40 冷たい手のおまじない
目が覚めると、灰色の髪の長い女の人がじっとこちらを見つめていた。彼女はこちらにすっと伸ばした手を額にのせた。ひんやりと冷たい手だった。
「まだ熱が下がらないなあ。寒い? 寒くない?」
首をかしげて優しく問う。そう問われた瞬間に、ぶるりと身体に悪寒が走った。でも身体は、まわりで焚き火でも燃えているのかと思うほどに熱い。顔が燃え上がりそうに火照っている。
「お水、飲める?」
女の人が頭を持ち上げて木のお椀に入った水を飲ませてくれた。
「そしたら、もう一度ねむってね。次に起きたらもっと楽になっているはず」
言われた通りに重く怠い身体から意識を手放して、次に目覚めたときには熱がだいぶ下がっていた。
「あなた、森の中で衰弱して倒れていたのよ。名前は何て言うのかしら。覚えてる?」
「ヨヌ……」
「ヨヌ、ね。どこから来たか、覚えてる?」
僕は枕の上で首を振った。
女の人は薄い塩味のついたスープをひと匙ひと匙飲ませてくれながら訊いた。
「北の方……でも……」
「無理に話さなくてもいいのよ。話したいこと、話せることだけ話してね」
女の人はにっこり笑ってそう言った。僕を安心させるように。
「私はエリーって言うの。正しくは、エリプスって言うんだけど、エリーの方が可愛いでしょ?」
スープをぜんぶ飲ませると、僕におまるを渡してエリーは小さな寝室を出ていった。
用を足してから僕は布団をかぶってもう一度眠った。次に寝覚めたとしても今以上に良くなっていることはないだろうと思いながら。
僕は生まれつき病弱で、北の貧しい村の中でもいちばん貧しい子沢山の家では働き手として使い物にならないお荷物だった。子守りや縫い物をして何とか家族のために役に立とうと頑張れば頑張るほど、身体が大変になって、却って迷惑をかける。
今年の夏はいつになく水の足りない夏で、冬はいつになく厳しい冬だった。冬を越すだけの蓄えも食糧もぎりぎりという状況で、両親はとうとう僕をどこか遠くに捨ててくるしかなくなった。冬風邪を長引かせて高熱に浮かされたまま僕は行商の荷台に乗せられ、森に捨てられたのだろう。ガタゴトと身体を揺らす凸凹道の記憶がうっすらとこびりついている。
「栄養の付くものを食べていれば治ることもあるから、しばらく様子を見ましょう」
と、エリーは言った。
エリーはお医者さんなの? と訊くと、いいえ違うわと微笑みながら首を振る。
「私は薬術師。自然の恵みのいろんな組み合わせを研究しているの。それと少しのおまじない」
「おまじない……?」
「そう。たとえばこうして、微熱のある額に冷たい手を当てると、気持ちいいでしょ」
僕の額に、水桶に浸してから水滴を拭った手を押し当てて、エリーは言った。
「これが、最初のおまじない。妹のマリーが発見したの」
エリーはこの小さな家にはいない妹のマリーという人のことを話すとき、いつも懐かしそうに優しい顔をした。
僕はしばらくエリーの家で滋養のつく食事と暖かな寝床で甘やかされた。でも、微熱は下がらず、僕の生まれつき弱い身体はいつまで経ってもちっとも強くはならなかった。
「そうね……そういう身体もあるわ。たぶん、何か大切な理由があって神様はあなたみたいな身体を作ったのよ」
「大切な理由って何?」
「それは神様しか知らない」
「でもエリーはいろんな人の病気を治しているよね?」
森の中のエリーの小さな家には、病を抱えた人がひっきりなしに訪ねてきて、彼女の調合した草花薬によって癒されて帰っていく。
「僕の病気は治らないの? 治せないんだね?」
「ヨヌ」
「僕はこのままずっと辛い身体のままなんだね。それどころか、大人になれないかもしれないんだね」
普段は険しい表情をみせない眉間を哀しげにひそめて、エリーは何か少し考え込むように黙ったあと、顔を上げて静かに言った。
「あなたがそんなに辛いなら、治せないことはないわ」
「本当に?!」
「ええ。私はずっと、いつかそれを必要とする人のために特別な薬を研究していた。あなたはそれを必要としているのかもしれない。だとしたら全ては神様がお導きになった必然だわ」
彼女は僕を地下の研究室に連れていった。
すり鉢や漏斗や秤や鉄鍋――そこにはさまざまな実験道具が詰め込まれていて、その合間には、エリーの几帳面な字がびっしりと書き込まれた帳面が何冊も積み重ねられている。
帳面の塔に隠れた奥の隙間から、エリーは蓋付きの陶器の容れ物を取り出した。そこには灰色の丸薬が十粒くらい入っていた。
一つ取り出したそれを、エリーは僕の手のひらに落とす。
「魔界の灰木の樹皮を煎じて、ゼリー状になったものを乾かして砕いて固めたものなの」
蝋燭の光に翳すと丸薬は僕が一度も見たことのない、エリーが読んでくれる本の中でしか知らない〈宝石〉みたいにキラキラ輝いた。
「昔、マリーと森で遊んでいるとき、クマに襲われてマリーが大怪我をしたの。地面が血だらけになって、とても助からないような怪我だった。私はマリーを背負って熊から逃げて助けを求めて森を走って……そしたらいつのまにか、いつもの森ではない不思議な場所に迷い込んでいたの」
「声がしたの。こっちへいらっしゃい。わたしの樹皮を剥ぎ取りなさい。それを煎じて飲みなさいって。鬼火がたくさん集まって、お椀みたいな花の咲く泉の辺りに案内された。お椀の花を摘んで泉の水を掬って、鬼火がお湯を沸かしている間に、声のする方へ進んでいった」
そして彼女は灰色の枝を茂らせた若木と出会った。
促されるまま持っていたナイフで樹皮を削り、泉に戻って煎じて瀕死のマリーに飲ませると、ぱっくりと裂かれていた妹の背中の傷はみるみる塞がり、マリーは息を吹き返した。
それ以来、ときどきエリーは魔界の森に入り込めるようになった。それは彼女だけに与えられた特殊な感性と能力のおかげらしかった。彼女だけが、魔界と現世の境を見極め、その境界を踏み越えるタイミングを掴むことができたのだ。
魔界と現世を行き来するたび、彼女の感性と能力はしだいに確かなものとなっていった。
その感性で、エリーは現世の自然とも今まで以上に心を通わすことができるようになった。草花からさまざまな効能を引き出すことや、蜜蜂や蝶々と歌を交わしてダンスを踊ることもできるようになった。
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「あなたの未来が明るく健康で楽しく幸せでありますように」
そのおまじないと灰木の丸薬のおかげで僕はだんだん元気になった。エリーの元で彼女の仕事を手伝い、学び、ともに病の人々を助けているうち僕は大人になった。
エリーの元には国中からさまざまな病を抱えた人が救いを求めて集まってきていた。
エリーの森の周りには彼らが助け合って暮らす村ができた。
誰かを病から救うことができたときエリーは本当に嬉しそうに微笑む。
彼女が少女時代から独りきりで家にこもっておまじないの研究を続けてきたのは、彼女にとって大切な妹を救いたいという願いからだった。
「マリーは私の身代わりになったの」
教会の司祭に連れ去られた妹のことをいつもエリーはそう語った。
「マリーの周りに蝶を踊らせていたのは私なの。マリーはとっさに嘘をついて、私を庇った。司祭の目の中にはおかしな光があったから」
教会の人間の目は誰も彼もおかしな光を浮かべていて、天の神様をまっすぐに見つめる邪魔をしている、とエリーは言った。
「マリーは私と違って、結果をすぐ求めない柔らかな優しいおまじないをするの。そしてそれは必ず叶うのよ」
双子の姉妹がいつか必ずまた会えることを妹は祈ってきたに違いない。エリーはそう信じていた。
そして、その祈りは確かに叶った。
国王の軍隊がエリーの森と村を取り囲んだとき、彼女は僕に今までにない強い言葉で命令した。
「ヨヌ、あなたは逃げなさい。呼ばれているのはあなたではない」
「そんな卑怯な真似はできません。僕はエリーとともに行く。ずっと一緒にいます。僕があなたを守る」
エリーが僕の命を守ってくれたように。
今度は僕がエリーを……。
村人は拘束され、森に火がかかり、家の周りに大勢の足音が迫った。
ずっと言いたくて言えない、とても大きな言葉が、胸の中で膨らんで息を詰まらせた。僕はあなたを――。
「私もあなたのことが大切よ、ヨヌ」
すべての運命を知っているようにエリーは穏やかに微笑む。
そしてミツバチの印を結んだ。僕に向かって。
「あなたの未来が明るく健康で楽しく幸せでありますように」
僕は気がつくと、薄暗い鬱蒼とした森の中にいた。
魔界だった。
後ろを振り返っても、出口はどこにもなかった。
「エリー……、エリー……っ!!」
僕はずっと魔界を彷徨った。永遠とも思えるときを。
エリーにふたたび会える出口を探して彷徨った。
そしてついにその術を得て魔界から脱したときには、すべてが終わっていた。
エリーは火炙りにされて死んだ。
王宮のバルコニーから聖女マリーはエリーの死にゆく様を見つめていたという。
復讐しなければならない。僕は思った。エリーの代わりに僕が。
この世界に、その裏切りに、罰を与えないと。
そうしなければエリーの穏やかな微笑みが何一つ報われない。
王国に呪いを。
聖女に永遠の苦しみを。
僕はそう決意したのだ。




