第1章 第2話 ヒント
翌日の昼休み。俺は約束通り千堂のクラス、一年A組へと来ていた。正確には教室が見える廊下。まずは下調べといったところだ。
「やっぱさー、男に媚びんのとかダサくない?」
「そんなんありえないっしょー。どっかの誰かさんじゃないんだからさー」
千堂の姿は探すまでもなかった。教室の最後列。動物のように群がってわめいている女子たちの視線の先、具体的にはその隣の机で俯いていた。
「つかさー、なんかジメジメしない? 暗いのが移りそうなんだけどー」
昨日千堂が言っていた発言力の高い女子、というのが隣の奴らなのだろう。何の意味もない陰口を馬鹿みたいな大声でくっちゃべり、耳障りな笑い声を上げている。ま、ご機嫌取りしかできない有象無象はどうとでもなる。問題は、その中心人物。
「あんたら、ゴミであたしの机汚さないでくんない?」
唯一椅子に座っていた女子がそう口にすると、ほんの一瞬だが笑い声が止まった。そしてすぐに取り繕うようにして会話が再開され、机の上のパンの袋が片づけられる。
一年生が入学してから約二週間。まだクラス内のカーストもはっきりと定まっていない頃だろう。それでも女子たちは彼女を中心にして集まっており、彼女もそれを当然のようにしてスマホに目を向けている。間違いない、あいつがいじめの主犯格。
「百井雨音、か」
優れた容姿に派手なセミロングの茶髪。見た感じ小柄だが、存在感はこのクラスの誰よりも上。何より他人に指示するのが、あまりにも堂に入っている。きっとこれまでの人生も、人を虐げ上に立ってきた人物なのだろう。
「ご、ごめんね雨音ちゃん……」
「いいって。それより捨てる場所間違えてない?」
百井はコンビニの袋にヨーグルトのカップをしまおうとしていた女子の一人からそれをひったくると、そのまま横に投げつける。
「ゴミはゴミ箱、でしょ」
「っ……!」
ヨーグルトの中身がまだ入っていたのだろう。カップをぶつけられた千堂の髪や制服が白に染まっていく。
「はは、ビッチにふさわしい姿になったんじゃない?」
「た、確かに―! あはははは!」
「…………」
女子たちの動物のような笑い声が響く中、当事者の千堂は何も言葉を発さない。ただ嵐が過ぎるのを待つかのように、小さな身体をさらに小さくしてじっと耐えている。まるでかわいい小動物のようだ。
「確かにな。俺もそう思うよ」
ようやく俺の出番が来た。教室の前方にあったゴミ箱を手にして千堂の方へと歩いていく。
「射丹務さん……っ」
そして俺を見るなりぱぁっと顔を明るくした千堂を無視し、
「ゴミはゴミ箱、だろ?」
百井の頭上からゴミ箱に入っていたゴミを全てひっくり返した。
「しゃ、射丹務さんっ、それはやりす……」
「はは、ゴミにふさわしい姿になったな」
「……あ?」
この期に及んでまだ甘いことを口走る千堂を変わらず無視して言葉を吐くと、百井の鋭い瞳が俺を見上げた。俺だって普段はこんなやり方はしないが、一番効果的なのはやられたことをそのままやり返すこと。論理的に言い返せないことをやるのが最も楽で、最も屈辱を煽ってくれる。
「あんた何して……!」
「三下は黙ってろ」
適当に机を蹴って音を出すと、絡もうとしてきた女子がびくっと震えて一歩後ずさる。やっぱりこいつらは上に従ってるだけ。相手する価値もなさそうだ。敵と呼べるのはこいつだけ。
「さっすがビッチの雪華ちゃん。もう男をたらしこんだんだ」
髪の上に乗ったバナナの皮を床に放り捨てながら、百井は俺に構わず的確に標的を傷つけることを選んだ。いい胆力をしている。まぁまだ甘いが。
「正解。雪華はかわいいからな、お前と違って」
イケメンに告られたことから始まったいじめ。ビッチビッチと魚が跳ねるみたいな言葉しか反復しない執着心。考察する余地もない。この女ども、何より百井は千堂のかわいさに嫉妬している。いや排除しようとしていると言った方が正しいか。正面から勝てないなら仲間外れにするのが一番だからな。でも気づいてるか? さっきお仲間は牽制した。今のお前は一人だぞ。
「イケメンが自分になびかなかったのがお気に召さなかったか? ブス女」
「……なに?」
容姿を気にしている奴が一番言われたくないであろう安い餌を放ると、簡単に食いついてきてくれた百井。立ち上がって俺の顔を鋭い目つきで睨みつけてくる。実に扱いやすい。
「あんたもたいしたツラしてないでしょ」
「お前よりはマシだ」
「舐めないでよクソチンピラ! あんたなんかよりあたしの方が百倍マシだからね!」
俺の顔が特別良くはないのは事実。髪もボサボサだし制服だって羽織ってるだけのようなもの。そこを詰めたくなる気持ちはわからないでもないが、周りから見たらどうだろうか。自分より格下の相手に自分の方が優れていると高らかに宣言するのは嫌味に聞こえないか? 頭に血が上ってはそんなこともわからないか。
「だいたいあたしのどこがブスだって言うの!? 説明してみなさいよ!」
「コンビニのスプレーで染めたみたいなただの茶色としか呼べない雑な色味の髪! 流行ってるメイク動画をただ真似てみただけの似合ってない化粧! 着崩し方にセンスがない品のない格好! 立てばがに股座れば猫背! 歩く姿はただの草ァ!」
「っ……!」
説明してみろと言われたので事細かに解説してやると、百井の顔に明らかな焦りの色が見えた。俺に言葉で勝負を挑んだのが間違いだったな。そしてこれで終わりだ。
「お前がどれだけ雪華を貶そうが、お前がブスだって事実は変わらない。悔しかったらお前が雪華よりかわいくなってみせろ。わかったかブーーーース!」
最後に教室の外にまで届くような大声で叫ぶと、俺は足早に教室を出ていく。その背中はさっきまでの陰口祭りが嘘だったかのように静寂に包まれていた。
「射丹務さんっ」
その静寂の中から抜け出してきた千堂が俺へと駆け寄ってくる。その表情は教室にいた時より幾分か晴れやかに見えた。
「あの……ありがとうございます」
「お礼はいい。とりあえずこれ書け」
ポケットの中からくしゃくしゃになった部活動存続届とボールペンを手渡すと、彼女は不思議そうに首を傾げる。
「なんですかこれ?」
「なにって……手を貸してやったら名前を書く約束だっただろ」
「そんな約束した覚えないですけど……」
確かにしていない。これは俺と香苗さんの間のやり取り。そう、していないんだ。千堂はこれを断る正当性がある。だが……。
「これに名前を書けばいいんですね? 別に普通に頼んでくれたら書いたのに」
千堂は何も考えることなく、自分の名前を記入していった。……やっぱりこいつ、嫌いだ。
「……これは今日の完全下校時間まで部室の机の上に置いておく。こいつがないと困るからな。大事に大事に保管する」
「? わかりました」
言葉の意味を考えることすら放棄している千堂からひったくるように書類を受け取り、俺は部室へ戻る足取りを早める。
「あの……これでいじめはなくなるんですよね?」
「他人を見下すんじゃなくて自分を磨け。俺はそう言った。その言葉を受け取ったのならなくなるんじゃないか?」
「そうですか……よかったです。でも女性に対してブスと言うのはよくないですよ? 最低です!」
「そうだな。反省する」
「それは何よりです。みんな正しい方に向かうことができた。これでみんな、幸せになれますねっ」
「だといいなー」
適当に流して千堂と別れ、放課後。
「どうして……いじめはなくなったんじゃないんですかぁ……っ」
大粒の涙を流す千堂が部室にやってくる。その長かった黒髪の先は見るも無残に乱雑に刈られており、いじめがより苛烈になったことを示していた。