31 彷徨える男
「魔界、か」
皇太子妃フランシーヌが何者かによって連れ去られた頃、ルディガーは鬱蒼とした暗い森を一人ぐるぐると彷徨っていた。――否。彷徨わされていた。
発端は、この日の昼ごろに遡る。
ルディガー率いる帝国陸軍第一師団は、東部での演習を終えて帝都への帰途にあった。人馬の列は整然と街道を進み、夕方までには帝都に着くだろう、と思われた。帝都ではフランシーヌが待っている。ルディガーの帰りを待ってくれているかはわからないが、結婚前とは違って帝都には皇太子妃と呼ばれる女性が存在していることは事実だ。ごく当然の事実をいちいち言語化して噛みしめなければ実感できないのは、まだルディガーはその者と夫婦の契りを行っていないからだ。
いや、そんなことは大したことじゃない。
問題は、彼女の心だ……。
問題は……。
帝都に近づけば近づくほどルディガーの心はざわついた。
回れ右してもう一度演習に戻りたくなったりもした。
このままいつまでもずっと彼女の心を手に入れられなかったら……?
彼女の心を自分に向けさせられないどころか、自分の力ではフランシーヌを守れずに、彼女が傷ついたり、……彼女を失ってしまいでもしたら?
考えたくなかった。
だが、師団の軍列を率いて並足で進む馬上にあっては、まさか書類を裁くわけにもいかないので、去来する想いの堂々巡りに懊悩しつづけるよりほかにどうしようもないのであった。
翻る師団旗の向こうでチラつく太陽に、苛々と目を細めたときだ。
遥か前方、街道の真ん中にすっくと立っている人影をみとめてルディガーは「何だ?」と訝しんだ。
粛々と進む軍列がすぐそこまで近づいたとき、ルディガーには人影の正体がすでにわかっていた。
前進を阻むように立ちはだかる漆黒の影は、魔物のメルテレース青年だった。
ルディガー以外にその姿は視えていない。
「フランシーヌは無事か? 貴様が離れていては、魔術師に隙を与えるのでは……」
無視することもできたのだが、わずかな懸念からルディガーは馬の脚をとめ、軍列を先に行かせた。
「己の役に立たなさは認めているのですね。では話が早いです。フランシーヌとの未来に一瞬でも分不相応な夢を見たことを向こうで猛反省してください」
凄絶なまでに美しく薄暗い微笑が眼に焼きついたのを最後に、ルディガーの世界が暗転した。
そして気がつくとルディガーは、どこともしれない暗い森の中に立っていた。
ぐるりと周りを見回しただけで、そこが今までルディガーの生きてきた世界と地続きの場所でないことはわかった。植生がまったく違う。クキキキキキ! というけたたましい音が足元から聞こえて後ずさると、足をどけた場所で鳥の嘴のようなものを生やしたピンクの葉っぱが紫色のミミズを啄んでいた。
仰いだ頭上に太陽はなく、樹々の枝枝は幾何学模様を描いて捻じ曲がり、目鼻のない小鬼のような小さい生き物があちこちの枝に座ってルディガーを見下ろしていた。
「なるほど」
何がなるほどなのか自分でもわからないが、とりあえず冷静にルディガーは頷いた。
見知らぬ暗い森で迷ったら動かないほうがいい。
だがそれは、必ず夜が明けるとわかっている地上の森の話だ。
ルディガーは歩きだした。
暫く歩いてみてわかったことがある。この森では時間が流れていない。森の時間は流れているのかもしれないが、人間としてのルディガーの時間は止まっている。どれだけ歩いても疲れないのだ。
それはつまり、あの魔物の気持ち一つで永遠にルディガーがこの場所にいつづけなければならないことを意味している。
ある種の拷問であろうか。
何事かを反省しろとか言っていたので(あまりにもくだらない反省事由だったので聞き流してしまって憶えてない)、心を改めるまでここから出してはやらない、ということなのかもしれない。
こういうことができるなら、憎い恋敵のルディガーを一思いに殺すこともあの魔物には容易いのだろうに、それをしないのはフランシーヌの優しい心を慮ってのことであろうし、その一線を越えない程度の心はある魔物だからこそ、フランシーヌはメルテレースという青年をあれほど信頼しているのだろう。
つまり、フランシーヌへの忠誠と自身の欲望の板挟みになっている魔物は、こう言いたいわけだ。
――僕はいつでも君を殺すことができる。フランシーヌと結婚することは君にとってリスクでしかない。だからフランシーヌとは離婚しろ。
「誰がするか。クズめ」
悪態をつく声は嗄れていない。喉も渇かず、睡魔にも襲われない。あてどなく、奇怪な植物を掻き分けながら探索をつづけて、森の果てに辿り着いていてもいいくらいの距離を歩いたころ――。
ルディガーは壁に突き当たった。
だがよく見ればそれは壁じゃない。城壁とさえ見紛うほど巨大な大樹の一部だった。
首をのけぞらせて仰ぎ見ると、梢は遥か彼方で天を突き破るように見えなくなる。
大樹の樹肌は、金属とも見紛うほどすべすべとしている。
その光沢は鉄色、もしくは灰色――。
灰色?
「これは……」
眉をひそめてルディガーはよくよく観察するために数歩後ろへ下がった。壁をなす樹肌に沿って、土にうずもれた根の隆起する地面を歩いてみる。
やがて、ルディガーはそれを見つけた。自分以外の何者かが残したと思われる痕跡を。
それは、樹肌のところどころにひび割れたように空いている洞の一つの中にあった。文字が記された紙片だ。
その文字は、古代フライア語と呼ばれる言語で、口語としてはとっくに廃れたが、聖父教会や大学では今も正式に使われているものだ。儀典に用いられる言語だからルディガーにも読める。
〈灰木さんへ。マリーの怪我を治してくれてありがとう。ありがとう。ありがとう! いつまでも元気ですくすく天へと伸びていってね☆ エリーとマリー〉
どことなく幼いような几帳面な字で、そう書かれてあった。二つの名前のあとに、可愛らしい蜜蜂のイラストが添えてある。
「いつの時代だ……?」
魔界と思われるこの世界に、過去にもうっかり迷い込んだ人間がいたということか――。




