第三十六話 無情の災禍
お久しぶりです。
「はぁ、はぁ、はあ」
カナタの魔術によって火を弱めることができても、完全な消化ではない。そのためか熱気だけは消し去れていない。
気を抜くと倒れてしまいそうな暑さの中、ヒナは走り続けていた。
ハルジオンの唯一の入口から中心部へと続いている、出店が多く並ぶ大通りを通り抜け、マーリンにお世話になるまでは当たり前だった道を進む。
ここまでくるのにどれほどの死体を見ただろう。
無我夢中に走っていたと思っていたヒナは自分が考え始めてしまった事柄を否定するかのように首を振る。それでも、一度考えてしまうをそれを簡単に放棄することは出来ない。
無意識に走る速度を落としていたのか、昔では考えられないほど時間がかかってしまった。
「うぅ。…ゲホッ」
ただの咳のつもりだった。
しかし、口にはいっぱいの酸味。
自分が嘔吐している状況に理解が追い付かず、ただ、気持ち悪い感情しか口から出てこない。
足はすでに止まり、その場に膝をついていた。
いろんなものを見た。
いつも通っていた、八百屋のおじいちゃんのあらぬ方向に曲がっている死体。よく遊んでくれた近所のお兄ちゃんの半分しかない顔。昔可愛がっていた、家に住み着いていた野良猫の下半分の無い遺体。他にも、他にも、他にも、他にも、他にも……………。
ヒナの精神は自分の家に着く前に、擦り切れてしまった。
後ろにマーリンがいることにも気づかず、ただ、嘔吐を続ける。
背中に温かみを感じて初めてマーリンに追い付かれていたことに気が付いたヒナは、だからと言ってどうにもできることなく、再び気持ち悪さに身を任せてしまった。
胃の中にあるモノを全部吐き出したのか、それとも感情を吐露しきったのか、現実逃避をしたいという感情はもうなく、無理をしながらも立ち上がることができた。
マーリンとヒナは会話を挟むことなく、炎と崩壊の惨状を歩き続ける。徐々に自分の家に近づいていることに恐怖を感じているヒナは、マーリンの服の裾を強く握った。近くにこの人がいれば大丈夫だ、と不思議と思ったのだ。
「…あぁ」
のどがカラカラだったのか、かすれてしまっている声を、木々を燃やす音はわずかに嘲罵した。
不思議と絶望感はそこまでなかった。
きっと、もうあきらめていたのだろう。
家が原型を留めておらず、もうそこには何かがあったことしかわからない。まるで、この家を破壊するためにこの災害が起きたのだと暗に示しているかのようにマーリンは感じたが、ヒナにはわからなかった。
炎はヒナの気持ちを考えず、無情にも燻り続ける。
「ヒナ…」
何を言えばよいのかわからず、ただ名前を呼ぶしかできない。虚無感に襲われているマーリンはヒナのそばにいることしかできなかった。
なんでこんなことになったんだろう。
ハイライトを失った瞳で現実を見ているヒナは、そう自問自答する。けれど、答えは出ず時間だけが過ぎていく。考えに没頭しているのか、どんどん視界が黒く染まっていく。完全に視界が黒くなった時には、ヒナは意識を手放していた。




