暗殺者がおれを待ち伏せている
文章を書こうとすると、書くことがなにもないことに気づく。ならもうやめるかって、ソファに寝っ転がると、なにか書くことがある気がしてくる。むくむくと湧き上がってくる。こりゃただ事じゃない。放っておくってわけにはいかない。
で、今ここ。振り出しに戻るって感じ。まったくこけにしてくれるよな。おれなんかを弄んでなにが楽しいって言うんだ。不愉快だ。
それでも、なんとかかんとか、書くだろう。書き終わるだろう。読んでみると、書いていたものと書かれたものがまるで別物なのは一体どういうことなんだ? こんなもんをおれは書いたつもりはないのに、なにがどこでどうこんがらかったんだ。毎日文章を書いていると文章って下手くそになるんだね。これはなかなか良い知見を得た。上等だよ。いくとこまでいってやる。付き合ってやるよ、どこまでもよ。おれの文章をぶっ壊してやるぜ。スクラップ・アンド・スクラップだ。徹底的に破壊して、あとには何が残るのか。それをおれは見たいんだ。
初めてのキスは生唾の味がした。
たまに生活圏内から外に出ると、世界って本当に広いんだなあと実感して、部屋に引きこもってねちねち文章を書いている自分が、心からちっぽけに思えるけど、それがどうしたと言うんだ。自分の存在には最初から意味などないし、世界が広いなどと言うのもただの錯覚だ。錯覚によって活発になった脳細胞に騙されて、適当なものを書いて、自分は作家だと錯覚する。
アントン。確かに永久機関はあったんだよ。それは作家だと自称するやつらの頭の中に。ただエネルギー効率が悪すぎる上に、不純物が混ざり過ぎていて、実用性に著しく欠ける。それでもやつらは自信たっぷりだ。謙遜して卑下してなんとか取り繕おうとしているけど、自己愛と野心は隠しようがない。醜い。あまりにも醜い生きもの。
ロマンチストのおれからすると、連中のように生々しい存在は、生理的に受け付けないのだけど、それでも目を逸らすことができないのはなぜだろう。それはね。きみも連中のひとりに過ぎないからだよ。
まあな。否定はしないよ。文章を書いて、他人の目につくところに出している時点で、おれも同じ穴のさもしいムジナだ。いくら連中とおれは違うと主張したってそりゃ通らんぜ。同じことをしているのだから。
なんなんだろうな。自分の書いた文章が、他人に読まれたことによって得られる快感ってのは。感想とか評価が欲しいってのも、なにも数字を増やしたいとか褒められたいってだけではなくて、手応えとかフィードバックが欲しいってことだもんな。それが更なる快感を生んで、フィードバックにフィードバックを返して、さながらヘンドリクスのギタープレイのような恍惚が生まれて、すっかりそいつに熱中夢中って寸法だ。
正直なところ、こんな快感に絡め取られている時点で、おれたちみんな、クソダサいぜ。でも抗えやしない。情けないことだが、おれだって骨の髄まで文章発表中毒だ。そしてそれは凄く、とてつもなく、恥ずかしいことなんだ。てめえからケツおっぴろげて見せつけて、おれのケツ穴ってどうだい、よかったら感想を聞かせてくれよ、なんてな。とんだ変態行為だよ。そこらの露出狂となんら違いがない。みんなみんな、脳内麻薬中毒の変態なんだ。
おれが自称作家どもを罵るのは、本来ならお門違いってもんだ。変態が変態に、この変態どもがって罵倒しているんだからな。こんな滑稽なことってないよ。
でもなにがむかつくって、連中がこの変態行為の恥に無自覚なところなんだ。無自覚どころか、なんだか高尚な、自分自身を高める行為だとでも思っているような、そんな態度が腹立って仕方ない。ケツの穴を見せ合いっこ、褒め合いっこ、舐め合いっこ、おい、おれのケツの穴に評価がこれだけついたぜ、てめえら、おれのケツの穴を舐めまわしやがれ、おれが絶頂までイクようにな。おお、神よ! 人はどこまで変態へとその身を堕とせば気が済むのでしょうか。
自分の変態行為を自覚し、真摯に受け止め、せめて、慎しみ深い変態であれ。おれはそう説法しているのだ。誰も聞く耳を持っちゃくれないが、まあそりゃそうでしょう。変態の言うことなんぞ誰が耳を貸すものかね。誰も耳を貸さないが、辻説法は続くのさ。おれはいかれた変態だ。なんか文句あるか。
支離滅裂だな。そうだ支離して滅裂させて支持を待つ。おれはそういう生き方しかできないんだ。因果なもんだよ。遅れてきた思春期だ。湧いてくる破壊衝動に抵抗するにはおれは歳をとりすぎた。なすがまま、あるがまま。ヴォエっとポエジーを吐き出すいんちきポエットだ。幾重にも張り巡らされたプライドが、まずおれ自身を傷つけ、そのあと言葉としてなり、知らない誰かさんを傷つけようとする。こんななまくらじゃ誰も傷つきゃしないだろうけど。いやわからんな。変態どもはとにかく打たれ弱かったりするからな。その貧弱な精神で、なにを成し遂げようというのだ? 自己実現……かな。近頃の変態はとにかくドリーミィ。マネークリップで札束留めているタフガイの方がまだ信用できるよな。自己実現、できるといいな。応援しているぜ。知らなかったか? おれはずっときみたちを応援しているんだ。応援のスタイルなんて人それぞれさ。知っておいて欲しいのは、チャントを一緒に歌わない応援スタイルもあるってこと。アホみたいに一体化するのはおれの流儀に反するんでね。スタジアムのどこかできみたちの成功を祈り、そして悪態をつくんだ。クソ野郎どもが。くたばりやがれ。
なんてことをついつい書いてしまうから、誤解を生んでしまう。けれども、おれはそれを我慢できない。暴言が巡る冒険の行方に興味津々なんだ。汚い言葉は本当によくないものなのか? では汚い言葉が身体に染みついたおれはよくない存在なのか? なあ、おれを必要以上に悩ませないでくれよ。疑問にも思ってもいないことを、疑問文として書いて、一体なにがしたいんだ。それがわかれば文章なんて書いていないんだよ。さっぱりわからない。どうしたらいい?
クエスチョンを投げかければいいってわけじゃない。そんなことはわかりきっているんだけど、クエスチョンマークで締めるとなんとなくイイ感じに見えるだろう。それが文章のテクニックってやつだ。おれの技術は全部なんとなくでできているんだ。凄いだろう。現象を感覚でしか捉えられない。それを無理に文章にしようとするから、わけのわからないものになっちまう。じゃあ、もう詩人になるべきだな! 詩を書いてみると、単なることばのパズルもじぴったん、それか、負け犬の泣き言にしか見えない軟弱な代物ができてしまうんだよ。センチメンタルなんておれが一番嫌って止まないものだぜ。死ね、くたばれ、センチメンタル。本当に詩ってわけがわからないよ。でもなんとなくわかってきたこともある。詩と称する言葉の群れは、99.9パーセントがクソってことだ。わからない、と言うか、無いんだ。本物が無いんだよ。
詩ってさ、素面で書ける代物じゃないよな。昔は違ったかもわからんよ。でも現代詩ってのはそうだ。仕事帰りの電車の中でちょっと詩を……なんて作り方で詩ができるわけがない。降りる駅を気にしながら詩が書けるなんて思うなよ。文法とかおもしろとかテクニックとか、そういうものを全てぶっ飛ばして書くのが、詩じゃないのか。だから詩を書くには精神を特別な状態に仕立て上げる必要があるのよ。それは酒やドラッグの酔いとも違う、どっちかと言うと瞑想に近い精神状態なのではないかな。だからもうさ、本当に詩が書けるやつなんて社会生活を営めるはずがないんだよ。狭っ苦しい社会通念みたいなものから、自分を切り離さないといけないんだから。おれには無理だね。おれは常識人だから。悲しいくらいに常識のかたまりよ。PTA会長だって務まるくらいだ。町内の自治会役員だしな。そう。このあたりは自治会があるのよ。変なの。結構な都会なのに。でもさいたまだし。では最後に一曲聴いてお別れです。さいたまんぞうで、なぜか埼玉。お相手は阿部千代でした。




