【第310話】ヒューメット=トラド(上) 一報
「”飼い犬”から報告が」
部下の言葉に、ヒューメットは閉じていた目をゆっくりと開ける。それから時間をかけて寝台から大きな身体を起こした。
全く、困ったものだ。衰えはいよいよ誤魔化しの効かないところまで来ている。
特に、デンバーを離れてリフレアにきてからは顕著だ。だが、まだ、このようなところで終われない。
最近はつとに、昔のことばかり思い出す。いや、昔のことしか思い出さないと言った方が正しいかもしれん。このヒューメットが次期王であり、ルデクトラドの王宮の中心であった、あの耀かしき日々が。
その頃のことを思い出すたびに、熟した果実を口にしたような甘味が脳を走り、そしてすぐに甘味は吐き気を催す腐臭を放つ。
あの玉座に座るべき資格は、私にある。他の誰でもない。私にあるのだ。あの場所に身を預けるまでは、このヒューメット=トラドは死ぬわけにはいかぬ。
寝台のへりに座り、大きく息を吐くと「読め」と命じた。手紙を開き指示を待っていた部下が、朗々と内容を読み上げ始める。
最初にあったのは、ダーシャ=シビリアンの不安を綴ったものだ。
キンズリー=インブベイが病死したと聞いたが、どう考えても密かに処刑された。噂によれば、第10騎士団に何か仕掛け、返り討ちにあったようだ。私は何も聞いていないが、ヒューメット様の指示なのか。私達はこのままで大丈夫なのか。といった内容である。
キンズリーの件は聞き及んでいるが、ヒューメットは関係ない。知らぬとしか言いようがないが、そうだな、ゼウラシアの凶刃を向けられるよりも早く、ルデク国内で火の手を上げろとでも返答しておけば良い。
これだけの話なら、全く詰まらん事だ。しかし、次に読み上げられた内容に、頬が緩んだ。
ーー第10騎士団が出陣準備を始めている。ーー
ようやく来たか。これは早急にネロに知らせてやらねばなるまい。喜ぶだろう。ダーシャの聞いた話では秋の始まりまでにはオークルの砦に入り、半ばにかけてリフレアに攻め込む算段だと。
大きな情報だ。ネロにも貸しができるな。第10騎士団の進軍に合わせ、ダーシャ達東方貴族にはいよいよ決起させよう。
さらに続けて部下が述べた内容には、一転顔を顰める。
その情報もまた、急ぎネロに知らせるべき必要のある物であった。
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ルデク、ついに侵攻を開始する。および、サウスバーク、イーマウ、デミアの三名にルデク内通の疑いあり。
その情報はネロから人を介してサクリへも伝えられたが、報告を受けたサクリの第一印象は「信用できない」であった。
先日サクリがルデクとルブラルを煽ったばかりである。その直後にこの動き、あまりにもタイミングが良すぎる。まるで先日の策に対する、ルデクの返答のようにさえ感じる。
サクリは報告してくれた将へと視線を向ける。人の良さそうな精悍な顔つきの将だ。
聖騎士団の中枢を担う人物で、サクリに対しても比較的好意的に接してくるこの男に、サクリは問う。
「ショルツ殿はこの報告、どう思われますかな」
「どうというと、サクリ殿には何か怪しまれるようなところがあると?」質問されたショルツはそんなふうに言いながら、少し考え、
「現段階ではなんとも分かりませんな。我々としては、攻めてくる可能性があるなら、それが虚報であっても兵を南に集めておかねばなりません」と答えた。
既に、対ルデク侵攻に対するリフレア南部の防衛線は着々と準備が完了しつつある。ショルツの判断は単純だが理にかなっている。
「ですが、虚報というには、少々無理がありませんか? 内通者とされるその3名、ルデクが適当に選んだというのは考え難い。何かしら根拠があるのでは?」
続けて発したショルツの指摘は、正しい。
ここが一番の問題だ。
サウスバーク、イーマウ、デミア、これらの名前は教会の内部に詳しくないと出てこない名前である。さらにいえば、いずれも内通してもおかしくない者達でもあった。
問題の三人は、兄上が率いる正導会が傘下に加えている、聖永会の主要な人物達だ。
と言っても世間的にはいずれも無名に近い。国外に代表として出てゆくのも、国外の使者を歓待するのも、原則として正導会に所属し、国の要職にある神官であるためだ。
そして、三人ともにその事に対して不満を持っている。聖永会はかつては最大派閥であったこともあった、伝統のある派閥だ。その派閥の中心人物である自分たちが、要職に就けないのはおかしいというのが彼らの言い分。
不満を述べると言っても、派閥内だけのことで、現状で表立って兄上と敵対するほどの気概はない、そのように目されていたが、、、、、
聖永会は未だに多くの人間が所属している。ここで派閥全体が反旗を翻せば少々面倒なことになる。
虚報だとすれば、ルデクの将は、、、おそらく仕掛けたのはロア=シュタインであろうが、ロアはどこでこの3人の名前を知ったのか。
或いはヒューメットのもたらした情報が真実ということもあるのか。いや、やはり、何か違和感がある。オークルの砦にはまだ大きな動きはないことは把握している。第10騎士団が早晩動くのであれば、もう少し何かあっても良いはずだ。
、、、、、内通者はともかくとして、第10騎士団がオークルではなくゼッタ平原へ向かう可能性はないか?
サクリはその考えに思い当たる。だが、ルブラルの腰は重かった。結局静観を決め込んだルブラルに対して、わざわざ刺激するような真似をするか?
サクリがルブラルとルデクの国境で騒ぎを起こしたのは、この辺りに大軍を動かしづらくする意図もあった。攻め込みはしなかったが、ルブラルはルデクとの国境付近の兵を厚くした。
単純にルブラルを刺激することで、ルブラルが参戦する危険性はもちろん、さらに遺跡側からリフレアへ侵入すれば、ルブラルに背を突かれかねないという懸念をルデクに与えたかったのだ。防衛箇所は少ない方が良い。
、、、、、いや、やはりゼッタはないな。仮にゼッタに向かうのであれば、それはそれでやりようがあるが、、、、、
ここは傍観で良いのではないか?
第10騎士団が王都から出陣してからでも、充分な猶予はある。ただでさえ不作による兵糧の心配もある上、あまり兵士を拘束すると、秋の収穫にも少なからず影響があるだろう。状況がわからぬ段階で、いたずらに兵を動かすのは得策ではない。
「ショルツ殿、兄上にはしばらく様子見するように提言してもらいたいのだが」
「、、、、分かりました。首脳陣がどのように結論づけるかは分かりませんが、提言はしましょう」
快く請け負ってくれたショルツが退出すると、サクリはただ、己が意見が通ることを祈るしかなかった。