バカッタレ
おれは恵まれ過ぎているんだ。もうこれ以上なにもいらないし、これ以下にも落ちたくないし、なんかもう丁度いい湯加減なんだよ。それがおれの絶望だよ。おれが小説を書けない理由だよ。満足しちまってるんだ。なんというスケールの小ささ、阿部千代、恐ろしい子……!
これは決して自慢じゃないぞ。自慢なんかでたまるかバカッタレ。おれに自慢できることがあるとすれば、ほかのことだよ。それだってごくごく一部のやつが、うおお羨ましいー! って言うだけで、そのほかのやつらにとっちゃ、はあそれってよくわからないですけど凄いことなんですかねえ、なんて言う反応が返ってくるようなことだよ。
そんなもんですよ。貯金だってもうすぐ尽きるし、そうしたらまた肉体労働者に逆戻りだ。ツルハシ振るってじゃり銭を稼ぎますよ。ツルハシは振るわないけども。心のツルハシを振るうんだよ。はやく帰りたいなあ、って考え続ける毎日がおれの背中に忍び寄ってきてるんだよ。ひたひたとさ。
それでバックスタブ決められて、ドボンッ、だよ。一巻の終わり。嫌ですねえ。
人間はパンのみで生くるものにあらず。ええ、ジーザス。そうでしょうとも。ただパンは必要なんだ。それも必須レベルでね。
時代の変わり目がいつだったのか、おれにはさっぱりわからなかった。そもそも変わるということを知らなかったのだ。実際のところは徐々に変わっていったのだと思う。毎日会っていれば徐々に変わっていくことにも自然と対応できるのだろう。おれはすっかり置いていかれてしまった。いつの間にかデザートはスイーツに、ジーパンはデニムパンツに、若者は中年になっていた。
いつの時代もクソだと思っていたが、いまはとびきりクソな時代だと、そう感じてしまうのはおれに原因があるのか。絶対にそうだ。だって昔はスマホは愚か、ケータイすらなかったもん。それにインターネットだってここまで普及していなかったもん。サブスクもないし、無料エロ動画もなかった時代。そんな時代がかつてあったこと。おぼえていますか。目と目があった時を。
すっかりなにもかもを忘れてしまったよ。他人の恥ずかしい失敗とか、嘘くさい武勇伝とかはよく覚えているのだけど。おれはそういうことに脳のメモリーを食われてしまって、明日までに提出しなければいけない書類とか、親しい人の誕生日とか、おれに良くしてくれた人の名前とかは、すっかり忘れてしまう。
責任感、感謝の気持ち。人間として当たり前に持っているはずのもの。おれだって持っているはずだし、欠落している自覚もないのだけど、出してきた結果は雄弁に語る。おまえはクズ野郎だ。そうなのだろう。そうなのだろうが、いまいち実感が湧いてこない。
変わっているやつだ、というのは褒め言葉なのだろうか。おれの知り合いの全員が全員、おれのことを変わっていると評するわけではないが、そう言ってくるやつもいるわけだ。それ自体は普通のことだろう。誰だってそんなことを言われたことがあるはずだ。おれは自分を変わっている人間だとは考えていない。
連中のロジックはこうだ。変わっているやつは、自分のことを、変わっているやつだとは思わないものだよ。さももっともらしく、手垢のついたことを言うじゃないか。けれども、そのロジックには穴がある。おれだってこう言えるんだ。
おれがまともなんだ。おれこそが。おまえが変わっているんだよ。それを証拠に、おまえは自分のことを変わっているなんて、これっぽっちも思っちゃいないだろう。ずいぶんな変わり者だよ、おまえは。
そう言うと、連中はなぜだか嬉しそうにする。まったく褒めてはいないのに。逆だ。おれはおまえのことを貶しているんだ。まともじゃない。そう言っている。
おれは自分が変わっているだなんて思っちゃいない。欠落している部分がいくつかあるだけだ。だけど、誰だってそうだろう。完璧なやつなんて存在しないよ。大抵のやつは、臆病者、間抜け、退屈なお調子者のどれかで、ごくたまに、面白いやつがいる。完璧なやつなんてついぞお目にかかったことがない。
残念ながら、面白いやつはそうそういないし、年々減ってゆく一方だ。久しぶりに会うとただの陰気なやつになっていたりする。そんな光景を見ると、おれは悲しくて仕方がなくなる。なにかがそいつをすり減らした。そのなにかとはなにか。正体を探ってみると、多くの場合、まともじゃない連中の仕業だということがわかる。
まともじゃないやつらは、家族や生活を人質にとっているやくざ者の片棒を担いで、人間のユーモアと怒りを奪っていく。すっかり抜け殻にしてしまう。そして驚くべきことに、自分のことをまともだと信じ込んでいやがるんだ。そういうやつらの、好きな音楽、好きな映画、好きな本を聞いてみるといい。驚くほど幼稚で貧弱な精神の持ち主だということがわかる。できることなら関わり合いになりたくない連中だ。だけどゴキブリみたいに数だけ多い。うようよしている。そしてすぐ自分らの仲間に引き入れようとしてくる。それが優しさだと思っているらしい。近づいてくるなオーラを出しているよね、だと? そこまでわかっていて、なぜおまえはおれの目の前にいるんだ。
消えろ。それ以上、近づいてくるな。おまえらの一員になるのだけはお断りだ。おれに関わってこないでくれれば、おまえらの幸せを願ってやる。みんなが幸せなのがおれの望みだ。そうなれば、おれだってもちろん嬉しい。決まっているじゃないか。




