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25 衝撃的なできごと

 皇帝陛下との朝食会が終わったあと、フランシーヌは皇太子妃の執務室に寄って、フライアの実家への手紙を皇太子妃付きの文官に預けた。いくつかの書類にサインする公務を片付けてから執務室を出ると、ちょうど近くの詰所からヴィクトールが出てくるところで、フランシーヌは辺りに衛兵しかいないのを見回してから彼に近づいていった。ルディガーは皇太子の執務室で公務を片付けているはずだ。


「これは、皇太子妃殿下」


 そろそろと寄ってきたフランシーヌをみとめてヴィクトールが慇懃に一礼する。


「ヴィ、ヴィクトール、こんにちわ……あの、つかぬことを尋ねるけれど、にょ、女官のプロフィールの一覧表とかって、見せてもらえたりする?」

「女官の身元についてお知りになりたいのですか? いずれかの女官に何か粗相がございましたでしょうか?」

「ない、ないのよ。粗相はないのよ。みな立派で親切よ。だから彼女たちのことをもっとよく知って、こちらも親しくできたらと思っているのよ。会話にもちゃんと付いていきたいし……誰が誰の娘で奥様でイトコで大伯母で、とか、すぐにこんがらがってしまうんだもの」

「承知しました。推薦人と家系図を記した選考書類が人数分ありますので、それをお持ちしましょう」

「ありがとうなのよ!」


 フランシーヌは執務室に戻って、ヴィクトールから届けられた書類に目を通す。


 めあてはマルガレーテのプロフィールだ。コンラディン伯爵家の家系図をチェックしても帝国に生まれ育っていないフランシーヌには知らない名前ばかりだったが、推薦人の名前を見て椅子から転げ落ちるほどびっくりした。


 アグネス・ロスデリヒ・フォルクハルト――それはフランツ皇太子の妃にしてルディガーの母君の名前だ。


 つまりフランシーヌの姑である。まだ挨拶することも叶っていない義母アグネス妃は、フランツ皇太子の暗殺以来、喪に服して郊外の離宮に閉じこもりがちであると聞いている。夫を突然の凶事に奪われた哀しみが相当に深いという話だ。

 宮殿炎上のごたごたも重なって、まだフランシーヌは離宮に挨拶に赴くことができていない。


 あやしい女官マルガレーテの推薦人がアグネス妃とはいったいどういう意味を持つのか考えあぐねているうちにルディガーが迎えにきたので、フランシーヌは内心もやもやを抱えながらも夫とともに帰途の馬車に乗った。


「これは皇太子夫妻の馬車なんだが」


 ルディガーは馬車が動きだすなり、フランシーヌの隣で腕組みして正面の座席を睨んだ。

 朝食室でも執務室でもひっそり気配を消していたのに、夫妻二人きりの密室状態はどうしても許せないのか、メルテレースは正式な客人のような態度で優雅に座席を占めていた。


「離婚間近な仮面夫婦のくせに」


 嫌みを煮凝らせたような昏い愉悦の瞳で微笑んでメルテレースが言い放つ。

 相変わらず、メルテレースはルディガーのような苛々は見せない。どこか余裕だ。


「誰と誰が仮面夫婦なんだ。フランシーヌ・フライア、君は俺と離婚したいのか?」


 青い瞳を向けてくるルディガーからダイレクトに問われてフランシーヌはぶんぶんと首をふった。

 そんなスキャンダルを起こす器はフランシーヌにはない。

 離婚なんて、したくても堂々と口にできるわけがない。

 選択肢はこっそり逃亡一択である! ……その方法があればだが。


「だそうだぞ」

「フランシーヌの本当の望みを知っているのは僕だけですし、僕だけがそれを叶えられる」

「フランシーヌの望みは貴様を“剥がす”ことだぞ」

「つまり、フランシーヌはいつもいつでも僕のことだけを考えているんですよ」


 いま考えているのはマルガレーテのことなんだけど。

 そう、ルディガーに、彼女のことを言っておかないと――。


 ドス。


 フランシーヌが口を開きかけた瞬間、メルテレースの左胸に銀色のナイフが突き立った。ほとんど予備動作なく、組んでいた腕に隠されていたナイフを正面に投擲したのはルディガーだ。


 するり、とメルテレースが己の胸に刺さったナイフを何事もなかったように平然と抜いて、血に濡れもせず滑らかに光る刃を眺める。


「聖句が刻まれていますね。聖父教会に作らせたんですか? 非科学的な神頼みはくだらないんじゃなかったんですかね」


 チッ、と舌打ちしてルディガーは車窓に向かって顔をそむけた。


「血でも吐くふりをしてフランシーヌの同情を引こうとするかと思ったが」

「あー、それ、やれば良かった。失敗しました」


 この人たちはいったい何を? とフランシーヌは目を丸くするしかない。


「け、喧嘩はやめて……」

「驚かせてすまない。だがこれは喧嘩ではなく、必要不可欠な実験だ。教会の聖句や聖具が魔物に何らかの効果を持つなら、魔術に対しても有効だろう。今のところ俺たちは丸腰も同然だ。聖女の血筋の君には敵に対抗する力があるようだが……」


 フランシーヌを振り向いたルディガーの瞳が痛切に揺れた。見ているこちらの心が痛むほどの後悔が伝わる。


「君のことは俺が絶対に守る。二度と危険には晒さない」


 父に誓って――。とルディガーは呟いた。


「それに、この魔物にダメージを与える方法なら別にある。こいつが設定した賭けには決定的な穴があるんだ。どれだけ余裕なのか知らないが、先手を俺に与えたことで」


 ふいにフランシーヌの周りにゆるやかな風が起きて、気がつくとルディガーが座席に片膝をつきフランシーヌを反対側の窓際に追い詰めていた。ルディガーの掌が窓ガラスに押しつけられると同時にフランシーヌの後頭部はカーテンのタッセルに当たり、まばたく視界に真摯な夫の瞳が近づく――。


 魔術が完成に至るときの鉄鍋の中みたいな、熱く猛るようなその輝きに見惚みとれた。ごくりと息をのんだとき、フランシーヌは自分でもそれが何かに頷く仕草のように思えた。

 何を許可したのか自分でもわからぬまま、……唇を奪われていた。


 恋占いの鍋のプラチナ色の鏡面みたいに、フランシーヌの瞳はルディガー・ロスデリヒ・フォルクハルトの美しい姿を映しながら、そのまっすぐな眼差しに侵入されて頭の中まで真っ白になった。


 何も考えられなかった。

 何が起きているのかもわからなくて――。


 空白に染まったフランシーヌを支えるようにルディガーのしっかりした手がその首を抱え、やがて両手が頬を挟んで這い上がる。何度も角度を変える口づけは永遠のように感じた。車輪が小石を噛んで馬車が軽く跳ね、やっと身体が離れたとき、唇に彼の熱と吐息の余韻が残っていた。


 震えながら視線を上げると、少しだけ怯えるようなルディガーの瞳がまだ直ぐ近くにある。


「同じことをあいつとしたいか?」


 息ができなくなって、馬車にも酔ったのか目が回って動悸もするし、パニックだった。二度と誰ともしたくないような気がしたので、フランシーヌは首をふっていた。

 胸が苦しい。

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