レッスン初日
「行ってきます。お母様。」
「いってらっしゃい。エリーゼ。」
レッスンは朝早くから始まる。まだ眠いが、さぼるわけにもいかない。母に見送られて、エリーゼは馬車へ乗り込んだ。
「できるだけがんばろう。できるだけ……」
エリーゼは、馬車の中で事前に送られてきていた本を読んだ。眠かったが、今日は眠らずに城までたどり着いた。馬車を降りるとミハエルが待っていた。
「おはようございます。エリーゼ様。」
「おはようございます、ミハエルさん。よろしくお願いします。」
「こちらこそ。レッスン室へご案内致します。」
エリーゼはミハエルに案内されて、城の中にあるレッスン室へ足を踏み入れた。
「エリーゼ様、こちらがレッスンを担当するマーラです。」
「はじめまして、エリーゼ様。マーラ・セドリックと申します。よろしくお願いします。」
「エリーゼ・サーチェスです!よろしくお願いします!」
エリーゼは、緊張しながらマーラに挨拶をした。マーラは見るからに厳しそうで、怖そうだ。マーラは早速、エリーゼの所作を観察しているようだった。上から下までじっくり見られていて、視線が痛い。気づけばミハエルはいつの間にかいなくなっていた。
「早速はじめます。お届けした本はお読みになりましたか?」
「はい!」
「よろしい。では、まず準備をします。今後はレッスンが始まる前にエリーゼ様がなさってください。」
「わかりました!」
エリーゼは、マーラに終始圧倒されながら、レッスンを開始した。自宅に届いていた本は事前に読んでいたから、少しはレッスンについていけるのではないかと思っていたが甘かった。
「もう少し持ち上げて。」
「はい。」
「もう少し下げて。」
「はい。」
初日のレッスンは所作やマナーのレッスンだった。苦手意識があるだけに苦痛極まりない。何度もマーラから注意を受けて、言う通りに直しても、マーラの指摘は止まらなかった。
「もう少し上です。」
「はい。」
「もっと力を抜いて。」
「……はい。」
何度やってもうまくいかない。この程度のことは、あの茶会に来ていた令嬢たちなら難なくこなせるのだろうと思うと、エリーゼはますます辛くなった。
「午前はこれで終わりです。休憩なさってください。」
マーラが部屋を出ていくと、エリーゼは床に座り込んだ。こんなところを見られたら、また厳しく言われるのだろうが、もう動く気力がない。休憩が終わったら、この続きがあると思うと苦しかった。こんなことをこれから永遠と続けるのだろうか。気持ちが沈んで涙が出そうになったとき、部屋にノックの音が響き、エリーゼは慌てて立ち上がった。
「エリーゼ?」
「殿下!?」
突然レッスン室にユリウスが現れて、エリーゼは慌てた。
「ど、どうなさったのですか?」
「君を見に来たんだけど……今、休憩?」
「はい……」
「これ、持ってきたよ。一緒に飲む約束だったでしょ?」
ユリウスは、ロマーネヴィヨンのボトルをエリーゼに見せると、テーブルの上にグラスを置いてロマーネヴィヨンを注いだ。
「どうぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
「じゃぁ、乾杯。」
グラスを合わせて一口飲むと、甘い香りが口いっぱいに広がった。ユリウスはにこやかにエリーゼを見守っている。
「レッスンは大変?」
エリーゼは目を伏せた。大変だ。大変すぎる。本当ならもう帰りたい。もうやめたい。でも、王太子様にそんなことは言えるわけがない。
「大丈夫です。ちょっと苦戦してますけど。」
「そっか。」
ユリウスも美味しそうにロマーネヴィヨンを飲んでいる。エリーゼは不思議だった。さっきまですごく疲れて、苦しかったのに、なんだか少しだけ気持ちが軽くなってレッスンの苦痛が癒されるようだ。やはりロマーネヴィヨンの力なのか。
「殿下、来てくださってありがとうございます。」
「うん。約束だからね。」
「そうですね。」
「明日も来るからね。」
「えっ?」
「一緒に飲んだ方がおいしいから。」
「そ、そうですね。」
休憩時間が終わると、ユリウスは何事もなかったかのように部屋を出て行った。午後のレッスンも辛かったが、エリーゼは、最後までレッスンを受けることができた。
レッスンを終えたエリーゼは、帰りの馬車で眠ってしまった。
「エリーゼ、起きて!着いたわよ!」
「えっ?お母様!?」
母の声で飛び起きると、エリーゼは慌てて馬車を降りた。
「昨日と大違いね。」
「ごめんなさい。」
「大変だったのね。」
「えぇ……私、続けられるかわからないわ。」
レッスンを思い出したら、涙が出そうだった。きっと今日のレッスンで学んだことは、茶会に来ていた令嬢たちであれば既に身に着けていることなのだろう。それを自分は何度やってもうまくできるようにならなかった。それを思うと、やるせなくて悔しかった。
「もう行くのはやめる?お父様に相談しましょうか。」
本当は今すぐにでもやめたい。明日から行かないと言いたい。でも、王太子様のことを思うと『行かない』という言葉が喉のところで詰まって出てこなかった。レッスンが辛かったのは確かだが、王太子様と一緒にロマーネヴィヨンを飲んだことで、元気になったことも確かなことだった。
「もうちょっと……やってみようかな……」
「無理しないのよ。」
「ありがとう、お母様。」
エリーゼは、またロマーネヴィヨンに釣られたのかもしれないと思った。でも、あんなに辛いレッスンなんだから、それくらいの楽しみがあってもいいんじゃないかと思うようにした。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜
レッスンの休憩時間にエリーゼとロマーネヴィヨンを飲んだユリウスは、軽い足取りで執務室に戻った。
「殿下、いかがでしたか?」
「すっごく楽しかった。」
「明日も楽しみですね。」
「うん。」
ユリウスはにこにこと明るい笑顔をふりまいている。公務のときに見る貼り付けた笑顔ではなく、とても自然な笑顔に見えて、ミハエルの顔はほころんだ。
「えっと……次はこれをやればいいの?」
「そうですね。こちらからお願いします。」
「わかった。」
ユリウスは執務机につくと、書類を手に取って捌き始めた。
(まただ……)
昨日もそうだった。昨日もエリーゼとロマーネヴィヨンを飲んだ後、仕事のスピードが上がった。今もそうだ。ユリウスはエリーゼとロマーネヴィヨンを飲むと書類を捌くスピードが上がるのだ。ミハエルは口角を上げてニヤリと笑った。