20 ふたりの初めて
フランシーヌの隣にルディガーは腰を下ろした。
フランシーヌの顔を覗きこむように首を曲げて、彼から遠いほうの肩に手をかける。
「フランシーヌ・フライア。そんなふうによく動く瞳は、今まで出会ったどんな姫君も持っていなかった」
そりゃそうだろう。帝国皇太子を射止めるためよく訓練された社交強者の姫君たちは、いつでもどこでもフランシーヌのようにきょろきょろとキョドったりしないので。
「その瞳を追いかけたくなることも、その動きにこんなに心を掻き乱されることも、これまでなかったことなんだ」
「ぶ、無作法でごめんなさいなのよ……」
都会の洗練とは程遠いフランシーヌの行儀の悪さが、マナー教師も裸足で逃げ出す帝国皇太子の見識を掻き乱しているとはひたすら申し訳なかった。
じっと見つめられてますますフランシーヌはうろたえ、瞳を揺らす。
怒られるのかしら。帝国皇太子妃としてもっとしっかりしてくれ、と注意されるのかしら。そう言われても、陰キャは簡単に治らないんだけど――。
すっとルディガーが顔を近づけ……その唇をフランシーヌの額に押し当てた。
フランシーヌははっと驚いて瞳を開く。
額に口づけられている――それは聖女王妃がいつもしてくれるのと同じ、親愛の口づけだ。なるほど。夫婦とは、親子と同じくらい親しい間柄になるということなのだ。そう気づいてフランシーヌは、いつも聖女王妃にするのと同じように、両手をルディガーの背中に回して抱きついた。
ルディガーの身体がびくんと震える。
「フランシーヌ……」
唇を額から引いたルディガーはうつむくように首を傾け、フランシーヌの顎を指先で捉えながら瞳を薄くほそめていく。彼女の顔のある一点が、けして抗えない強い引力を持つように彼を引き寄せるのだった。
が。
「――」
唇を奪う寸前で、ルディガーが顔を上げた。
「皇太子殿下……?」
「くそ。何故かあいつの顔が浮かぶ……っ」
フランシーヌは首をかしげる。
「メルテレースの? まあ確かにメルテレースの顔は綺麗だから、一度見たら忘れられないのかも」
「そうじゃなくて。あいつが言っていたことだ。俺が君にすることと同じことを必ずあいつも実行すると」
ルディガー皇太子は立ち上がって、脳裏に貼りつくおぞましい幻影を振り払うように一歩、二歩歩いた。
腕を振りながら振り返る。
「あいつが実行するとして、君は抵抗できないのか?」
「うーん。たぶん無理なのよ」
「無理?!」
「元々は魔王と魔術師の契約だと言っていたし、契約で縛られた関係の場合、魔力の作用から逃れるのは不可能だとどの黒魔術の書にも書いてある。ただの頼み事とかなら断れるけど、メルテレースが本気で契約を行使するなら私はメルテレースの人形状態だと思うのよ」
ルディガーが唖然として動きを止めた。
「恐ろしいことを言っている自覚があるか?」
「いえいえ。それが黒魔術の良いところなのよ。論理的で白黒はっきりしているの。契約は契約。魔物との契約は聖女の血筋じゃなくても誰でもできるし、聖女でも反故にはできないとされている。黒魔術、わかりやすくて最高!」
ルディガーが両手で頭を抱えるようにして唸った。
「フランシーヌ・フライアが、あいつの人形に――」
ありとあらゆる男女の睦まじいあれこれをフランシーヌとメルテレースの絡みで想像してルディガーは一人蒼白になる。
そして、おもむろに逆上した。
「魔物なんていない。魔物なんていない。魔物なんて嘘だ!」
切羽詰まった表情でフランシーヌの元に戻り、その華奢な身体を両腕で掬い上げるとベッドの中心に投げ出し、膝をついて覆いかぶさった。
「ル、ルディガー皇太子……っ?」
びっくりしてパチパチと瞬くフランシーヌを真上から見下ろすルディガーは、どこか胸を掴まれるほど痛切で真剣な顔をしていた。衝撃の余震でふわふわ揺れる寝台の上でフランシーヌは、心臓が揺れに合わせてトックトック打つのを感じた。
急に、フランシーヌは目の前のルディガーがとても怖くなった。
怖い、と思ったのは初めてだった。いつも華やかな場所で華やかな人々に感じている気後れや萎縮と、今この時の〈怖い〉は、ぜんぜん違うものだった。
「あいつを見る顔とちがう」
絞り出すような声で、ルディガー皇太子が言った。
「……」
違うのは当然だった。
何故ならフランシーヌは陰キャなので。
光輝くルディガー皇太子殿下を闇の眷属メルテレースに向けるのと同じ親しく気安い視線では見られない。眩しすぎて。
無理です。
「――」
ぐっと瞼を閉じ、ため息をつくなりルディガーは身を起こし、フランシーヌの手を取ってゆっくりと起き上がらせた。
乱れた前髪を片手でかきあげ、生来の理知的な声を取り戻して告げる。
「わかった。わかったさ。あいつの目論み通りだ。だが、すべて目論み通りにはいかせない。身体で奪えないのなら、心で心を奪うしかない」
口の端に自嘲を刻みながら、美しい瞳を開いて呟いた。
「そうとなれば、エッケルトに助言を乞うしかないな」
よくわからないけれどフランシーヌは頷いた。
エッケルトならば必ずルディガーに適切な助言をくれるはずだ。間違いない。
「それが良いと思うわ」




