19 寝室直行
そういえば、あれからずっとバタバタしていて、新婚夫婦が寝室のベッドで踊るダンスの作法を調べる時間がなかった。女官に訊いてみる暇もなかった。フランシーヌ付きの女官たちはみな親切でお喋りだから、陰キャのフランシーヌでも簡単な質問くらいならできる気がするのだが。
「わかったわ。じゃあぶっつけ本番で」
「よし」
「メルテレース氏はどうするんだい、ルディ……」
「誰だそれは。そんな者はいない。そもそも魔界や魔物など御伽噺のフィクションで、ロスデルムがとっくの昔に科学の論理で葬り去った与太話だ。我々に何かおかしなものが見えて妙な声が聞こえているとしたら、それはタネも仕掛けもあるエセ魔術師の幻惑に一時的に惑わされているだけだろう」
「そう思いこむことにしたんだね……」
「草やらキノコやら、科学的に幻覚を見せる方法はいくらでもあるからな」
それじゃまるで私が架空の友だちほしさに怪しい草やキノコ漬けの人生を送ってきたみたいじゃないの――。
「別に構いませんよ? 無能な人間がするイジメのレパートリーは無視くらいであることは理解できますし。でも、これだけは肝に銘じておくといいですよ。君がフランシーヌに何かしたら、僕も必ずフランシーヌに同じことをする」
「えっ、メルテレースともダンスしなくちゃいけないの? そんな、ただでさえダンスは苦手だっていうのに、二人も相手したら疲れちゃう」
そこでルディガーがなぜか顔を赤くした。みるみるうちに首筋まで真っ赤に染まっている。
「僕は慈悲深く懐の深い魔物なので、哀れな人間に挑戦権を与えることについてはやぶさかではないです。フランシーヌの心を第一に守りたいという僕の想いに嘘偽りもありません。だから、こういうのはどうです? 互いに半分半分の公平な時間をフランシーヌと過ごしてアプローチする中で、もしも君が先にフランシーヌの心を射止めて、フランシーヌが僕の浄化を決心できたら君の勝ち、ということで」
余裕に満ちた美しい微笑みを浮かべてメルテレースは言った。
まったく、欠片も、1ミリもフランシーヌをルディガーに奪われる可能性を信じていない様子で、この謎多き魔物は帝国皇太子に不敵な賭けを持ちかけたのである。
×××
さて一時間後。
それまで実質的にフランシーヌが一人で使っていた、フォルク公爵家が用意した皇太子夫妻の寝室に、晴れて、夫であるルディガー皇太子と妻であるフランシーヌ皇太子妃の姿があった。
もちろん、嬉し恥ずかし新婚初夜のダンスを踊るためだ。
合理的で現実的な理屈があれば意地でもそれを選んで我が道とするルディガー皇太子は、徹底的にメルテレースの存在を無視し、その言葉が聞こえないふりをつづけた。
その結果としてフランシーヌは、余裕綽々の微笑みを貼りつけたメルテレースと、「従兄弟としてはルディガーに賭けてやりたいけど、大損しそうだな……」と正直な下馬評を呟いてしまうエッケルトに見送られながら、軍靴をカツカツ鳴らして歩きだしたルディガー皇太子に手を引かれ、この部屋に連れてこられた。
ダンスというより戦争が始まりそうな足取りであった。
「というわけだ、フランシーヌ・フライア。一ヶ月近く、遅くなったが――」
フランシーヌをベッドに座らせ、その足元に跪いてルディガーがかすれた声で言いかける。
「あのう、ルディガー皇太子殿下。私、その、うまく言えるかわからないのだけど、ちょっと頑張って、話さなきゃ、と思うの」
「何だ?」
フランシーヌをどこか眩しげな瞳で仰ぐルディガーが、そっと首を傾げる。
「フォルク公爵のお父上が、フランツ皇太子を最初の一撃から庇って、ともにお亡くなりになったこと、とても痛ましいことだわ。でも、凄い、とも思ったの。とても強い絆を感じる、って」
「父上と先代フォルク公爵は親友同士だった。先代公爵にとって父上は大事な妹の嫁ぎ先でもあったんだ」
「ええ。だからフランツ皇太子と、皇太子妃と、その子どものルディガー皇子のために、強い使命感でフォルク公爵は最初の刃の盾になったと思う。そしてそれは、あの夜のフォルク公爵――エッケルトも同じだった」
「ああ、そうだな」
躊躇なくエッケルトはルディガー皇太子とフランシーヌの盾になり、魔術師の攻撃から庇った。
あの日エッケルトはルディガーの焦りとプレッシャーについてフランシーヌに語ったけれど、ルディガーと同じかそれ以上のものをエッケルトも抱えているはずだった。父親が果たせなかった、皇太子の命を守るという臣下の役目を、今度こそ果たしきるのだという責任。
ルディガーとエッケルトは、ともに目の前で父親を殺されるという経験をした。またそれ以上に、彼らは幼い頃から兄弟のように交遊してきた友だった。
「同じにするなと言われるかもしれないけれど、私にとっては、メルテレースがそうなの。メルテレースはいつも、私のそばで話し相手になってくれて、私を見守っていてくれたのよ」
「――」
「エッケルトをこの世から消すなんて考えられないでしょ? 私もメルテレースを浄化するなんて、考えたことがない。無理なのよ」
「“剥がす”のは?」
「剥がすのと浄化するのは違うのよ。たぶん」
やったことがないからわからないが、聖女王妃のように聖性で魔を滅するのと、フランシーヌの魔術研究は、やはり根本的に原理が違う。
聖女の力は、圧倒的である。
「エッケルトは人間だ。だが、あれは、魔物だ」
理屈を言えばその通りだ。
ルディガーは絶対的な理屈の世界に生きている。
「でも君の言葉には説得力がある。いつまでも聞いていたい、美しい響きを持っている。優しく聡明な君の、心からの言葉だからだろう。フランシーヌ・フライア。だから、今はそう思っていて構わない」
「ほ、本当に?!」
身を乗り出したフランシーヌの手を、ルディガーが掬い上げて口元へ持っていく。
「ああ」
「よかった。そうよ口下手でも一生懸命話せば頭の良いひとには通じるのよ――」
そっと唇に押し当てたフランシーヌの手の甲ごしに、ルディガーの理知的な青い瞳が、人生で一度も灯したことのない非論理的な情熱の炎を燃やして揺れながらフランシーヌをじっと見つめた。
「今は構わない。君はきっと目を覚ます。俺が必ず、あの魔物の邪な呪縛から君を解放してみせる。呪いから君を救うのは俺だ」




