【第297話】皇帝の困惑(上) ロアの評価
グリードル帝国の皇帝、ドラク=デラッサは、リヴォーテから寄せられた定期報告に目を通すと、軽く眉間を揉む。
ここのところ書類仕事が立て込んでいる。原因は新港に関するものが多い。
ドラクとしても興味深い試みであったので、少なからず面白い仕事なのだが、さすがに目と腰に疲労が溜まっているのが自分でも分かる。
適当なところで新港の視察に行くか。現場の状況を把握できて、良い気分転換にもなる。ちょうどいいかもしれん。
確か、今はルルリアがゲードランドに行っているはずだな。義娘の帰還に合わせて、足を運んでみるかと心の中で決める。
それからふと、「そういえばあの男もそろそろ到着した頃か」と独り呟いた。ニーズホック。ルデクの第二騎士団の騎士団長として、それなりに名を耳にする男だ。
現在は帝国領を通過して、単身ツァナデフォルへと向かっている。
ニーズホックが帝国からツァナデフォルに向かうことに関しては、少し前にエンダランドから依頼があった。ロアに頼まれたといって寄越してきたのだ。
エンダランドの書簡には、ルデク国内の貴族の揉め事の顛末についても書かれていた。それに伴い、ドラクが目にしたルデクの貴族の血判状の真実も。
どうも、我が国はリフレアに見事に踊らされたらしい。巫山戯た話だ。
エンダランドの報告書には続けて、ロアがリフレアに荷止めを行っていることと、ドラクが同じようにリフレアと断交してくれているかを心配していたことを書いてある。加えて、エンダランドから心配ない旨伝えたとも。
エンダランドの言う通り、その点を心配する必要はない。ルデクが負ければ帝国が攻め込む。ロアに伝えたのは口だけではないのだ。仮想敵国になったリフレアとの行き来を許すつもりはない。
それにロア、あの男とはできるだけ敵対したくないのが正直なところだ。ここで、リフレアとロアを天秤にかけるような気持ちにはなれなかった。
ドラクの臣下達のロアの評価は、「切れ者」という意見が大半を占めているが、ドラクは過小評価だと思っている。
“あれ”は化物の類だ。それがドラクの密かな評価である。ドラクがそう考えた理由は、ロアの異常なほどの知識にある。瓶詰めだのなんだのというのもあるが、それよりも恐ろしいのは他国に対する理解度だ。
ロアはドラクと交渉するにあたって、グリードル帝国の弱みを的確に突いてきた。はっきり言ってグリードルの人間でさえ、ドラクが苦しい立場にいたことを気づいているものはいないはずだ。
それを会ったこともない小僧が指摘し、回答を用意してきたことに、ドラクは軽い恐怖さえ覚えた。
そして今回のニーズホックの一件。ニーズホックはわざわざ遠回りをして、皇帝に謁見にやってきて、ロアの狙いを話す。
曰く、ツァナデフォルの泣きどころは食料不安だ。恐らくではあるが、そのあたりでリフレアに弱みを握られて、半従属関係にあるのではないかと。
それはドラクも薄々感じていたことでもある。
だが、今まではリフレアはグリードル寄りと考えていたことや、要らぬ詮索をして、リフレアとの関係が悪化することで、これ以上の戦線拡大を避けたいという思いがあったので放置していた件であった。
リフレアとツァナデフォルの関係を訝しんだ上で、ロアはツァナデフォルに独立の種をまきに行くのだという。
ニーズホックの話を聞いて、ドラクはロアに対する評価をいよいよ固める。敵に回しては、何をしでかすかわからない相手。それが、ロア=シュタインという男だ。
そんな風に心の中で恐々としていたドラクに、ニーズホックは置き土産を残して、ツァナデフォルへと出立した。
「ツァナデフォルと国交を開くつもりがあれば、この機会に」と。
実際のところ、ドラクはツァナデフォルとの戦いについて、継続することにそれほど乗り気ではない。
帝国は内政に力をいれる方向へ大きく舵を切った。今までおざなりになってきた部分に力を入れるのだ、中途半端なやり方ではダメだ。であれば、前線に固めている兵士や、長子も内政に使ったほうが良い。
加えてツァナデフォルの領土には旨みが少ない。そしてツァナデフォルの兵士は精強だ。グリードルも決して弱くはないが、寡兵でありながら押し込んで来るような相手。これ以上戦ったところで損ばかりが膨らむだろう。
頃合いといえば、頃合い。
しかし、全てはニーズホックとツァナデフォルの交渉次第である。いや、正確にはロアとツァナデフォルの交渉か。
ニーズホックは帰りも立ち寄ると言っていた。とりあえずはそれを待つ。一応、下準備はしておいた方が良いだろうな。あのロアが託した使者だ。話がまとまる可能性は低くはなかろう。
そのように考えて準備を進めたことが、結果的にこの書類の山を構成する一因となっているのだから、ドラクとしても苦笑するしかない。
「これで交渉が失敗したら、ロアに文句の一つでも言ってやるところだな」
また独り言を口にしながら、当分片付きそうにない書類の山を睨み、睨んだところで一枚も減っていかない紙の束にため息をついて、再びペンを握る。
そんなドラクの元にニーズホックがやってきたのは、それから数日後のことである。
ニーズホックは一言、
「テーブルにつく用意は、あるそうです」
そう言い残して、ルデクへと帰っていった。