一緒に飲もう
茶会の翌日。エリーゼのもとには、たくさんの書類や本が送られてきた。それを見て、エリーゼはこの話を気軽に受けてしまったことを後悔した。
王太子の婚約者候補に選ばれた女性は、王太子妃としての教養を身につけるべく、城で一定期間レッスンを受け、レッスンを終えた者の中から最終的な婚約者が選ばれるらしい。
エリーゼの屋敷に届いたたくさんの書類と本は、レッスンを受けるために必要な心構えや注意事項、レッスンを受ける前に知っておくべき内容に関するものだった。
「お母様……無理です。読みたくありません。」
「エリーゼ、まだ開いてもいないわ。意外と楽しいかもしれないわよ?」
「無理です……」
「お城のお食事はおいしいと思うわよ?」
「えっ!」
「ぶどうジュースもいただけるかもしれないわよ?」
エリーゼは、自分が食事やロマーネヴィヨンに釣られていることを自覚したが、茶会で食べたケーキや食事の味が忘れられず、少しだけ書類と本を見てみることにした。
そしていよいよエリーゼはレッスンを受けるために城へ向かうことになった。
「お母様、もう大丈夫よ。たくさんいる中の1人なんだから、誰も見ないわよ。」
母は朝からエリーゼの身だしなみを気にしては整えていた。馬車に乗る直前まで、髪やドレスをいじっていたが、エリーゼには何が変わっているのかわからなかった。
「楽しみね、うらやましいわ。お城の中でレッスンだなんて。」
「お城の中は楽しみだけれど、早く候補から外していただかないと。」
「無理やり行儀を悪くするのはだめよ?お父様の信用を落としてしまうようなことはしないようにね?」
「わかっています。行ってきます。お母様。」
「いってらっしゃい。エリーゼ。」
馬車は城に向けて出発した。エリーゼは馬車の中で、送られてきた本を開いた。何度読んでもよくわからないことが多いが、読んでいないよりはマシだろう。予習しておけば、その分レッスンの期間が短くなるかもしれない。
馬車がガタンと揺れて、エリーゼは慌てて体を起こした。
「いけないっ!」
気づいたら、エリーゼは馬車の中で眠っていた。結局、本を読むことなく馬車は城に到着した。馬車を降りると、執事の方が出迎えてくれた。よく見ると、茶会のときに給仕をしていた男性だった。
「ようこそ、お越しくださいました。エリーゼ様。」
「あなたは!執事だったのですね!」
「はい。王太子様の執事ミハエルでございます。」
「よ……よろしくお願いします。ミハエルさん。」
「ミハエルで結構ですよ。ご案内致します。」
そんなことを言われても、あのときの食べっぷりを見られていると思うと、エリーゼは気安く呼び捨てになどできないと思った。
「おぉ……!」
エリーゼは城の中に足を踏み入れた。城の中は、想像していたよりもずっと大きく、きらびやかで、豪華だった。周りをきょろきょろと見まわしながら、エリーゼはミハエルの後を追った。
「こちらでお待ちください。」
「ここで待っていればよろしいのですか?」
「はい。しばらくお待ちください。」
レッスンを受けにきたはずなのに、客間に案内されたことを不思議に思いながらも、エリーゼは部屋の中に足を踏み入れた。部屋の中には、いくつかのソファーが並べられている。エリーゼは近くのソファーに腰掛けた。
「わっ!」
座った途端にふかふかで体が沈んだ。茶会のときに座ったソファーのようだ。エリーゼは、他のソファーの座り心地も確かめてみたいと思い、隣のソファーにも座ってみた。
「おおっ!」
こちらのソファーはそこまでふかふかではないけれど、中々の座り心地だ。金色の装飾が多く使われており、豪華に見える。エリーゼはさらに隣のソファーにも座ってみた。
「うーん……」
見た目がふかふかそうだったから期待して座ったものの、思ったよりもふかふかではなくてちょっと残念に思ってしまった。
「それはお気に召さなかったかな?」
突然扉の方から声がして、驚いて振り向くと、ユリウスが扉に寄りかかって立っていた。エリーゼは慌てて立ち上がると、深々と頭を下げた。
「ふふふ、もう頭を上げて?えっと……このソファーがいいと思うよ?」
おそるおそる頭をあげると、ユリウスは扉の近くにあるソファーに座っていた。エリーゼは慌ててユリウスの座るソファーに駆け寄り、向かいにそっと腰をおろした。
「わーすごい!」
「ね?」
「はい!一番座り心地が良いです!」
「はははは!」
エリーゼは慌てて口を押さえたが、ユリウスは楽しそうに笑っている。またお茶会のときと同じような失態を犯してしまった。
「来てくれてよかった。来てくれないかと思った。」
ユリウスは静かにつぶやいた。来なくて良いなら来たくなかったが、来ないという選択肢はなかった。エリーゼは苦笑いした。
「渡しておいて良かった。あれがなかったら、来てくれなかったでしょう?」
「あれ……ですか?」
そう言って、ユリウスはロマーネヴィヨンのボトルをエリーゼの前に差し出した。
「これ。」
エリーゼの顔は引きつっていた。完全に自分はロマーネヴィニョンに釣られたのだ。
ユリウスは、棚からグラスを持ってきてテーブルの上に置くと、ロマーネヴィヨンを注いで差し出した。
「一緒に飲んでくれない?この前、僕は飲めなかったから。」
「えっ……飲んでないのですか?」
茶会で自分は、ケーキを食べて食事を食べて、ロマーネヴィヨンを飲んで、ふかふかのソファーで暖かな日差しを浴びて幸せを感じながら眠っていた。自分の行いは反省すべき点があるが、あのとき王太子様は飲んでいなかったのか。
「知りませんでした。私だけ飲んでしまって……」
「いいんだ。僕は飲んではいけないから。だから一緒に飲もう?」
ユリウスはグラスを持って差し出した。エリーゼはおそるおそるグラスを持つと、ユリウスのグラスに合わせた。エリーゼは戸惑いながら飲んだが、やはり、ロマーネヴィヨンの味は格別だった。
「おいしい!」
「おいしいね。」
いつものように声を出してしまって、慌ててユリウスの方を見ると、王太子様のグラスはもう空だった。
「お茶会で、飲んではいけないのですか?」
「たくさんの人と話をしなきゃいけないからね。」
「そうなのですね。」
「君は食べたんだよね?うらやましかったなぁ。あの時はすごくお腹が空いていたからね。」
「食べるのもいけないのですか!?」
「うん。」
「あんなにおいしい料理があったのに、食べられないなんて……」
「でも君が食べてくれてよかった。料理長も喜んでいたそうだからね。」
あの時はチョコレートケーキが美味し過ぎて、給仕をしていたミハエルに美味しいと伝えて欲しいなんて言ったのだった。すごく美味しかった。それが料理長に伝わってよかったが、今思えばなんてことをしているんだろうか。王太子様の前では恥ずかしい。
「これも羨ましかった。僕もこれが好きなんだ。」
「殿下もお好きなのですか!?」
「これを好きだっていう子がいて嬉しかった。だから、君を選んだんだ。お土産を渡して、城に来てもらうように仕向けて……ごめんね。」
そういうことだったのか。好きな物が同じだから選ばれたのか。まさか王太子様もロマーネヴィヨンが好きだとは思わなかった。茶会ではじめて会った時は何を話せばいいのかわからなかったが、ロマーネヴィヨンの話をすればよかったと思った。
「エリーゼ、これからも一緒に飲んでくれない?」
突然のユリウスからの申し出に驚いた。自分は婚約者候補者の中の1人のはずだ。これでは特別扱いされているような気がする。でも、茶会に来ていたような令嬢がロマーネヴィヨンを嗜むとは思えない。そういう意味では特別なのかもしれない。
でも王太子様なら、ロマーネヴィヨンを一緒に飲む相手なんて簡単に見つかるはずだ。たくさん居すぎて選べないのだろうか。
「ど……どうして私なのですか?一緒に飲んでくれる方なんてたくさんいらっしゃるのでは……」
「一緒に飲んでくれる人なんていないよ。」
「え……」
「そもそも、僕がこれを好きだって知ってる人はほとんどいない。執事くらいかな。」
「どうして、みんなに教えないのですか?殿下が好きだと知れば、一緒に飲みたいと人が集まって来そうですが。」
一緒に飲む仲間がいないのは、きっと王太子様がロマーネヴィヨンを好きだということが知られていないからだ。茶会の時もあんなに人に囲まれていたのだから、ロマーネヴィヨンを好きなことが広まれば、一緒に飲む仲間なんてわんさか集まるだろう。
「言えないんだよね。これを好きだって言えないんだ。」
「どういうことですか?」
「王太子らしくないんだって。」
「え、なんですかそれ?」
「これを飲むのは王太子らしくないから人前では飲めない。だから僕はいつも1人で飲んでる。飲んでるところを人に見せちゃいけないんだ。」
「は!?」
「だから、君しかいないんだよ。一緒に飲んでくれない?」
王太子らしくないから人前でロマーネヴィヨンを飲めないだと!?そんなことがあって良いのだろうか。ロマーネヴィヨンをなんだと思っているのか。エリーゼは立ち上がった。
「殿下!先日頂いたロマーネヴィヨンをお持ちします。一緒に飲みましょう!」
「ロ、ロマーネヴィヨン?」
「私は、これをロマーネヴィヨンと呼んでいるんです!それだけ特別で美味しい飲み物です!王太子らしくないから人前で飲めないなんて、ロマーネヴィヨンに失礼ではないですか!私は殿下と!ロマーネヴィヨンのために!ご一緒します!」
王太子らしくないからロマーネヴィヨンを人前で飲めないというのは、ロマーネヴィヨンの格が低いと言われているような物だ。そんなことは許されない。エリーゼは、ユリウスとロマーネヴィヨンを飲むことで、ロマーネヴィヨンの信頼を回復をしたいと思った。
「ふ……ふふふ。エリーゼ……ありがとう。」
ユリウスは、エリーゼの言葉を聞いてくすくす笑い始めた。何かおかしかっただろうか。熱意は込め過ぎているかもしれないが、これが自分の素直な気持ちだ。
「君に渡したのは、君の家で飲んで。君が一緒に飲んでくれるっていうなら、僕が用意する。エリーゼ、これからも一緒に飲んでくれる?」
「もちろんです。殿下!」
「ふふふ。エリーゼ、僕はそんな風に仁王立ちする女性をはじめて見たよ。ふっあははは!」
エリーゼは慌ててソファーに座った。気合いが入り過ぎてしまった。王太子様に向かって仁王立ちしていることに気がつかなかった。エリーゼは顔を真っ赤にして俯いた。
すると、部屋にノックの音が響き、執事のミハエルが部屋に入ってきた。ミハエルは、笑い転げているユリウスを心配そうに見ている。
「殿下、お時間でございます。殿下?どうされましたか?」
「すみません、ミハエルさん。私のせいです。」
「ミハエル、明日からエリーゼと一緒にこれを飲むことになった。準備しておいてくれる?あははは。」
ユリウスは笑いのツボにはまったらしく、いつまでも笑い続けていた。エリーゼは、自分の仁王立ちで笑われていると思うと恥ずかしくて、頭を抱えた。
「承知いたしました。ですが、エリーゼ様の前で、そこまでお笑いになるのは……」
「ミハエルさん、いいんです。私のせいですから……本当にすみません。」
ユリウスは、いつまでも楽しそうに笑っていた。
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家に帰る馬車の中で、エリーゼは猛省していた。王太子様と一緒にロマーネヴィヨンを飲むと約束したこともとんでもないが、それに加えて仁王立ちして笑われるなんて、茶会の時以上の失態ではないか。
「あぁ、どうしよう……」
婚約者の候補からはずしてもらう予定だったのに、あろうことかロマーネヴィヨンを一緒に飲む約束をしてしまった。
家に着くと、母が出迎えてくれた。
「お帰り。エリーゼ。」
「お母様、ただいま戻りました。」
「くたびれていると思ったけれど、元気そうね?」
「今日はレッスンではなかったのよ。」
「そうなの?今日は何を?」
「えっと……」
別にやましいことではない。でも、なんだか言うのが恥ずかしかった。
「ふふっ、明日からもがんばりなさい。」
「えぇ……」
母は、気持ちを察してくれたのか、それ以上は聞かなかった。エリーゼは、王太子様とロマーネヴィヨンを飲む約束をしたという報告をしなくてよかったと思った。