7 恋の電流が走る瞬間を見てしまった
長年のあいだ日の射さぬ研究室で誰にも理解されない禍々しい研究に夢中になってきたフランシーヌにとって、この一言がもたらしたインパクトは大きかった。
そもそもの目的である〈メルテレース剥がし〉が解決の糸口も掴めない状態のまま行き詰まっていることもあって、役に立つという言葉はフランシーヌの承認欲求をくすぐった。
干からびた砂漠に清冽な清水のしみこむように、その言葉はフランシーヌの胸にしみわたって一躍、心臓を跳ねさせた。
一方でルディガー皇太子にも、らしからぬ異変が起きていた。一秒の無駄も嫌う合理主義者のルディガー皇太子が、ずいぶん長いあいだ動きを止めて、しげしげとフランシーヌの顔を見つめつづけたのである。フランシーヌの顔ならグロリエッテで彼としてはじゅうぶん検分したはずだ。
左から右、右から左に、上から順にフランシーヌの顔の隅から隅までルディガー皇太子の青い眼から発する視線が行き来する。最後にフランシーヌの華奢な顎の線と可愛らしく上品な耳の輪郭をなぞった視線は見開かれた彼女の両瞳に戻ってきてさらに一分ほどじっと留まった。
「おー、興味を持った……?」とエッケルトが呟く。
とどめの一瞬、びりりと電流が走ったようにルディガー皇太子の総身がかすかに震えた。
はっと身体を引いてルディガー皇太子はフランシーヌの顎から離した手を愕然と凝視する。
「何だ……?」
凛々しい金色の眉をひそめている。
「ルディ。いくらなんでも素手で掴んだり急に突き放したりは、高貴な淑女たるフランシーヌ王女に対して失礼だよ。彼女は君がほかのどんな女性よりも大切にするべき君の妻なのだから。すぐ謝って」
エッケルトがそれまでとは口調を変えて、二つ年下の従兄弟をたしなめる。公の立場であるときと、ルディガーの従兄弟として親しく接するときとでは、両人のあいだの関係性は微妙に変化するようだった。だがどちらにしても、お目付役としてエッケルトが指導的立場にあることには変わりがないらしい。
臣下としてのフォルク公爵は皇太子の尖った性格を戒める役柄で、年上の従兄弟としてのエッケルトはルディガーからごっそり抜け落ちている情緒を何とかして育もうと苦心している。
数ある情緒の中でも、ルディガーが特に無意味と見做しているのは、恋愛や結婚にまつわるあれこれであった。
しかし、それらをルディガーが一切無意味と断じて切り捨ててきたという事実は、逆に言えば、彼が色恋の機微にまったく免疫がないということを意味した。
身体の一部に走った電撃の異変を訝しむように眉をひそめたままルディガーは、従兄弟から言われるまま謝罪を口にのぼらせる。
「すまない。それで、フライア王国には〈三楕円〉の黒魔術を使う魔術師がまだ残っているのか?」
フランシーヌとのあいだに起きた不思議な科学反応を深く掘り下げず実務へと話を戻したルディガーに、フランシーヌから見えないところでエッケルトが肩をすくめる。
「いいえ、残っていないのよ。おじいさまを呪い殺した〈白煉の魔術師〉を倒したあと、白煉の系統の魔術を使う者には厳罰が科されて……フライア王国はおとうさまの代からおかあさまの助言で死刑を廃止したので、処刑はされずに、脱獄不可能な深部牢で皆んな終身刑になっているのよ」
「脱獄不可能? 本当にそんな設計が可能だろうか? 脱獄不可能を謳われた絶海の孤島の監獄でも、囚人逃走は起きているが」
「ええ。でもたぶん大丈夫なの。うちの両親の方針で、囚人たちは逃亡したくならないくらい快適な生活を保証されているから」
「変わった国王夫妻だな、フライアは……」
「ここ20年来のフライアの平和を鑑みれば、悪しき黒魔術がフライアから根絶されたのは事実と考えられます。フライアに暗殺犯の本拠地でもあったりすると大変な外交問題になるところですが、妃殿下のお話でもそういうことはないようで安心しました」
フランシーヌは「でも」と言葉を継ぐべきか、迷った。
白煉の三楕円の系統は根絶され、関連の魔術書も発禁となり王城図書館のマル秘区画に聖女王妃による封印をほどこし保管されるのみとなった。(そこにこっそりと忍びこんでほくほくしながら読み耽って読破した不届き者も聖女王妃の封印を解くことなく本に触れることが可能だったのもフランシーヌだけだ)
でも、三楕円の魔術には実は、もしかしたら、白煉とは別の系統が存在する。
ただ、これはフランシーヌの独自研究で、今までフランシーヌしか発見していないことのような気もするので、情報の正確性に欠けるというか、まどろっこしいというか、めんどくさい気がした。
問題にされている暗殺犯のナイフのマークは間違いなく白煉の三楕円なので、蛇足を付け加える必要もないだろう。
「安心してくださいなのよ。フライア王国は関係ありません!」
せっかく大変な思いをして政略結婚で嫁いできたのだから、ここは頑張って母国の印象をアップさせないと、という必死の思いでフランシーヌは両手を握りしめ、声を張り上げた。
陰キャ姫一世一代の大言壮語であった。
そのときだ。
天を破るごとき大轟音が響き、建物全体が震えるような振動にフランシーヌたちは驚いて身体をすくめた。大きな爆発音だった。
とっさにルディガーとエッケルトが窓に駆けよる。
「宮殿だ。まさか……」
遠く濃紺の宵の空に、真っ赤な火炎の柱が立ち昇り、煙の幕に夕焼けのような朱色を映して火の粉を撒き散らし燃え盛っていた。
禍々しい炎と黒煙を生む破壊に狙いを定められたその場所は、皇帝陛下のおわす宮殿。
本来ならば今宵この時刻に新婚の皇太子夫妻が初夜を過ごしているはずの、その場所だった――。




