10 聖女の、じゃなかった黒魔術研究家の実力
二週間後、フランシーヌは宮殿西翼の被害現場にふたたび立っていた。
宮殿へ来たのは、皇太子妃としてサインしなければいけない書類がいくつかあって、それは必ず宮殿の調印の間でサインしなければならない公式書類だったので。
他の簡易的な書類(新調するドレスの請求書とか)のサインや皇太子妃教育の講義はフォルク公爵邸で行われている。
願ってもないチャンスだったので、フランシーヌは公式書類のサインを終えたあと、周囲に人が途絶えた瞬間を見計らって、西翼の現場にこっそり一人で来てみた。
いや正確には一人ではなく。
――ずいぶん派手にやられましたね。
まるきり他人事の表情でメルテレースがひょうひょうとハンドサインを寄越す。
いつのまにか消えたメルテレースは、いつのまにか通常通り復活していた。
お腹でも壊してたのかしら、とフランシーヌは解釈した。いや、魔物のメルテレースはトイレに行かないし、そもそも何か食べているところを見たこともないのだけど。
でもメルテレースだってフランシーヌと同じく慣れないロスデルムに連れてこられて、フランシーヌと同じようにストレスの一つや二つ溜まっているはずだ。
「結局、マークは13ヶ所見つかったんですって。私の見積もりからすると2つ足りないのよ。ボロボロに崩れた瓦礫からも警備隊はちゃんと他の13個のマークを見つけているから、見つからないのじゃなくて元々なかったと考えるしかないわね」
すっかり冷え固まって灰色のでこぼこした景色となった現場でフランシーヌは眉を寄せ考えこんだ。
「だから、もしかしたら、術式はまだ完成していなかったんじゃないかと私は仮説しているの」
――最後の二つはまだ描かれる前だったということですか?
「そうよ。人目を避けながらこっそり忍びこんで、一晩に一つ描き上げるのがせいぜいといったところでしょうし。時間がかかっていたはず。それに、大披露宴の日を狙うのは上策とは言えないわ。現に皇帝陛下もルディガー皇太子も被害を受けなかった」
――脅しのつもりだったとか。
「それにしては大掛かりだわ。人的被害がなくても、こんなことをしたら犯人一味は縛り首だもの。リスクと効果が見合わないと思わない?」
ロスデルムはフライアとは違う。反逆罪や国家擾乱罪を犯した者に帝国はけして温情をかけることはしない。
フランシーヌは難しい顔のまま両目をぎゅっとつむり、頭を振った。
「まあ、今はとりあえず浄化をさっさと済ませないとなのよ」
承知しているようにメルテレースが助手の動きで歩きだす。
この現場は、調査も終わったので数日中に撤去が始まる。三楕円の術式が描かれた瓦礫ごと砕いて処分される予定であるという。
しかしフランシーヌは何となく嫌な感じがした。それは聖女の血筋の勘としか言いようのないものであったが、フランシーヌ自身は聖女の勘とかいう理屈でない精神論を信じたがらなかった。
だからまあ、これは黒魔術研究家としての懸念だ。
これだけの事態を引き起こした強力な黒魔術だ。力ある者が残した呪いというものは、たとえ痕跡だけでも周囲の環境に悪影響を与えることが、各種の記録上でも知られている。草木が枯れたり、ものが腐ったりするのだ。
フランシーヌが指示する前に、瓦礫の下に抉られた穴の底へと飛び降りるメルテレース。
と、穴の底からゴリゴリガリガリという音がして、その音はやがて崩落現場全体から聴こえるようになる。そして。
あちこちで瓦礫の崩れる音がしたと思うと、一斉にいくつもの塊がふわり浮上して、重力に逆らうようにして舞い上がった。
小さなものから大きなものまで、たくさんの瓦礫がふわふわ漂って、宙の一点に寄りあつまり、フランシーヌの立っている地面の近くにそろそろと着地した。それらはすべて、三楕円のマークが書かれた壁の破片だ。
フランシーヌは“剥がし”の呪文を天の青空に声を張り上げ朗々と詠唱した。
それは、メルテレースを“剥がす”ために探求した黒魔術研究の過程で会得したワザだった。肝心のメルテレースを剥がすためには効果が小さすぎてぜんぜん効かないのであったが、人間の魔術師が残した呪いや魔術の解除には充分効く。白煉の魔術師はフランシーヌの両親に倒されて死んだが、その呪いはまだフライアのあちこちに残って小規模な怪異を起こしていたりする。その浄化は聖女王妃の仕事だった。いずれフランシーヌがその仕事を継ぐことが期待されてもいたけれど。
フランシーヌが開発したのは聖女王妃の神聖な祈りとはちょっと違うやり方だ。何しろ黒魔術の応用なので……。
瓦礫に描かれた黒い曲線が、フランシーヌの詠唱に酔いしれて震えるように蠢きだす。踊るように揺らぎながら黒い曲線がぺらりと瓦礫の表面から剥がれていく。あちこちで剥がれた術式の曲線は空中でくしゃりと液状化した。おぼろな墨の線となって、メルテレースが掲げる透明な数珠へと吸いこまれていく。そこに連なる透明な珠が、ひとつひとつ杯を満たすように墨色に染まっていき、最後まで墨のきれはしを吸いきって、――魔術の封印が完了した。
――なかなかスモーキーな首飾りになりました! フランシーヌによく似合うでしょうね。
掲げた一連の数珠をうっとりとメルテレースが眺める。




