイツらのせいだ。もう行くところがない。やってしまえ」
利益がちらつき侯爵家を裏切ったことは棚に上げて伯爵に責任転嫁する元侯爵家奉公人である。
逃げ遅れた伯爵家奉公人、元侯爵家奉公人に切りつけられたので応戦する。こうなったのは乱心者の伯爵のせいであると伯爵にも切り掛かっていく。伯爵も応戦する。
伯爵邸内は凄惨な現場となった。
大乱闘に仰天した下働きの連中。逃げ出した。逃げる先はもちろん近衛兵詰所である。
「おいまた来たぞ。今度は少ない」
「助けてくだされ。お助けくだされ」
今度は前の連中より遥かにマシである。事情を聞いた。
ゲルバー伯爵家で、元侯爵家奉公人と伯爵と伯爵家奉公人が三つ巴で真剣で大乱闘をしているとの話である。
「前代未聞だ。宮中にいる隊長に事情を話してすぐ呼んでこい。俺たちではどうにもならない」
慌てて馬で王宮を目指す近衛兵。もはや貴族街から王宮までは騎乗禁止という規則は頭から飛んでしまった。前代未聞の事件が出来したのである。
王宮の門で騎乗の近衛兵は取り押さえられた。
すぐ近衛隊長が呼ばれた。騎乗で近衛兵が貴族街から王宮まで駆けて来たので捕らえたと言われて、顔色を悪くして王宮の門まで急いだ。
「隊長。ゲルバー伯爵邸で大乱闘です。元侯爵家奉公人とゲルバー伯爵とその奉公人が三つ巴で真剣で大乱闘です」
非常事態では近衛兵は貴族街の騎乗が許されているのでホッとした隊長であるが、その先の事情に再び顔色を悪くするのであった。
「侯爵家はなんと言っている」
「侯爵家は、その者たちは当家から自主的に去った者であり、当家とは一切関わりがないとのことでした」
方便でそのようなことを言うことがあるが、今回は方便ではなく事実である。それは隊長も掴んでいる事実であった。侯爵家に責任を問うことはできない。
「どうして乱闘とわかった」
「伯爵邸の下働きの者たちが近衛兵詰所まで逃げて来ました。彼らからの情報です」
「貴族邸は自治である。ゲルバー伯爵邸の周りを固めろ。伯爵邸から誰も出すな。逃げて来た下働きの者には、貴族邸は自治である旨さとし、伯爵邸に戻るもよし、縁故を頼って立ち去るもよし、好きにさせよ。騎乗を許す。すぐ戻って手配せよ」
近衛兵は馬を走らせ戻って行った。
近衛隊長は、宰相と侍従長に事情を話し、手勢を引き連れすぐ馬を飛ばして伯爵邸に向かう。
現場に到着するとすでに近衛兵が伯爵邸の表と裏を固めていた。
「どうだ」
「まだ音がします」
「そうだな。剣戟の音だ。音がしなくなるまで待とう」
しばらくすると音がしなくなった。
「両隣の執事長を呼んでくれ。立ち会ってもらう」
様子を見ていた執事長、すぐ来た。
「お聞きの通り、ゲルバー邸から剣戟の音がして、今止んだところです。御両家にはお手数ですが、お立ち合い願いたい」
「「承知しました」」
近衛隊長が門を叩く。
「たのもー。こちらは近衛隊長である。騒乱の音が邸内よりありとの報告があった。役目により検める。ゲルバー邸の方、門を開けよ」
中からは返答がなかった。
「開けろ」
近衛兵が隣家から差し出された梯子を使い、塀を越えて中に侵入、中から門を開けた。
中は死体だらけである。やっと伯爵を探し当てた。膾のように切り刻まれていた。よほど恨まれていたのだろう。
一応全て調べた。もはや生きている者はいない。
近衛隊長、隣の両家の執事長、近衛兵は屋敷を無言で出た。
「門を閉じろ。指示あるまで誰も入れるな」
「立ち会いありがとうございました。ご覧の通り中は死体だけでした。処理については上部の指示を仰ぎます。可及的速やかに処理する所存ですが、御両家におかれましては、しばらく我慢のほどお願いいたします」
「「了解しました」」
執事長達はそれぞれの屋敷に戻って行った。
近衛隊長は屋敷の表裏の門の見張りの近衛兵を残して兵を引き上げさせた。
すぐ王宮にとって返して、宰相に報告した。
宰相も困ったと見えて、近衛隊長はすぐ宰相に腕を取られて、国王のもとへ連れて行かれた。
国王様と王妃様が揃っていた。
宰相と近衛隊長が報告した。
国王が聞く。
「ゲルバー伯爵の分家などはあったかな」
「分家、本家、双方ともありません」
宰相が答える。
「親しい貴族はいないのか」
「いません」
王妃が断言した。
外戚とゲルバー伯爵の関係を不問とする事と引き換えに外戚政治をやめることが国王、王妃、外戚の間で確認されていた。
「ならしょうがないな。伯爵家は断絶。伯爵と言われる死体は切り刻まれていたのだろう。伯爵かどうかわからぬ。死体は全て無縁墓地に葬れ」
国王のゲルバー伯爵への評価がよくわかった王妃、宰相、近衛隊長であった。
宰相が応える。
「すぐ処理します」
「立ち会ってくれた両家と執事長には宰相名で褒状を出せ」
「承知しました」
宰相と近衛隊長は陛下の執務室を下がった。
「全て終わったな。王妃様も吹っ切れたようだ」
「はい。終わりました」
すぐに遺体は無縁墓地に葬られ、ゲルバー伯爵邸は取り壊された。




