白雪姫の『真実の鏡』の正体
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スマホ横書き表示での見読性を考えて、この作品は行頭の行頭下げなし、改行と空行多めで書かれています。
縦書きで読まれる方は、ご了承ください。
「さあ。王妃様。鏡に向かっていつものことを尋ねるのです」
今起きたばかりのベッドの上の美女に、彼女の侍女が言う。
美女はこの国の王妃で、名はカタリーナ・エンゲルラントという。
前王妃が亡くなり喪が明けたその三か月後、この国の王に嫁いだ女性だ。
「鏡よ鏡。壁の鏡。
この世で一番美しいのは誰?」
言われるがままに美女は壁掛け鏡の前に立つ。
ぼんやりとした視線を鏡に向け、いつもの問い掛けをする。
「王妃様です。
この世で一番美しいのは、あなたです」
(うっ!?)
カタリーナは毎朝、この質問をこの鏡にしている。
そのことに、これまで疑問を持っていなかった。
この鏡の異常さにも気付いていなかった。
だが、今はそれが分かる。
昨日頭を打ったとき、カタリーナは前世の記憶を取り戻している。
前世の彼女は、近隣国から『猛悪の大魔女』と恐れられたエルテル王国の女王だった。
(これは……洗脳魔法の類いね)
大魔法使いとしての膨大な知識が、それを教えてくれる。
この鏡が回答と共に発したのは、洗脳魔法の類いのものだった。
それを無防備に受けてしまい、カタリーナはよろめく。
ふらつくカタリーナを無理矢理に立たせ、侍女たちは朝の支度を始める。
立たせたままのカタリーナの髪を梳き、化粧をし、ドレスを着せる。
普通なら座らせてする化粧なども、立ったままさせている。
カタリーナを移動させるのが、侍女たちは面倒なのだ。
全部同時にしてしまう方が時間も掛からない。
面倒がる侍女たちの気持ちは、ぞんざいな化粧からも見て取れる。
(ああ。横になりたいわ。
でも、立っていなきゃ駄目よね……)
ふらついてそんなことを考えながらも、カタリーナはこっそりと魔法を使う。
(これでも前世は大魔法使いよ。
この程度の洗脳魔法、直撃を受けたところで大した問題ではないわ)
侍女たちがドレスを着せ終わる頃には、洗脳の除去も終えていた。
今日受けた魔法だけではない。
これまでに長年注がれ続けた魔法のようなものの残滓の全てを、綺麗さっぱりと除去してしまった。
(……洗脳が解けた今なら分かるわ。
「鏡の言うことは絶対的に正しい」という思い込みは、この洗脳魔法らしきものの効果ね)
これまでカタリーナは、この鏡を『真実の鏡』だと思っていた。
侍女たちはもちろん、カタリーナの生家であるハッツフェルト家の者たちもまた、これを『真実の鏡』だと言っていた。
(笑わせるわね。何が『真実の鏡』よ。
そもそも、人の好み次第で変わる美しさの順位に、絶対の真実なんてあるはずがないわ)
洗脳により、そう思い込ませているだけだ。
ようやくそれに気付いたカタリーナは、ふふっと一人笑いをする。
そんなことも分からなくなるぐらい、彼女は洗脳されていた。
およそ『猛悪の大魔女』とは思えない愚かしさが、少し面白かった。
(さて。この状況をどう考えるべきかしら)
この鏡は、嫁いだときにハッツフェルト家から持ち込まれたものだ。
問い掛けをさせていた侍女たちは、ハッツフェルト家から連れて来た者たちだ。
さらに鏡は、その侍女たちの命令には絶対服従するようにも言っている。
ハッツフェルト家がこの洗脳の犯人であることは明らかだった。
(問題は、何故わたくしを洗脳したのか、ということね……)
幼い頃に実母が亡くなり、カタリーナは後妻によって育てられた。
父親と後妻との間に娘が生まれると、二人はその娘ばかりを可愛がった。
愛に飢えたカタリーナは、両親の言うことなら何でも従っていた。
『あなたにしては上出来ね』
『お前もたまには使えるな』
そんな、褒めているのか分からないような言葉でさえ、貰えたら嬉しかった。
高価な呪術具で洗脳なんて必要ないほど、両親には従順だった。
そんな彼女は、ハッツフェルト家の使用人たちから見下されていた。
見下されていたのは、理由がある。
ハッツフェルトの愚女――そんな不名誉な渾名が付くほど、カタリーナは愚かな女だった。
二桁の足し算さえ、覚束ないほどだった。
後妻は彼女にまともな教育を受けさせなかった。
我が子の優秀さを際立たせるために。
もっとも、それは昨日までの話だ。
魔法とは、物理法則を利用して望みの結果を得る技術だ。
四則演算が出来ない魔法使いなんて、一人もいない。
大魔法使いとしての知識を思い出した今の彼女なら、捻じ曲がった空間を扱う幾何学だって自在に使いこなせた。
(従順な『ハッツフェルトの愚女』なら、大抵のことは従うはずよね。
それでも洗脳したのは……従順で愚かな女でさえ躊躇するようなことを、これからやらせるつもりだった、ということかしらね。
……国王暗殺でもやらせるつもりだったのかしら?)
そこまで考えて、カタリーナはもう一つの可能性に思い当たる。
カタリーナが国王に嫁がされたのは、もちろん政略によるものだ。
つまり、自らの手駒を王家に送り込むことで王政への影響力をより強固にしようと、ハッツフェルト家が目論んだからだ。
カタリーナをより洗脳したいと思うのは、彼女を手駒とするハッツフェルト家ではなく、手駒を受け入れざるを得なかった王家の方ではないだろうか。
カタリーナには、政治的な情報提供者もいない。
あの鏡の入手経路も分からない。
もしかしたら、婚礼品などの名目で王家から贈られたのかもしれない。
そうであるなら、当初カタリーナの洗脳を目論んでいたのは、洗脳の呪術具を彼女に贈った王ということになる。
この場合、鏡が呪術具であることをハッツフェルト家に見抜かれ、カタリーナをより強固に支配する道具として逆に利用されてしまった、ということだろう。
これなら、十分に従順なカタリーナを、高価な呪術具を使ってさらに洗脳までしたことの説明も付く。
(確認が必要ね。
陛下が、この件に関与しているのかについて)
自分の夫が、素知らぬ笑顔で妻を洗脳するような男なのかどうか。
その本性の確認は必要だとカタリーナは考える。
今後の方針を決めるには、彼の性格を知る必要があった。
(まずは、実家の支配から抜け出さなくてはね)
誰からも愛されなかったカタリーナは、家族からの愛情を欲しがった。
愛してもらうために、褒めてもらうために、両親の言うことなら何でも聞いた。
しかし今はもう、そんな気持ちは無かった。
前世の記憶を取り戻して、前世の両親も思い出した。
前世の両親は、愛情いっぱいに彼女を育てた。
そんな両親を想いだしたからこそ分かる。
今の両親は、どうしようもない屑だ。
愛を縋る価値もない。
カタリーナはもう、実家の意向に従うつもりはなかった。
「陛下に連絡してくれるかしら?
今日はご朝食をご一緒したいって」
王妃であるカタリーナがそう言っても、三人の侍女たちは動こうとしない。
それどころか三人とも不快そうに顔を顰め、カタリーナを怒りの目で見ている。
「何を馬鹿なことを言っているんですか!?
そんなことをする必要はありません!」
「そうです! 何考えてるんですか一体!?
王妃様は今日も部屋でじっとしていれば良いんです!
何かする必要がある場合は、私たちが指示します!」
侍女たちは怒鳴り声を上げる。
これがカタリーナの置かれた立場だ。
自分では何一つ決めることが出来ない。
操り人形として生きることだけが許されている。
「そう? では仕方ないわね」
「待ちなさい! どちらに行くんですか!?」
エカテリーナが立ち上がり扉の方へと向かうと、侍女の一人が怒鳴り声を上げる。
「あなたたちが言伝を頼まれてくれないんですもの。
自分で陛下にお伝えするしかないでしょう?」
そう言って微笑むエカテリーナを見て、侍女たちは驚いた顔をする。
(操り人形が自分で動く、とは思っていなかったみたいね)
「何を言っているんですか!?
ここは通しませんよ!」
「勝手に行動するなんて!!
呆れ果てた態度ですね!?」
「これから折檻です!
さっさと床に跪きなさい!」
慌てて扉の前に立ち塞がった侍女たちは一様に真っ赤な顔になり、口々に怒号を響かせる。
そんな彼女たちに、カタリーナはにっこりと笑う。
「邪魔よ」
その言葉と同時に、衝撃弾の魔法で侍女たちを弾き飛ばす。
床に転がった侍女たちは、苦悶の表情で呻き声を上げ始める。
(うふふ。
こんな不忠者の首を即座に刎ねないなんて。
わたくしって寛大だわ)
侍女も連れずに廊下を進むカタリーナは、一人くすくすと笑う。
そこでカタリーナは問題に気付く。
部屋を出たは良いが、陛下の居場所を知らない。
面会を希望する人物の居場所は、通常は侍女が調べる。
カタリーナは調べ方さえ分からなかった。
仕方なく、廊下で見掛けた階位の高そうな近衛兵に尋ねる。
突然話し掛けられた近衛兵は、折り目正しく騎士の礼を執る。
どうやら彼は、カタリーナを知っているようだ。
そしてカタリーナの質問に訝し気な顔をしながらも、この時間なら執務室だろうと教えてくれる。
そこでまた、問題が発生する。
王の執務室の場所が分からないのだ。
これまでカタリーナが部屋を出たのは、侍女に命じられたときだけだった。
命令がないときはずっと部屋に籠もっていた。
嫁いでからずっと引き籠もりだったので、部屋の外についての知識がほとんど無かった。
恥を忍んで、その近衛兵に執務室の場所を尋ねる。
「本気で言ってるんですか?」と言いたげな顔をしながらも、近衛兵は案内を申し出てくれた。
(うう……恥ずかしいわ)
カタリーナは羞恥で頬を染め、身を小さくして近衛兵の後を付いて行く。
王妃にとって、王宮とは自分の家だ。
カタリーナがそれを知らないのは、一般家庭で言うなら、嫁いで半年になる妻がリビングの場所を知らないようなものだった。
「どうした? こんな朝早くに?」
ようやく辿り着いた国王の執務室に入ると、この部屋の主、フィーリップに尋ねられる。
まだ朝食前だというのに、フィーリップはもう働いていた。
この国の王権は弱い。
何とか立て直そうと、国王は懸命に頑張っていた。
「わたくしたち、結婚してからまだ一度もお食事をご一緒したことがないでしょう?
ですから、今日はご朝食かご昼食でもご一緒しようと思って参りましたの」
二十六歳の若き王は、銀色に輝く柔らかそうな髪に、白磁のように白く滑らかな肌で、冷涼な印象の美青年だ。
その彼は今、訝しげな表情を浮かべ、アイスブルーの瞳をじっとカタリーナに向けている。
大きくて切れ長の目は冷酷な印象で、無表情にじっと見られると圧力を感じる。
その冷たい視線に、カタリーナは居たたまれなくなってしまう。
(夫を食事に誘うという夫婦が日常的にすることでも、わたくしがすると奇行になるんでしょうね……)
嫁いでからずっと、カタリーナは引き籠もりだった。
様々な名目で何度誘っても一切応じなかった妻が、今は自分を食事に誘っている。
しかも侍女を介しての誘いではない。
先触れもなく突然、本人が直々に訪れてのものだ。
フィーリップからしてみれば、不審なことだらけだった。
「……良いだろう。
結婚して半年ほどになるが、君のことを何も知らないしな。
一緒に食事をして、少し話をしよう」
フィーリップのエスコートで、王室専用の食堂へと向かう。
彼にエスコートして貰うのは、結婚式以来だった。
(国王なのに、しっかり鍛えているのね。意外だわ)
自分の手のひらが置かれたフィーリップの右腕の引き締まった感触から、カタリーナはそんなことを考えてしまう。
まるで初めてエスコートされたような感想だが、カタリーナにとっては初めてのエスコートに等しい。
最後にエスコートしてもらったのは、結婚式のときだ。
その時点でカタリーナは既に洗脳されていて、意識も曖昧だった。
先触れを受けていた食堂は、僅かな時間の間に準備万端整えていた。
さすがは王宮使用人だと、カタリーナは感心する。
床で昏倒していたカタリーナの侍女たちも、今はここに来ている。
衝撃弾の直撃を受けた腹部はまだ痛むのだろう。
腹部を庇うような動きをするし、時折眉間に皺が寄る。
だが、彼女たちは無理を押してここに来た。
王と王妃の食事の席で、王妃付きの侍女が不在では体裁が悪すぎるからだろう。
テーブルに着くのは二人だけだが、その二人の間には十歩ほどの距離がある。
大きなテーブルを使って王との距離を空けるのは、警備上の都合だ。
「今日も、朝一番に鏡を見ましたの」
野菜の煮込みスープを上品に口に運びながら、にこにことカタリーナは笑う。
「噂には聞いていたが……まだ毎日長時間、鏡を見ているのか?」
夫婦初めての朝食で出す話題がそれか、と言わんばかりの呆れ顔でフィーリップは言う。
(どうやら飽きもせず鏡を眺めているのが噂になっているみたいね。
それも、かなり批判的に……)
相当酷い王妃として認知されている現実を知り、カタリーナは気が滅入ってしまう。
「ええ。そうしないと叱られてしまいますもの」
「……叱る? 誰がだ?」
「もちろん、侍女たちですわ。
鏡が言いますの。
侍女たちの命令には絶対服従するようにって。
従わなければ、侍女たちに叱られるって。
ですからわたくしは、毎日鏡を見て、毎日決まった呪文を唱えなくてはなりませんの」
その言葉で陛下の顔色が変わる。
だが王侯貴族とは、必要に応じて自在に表情を作るものだ。
にこにこと、何が楽しいのか分からない空虚な笑みを浮かべながらも、カタリーナはフィーリップの変化を注意深く観察する。
(……この人はシロね。
『真実の鏡』について、何も知らないわ)
前世で女王だったカタリーナは、王宮政治の世界で長年生きてきた。
こういった腹の探り合いは、嫌になるほど経験した。
そんな自分が入念に観察したのだから、間違いはないはずだ。
カタリーナは確信する。
「あの鏡の言うことは全て正しいですから、わたくしはあの鏡に従わなくてはなりませんの。
『鏡よ鏡。壁の鏡。この世で一番美しいのは誰?』と尋ねると、色々と従わなくてはならないことを教えてくれますの」
にこにこと、相変わらず頭の悪そうな笑みでカタリーナは話す。
しかし、笑顔とは裏腹にその言葉は、鏡の呪術的機能を簡潔明瞭に説明するものだった。
侍女たちは真っ青になる。
こういう事態を恐れていたからこそ、彼女たちはカタリーナと第三者との接触を最小限に抑えていた。
ひた隠しにしていたことが、選りに選って最高権力者に知られてしまった。
恐れていたことは、最悪の形で現実となった。
「オットマー。
すぐに王妃の部屋の鏡全てを押収しろ。
君が直接やれ。
ディルク。
宮廷呪術師を呼べ。
大至急、鏡を調べさせろ。
衛兵!
王妃の侍女全員を捕らえよ!」
眼鏡を掛けた国王付きの若い書記官が慌てて動き出し、白髭の初老男性が指示を出し始める。
衛兵は、侍女たちを即座に捕らえる。
(あの人は、オットマーって言うのね。
執務室でも陛下のお仕事を手伝っていたから、陛下付き書記官なのかしら。
使用人に指示を出しているお爺さんが、ディルクなのね。
話しぶりからして、王宮執事長みたいね)
引き籠もりだったカタリーナにとって、王宮は知らない人ばかりだった。
「お、お待ち下さい!
私たちは強制なんて一度もしていませんし、叱ったこともありません!
そうですよね!? 王妃様!?」
捕らえられた侍女の一人が、必死の形相で叫ぶ。
しかしカタリーナに向けられた目は、懇願するものではなかった。
部下の大失態で責任を取らされる上司の目であり、憤怒の視線だった。
(この期に及んでまだ、自分たちの立場を理解できていないのね……)
カタリーナは呆れながらも、彼女たちに止めを刺すことを決める。
「まあ。わたくしはそう言わなくてはならないのね?
あなたの指示に従うわ。
陛下。この者は強制なんて一度もしていませんし、叱ったこともありませんわ」
フィーリップの顔はますます険しくなる。
対照的に、侍女たちの顔色はますます青くなった。
プロローグをお読み下さりありがとうございます。
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