1、僕たちは柏沼高校空手道部
――― 何事も うち忘れたり ひたすらに 武の道歩み ゆくが楽しき ―――
パァン! ダンッ! バシュッ! パパァン!
静寂の中に、燕が飛び交うが如き迅さで、乾いた音が響き渡る。
網戸からは、ほのかに桜の薫りをのせた心地よい風がそよいでくる。
凜とした空気と柔らかな空気とが調和し、唯一の空間を生み出す。
「(まだだ。なんかしっくりこない。もう一回やるか)」
壁の一部をすべて覆うような大きな鏡に姿を写し、ゆっくりと、ただゆっくりと、少年は膝を高く上げた。
バシュッ! タァン!
足先が槍の如く伸び、空間を切り裂く音とともに素早く引き戻る。板の間に、足底が下りる。
「この感じだな。これなら良さそうだ」
この少年の名は、前原悠樹。
栃木県立柏沼高等学校の三年生。空手道部に所属し、一応、副将を務めている。
「珍しく朝からそんな気合い入れて、どうしたんだよ? まだ本番はちょいと先だぞ?」
「あ、田村君。おはよう。いや、苦手な部分を、少しでもレベル上げたくてね」
「ふーん。ま、なかなかキレのいい蹴りだったんじゃないかねぇ」
前原へ気さくに声をかけてきた彼は、田村尚久。七人いる空手道部三年生の同期だ。
のらりくらりしたような、ほんのり癒し系な雰囲気を出しているが、こう見えても、この空手道部の主将である。
「しかし前原は、いつも真面目にやってるよなぁ。そんなに苦手なものあったっけ?」
田村はあくびをしながら、前原へ問いかけた。
「いや、田村君みたいに僕、器用じゃないからなぁ。いっぱい稽古しなきゃ」
「前蹴りの練習やってたみたいだけど、苦手なの? もっと大技やってみれば?」
「派手さはないけどね、前蹴り。試合で試してみたくて。僕、蹴り技、苦手だし」
前原は、鏡に映った自分と向き合い、蹴りのフォームを確認している。
「そうかぁ。前蹴りなんて、地味な技だけど、基本からやるってわけね」
「そうそう。そういえば田村君は、朝練あんまりやらないよね?」
「いや、放課後の部活と道場で、もうたくさんだよ。それより、勉強のほうがやばいな」
「僕も勉強はだめだけど、これくらいは打ち込みたくてね」
「まるであの和歌みたいじゃん。前原ほど真面目に俺もやりたいくらいだねぇー」
空手道部員の稽古場である武道場は、これまで歴代の先輩方が汗を流し、多くの青春ドラマを生み出してきた伝統ある空間。田村や前原たちは、初代の先輩方から数えてちょうど二十期生にあたる。
壁には、歴代の先輩方が獲得した、各大会の賞状がいくつも飾られている。
正面にある神棚の横に架かっている和歌の額縁は、かつて、初代主将が残していったものらしい。
大昔、沖縄空手の名人で、「糸恩流」という流派を興した和文仁賢摩という先生が詠んだそうだ。
「ひたすら一生懸命やれば、きっと何でも楽しいよって意味の歌なのかな?」
前原は、和歌を見つめながらふいっと首を傾けた。
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「お。もう朝のチャイム鳴る時間かぁー。さぁ前原、着替えて教室行こうぜ」
* * * * *
「「「「「 (おはよーっ! おはよーっす!) 」」」」」
前原が武道場で道着から制服に着替えていると、窓の外には登校してくる生徒の姿がたくさん見える。
この柏沼高校は、来年で百周年を迎える伝統進学校だ。
駅近で男女共学。文武両道。学業も部活もめいっぱいやりなさいという教育方針。そのために、勉強をしたい人、部活をしたい人、目的は多種多様な人物が多く集まる。
女子は、珍しいことに制服がセーラーとブレザーの二種類がある。その制服目的で選ぶ人もいるとかいないとか。校章も三つ葉でかわいいとか。なんだそりゃ、と言いたくなる。
部活の種類も県立高校としては異例なくらい多い。そこら辺の私立高校よりも多いくらいだ。
「まずい、早く着替えて教室に入らなきゃ」
前原は小学校低学年の頃から、とある理由で空手を始めた。
家の近所に糸恩流の町道場があり、田村たちとはそこで空手仲間になった。空手の場以外でも、彼らは昔から仲がよい。
とにかく空手が好きで、道場から一緒の仲間と高校でも打ち込みたい。前原はそんな理由で、この学校の空手道部を選んだ。
「おはよ。なかなか教室来ないからどうしたかと思ったら、朝練やったのね」
「あ、おはよう。ちょっとだけ、汗流してきたよ」
「高校の競技は、今年で泣いても笑っても終わり。でも前原、月曜からよく頑張るね」
「僕も今年こそは、上位大会行きたいし、みんなと実績作りたいからね」
教室へギリギリセーフで駆け込んだ前原。その席の隣から、屈託のない笑顔で話しかけてきた彼女は川田真波。
小柄でポニーテールがよく似合い、いつも元気いっぱいな印象の子だ。そんな彼女だが、関東大会や全国大会での実績がかなりある、同じ部の同期生だ。見た目は、とても空手の有段者とは思えない。目が大きく、アイドルのような顔立ちだ。
「春季大会は今月末。張り切りすぎて、逆にケガしないようにね?」
「そうだね。川田さんはいつもベストコンディションで羨ましい。ケガは気をつけなきゃなぁ」
「コンディション管理も、実力のうちだよ。言い訳できないもん」
「そうだね。みんなで気をつけていこう」
「あ、先生来たよ。前原、古典の予習やった? ちょっと現代語訳、写させて」
「えー、そりゃズルだよー」
川田は、渋る前原を気にせず、古典のノートをぐいっと引っ張る。
「いいから、見してって。きょう、当たるのアタシからだったわ」
「よし。始めるぞー。今日は『更級日記』の続きだ。じゃ、この部分、川田! 訳してみろ」
「は、はい。そこは、~~~で、~~~で、~~~です」
「なんだそりゃぁ。意味がだいぶ違うぞ。もう一回やり直してみろー?」
「えぇー? (ちょっと前原、間違ってない、これ?)」
「なんだ。ほら、早くやってみろ?」
「ちょっと、待って下さいね・・・・・・(よく見たらこれ、ぜんっぜん違うじゃん!)」
どうやら前原は、違うページのとこを予習してきてしまったようだった。
川田は冷や汗をつうっと垂らし「前原、覚えてろ」といった視線をぶつけていた。
* * * * *
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好きな教科と苦手な教科では、どうして体感時間がこんなに違うのだろう、と、前原はいつも疑問に思っていた。
「ちょっとー、前原のを写したら、ぜんぶ間違ってたんだけど! なんということだ!!」
「えーと、川田さん。まず、予習ちゃんとやってこないのがダメじゃないのかな?」
「きのう、遅くまで遠征強化いってて、くったくたなのよ。もう、今日の授業はあきらめた」
「川田さん、県指定の強化選手だもんね。部活に道場に県指定、ほんとすごいな!」
「でもアタシ、今年はさぁ、去年よりは県指定も稽古行けないかもー。受験生になるしさー」
川田は県内でも十名選ばれるかどうかの狭き門である、県連盟の指定強化選手に選ばれている。
大会では常に県内トップクラスの実力を持ち、流派の関東大会や全国大会などでも一定成績をキープし続けている、部の看板スター選手のような存在。松楓館流という流派で、前原や田村と道場は違う。
「川田さん、どっちの種目もすごいレベルだもんね」
「でもさぁ、アタシ、最近ちょっと動きにキレがないように感じんのよね」
空手道競技には、単独演武の「形」と、相手と攻防を繰り広げる「組手」という二種目があるが、彼女はどちらもハイレベルである。
中学時代には全国の名門私立高校からスカウトがあったらしい。でも、全てを断って、地元の柏沼高校へ一緒に入った。地元が一番気楽で、やりやすいんだとか。
「おっす。一組は次、授業なに?」
ひょこりと、田村が顔を出す。
「あ、田村君。次は日本史だよ」
「田村ー。聞いてくんない? 前原ったらひどいのよー! 予習ノート写さしてもらったらさぁ~」
「・・・・・・そりゃ川田が予習やってこねーのが悪いんじゃないかねぇ?」
「ほらね。田村君もこう言ったでしょ」
「もう、予習しなきゃ授業ついていけないなんて、進学校のシステムに異議ありだわ」
「わけわかんねーこと言ってないで、休み時間のうちになんかやっとけば?」
「しかたない。英語の予習、今から少しだけやるか」
川田は渋々、机上に英語セット一式を出し、付け焼刃で予習を始める。
「川田は英語も予習してないのかよ! あ、前原、日本史の教科書貸して?」
「だから、僕のクラスも今から日本史なんだってばー」
田村は同じ文系コースにいるが、前原や川田とクラスは別。二年生の時は、同期部員七名のうち四名は同じクラスだった。今もこうして、田村は休み時間のたびに、前原のクラスに来る。
「そうそう。そういえば今日の部活から、久しぶりにコーチが加わるってよ! 先生が言ってたねぇ」
飄々とした顔で、田村が前原と川田に告げる。
「え。それ、マジなの? 田村、先生に聞いたの?」
「なんか、電話で『新井さん』がどうこう言ってたから、たぶん」
「えぇー、先輩コーチ陣の稽古、きついどころじゃないんだもん。指導はうまいんだけどさー」
「川田さんて、とてもレベル高くて強いけど、稽古は嫌いだよね? なにげにさ」
「アタシは前原みたく、のめり込むほど入れ込まないの。まぁ、稽古は嫌いでも空手は好きよ」
「稽古嫌いとか言いつつ、やることはやってるんだよねぇ、川田は。俺には無理だけどねぇ」
「田村はもっと本気で稽古しなよー。あんた絶対、本気出したら全国でもいいとこ行くって」
「ま、とにかく今日は、気を引き締めて、部活に臨むとしますかねぇー」
「「 ラジャ! 」」
こんな普段のやりとりが、きっと彼らにはものすごく楽しいのだろう。
さて、今日からの部活はどんな稽古になるのやら・・・・・・。
* * * * *
お弁当タイムは、前原のささやかな楽しみでもある。
購買部のほか、市内にある三本松農園というパン屋さんが出張販売に来てくれている。
そのパン屋さん特製の「チーズパン」や「メロンパン」が前原は大好きだ。そして、パン屋のご主人と話すのも、楽しいらしい。ご主人といっても、まだ若い人なのだが。
「おぉ、前原くん。今日はチーズ? それともメロン? 他にもあるよ」
「えーと、じゃあ、たまには違うのにしてみようかな。あ、これ下さい」
「お。いいねぇ。これ、うちの新作です。食べてみて」
「栗のパンなんですね。ありがとうございます。恐れ入ります」
「いつも丁寧に挨拶してくれるねぇ、前原くん」
パン屋のご主人は、前原の顔を見てにっこり微笑む。
「いえ、あの、やはりそういうのを大切にしている部なので」
「そうなんだ。何部だっけか?」
「空手道部に所属しております。月末、大会もあるんです」
「え! なんだ。じゃあ、直属の後輩にあたるってわけだ!」
「えぇ? ご主人も、先輩だったんですか。し、失礼しました」
「そんな恐縮しないでよ。もう、はるか昔にやめちゃった身だよ。でも、うれしいね」
パン屋のご主人はニコニコしながら、ハキハキとした爽やかな口調で、優しくうなずいていた。
ただ、よく見ると、パン職人の分厚い手であると同時に、常人よりもいかつい岩のような手をしている。穏やかな物腰はきっと、過去に相当な厳しい稽古を積んだものからくるのだろうか。
自分たちの知らないところで、いろんな先輩方と関わっているのかもしれない。人と人との出会いは不思議なものだ。前原は心の中でそう感じていた。
そんなことを思っているうちに、パン屋のご主人がサービスでチョココロネをひとつ、おまけしてくれた。
チョココロネって何かに似ているけれど、前原はそれが何なのかを思い出せなかった。
* * * * *
~~~♪ ~~~♪♪ ~~~♪♪♪ ~~~♪
部活の時間が始まった。ここから生徒たちは、教室とは違ったスイッチが自動的に体内で切り替わる。
「悠樹、きょう、コーチ陣来るんだって?」
「あ、おつかれ。そうそう。田村君が言ってた」
「すげぇ久々だな。もっとも、春季大会ももう今月末だから、いいタイミングかもな」
「そうだね。気を引き締めてかからないと」
「俺は、今年こそ形を極めて、優勝狙うぜ! はやく組み合わせ表、来ねぇかなぁ」
「僕も今年は、なるべく成績残せると良いなぁー」
彼は前原の同期の井上泰貴。田村と同じ、町道場時代からの同級生で、県内の男子選手の中では、形試合において常に決勝戦に残る実力者。
しかし、組手は得意ではないようで、部内の稽古でも後輩に手こずってしまうこともある。本人はそれが少し、コンプレックスでもあるらしい。
「悠樹、今日の一年の指導よろしく。俺、ちょいと部室いってくるよ」
「わかった。よろしく」
部室は一年生がまず掃除をし、稽古に必要な防具類、応急セットなどを二年生が武道場へ運ぶ。
一年生は女子二名、二年生は女子一名に男子二名の三名。みな、人柄のよい後輩たちだ。
武道場内では、その後輩たちが稽古前のモップ掛けをしていた。
「「「 先輩こんにちは! おつかれさまです! 」」」
「「 こんにちは! おつかれさまでーす! 」」
そこへ前原たちが一歩入ると、気づいた後輩達が一気に挨拶をしてくる。
元気がよく、この声でも気合いが入るというものだ。前原は、「僕たちもかつて、このような時期があったのだなぁ」と懐かしんでいる。
「前原せんぱい、さっき、知らない方々がふたり、西門の側にいたんですが、誰なんでしょうか?」
一年生の内山真衣が、不思議そうな表情で話しかけてきた。
「あぁ、それはきっと、今日指導に来てくれたOBのコーチ陣だよ。大先輩だ」
「そうなんですかぁ!」
ざっ ざしっ ざっ ざしざしっ
武道場へ近づく足音が増えてくる。次第に、賑やかさも増してきた。
「わーりぃわりぃ。遅くなった。お、後輩達もう準備万端だねぇ」
「今日はまだ初夏にもなってないってのに、暑いな。田村、おれ、今日は帰りたいなぁ」
田村と共に現れた彼は、中村陽二。部内で一番の稽古好き。毎回、必ず居残り稽古をするくらいの稽古マニアだ。
それほどまでに部活をめいっぱいやる男だが、学業成績も学年トップクラスをキープする理系選抜進学クラスのエース級学力の持ち主である。
「陽ちゃんが帰りたいとは珍しい。明日、化学の豆テストあるから、俺は居残りしないかんね」
うーむ。そろそろ髪切ってこようかな。大会シーズンだしな。前髪は残したいが……」
「中村は、その前髪にどんなこだわりがあるんだ? まぁ、中村のトレードマークだけどねぇ」
「まぁ、こだわりというか、昔からこの髪型なんでな。前髪がないと、変というか、何というか」
雑談が飛び交う中、続々と三年生の登場だ。前原の同期がどんどん武道場に集まる。
「真波。今日は形のあと、組手つきあって。私の足捌きだけ、見てもらっていい?」
「あら、組手なんて珍しい。いいよ。アタシも今日は、前原のせいで組手気分だ」
「川田さん、だからなんで僕のせいになってるんだよー・・・・・・」
ふざけたような、ゆるいような、そんな雰囲気の中、田村君が自分の帯を締め直した。
サッ キュッ パァン!
純白に輝く道着の衣擦れ音。横一文字に締めた漆黒の帯。同じ姿の三年生がみな揃い、一瞬で場をピリッと引き締める。
後輩達の中でも特に、新人白帯の一年生の目は、先輩達への緊張と憧れで無意識にぴかりと輝く。
「前ちゃんさぁ、きょう、先輩コーチら、二人だってさ」
「え、そうなの!」
三年生の神長道太郎が教えてくれた。彼は県南方面からここ柏沼市まで一時間半かけて通っている。彼は剛道流という別な流派の出身。
前原は、神長に対していつも「高身長」と「理系頭脳」というスペックを持っているのを羨ましく感じていた。
「二人かぁ。いったい誰が来るんだろう」
「だははっ。新井さんと、松島さんらしいぜ」
豪快に笑う神長。コーチ二人の名を聞き、前原の目がぱっと開く。その奥で、田村と中村も「なに?」と反応。
「うそー、じゃあ、ガッツリ組手メインになりそう! 真波、よかったじゃん」
「菜美は組手より、形のがいいくせに。でも、新井さんと松島さん、いつも見てるだけだよね」
「先輩コーチ、見てるだけだけど、的確に指導してくれるよね。組手の技法や理論をさ」
「森畑は、そういや組手本気でやってるの、あまり見たことないな。いつも手抜いてるし」
川田と仲よく話している彼女は、同期の森畑菜美。柏沼市の隣町から通っており、糸恩流の空手をバックボーンとしているが、前原と道場は別らしい。
組手稽古はあまり好きではないのか、いつも適当に手を抜いてコーチに怒られる。しかし、形においては贔屓目なしに見ても川田と同レベルの実力者。だが、欲がないのかあまり大会の成績に興味は無いらしい。
噂では中学時代の森畑は、当時、全国級だった同世代の有名選手から金星をあげたこともあるとか。
「(そういえば、森畑さんって、確か・・・・・・)」
前原は、入学して間もない頃に川田が言っていたことを思い返していた。
中学三年の時、川田は伝統派空手の統合団体「全日本空手道連合協会(全空連)」傘下の県連主催の大会で、優勝間違いなしと太鼓判を押されていたが、決勝戦で敗れたらしい。その相手がここ柏沼高校へ一緒に入学した、と。
どうやら、爪を隠している鷹がいる。前原はそんなことを思っていた。
ざしざしっ ざしっ ざしっ
武道場の外に、普段とは違った、聞き慣れない足音が響いてきた。
「あ。コーチたちだ! せんぱい、来ましたよ。わたし、初めてだぁー」
「そっか。一年生は当然、初めてか。久々に会うね、アタシたちはさ。ねっ、田村?」
「そうだねぇー。さぁ、みんな、そろそろ稽古モードに切り替えるとするかねぇ!」
田村の一言で、おふざけモードも一気に切り替わり、二十四の瞳が同時に入口へ向いた。
「お。新入部員いるね。いいねいいねー」
「おひさしぶりです、後輩のみんな。今日はよろしく」
現れたのは、大柄な男性と、やや小柄な男性の二名。
一年生は初顔合わせのためか、カチコチに固まっている。どちらも部のOBとは思えないくらいに、今は優しい雰囲気の人である。そう、「今」は。
「(大会まで、いろいろ教わって、もっと強くなろう!)」
前原がそう心の中で呟くと同時に、他の三年生も同じことを考えていた。
春季大会まで、あと三週間。これは、関東大会へつながる大切な一戦。
OBの先輩方とこれから始まる、大会に向けての稽古。さてさて、どんなことになるのか。
やや緊張の面持ちで、前原は拳を軽く握り、OB達へ会釈をした。
「(僕だけじゃない。みんな、きっと、大会で勝ちたい想いは一緒だよね)」
武道場に、季節外れのトンボが一匹、窓から入り、すーっと抜けていった。