6."セックス・ワーカー"(4)
カラン、と店のドアが開いた。
昼からだんだんと強くなってきた風に巻き上げられた枯葉が、開いたドアの隙間から店内に紛れ込んだ。
「ソフィ!」
カウンターで父が洗ったグラスを拭いていたエマは、その姿を見るやいなやグラスを投げ置き駆け寄った。
落ちそうになったグラスをトマが慌てて抑える。
「エマ、おはよう」
ソフィはエマの柔らかなブロンドヘアを撫でるとコートを脱いだ。顔から少し痩せたのが分かったが、その身体からはいっそう肉が落ちているのが分かった。
「ソフィ、どうしたんだい?」
トマが尋ねる。母親の訃報からさらに二週間ほど休みを取らせていたが、まだ六日と経っていない。
「葬式も終えたし、家にいても何もやることがないの」
「開店準備、手伝わせて」
元々薄かった肩はより削られて、窓から射し込む光が透けそうなほどだった。
ソフィはそれだけ言って、机に上げていた椅子を下ろし始めた。
「そうかい、それじゃあ頼むよ」
トマもそれ以上は言わない。彼もまた、妻を病で亡くしたときに同じ気持ちを抱いたからだ。
泣きじゃくる娘を抱えながら仕事に没頭した。生きる意味は、娘だけだった。
「パパ」
カウンターに戻ってきたエマが、トマを見上げている。
「なんだい?」
「ソフィにホットミルクあげていい?」
エマも痩せたソフィを心配しているのだろう。以前、「エマがいれたホットミルクは特別おいしい」とソフィに褒められたという。それから何かと彼女にホットミルクをいれたがるのだ。
「ああ、いれておやり」
自分がいれたホットミルクを飲むソフィを見ながら、エマもミルクをすする。
そんな彼女たちを見ながら、トマも手を休め休憩にはいった。
* * *
雨は降っていないものの、この日は終日強い風が吹き荒れていた。店は営業を終え、ソフィとオルガが片づけを手伝っている。念のため店の外ではトマが窓に補強を施しているが、それが意味あるものになるかは、皆口にはしなかった。
オルガは想像以上に痩せて戻ってきたソフィにどう接すればいいか戸惑った。それでも、エマとトマが以前と変わらぬように接しているのを見て自分もそう努めようと思った。けれど、身体が悲鳴を上げているのにそれに気づかぬ振りをするのは違う。重いテーブルを運んでいるソフィはまさにそれだった。
「ソフィ。今日はもう帰ったら? トマさんも言ってたでしょう」
「……いいの、もう少しここにいさせて。片付けを手伝うことしかできないから」
彼女自身もまた、自分の痩せ細った身体に気づいている。これでは“商売”にならないことにも。
「じゃあ、少し休憩にしましょう」
オルガが口調を強めて言うと、ソフィは手を止めて渋々とカウンターの席に座った。
外からは、カン、カン、カンとトマの釘を打つ音が聞こえる。
「体は大丈夫? 食べてないんでしょう」
そう言いながら、カウンターのなかで何か食べられるものがないかと探した。
「お腹減らないの。大丈夫よ、少しは食べてるから」
オルガはその言葉を無視して探し続けたが、営業を終えた酒場にはろくなものはなかった。しかたなくつまみのナッツを皿に出して、ソフィの前に置いた。
「お父さまやお兄さまとはまだ連絡つかないの?」
「ええ、出した手紙もそのまま返ってくるわ」
「そう……きっと忙しいのよ。もう少し待ちましょ」
そう、忙しい。そうであって欲しい。これはただの願望だった。
答えは分かっている。明確な答えをいつまでも見えないふりでやり過ごしていた。
軍人として家を出て行った父と兄。戦争が始まってからの連絡のつかない数ヶ月は現実を見るのに十分な月日だった。
「……とうとう、ひとりになっちゃった」
ソフィを見ると、静かに泣いていた。
「ソフィ、」
ソフィのしわくちゃな笑みに、オルガの胸が締め付けられた。
「うっ……、お、かあさ……っ」
ソフィは膝をついて泣いた。オルガに抱き寄せたられたソフィはその胸に顔をうずめて、嗚咽混じりに、それでも声を押し殺して泣いた。
暖炉の薪も共に泣いているかのように静かに弾けた。
外では風が強く吹いていて、壁や床の軋む音が店内に響き渡る。
ソフィの嗚咽、それをなだめるオルガの優しい声。二人の女が傷を慰め合うように寂しく寄り添う。家屋の軋む音に紛れて、カウンターのさらに奥、身を隠すように、エマがうずくまってそれを聞いていた。
* * *
「おーい、エマが来たぞ」
マルセルが辺りの男に声をかけた。手招きされたエマは、訝しげに歩み寄った。
「エマ、ここの客で一番のハンサムは誰だと思う?」
屈強な男たちが目の前の小さな少女に向かって両手を重ねて祈りを捧げている。エマは、また何かバカなことをやってる、と哀れみを含んだ目で彼らを見た。
「んー、ルイじゃない?」
特に考えることなく答えた。エマには今日、気がかりなことがあり落ち着かない。
ぴゅう、とマルセルが口笛を鳴らした。シリルは口角を上げていやらしくルイを覗き込む。
名指しされた当人は、一瞬動きを止めるも、「ふっ、とーぜんだろ」と顔を背けた。
向けられたその耳はいつにも増して赤くなっていたので、男たちはそれを逃がすことなく茶化している。
そんな男たちをしり目に、エマは慌てて階段の方へ駆け寄った。
「ソフィ、いってらっしゃい」
エマは平静を努めて言った。
そこには、白い綺麗な羽織を着たソフィがいる。以前よりも肉付きがよくなったように見える。
休日は昼間から賑やかで、男たちが色めき立って順番待ちをしている。
軽快なジャズはそれを気にすることなく流れ続ける。
カウンターの横、”ショーウィンドウ”には、すでに新しい女が立っていた。
「ええ、ありがとう」
天使の呼びかけに笑顔で応えたソフィは、ゆっくりと花園への階段を上がっていった。
その後ろで、窓から射し込む光に照らされた埃がきらきらと舞っている。
エマはその背中を見えなくなるまでただ見つめていた。